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第三章 スバル人の商業活動 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人の商業活動
   
 
 紀元前二千年頃のアッカドのセム族たちが
 なぜ北メソポタミアへ興味を示し
 進出していったのだろうか。
 
 人口が増加して
 居住地を求めたからなどをいう
 単純な理由はありえない。
 
 この地域が
 商業活動の重要なセンターに
 なっていたからである。
 
 紀元前三千年頃よりの活動によって
 スバル人たちは
 北メソポタミアから
 東はザクロス山脈を越え、
 西方はアナトリアから
 地中海沿岸までの
 商業ネットワークを形成し、
 産業開発の基地を設立して、
 商人たちを有機的に組織して
 運営していたと考えられる。
 
 紀元前二千年を越えた
 シャムン・アグト一世が
 シンジャール山脈の北側の平野、
 スバル人の中心的地域に
 首都シュバト・エンリルを開いた頃、
 私的商人組織が対外貿易に忙しく
 従事していたとの記録がある。
 
 彼等の主に扱ったのは金属と織物である。
 
 特に金属工 thveli たちは、
 『旧約聖書』創世記の「カイン」のように
 原料を求めて歩き回っていたと考えられる。
 
 スバル人たちは
 「北方山間の蛮人」などでなく、
 真に金属時代の扇を開いた
 先進的産業開拓者であったのである。
 
 メソポタミアの人々は、
 大ザブ川峡谷の
 ザウィ・マミ遺跡で発見されたように
 紀元前一万年から銅を使い始めた。
 
 新石器時代に入る紀元前六千年頃には
 失蝋法による金属成型法が発見され、
 金、銀、鉛、砒素銅の容器を
 作るなどの工業が始められ、
 青銅器時代に入る。
 
 紀元前三千年を過ぎると
 錫を混ぜた青銅が普及するようになる。
 
 青銅はシュメルで 
 zabar と総称されるようになったが、
 スバル人が取り扱っていたため、
 そのスバル名が商品名に転化
 反映したものであろう。
 
 青銅器の需要が大量に増大すると
 銅の産地は拡大されただろうが、
 主な生産地はアナトリアで、
 特にティグリス川の水源地帯、
 現在のダイヤバキル
 (トルコ語で銅の町)一帯は
 その中心であった。
 
 この立地がスバル人たちを
 金属を流通させる商人へと
 育てたと考えられる。
 
 ザウィ・チェミ遺跡についての
 見解で述べたが、
 この地方の羊飼いたちは
 すでに商人育成の素地を持っていたのである。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
 英語名で Shanidar 
 で世界に知られた呼称であるが、
 川名や国境を越えたトルコ領内に 
 Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
 
 その祖語はシュメル語の 
 šam (屠殺する)の同類である。
 
 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
 samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、
 「鍛冶工」の意味をも含む。
 
 ザウィ・チェミの羊飼いたちは
 アナトリアで粗銅を入手したが、
 その当時は鍛打法により
 銅を抽出したのである。
 
 samdr はサンスクリット語に入り 
 samitr となったが、
 ドイツ語の Schamip 、
 英語の smith ともなり、
 「鍛冶工」がその意味するところである。
 
 この鍛打工たちが
 銅を鋳出する技術を発明すると、
 
 「溶解」することを
 ドイツ語で Schmelze 、  
 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
 
 なお、シュメル語には、
 šum の同義語 sim があり、 
 simug 「鍛冶工」となり、
 その同義語に de がある。
 
 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
 アナトリアからザクロス山脈にかけての
 山岳地帯から入手できた。
 
 しかし、
 錫は西アジア地方からは掘り出されず、
 遠く現在のイランの
 カヴィール砂漠の東方から
 運んでこなければならなかったのである。
 そして、
 この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲
 得したのが
 スバル人であったと考えられる。
 
