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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆③」 [日本創世紀]



日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆③」
「後の滞在推定地」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
 M.K記

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