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(二) メディアから安定へ 〔エズラ書のアルザレと「パリサイ」〕 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (二) メディアから安定へ
    〔エズラ書のアルザレと「パリサイ」〕
 
  イブル人が月氏に本当人になったのかについて
 考察してみたい。
 まず、
 ソクディアナ Sogdiana についてである。
 この地名がヘブライ語で解釈した場合
 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘は
 既になされている。
 Shoykhet(Shokhtim) が
 それに相当する用語であるが、
 「儀式のための屠殺」が本義である。
 その祖語はシュメール語の sukud-e-en 
 「神を高くするに想定してよいだろう。
 sukud はメソポタミアの高床式神殿で
 検討した用語である。
 この語は神域を表す suk、sug と関連し、
 ソクディア名の語幹と考えられる。
 「烈王記」下は
 「高き所を建て」たので
 サマリアは 取られたと述べており、
 イブル人がそのままの信仰を
 ここに持ってきてもおかしくない。
 そのサマリア名をつけたのがソクディアの
 中心都市サマルカンドであると
 考えることもできる。
 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、
 その象徴は牡牛である。
 サマルカンド近郊の町 
 キシュ Kish はヘブライ語で
 「牡牛の」の意味の kiish によるだろう。
 ソクディアナには
 牡牛に係わる地名がよくみられる。
 そこを流れる川の名称も アム Amu は
 シュメール語で野牛である。
 後世 オクサス oxus となるが、
 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。
 サマルカンドとキシュの間の町
 マイムルク Maimrug はセム語で三日月を表す。
 一三世紀から一四世紀にかけて
 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを 
 支配においたイスラムの マメルク Mameluku 朝名
 と同義であるる。
 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を
 行っていた可能性があり、
 その担い手がサマリアから移動させられ
 メディア周辺にいたイブル人で、 
 メディア国の拡大の時期に中央アジアまで
 さらに移動したのではないかと推測される。
  ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、
 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、
 同山脈の東端を回るとトルファン(高昌)へと出る。
 ここにはベゼクリクの町があった。
 この町名もイブル人の残した名称とみられる。
 Bezeklik の beze- はベツレヘム Bethlehem の
 beth で家を表す。
 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。
 klik は
 ヘブライ語の kirkh で、
 ドイツ語の Kirche、
 英語の church と同義である。
 キリスト教の場合には教会、寺院であるが、
 その内容は「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは
 「使徒」を意味する。
 さらに
 その原義は「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。
 よって、
 Bezeklik も「神殿」のことである。
 
 現在中国名(月+生)金台という町がここにはある。
 Sheng-jin-tai は singer あるいは 
 sinagug の転訛とみられ、
 ベズクリクと同じ神殿の語義である。
   月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)
 との間にいたという『史記』大宛列伝はいう。
 同列伝は紀元前一三九年に
 前漢の武帝が張騫西域の大月氏に
 向けて派遣した事情と
 西域・中央アジアの状況を報告したものである。
 月氏について中国の史料には 
 和氏、禺氏、牛氏などと表記される。
 『漢書地理志』で月氏道の名を載せた安定は
 現在の安西、安北、安南(新彊区)がその尊称で
 甘粛省の西の端にあり、敦煌を中心とする。
 そのまた西南の端れに現在
 阿克塞哈薩克族自治県があるが、
 その都市名が博羅轉井である。
 同市名を中国読みにすると、
 Pak-Luo-Zhuan-Jing となるが、
 「パリサイ」で
 英語の Pharisee 
 ドイツ語の Pharisär であり、
 キリストの時代に
 「内面的戒律よりも外面的規則を重要視した
  カナンの政治宗教的一団」
 の名に対するもので、ヘブライ語の 
 PRSh、Parisai が原語と解釈できるのである。
 ここにおけるその命名は、
 そのような宗教的立場の表明ではなく、
 その原義が「離れている者」でることから、
 遠く原郷のイスラエルを
 離れているとの意味に解釈できる。
 民族名は中国語の訓音では 
 A-Ke-Sak-Ha-Sa-Ke となる。
 hasaka 哈薩克はカザフ Kazakh 族のことである。
 その母体はウイグル族で、
 九世紀にモンゴルの東部にいたが
 契丹に追われて西遷し、一部がこの地方に定住し
 遊牧から農業へと生活の形態を変えた。
 彼らをウイグル・カザフ族といい、
 後に単にカザフ族と言われるようになった。
 カザフ名はこの地方で付けられたものである。
 