 南メソポタミアの王権にとっては
 この商業権こそが
 我が物にしたい対象であったのである。
 
 古アッシリアの初期三十代の王名は
 シュメル名でもなく、
 セム系でもないことが知られるが、
 これらの王名はスバル人のもので、
 彼等が軍事力によったのではない、
 それが
 神殿によって統率されていたにしても
 商人国家を形成していたのである。
 
 西アジアにおいて
 貴重な錫の商業権を
 独占していたことをうかがわせるのが
 
 annakam と呼ばれる
 前期アッシリア商人
 (といってもスバル人と思われる)が
 アッシュールから
 アナトリアのカネシュへ運んで行った
 金属名である。
 
 正確には何の金属であったか
 疑問もあるようだが、
 錫と考えられている。
 
 シュメル語の 
 anna は錫と鉛少々の合金とされている。
 
 アッシリア商人が主に扱ったのは金属と
 ウガリットを窓口とする
 織物・染料であったが、
 スバル人が確立したネットワークは
 古アッシリアを
 重商主義国家として
 発展させていったのである。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 スバル人の商業活動 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人の商業活動
   
 
 紀元前二千年頃のアッカドのセム族たちが
 なぜ北メソポタミアへ興味を示し
 進出していったのだろうか。
 
 人口が増加して
 居住地を求めたからなどをいう
 単純な理由はありえない。
 
 この地域が
 商業活動の重要なセンターに
 なっていたからである。
 
 紀元前三千年頃よりの活動によって
 スバル人たちは
 北メソポタミアから
 東はザクロス山脈を越え、
 西方はアナトリアから
 地中海沿岸までの
 商業ネットワークを形成し、
 産業開発の基地を設立して、
 商人たちを有機的に組織して
 運営していたと考えられる。
 
 紀元前二千年を越えた
 シャムン・アグト一世が
 シンジャール山脈の北側の平野、
 スバル人の中心的地域に
 首都シュバト・エンリルを開いた頃、
 私的商人組織が対外貿易に忙しく
 従事していたとの記録がある。
 
 彼等の主に扱ったのは金属と織物である。
 
 特に金属工 thveli たちは、
 『旧約聖書』創世記の「カイン」のように
 原料を求めて歩き回っていたと考えられる。
 
 スバル人たちは
 「北方山間の蛮人」などでなく、
 真に金属時代の扇を開いた
 先進的産業開拓者であったのである。
 
 メソポタミアの人々は、
 大ザブ川峡谷の
 ザウィ・マミ遺跡で発見されたように
 紀元前一万年から銅を使い始めた。
 
 新石器時代に入る紀元前六千年頃には
 失蝋法による金属成型法が発見され、
 金、銀、鉛、砒素銅の容器を
 作るなどの工業が始められ、
 青銅器時代に入る。
 
 紀元前三千年を過ぎると
 錫を混ぜた青銅が普及するようになる。
 
 青銅はシュメルで 
 zabar と総称されるようになったが、
 スバル人が取り扱っていたため、
 そのスバル名が商品名に転化
 反映したものであろう。
 
 青銅器の需要が大量に増大すると
 銅の産地は拡大されただろうが、
 主な生産地はアナトリアで、
 特にティグリス川の水源地帯、
 現在のダイヤバキル
 (トルコ語で銅の町)一帯は
 その中心であった。
 
 この立地がスバル人たちを
 金属を流通させる商人へと
 育てたと考えられる。
 
 ザウィ・チェミ遺跡についての
 見解で述べたが、
 この地方の羊飼いたちは
 すでに商人育成の素地を持っていたのである。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
 英語名で Shanidar 
 で世界に知られた呼称であるが、
 川名や国境を越えたトルコ領内に 
 Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
 
 その祖語はシュメル語の 
 šam (屠殺する)の同類である。
 
 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
 samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、
 「鍛冶工」の意味をも含む。
 
 ザウィ・チェミの羊飼いたちは
 アナトリアで粗銅を入手したが、
 その当時は鍛打法により
 銅を抽出したのである。
 
 samdr はサンスクリット語に入り 
 samitr となったが、
 ドイツ語の Schamip 、
 英語の smith ともなり、
 「鍛冶工」がその意味するところである。
 
