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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(7)不弥国 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 
 (7)不弥国
 奴国(博多湾)から
 東方へ百里行った処と説明している。
 
 当該地を抽出するのに役立つ要件は
 福津市(旧宗像郡福間町)の
 海岸寄りに小さな区域ではあるが、
 「有弥の里」とあることにある。
 
 同地は古賀市との境界にあり、
 同市内に続く海岸地は「花見」と称される。 
 
 「有弥の里」を奴国の「奴」同様
 サンスクリット語で解釈すると
 ariya-bhumi〔アーリア人の里〕であり、
 「不弥」の「フミ」は bhumi の音写で、
 同地がインドのアーリア人の系の
 居留地だったとの示しである。
 
 末廬国などと比して同地には
 船が着くのに適当な岸壁などはないが、
 広い砂浜があり、
 船はそこに乗り上げるようにして
 正面から突き上げるのである。
 
 紀元頃の古代船は現代のような巨大船で、
 砂浜に突込んでも破損するような
 馬力もなかった。
 
 風力を頼りに航行する
 速力の低い規模の小さいものであった。
 
 「花見」は「カミ」ではあるがまた
 「ホミ」で bhumi〔里〕の転訛である。
 
 同地には、
 古賀市内に
 小鳥神社〔市内久保〕や
 千鳥との地名があるように
 インドのバラモン教系の
 「儺:放生会」信仰がうかがわれる。
 
 古賀市名の「コガ」が
 サンスクリット語の 
 khaga で「鳥」が源義である。
 
 倭人章が「千餘戸」と記す通り
 そう広い領域ではなかった。
 
 ここで注目しておきたのは、
 日本海玄界灘側にも
 インド・アーリア人の貿易商人が
 大規模ではないが
 進出して来ていたことである。
 
 次いで倭人章が記すのは
 「南至投馬國水行二十日」である。
 ※紀元頃の古代船(フェニキア軍艦)
  M.K記

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