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第三章 スバル人の商業活動 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人の商業活動
   
 
 紀元前二千年頃のアッカドのセム族たちが
 なぜ北メソポタミアへ興味を示し
 進出していったのだろうか。
 
 人口が増加して
 居住地を求めたからなどをいう
 単純な理由はありえない。
 
 この地域が
 商業活動の重要なセンターに
 なっていたからである。
 
 紀元前三千年頃よりの活動によって
 スバル人たちは
 北メソポタミアから
 東はザクロス山脈を越え、
 西方はアナトリアから
 地中海沿岸までの
 商業ネットワークを形成し、
 産業開発の基地を設立して、
 商人たちを有機的に組織して
 運営していたと考えられる。
 
 紀元前二千年を越えた
 シャムン・アグト一世が
 シンジャール山脈の北側の平野、
 スバル人の中心的地域に
 首都シュバト・エンリルを開いた頃、
 私的商人組織が対外貿易に忙しく
 従事していたとの記録がある。
 
 彼等の主に扱ったのは金属と織物である。
 
 特に金属工 thveli たちは、
 『旧約聖書』創世記の「カイン」のように
 原料を求めて歩き回っていたと考えられる。
 
 スバル人たちは
 「北方山間の蛮人」などでなく、
 真に金属時代の扇を開いた
 先進的産業開拓者であったのである。
 
 メソポタミアの人々は、
 大ザブ川峡谷の
 ザウィ・マミ遺跡で発見されたように
 紀元前一万年から銅を使い始めた。
 
 新石器時代に入る紀元前六千年頃には
 失蝋法による金属成型法が発見され、
 金、銀、鉛、砒素銅の容器を
 作るなどの工業が始められ、
 青銅器時代に入る。
 
 紀元前三千年を過ぎると
 錫を混ぜた青銅が普及するようになる。
 
 青銅はシュメルで 
 zabar と総称されるようになったが、
 スバル人が取り扱っていたため、
 そのスバル名が商品名に転化
 反映したものであろう。
 
 青銅器の需要が大量に増大すると
 銅の産地は拡大されただろうが、
 主な生産地はアナトリアで、
 特にティグリス川の水源地帯、
 現在のダイヤバキル
 (トルコ語で銅の町)一帯は
 その中心であった。
 
 この立地がスバル人たちを
 金属を流通させる商人へと
 育てたと考えられる。
 
 ザウィ・チェミ遺跡についての
 見解で述べたが、
 この地方の羊飼いたちは
 すでに商人育成の素地を持っていたのである。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
 英語名で Shanidar 
 で世界に知られた呼称であるが、
 川名や国境を越えたトルコ領内に 
 Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
 
 その祖語はシュメル語の 
 šam (屠殺する)の同類である。
 
 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
 samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、
 「鍛冶工」の意味をも含む。
 
 ザウィ・チェミの羊飼いたちは
 アナトリアで粗銅を入手したが、
 その当時は鍛打法により
 銅を抽出したのである。
 
 samdr はサンスクリット語に入り 
 samitr となったが、
 ドイツ語の Schamip 、
 英語の smith ともなり、
 「鍛冶工」がその意味するところである。
 
 この鍛打工たちが
 銅を鋳出する技術を発明すると、
 
 「溶解」することを
 ドイツ語で Schmelze 、  
 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
 
 なお、シュメル語には、
 šum の同義語 sim があり、 
 simug 「鍛冶工」となり、
 その同義語に de がある。
 
 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
 アナトリアからザクロス山脈にかけての
 山岳地帯から入手できた。
 
 しかし、
 錫は西アジア地方からは掘り出されず、
 遠く現在のイランの
 カヴィール砂漠の東方から
 運んでこなければならなかったのである。
 そして、
 この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲
 得したのが
 スバル人であったと考えられる。
 
 南メソポタミアの王権にとっては
 この商業権こそが
 我が物にしたい対象であったのである。
 
 古アッシリアの初期三十代の王名は
 シュメル名でもなく、
 セム系でもないことが知られるが、
 これらの王名はスバル人のもので、
 彼等が軍事力によったのではない、
 それが
 神殿によって統率されていたにしても
 商人国家を形成していたのである。
 
 西アジアにおいて
 貴重な錫の商業権を
 独占していたことをうかがわせるのが
 
 annakam と呼ばれる
 前期アッシリア商人
 (といってもスバル人と思われる)が
 アッシュールから
 アナトリアのカネシュへ運んで行った
 金属名である。
 
 正確には何の金属であったか
 疑問もあるようだが、
 錫と考えられている。
 
 シュメル語の 
 anna は錫と鉛少々の合金とされている。
 
 アッシリア商人が主に扱ったのは金属と
 ウガリットを窓口とする
 織物・染料であったが、
 スバル人が確立したネットワークは
 古アッシリアを
 重商主義国家として
 発展させていったのである。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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