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第三章 スバル人とスバルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人とスバルトゥ
 
 
 1969年に出された岩波書店
 『世界歴史Ⅰ古代』は
 「アッシリア帝国」の中で次のように述べる。
 
 「アッシリアの起源は、
  その名よりはるかに古く始まる。
  近年発見された
  『アッシリア王名表』によって
  補ってみると、
  最後の王アッシュール・ウバルリト二世
  (在位B.C.612-606)まで
  一一七代の王を数えるが、
  そのうち初めの三十代くらいまでの
  諸王の名は明らかにシュメル名でも
  セム系のアッシリア名でもない。
  いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  のちにフルリ人と呼ばれたものの名である。
  かれらの由来は明らかでないが、
  少なくとも
  今日のカウカサス語系に属するものと
  考えられ、
  後にはフルリ人の国から
  ミタンニ王国が成立することになり、
  その後裔が
  アルメニアの
  先住ウラルトゥ(ハルディア)人
  であることことは
  近年ようやく認められるようになった。」
 
  1977年(昭和52年)発行の講談社
 『世界の歴史1』は
 「アッシュール市」について
 次のように述べる。
 
 「アッシュール市の
  古い時代の支配者の中には、
  明らかに北方山間の蛮人
  シュバリ人と思われるものがいた。
  アッシュールの市壁を初めて築いたキキア、
  同市の神殿を創建したウシユピア、
  そしてアッシリア最古の支配者
  イティティらはいずれもシュバリ人である。
  アッカド人は
  シュメル人を圧迫したと同じように、
  アッシリアにも支配者として現われた。
  彼等は不撓不屈の努力で
  先住のシュバリ人を同化していった。
  その結果、
  シュバリ人は
  新来のアッカド人の言語や文字を採用し、
  その信仰をも取り入れることになり、
  古来の性質をまったく失ってしまった。」
 
 1985年発行の山川出版社
 『民族の世界史//アフロアジアの民族と文化』 は
 「アッシリアとディヤーラ地方の民族」の項に 
 次のように述べる。
 
 「アッシリアとはアッシュール市と
  それを中心とする
  王国の名に由来する歴史的地名であり、
  かってはスバルトゥが
  その地方の名称だった。
  アッシリア王国の主人が
  セム人だったゆえに、
  アッシリアの住人はセム人と
  思いこみやすいが、
  歴史的には最古の住人は
  ディヤーラ地方同様に
  シュメル人でもセム人でもない、
  おそらく西イラン山地系ないし
  フルリ人と考えられる。
  楔形文字文書は彼らを
  シュバリ(スバルトゥ)人と呼んでいる。
  その居住地域はアッシリアや
  ハブール川上流地域で、
  紀元前三千五百年頃以来
  南の地方とは異なる
  独自の発展を遂げてきたが、
  南の初期王朝期に相当する時期に
  西からセム人
  おそらくアッカド人がやってきて、
  シュバリ人と融合した結果、
  アッカド語の方言を話す
  民族の原型が成立した。」
 
  1998年発行のミネルヴァ書房
 『西洋の歴史・古典中世編』は
 アッシリアについて次のように述べる。
 
 「紀元前三千年紀半ば頃から
  紀元前二千年紀の初めにかけて
  現在のイラク北部、
  北緯37度付近から
  小ザブ川との合流点に至る
  ティグリス川中・上流域と
  西方の原野へと広がる逆三角形の地域は
  シュビルないしスバルトゥと呼ばれた。
  この地域が後のアッシリア本土である。
  そこには土着語を話すフルリ人と
  親縁関係にある原住民スバル人のうえに、
  東セム系遊牧民が支配的要素として加わり、
  さらに
  シュメル文化の影響の下に都市
  アッシュール、ニネヴェが造られた。
  南方のアッカド王朝や
  ウル第三王朝の支配を受けた後
  紀元前二千年頃から
  アムル人の侵入を受けたが、
  このころから紀元前一四世紀までを
  古アッシリア時代と呼ぶ。」
 
 以上、
 日本で出版されたオリエント史における
 アッシリアと絡めた
 スバル人についての解説を取り上げてみた。
 
 「スバル人」との名称を上げるものは
 一書だけで、
 アッシリア、スバルトゥ、シュバリの
 用語法に統一が取られているように
 みられるが、
 地方名であったり多少の混乱がある。
 これらを整理すると
 次のようになる。
 
 コーカサスのグルジア語によると、
 シュヴィリ shvili は「息子」を
 アシュリ asuli は「娘」を意味するが
 この両語は古代の
 シュバリ shvali 及び
 アッシュール assur に
 対応するものと考えられる。
 
 古アッシリアが王国として
 北メソポタミアに君臨し始めたのは
 紀元前二千年頃からであるが、
 スバル人はそれより古くから、
 史料に表れてからでも千年間以上、
 実態はさらに古い時期から
 西アジアの広い範囲で
 活動していたと思われる。
 
 彼等の祖地名を 
 svarti (スバルの土地)というのである。
 スバル人のシンボルは十字紋であるが、
 その交差する二つの軸を
 「息子・娘」と考えていたようにみられる。
 
 シュバリとアッシュールは
 スバル人の構成要素である。
 
 アッカド語にある
 少年を意味する 
 suharu と
 少女を意味する shartu は、
 シュメル語の 
 sabal 子供・子孫の派生語と考えられる。
 
 ニネヴェ、アルパチヤ遺跡のある地方は、
 古来スバル人による呼称は Asuli であったが、
 アッカド人が北上してきて、
 アッカドでも娘を意味する 
 shartu と呼ぶようになり、
 紀元前十四世紀の中期アッシリアの時代に
 アッシュル・ウバルト一世により
 アッシリアの名称に統一された
 (命令された)のである。
 
 スバルないしシュバリ 
 svari の地名は
 スバルトゥ svarti 、
 イシュワル isvar 、
 シブリア svria 、
 ニシビン nisibin と改名し、
 
 現在はヌサビン 
 nusaybin とその遺称を留めている。
 
 ※ウラルトゥ王国
 
 前9世紀半ばにヴァン湖を中心に形成された
 古代のアルメニアの国家。
 
 さまざまな種族の連合国家でした。
 「ウラルトゥ(Urartu)」は
 アッシリア読みで、
 自称「ビアイニリ(Biainili)」。
 
 ハルディ神(Haldi)を主神としたので、
 住民たちは「ハルディア人」と自称。
 
 現在のイラン・イラク・トルコ、
 そして
 ザカフカス地方に及ぶ地域にまで
 勢力を伸ばすほど強力になりました。
 
 首都はトゥシュパ(現在のヴァン市)。
 
 メヌアシュ王の時代に
 かつてのヒッタイトの北シリア領を奪取、
 その子アルギシュテシュ1世と
 サルドゥリシュ2世の時代に
 最盛期となります。
 
 アッシリアとは常に敵対し、
 北の騎馬民族と協力関係を
 保つこともあったようです。
 
 彼らの文化レベルは高く、
 周辺民族からの影響を受けつつ独自に発展し、 大いに繁栄しました。
 
 しかし、
 北からキンメリア人やスキタイ人、
 南からアッシリアによって攻められ衰退。
 
 前590年頃に
 メディア王国によって
 首都トゥシュパは略奪され、滅亡します。
 
 
M.K記

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