 この鍛打工たちが
 銅を鋳出する技術を発明すると、
 
 「溶解」することを
 ドイツ語で Schmelze 、  
 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
 
 なお、シュメル語には、
 šum の同義語 sim があり、 
 simug 「鍛冶工」となり、
 その同義語に de がある。
 
 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
 アナトリアからザクロス山脈にかけての
 山岳地帯から入手できた。
 
 しかし、
 錫は西アジア地方からは掘り出されず、
 遠く現在のイランの
 カヴィール砂漠の東方から
 運んでこなければならなかったのである。
 そして、
 この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲
 得したのが
 スバル人であったと考えられる。
 
 南メソポタミアの王権にとっては
 この商業権こそが
 我が物にしたい対象であったのである。
 
 古アッシリアの初期三十代の王名は
 シュメル名でもなく、
 セム系でもないことが知られるが、
 これらの王名はスバル人のもので、
 彼等が軍事力によったのではない、
 それが
 神殿によって統率されていたにしても
 商人国家を形成していたのである。
 
 西アジアにおいて
 貴重な錫の商業権を
 独占していたことをうかがわせるのが
 
 annakam と呼ばれる
 前期アッシリア商人
 (といってもスバル人と思われる)が
 アッシュールから
 アナトリアのカネシュへ運んで行った
 金属名である。
 
 正確には何の金属であったか
 疑問もあるようだが、
 錫と考えられている。
 
 シュメル語の 
 anna は錫と鉛少々の合金とされている。
 
 アッシリア商人が主に扱ったのは金属と
 ウガリットを窓口とする
 織物・染料であったが、
 スバル人が確立したネットワークは
 古アッシリアを
 重商主義国家として
 発展させていったのである。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 スバル人とスバルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人とスバルトゥ
 
 
 1969年に出された岩波書店
 『世界歴史Ⅰ古代』は
 「アッシリア帝国」の中で次のように述べる。
 
 「アッシリアの起源は、
  その名よりはるかに古く始まる。
  近年発見された
  『アッシリア王名表』によって
  補ってみると、
  最後の王アッシュール・ウバルリト二世
  (在位B.C.612-606)まで
  一一七代の王を数えるが、
  そのうち初めの三十代くらいまでの
  諸王の名は明らかにシュメル名でも
  セム系のアッシリア名でもない。
  いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  のちにフルリ人と呼ばれたものの名である。
  かれらの由来は明らかでないが、
  少なくとも
  今日のカウカサス語系に属するものと
  考えられ、
  後にはフルリ人の国から
  ミタンニ王国が成立することになり、
  その後裔が
  アルメニアの
  先住ウラルトゥ(ハルディア)人
  であることことは
  近年ようやく認められるようになった。」
 
  1977年(昭和52年)発行の講談社
 『世界の歴史1』は
 「アッシュール市」について
 次のように述べる。
 
 「アッシュール市の
  古い時代の支配者の中には、
  明らかに北方山間の蛮人
  シュバリ人と思われるものがいた。
  アッシュールの市壁を初めて築いたキキア、
  同市の神殿を創建したウシユピア、
  そしてアッシリア最古の支配者
  イティティらはいずれもシュバリ人である。
  アッカド人は
  シュメル人を圧迫したと同じように、
  アッシリアにも支配者として現われた。
  彼等は不撓不屈の努力で
  先住のシュバリ人を同化していった。
  その結果、
  シュバリ人は
  新来のアッカド人の言語や文字を採用し、
  その信仰をも取り入れることになり、
  古来の性質をまったく失ってしまった。」
 
