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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 
 
「神武天皇の広島県下での行動について」
 
 昭和16年 
 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に
 広島県下における神武天皇の行動の跡を
 伝える伝承が詳しく記録されている。
 この伝承をまとめてみると次のようになる。 
 
 1.厳島
 
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、
 まず、
 宮島の南端の須屋浦に上陸し
 現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。
 
 渡辺綱吉氏
 「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、
 厳島神社の本当の祭神は
 神武天皇ではないかと書かれている。
 それは昭和15年の
 「厳島神社御由緒等調査記」に
 神武天皇の時代に御鎮座とあり、
 最初に神武天皇が
 この島を訪れているからである。
 
 また、
 島内の山中には巨石を用いた
 祭祀の痕跡が残っている。
 
 これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
 
 2.廿日市市地御前 
 
 宮島を発した神武天皇は
 地御前の地御前神社の地に上陸した。
 神社西側の入り江を有府水門といい、
 ここに着岸されたという。 
 
 3.廿日市市串戸
  
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、
 串戸に入り広田神社の地
 (近くに天王址碑あり)に着いた。
 天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き
 玉串を奉典し奉ったことにより
 串戸と名づけられたという。 
 
 4.廿日市市宮内 
 
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、
 宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。
 
 天皇がしばらく滞在したため
 宮内と呼ばれるようになった。
 
 5.広島市古江 
 
 その後広島市古江に上陸し
 現在の八幡神社の地にしばらく滞在。
 
 ここを多紀理宮という。
  
 6.安芸郡江田島町切串 
 
 その後、
 江田島に渡り切串の
 長谷川の河口にある丘陵地に
 宮をつくりしばらく滞在。
 
 洪水にあったために
 府中町多家神社の地に移動。
 埃宮とは江の内の意味で
 広島湾岸を意味している。
 
 7.安芸郡府中町多家神社 
 
 かなり長く滞在したようで、
 この滞在中矢野や船越方面にも
 出向いているようである。
 
 このとき(?)皇兄の五瀬命が
 瀬野にて賊退治をしている。
 
 日本書紀から推察すると、
 AD79年12月頃と思われる。
 以下は多家神社滞在中のことと思われる。
 
 ・広島市可部町舟山・・・
  広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、
  徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。
 
  このとき惠坂や螺山方面にも
  足を伸ばされている。
 
 ・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、
  宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
 
 ・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に
  腰掛岩がある。 
 
 ・賀茂郡福富町竹仁・・・
  橿原神社(現在は森政神社に合祀)に
  神武天皇が来遊したと記録されている。 
 
 ・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。
  埃宮に滞在中出雲との関係を生じ
  この地を数度訪問した。
 
  物資を出雲より取り寄せた。
 
  と言い伝えられている。 
 
 ・比婆郡高野町南・・・
  男鹿見山の麓にある八幡神社に
  大昔より鉾を神宝として伝えている。
  神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの
  鉾と伝える。
 
  この周辺も高嶋という。
 
  この周辺に神武天皇伝承地が多い。
  
  多家神社を基点として方々を巡回後、
  当神社を出発、
  呉市天応
  (立ち寄り伝承あり、
   天応の名も天皇の
   立ち寄りからつけられる)、
  呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。
 
  蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、
  南風を受け船の梶が折れたために、
  上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。
 
  下蒲刈の向浦に着岸し
  天頭山の岸辺で船を修繕。
 
  このとき蒲を刈ったので、
  ここを蒲刈と名づけられた。
 
  そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
  
 8.豊田郡瀬戸田町名荷 
 
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。
 
 斎串を立てて祀ったので
 この島を生口島と呼ぶようになった。
 
 島の嶽山の麓にあった
 江ノ神社の地に
 しばらく滞在したとの伝承あり。
 
 近くに船を止めたという場所や
 神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、
 斎田の跡などの伝承あり。
 
 伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
 
 9.豊田郡大崎町大長 
 
 神武天皇が立ち寄ったという。
 付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。
 
 また、
 この地に着く前に一支隊が
 四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
 
 10.因島市大浜 
 
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、
  風波のため航海ができず、
  この大浜に船を留め寒崎山にて
  数日嵐の静まることを天神に祈られた。
  即ちこの島は斎島である。
  後に変わって隠の島(因島)となる。」
 
 11.尾道市高須町 
 
 ここからは備後の国であり、
 滞在地を高嶋宮と伝えている。
 大元山麓の八幡神社の地に
 しばらく滞在したと伝える。
 
 ここから2kmほど南西の大田地区で
 武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、
 神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。
 
 ここも滞在期間は長かったようである。
 ここに着いたのが
 日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
 
 12.福山市金江町 
 
 貴船神社があり、ここに船を止めた。
 
 近くの竜王山西麓に
 神武天皇滞在伝承地があり、
 この周辺を高嶋宮という。
 
 石碑もある。
 
 また、
 鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。
 
 そのため、この地を神村という。
 
 近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。
 
 天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、
 このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。
 
 かなり長期にわたって
 滞在したものと思われる。
 
 13.沼隈郡浦崎町 
 
 浦崎町中央部の王太子山中腹に
 王太子神社があり、
 神武天皇の滞在を伝える。
 
 また、
 近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
 
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 M.K記

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