第3章 邪馬台国は「御木国」にあった(3)御木国は邪馬台国の所在地 [日本創世紀]
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日本創世紀
―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第3章 邪馬台国は「御木国」にあった〔その所在地〕》
(3)御木国は邪馬台国の所在地
この二つの伝承に
片方がもう一方を参考にして修作した感がある。
『日本書紀』の挿話は現在のわれわれにとって
巨大樹の大きさを理解するのに容易である。
佐賀県杵島郡から阿蘇山の向こうまで
陽の影が延びるという規模である。
その様子は誠に jambu 樹の喬木振りに合致する。
この巨木伝承のある地が jambu-dvipa と称された
「邪馬台国」の所在地なのである。
そこが「御木国」にして風土記逸文が
「筑後國の南部」、あるいは
和名類聚抄が筑後國「三毛郡」とする地である。
これらの情報から肥後國(熊本県)との
推測は妥当し得ず除外される。
三毛郡は現在の福岡県大牟田市域に当たる。
また、
『古事記』が神武天皇のその皇子
「神八井耳命」の後裔とする
「筑紫三家國造」の地でもある。
現在、
この三毛郡に当たる大牟田市内に
「歴木」の字名がある。
また、
景行天皇の行宮「高田宮」は
同市の北隣り高田町に遺存されている。
また地理的側面を観察すると、
現在の有明海岸線は埋立てにより
かなり海に入り込んでいて、
古代の海岸線は
もっと内陸にあったはずである。
その海岸を想定して、
筑紫平野に連なる所で港を造り得た場所が、
この有明海最奥の用地であり、
平坦な岸壁が突出していたのではないか。
地名「唐船」の「カラ:唐」は末廬国で
「唐津」の「カラ」を
「船溜り」と説明したのと同じで、
唐船は正にその船溜り名である。
同地は筑紫平野、
佐賀平野で産出される物産の
積出の港として、
その重要さが高かったに違いない。
その物産の中でも特に貴重だったのは
絹製品であろう。
その事情は後段で詳しく説明する。
大牟田市の南部を諏訪川が流れるが、
この「スワ」名は
長野県の諏訪大社のある「諏訪」と
表記は同じだが全く関係ない。
サンスクリット語の svarna の転用で、
Svarana-bhumi〔黄金郷〕あるいは
avar〔天界〕svarga〔光明〕と
インド系の人々が
呼んでいたことに因ると推測される。
その理由は後段の説明で明らかになる。
現在同地には「天領」との地称があり、
江戸時代徳川幕府の直営地(直轄領)を
称したのとは
全く関係がないので「天界」の意味で、
同地の人々が古来伝承してきた概念から
呼び出したものと考える。
インドを漢語で「天竺」と表記するように
「天」はインドと近い関係にある。
何はさておき、邪馬台国の所在地は
「御木国」、「三毛郡」、
現在の大牟田市域であった。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
2019-03-16 08:04
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