 1985年発行の山川出版社
 『民族の世界史//アフロアジアの民族と文化』 は
 「アッシリアとディヤーラ地方の民族」の項に 
 次のように述べる。
 
 「アッシリアとはアッシュール市と
  それを中心とする
  王国の名に由来する歴史的地名であり、
  かってはスバルトゥが
  その地方の名称だった。
  アッシリア王国の主人が
  セム人だったゆえに、
  アッシリアの住人はセム人と
  思いこみやすいが、
  歴史的には最古の住人は
  ディヤーラ地方同様に
  シュメル人でもセム人でもない、
  おそらく西イラン山地系ないし
  フルリ人と考えられる。
  楔形文字文書は彼らを
  シュバリ(スバルトゥ)人と呼んでいる。
  その居住地域はアッシリアや
  ハブール川上流地域で、
  紀元前三千五百年頃以来
  南の地方とは異なる
  独自の発展を遂げてきたが、
  南の初期王朝期に相当する時期に
  西からセム人
  おそらくアッカド人がやってきて、
  シュバリ人と融合した結果、
  アッカド語の方言を話す
  民族の原型が成立した。」
 
  1998年発行のミネルヴァ書房
 『西洋の歴史・古典中世編』は
 アッシリアについて次のように述べる。
 
 「紀元前三千年紀半ば頃から
  紀元前二千年紀の初めにかけて
  現在のイラク北部、
  北緯37度付近から
  小ザブ川との合流点に至る
  ティグリス川中・上流域と
  西方の原野へと広がる逆三角形の地域は
  シュビルないしスバルトゥと呼ばれた。
  この地域が後のアッシリア本土である。
  そこには土着語を話すフルリ人と
  親縁関係にある原住民スバル人のうえに、
  東セム系遊牧民が支配的要素として加わり、
  さらに
  シュメル文化の影響の下に都市
  アッシュール、ニネヴェが造られた。
  南方のアッカド王朝や
  ウル第三王朝の支配を受けた後
  紀元前二千年頃から
  アムル人の侵入を受けたが、
  このころから紀元前一四世紀までを
  古アッシリア時代と呼ぶ。」
 
 以上、
 日本で出版されたオリエント史における
 アッシリアと絡めた
 スバル人についての解説を取り上げてみた。
 
 「スバル人」との名称を上げるものは
 一書だけで、
 アッシリア、スバルトゥ、シュバリの
 用語法に統一が取られているように
 みられるが、
 地方名であったり多少の混乱がある。
 これらを整理すると
 次のようになる。
 
 コーカサスのグルジア語によると、
 シュヴィリ shvili は「息子」を
 アシュリ asuli は「娘」を意味するが
 この両語は古代の
 シュバリ shvali 及び
 アッシュール assur に
 対応するものと考えられる。
 
 古アッシリアが王国として
 北メソポタミアに君臨し始めたのは
 紀元前二千年頃からであるが、
 スバル人はそれより古くから、
 史料に表れてからでも千年間以上、
 実態はさらに古い時期から
 西アジアの広い範囲で
 活動していたと思われる。
 
 彼等の祖地名を 
 svarti (スバルの土地)というのである。
 スバル人のシンボルは十字紋であるが、
 その交差する二つの軸を
 「息子・娘」と考えていたようにみられる。
 
 シュバリとアッシュールは
 スバル人の構成要素である。
 
 アッカド語にある
 少年を意味する 
 suharu と
 少女を意味する shartu は、
 シュメル語の 
 sabal 子供・子孫の派生語と考えられる。
 
 ニネヴェ、アルパチヤ遺跡のある地方は、
 古来スバル人による呼称は Asuli であったが、
 アッカド人が北上してきて、
 アッカドでも娘を意味する 
 shartu と呼ぶようになり、
 紀元前十四世紀の中期アッシリアの時代に
 アッシュル・ウバルト一世により
 アッシリアの名称に統一された
 (命令された)のである。
 
 スバルないしシュバリ 
 svari の地名は
 スバルトゥ svarti 、
 イシュワル isvar 、
 シブリア svria 、
 ニシビン nisibin と改名し、
 
