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第1章 倭人と東夷の原像(9)韓半島の養蚕の地 [日本創世紀]


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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
  
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
   (9)韓半島の養蚕の地
 
 シナ海沿岸地帯まで広まった養蚕は
 大陸内だけに納まっていなかった。
 
 紀元前後になると韓半島や日本列島へと
 普及していった。
 
 韓半島での史料的証拠はまず
 「後漢書」韓伝(東洋文庫による)に
 
 「馬韓人は養蚕の知識があり
  緜布を織ることができる」とある。
 
 「緜布」は「帛〔絹糸、まわた〕」、
 織物を表わす。
 
 馬韓は韓半島西南部で、
 同地には現在も「青洲」の地名があり、
 山東省の青洲の移転で、
 韓半島の蠶が同地方から移入されたもので、
 繭の形が俵型である。
 
 次に「三國史魏書」弁晋伝には
 
 「蚕を飼い桑を植えることを知っていて、
  縑布を作り~」とある。
 
 「縑」は「厚く織った絹の布」である。
 
 また
 紀元4世紀に入った「晋書」辰韓伝には
 
 「その地方は桑を栽培し、
   蚕を飼うのが盛んであり、
  縑布を上手に作る」と、
 
 次第に養蚕が拡充している様子が窺われる。
 
 ただし、
 養蚕の地は韓半島の南部に限られ、
 「三國志魏書」夫餘傳が
 
 「国外に出るときは絹織物、繡、綿織、
  毛織物などを重視する」と
 
 いうように北方にいた人々は
 「絹製品」は外から購うものであった。
 
 韓半島南部へ養蚕を持ち込んだのは
 「倭人」たちであった。
 
 彼等が移住植民してことにより
 「絹」の技術は移転されたのである。
 
 その記録が「三国史記」にある。
 
 同書は
 紀元11世紀に成ったものながら、
 定かではないが、
 参考となった古い史料があったとされている。
 
 そのうちの
 「新羅本紀第一」に
 「瓢公」という者が登場する。
 
 彼の出自について(東洋文庫による)
 
 「瓢公はその出身の氏族名を
  明らかにしていない。
  彼はもともと倭人で、
  むかし瓢(ひさご)腰にさげ
  海を渡って〔新羅〕に来た。
  それで瓢公と称したのである」
 
 といっている。
 
 つまり、
 彼はまさに海の向うから
 韓半島へ渡来した「倭人」なのである。
 
 また、
 第1代「始祖赫居世居西干」について
 「始祖のは朴氏で~」とあり、
 後段に
 
 「辰韓では瓢のことを朴という。
 〔始祖が〕地上に始めて現れた時の大卵が
  瓢のようであったので
 〔始祖の〕姓を朴とした」とある。
 
 「瓢」「瓠」とも「ひょうたん」のことである。
 
 シナの少数民族のうちに
 哈尼族・彝族ばかりでなく広い範囲で
 この「ひょうたん」に係る伝承が、
 各族の始祖伝承として
 「洪水」を絡めて言い伝えられている。
 
 その伝承が纏められているのが
 聞一多の「中国神話」〔東洋文庫〕で、
 45例を収集している。
 
 そのうちの26例が
 葫蘆〔瓠、瓢瓜〕瓜とある。
 
 その伝承の物語の大要は、
 大洪水が起こり、
 兄妹が葫蘆の中に入り水上を漂い、
 洪水が始まった後に
 夫婦となって子孫を増やすというもので、
 
 君島久子著「中国の神話」に
 「生き残った兄妹」の表題で
 
 ミャオ(苗)族の伝承として物語られていて 
 参考になる。
 
 つまるところ
 「瓠」「瓢」は「倭人」の象徴なのである。
 
 そのことから解釈すれば、
 韓半島南部を最初に
 開発し開化させたのは
 「倭人」ということになる。
 
 既に述べた様に、
 紀元3世紀の史料「三國志魏書」韓伝は
 
 「韓は帯方(郡)の南にあって
  東西は海をもって境界とし、
  南は倭と(境界)接している」
 
 といっている。
 
 この「倭」は韓半島の内部の地域を指し、
 「倭人」がそこにいたことを
 明言しているのである。
 
 「倭」日本列島の内とする解釈は妥当ではない。
 
 もしそういう概念であれば、
 その前段であえて
 「東西は海をもって境界とし」ではなく、
 「東西南は海をもって境界とし」
 というはずである。
 
 三国史記で「倭」は80数回の記述がある。
 
 その前半の多くは
 韓半島内の動きとした方がよいとかと考える。
 
 「倭人」は韓半島南部で永い間
 一大勢力であったのである。
 
  M.K記



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