 現在はヌサビン 
 nusaybin とその遺称を留めている。
 
 ※ウラルトゥ王国
 
 前9世紀半ばにヴァン湖を中心に形成された
 古代のアルメニアの国家。
 
 さまざまな種族の連合国家でした。
 「ウラルトゥ(Urartu)」は
 アッシリア読みで、
 自称「ビアイニリ(Biainili)」。
 
 ハルディ神(Haldi)を主神としたので、
 住民たちは「ハルディア人」と自称。
 
 現在のイラン・イラク・トルコ、
 そして
 ザカフカス地方に及ぶ地域にまで
 勢力を伸ばすほど強力になりました。
 
 首都はトゥシュパ(現在のヴァン市)。
 
 メヌアシュ王の時代に
 かつてのヒッタイトの北シリア領を奪取、
 その子アルギシュテシュ1世と
 サルドゥリシュ2世の時代に
 最盛期となります。
 
 アッシリアとは常に敵対し、
 北の騎馬民族と協力関係を
 保つこともあったようです。
 
 彼らの文化レベルは高く、
 周辺民族からの影響を受けつつ独自に発展し、 大いに繁栄しました。
 
 しかし、
 北からキンメリア人やスキタイ人、
 南からアッシリアによって攻められ衰退。
 
 前590年頃に
 メディア王国によって
 首都トゥシュパは略奪され、滅亡します。
 
 
M.K記

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第三章 「創世記」カインの本実 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 「創世記」カインの本実
 
 「創世記」第四章は
 アダムとイブの子カインについていう。
 
 「アベルは羊を飼う者となり、 
  カインは土を耕す者となった。
  日がたって、
  カインは地の産物を持ってきて、
  主に供え物をした。
 
  アベルもまた、
  その群れの初ごと肥えたものと持ってきた。
 
  主はアベルとその供え物とを
  顧みられなかったので、
  カインは弟アベルに
  「さあ野原へ行こう」といって誘い、
  その野原で弟を殺してしまう。」
 
  それを知って主がカインに対していこう。
 
  「あなたは何をしたのです。
   あなたの弟の血の声が
   土の中からわたしに叫んでいます。
   今あなたはのろわれて
   この土地を離れなければなりません。
   (中略)あなたが土地を耕しても、
   土地は、
   もはやあなたのために実を結びません。
   あなたは地上の放浪者となるでしょう。」
 
  カインは主に答える。
 
  「あなたは、きょう、
   わたしを地のおもてから追放されました。
   わたしはあなたを離れて、
     地上の放浪者とならねばなりません。」
  「そして、主はカインを見付ける者が、
   だれも彼を打ち殺すことのないように、
   彼に一つのしるしをつけられた」と結ぶ。
 
 この挿話の語っている内容は
 明らかに土地(野原・畑)を離れた
 労働者(カイン)の誕生譚である。
 
 「土を耕す者」、
 サンスクリット語でいう 
 karasu (農夫)が
 「羊を飼う者」アベルを殺してしまい、
 土地がアベルの血を吸ったことにより
 
 「土地を耕しても、
  土地はもはやあなたの実を結ばなくなり、」
 
 「土地を離れなければならなくなる。」
 
 「地のおもてから追放されて」
 「地上の放浪者」となったのである。
 
 カインは
 「エデンの東、ノドの地に住み」、
 妻を得て子孫を得る。
 
 その六代の後に
 「家畜を飼う者の先祖」
 ヤバルと
 
 「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」
 トバルカインが誕れる。
 
 もはや多くを付け加える必要はないであろう。
 
 カインは「労働者」となったのである。
 
 ヘブライ語の「カイン」は鍛冶屋である。
 
 「創世記」第九章には洪水神話後の挿話で
 ノアの第二子ハムの子として
 カインの名に近似した
 カナンの名を持った者を登場させる。
 
 父ハムが、
 その父ノアがぶどう酒を飲んで酔い、
 天幕の中で裸になっているところを
 見てしまったために
 ノアはその孫に当たるカナンに対していう。
 
 「カナンはのろわれよ。
  彼はしもべとなって
  その兄弟たちに仕える。」
 
 またいった
 
 「セムの神、主はむべきかな、
  カナンはそのしもべとなれ。
  神はャパテを大いならしめ、
  セムの天幕に彼を住まわせられるように。
  カナンはしもべとなれ。」
 
 カナンは、
 しもべ(召使)である労働者となることを
 役目づけられたのである。
 
 カナン Canaan は地方名として知られる。
 
 その地域範囲については諸説あるが、
 北はシリアのオロンテス川河口地帯から
 地中海東岸を南下して
 パレスチナ地方までとみられる。
 
 ウガリットは
 その北部の文化的経済的中心であった。
 
 ここはユダヤ人の地ではなく、
 カナン人の代表ともいうべき
 ウガリット人の祖地で商人的性格が強い。
 
 この第九章にいうカナンは
 商人であるウガリット人の名代と
 考えてよいであろう。
 
 セム語の支派とされるウガリット語に 
 mark という用語がある。
 
 「記号、しるし」を表し、
 英語にも同義で移入されている。
 
 『創世期』第四章の
 
 「主はカインを見付ける者が
  だれも彼を打ち殺すことのないように
  彼に一つの”しるし”をつけられた」
 
 という「しるし TAYVN 」で、
 英語版の聖書は
 全てこの語を mark と記している。
 
  Mark は「しるし」とともに商人を意味する。
 
 ウガリット語を祖語として成立した
 フェニキア語時代、
 フェニキア人は
 スペインの南端に近い現在も同名であるが、
 植民都市 Maruga を開くが、
 その意味は商館を意味する。
 
 同語はポルトガル語に反映し、
 ポルトガル人が十五世紀以後
 大航海時代に世界を航海したが、
 現在のマレーシアの
 マレー半島の西岸にある町
 Melaka は彼等の商館都市で、
 その名はカナン語に祖語があるのである。
 
 また、
 英語の
 商人は marchant 
 市場を market 
 
 ドイツ語における広場または市場を 
 Marche というのも同類語である。
 
 フランス語の 
 marche も「市場、取引、売買」 を
 さらに「行列、歩くこと、進行」を意味する。
 
 マルタ語においての「記号、しるし」を
 表す用語
 singal について先に触れたが、
 この語から派生した用語 
 sengha は「商業、技術」を意味する。
 
 また同じく「記号、しるし」を
 意味する用語として 
 tebgha があり、
 同根語 thigh ha は
 「売る」で商人と関係していることを示す。
 
 tbahar は「航海する、出帆する」意味となる。
 
 この tebgha は、シュメル語ではないが
 シュメルの楔形文字に表記された 
 thveli と対応する用語であろう。
 
 thveli は金属工と理解されているが、
 
 『創世期』第四章に
 「青銅や鉄の全ての刃物を鍛える者」の
 名として挙がるトバルカイン 
 Tubelcain の構成語で、
 この名は「金属工匠」と理解できる。
 
 旧約聖書における
 ヘブライ語の「しるし」は 
 TSYVN(tsion) であるが、
 商品と解釈できる
 「供給品、必需品、設備」を表す用語が 
 TSYVO(tsiod) で、
 TSYVN の語尾NがOに代わっただけである。
 
 そのd(ד)  r(ך) に極似しており、
 『旧約聖書』のシオン 
 TSYVN(しるし) にする挿話は
 スバル人の商業活動の盛大さから
 創造されたものと考えて
 差し支えないと思う。
 
 スバル人とは
 北メソポタミアのカルト人のうち、
 金・銀・銅・錫・鉛を
 取り扱うことを中心に
 織物・木材・貴石をも交易する
 商人たちであったのであり、
 青銅器時代を迎え、
 その需要が増大した
 紀元前三千五百年頃から
 彼等の活動が活発化したものと推察できる。
 
M.K記



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