 カザフ Kazakh は本来どのような意味なのか。
 その意味は「牧夫」と推測される。
 シュメール語の kus(牧夫) も思い出すが、
 阿克塞 Akesak を oxas 、
 ドイツ語の Ochs(牡牛)とするのは間違いない。
 中国史料が月氏を牛氏と言った。
 哈薩克 Hasake(kazakh) は、
 ドイツ語の Hscher(捕史)
 動詞形 hasche(捕える)か、
 haschieren(肉を刻む) Haschee(刻み肉)に
 対応すると考えられる。
 前者は牧夫を想起させ、
 後者はゲルマン人の故郷西イランの Kāshar の名称
 「ユダヤ教の教義に敵っている。」
 との意義である「清浄」を表す Kosher と関係する。
 hasake(ドイツ語の Hasche) は
 「レビ記」の
 「燔祭の獣の皮をはぎ、
  節々に切り分けなければならない」
 に対する用語で祝祭を行うものたちの意味となり。
 祝(ハフリ)の原郷、
 現在のシリア東部ハブール川の上流にある
 エル・ハサカ El Haseke にも表されている。
 阿克塞哈薩克族とは「牛飼い族」あるいは
 「牛祝祭族」となる。
 カザフは牧夫の意味に相当する。
 パリサイ(博羅轉井)名とこの族名を考慮すれば
 月氏(イブル人)の影響があったことによると
 考えてもよい。
  禺氏も牡牛を表す gu によるものであろう。
 周辺には、大草、長草のつく地名があり、
 牧畜に適した高原であることは印象づけている。
  「失われた十支族」といわれるイスラエル人が
 この地方にいたと指摘できる資料がイブル語の
 資料にもある。
 
 それは『旧約聖書』にもその名前がある。
 エズラの名称をつけられた
 「エズラ第四書」という資料である。
 そこに Arzare「アルザレ」という地名が
 「彼らが最後まで住んだ」地として記されている。
 そこは、
 ユーフラテス川を越えて一年半の長い道のりを
 要する所だと言っている。
 アルザレは、安定、あるいは安西の訓音に近い。
 また、博羅轉井の南西方に五七九八メートルの
 高さの阿尓金山及びその名称の山脈があるが、
 これはウイルグ語の「黄金」を表す altum を
 漢語化した名称とみられるが、
 「アルタン」もまたアルザレに近似する。
 しかし、
 アルザレ、アルタンはセム語(アッカド語)の同じく
 「黄金」を意味する hurasu を
 祖語とするとみられるのである。
 「エズラ第四書」は
 紀元後一世紀の末期に書かれたもの言う。
 シャルマネセル五世の時代からは
 八〇〇年余りが過ぎている。
 その間に
 イスラエルの支族の行方についての情報が
 伝わっていた可能性を示すものであり、
 月氏がイスラエル人であったとの見解を
 傍証するものである。
  和氏名については事情がある。
 月氏が渡来する以前、ここは和氏の郷であった。
 『史記』五帝本記堯帝の
 「和仲に命じて、西土に居らしむ。味谷と曰ふ。
  敬みて日の入るを導き、西戎を便程す。」
 
 とあることと係わるからである。
 和仲は和氏の次子の意味で、
 西土は三危とも呼ばれた。
 同じ堯帝条に
 「三苗を三危に遷し、以て西戎に変じ」とあり、
 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な
 莫高窟のある三危山にその名を遺す。
 西土は西戎の地である。
 和氏はまた夏氏であり、月氏が西遷し
 移り住んだ地を大夏(バクトリア) というのは
 これに依るものである。
 夏は『史記』にも「夏本記」があるが、
 殷〔商〕より古い王朝と考えられている。
 以前には空想の王国とされていたが、
 最近は考古学的資料が
 夏の実在を証明するようになり、
 今では
 中国の最初期の王朝名として
 認められるようになっている。
 堯帝により
 和氏の一部が移転させられた理由により
 そこの住民を和氏と称したのである。
 和氏が米作りに養蚕業に優れていたとすると、
 月氏は彼らより
 絹についての智識・情報を得たのである。
 月氏が絹商人へと変化していく切っ掛けである。
 
 敦煌の北方新彊区内に哈蜜市がある。
 この町は和氏が建てた町とも考えられる。
 雲南省の少数民族に哈尼(はに)族がいる。
 彼らは古くは
 「和夷(ほい)」
 「和蛮(ほまん)」
 「哈泥(ほに)」などとも呼ばれ、
 『史記』に載る和氏の一族と考えられている。
 哈尼族ばかりでないが、
 雲南省の民族は紡織・織布に優れ、
 色彩豊かで個性的な織物は歌垣という祭礼で
 人々が着る衣裳の素晴らしさでよく知られている。
 手工業は農閑期の主要な仕事で、
 少女たちは子供のうちから母親に手ほどきを受けて
 伝統の継承者となる。
 彼らの祖先は
 もっと北方の四川省北部方面にいた
 人々と考えられている。
 四川省は蚕(蜀)で古来栄えと地方である。
 
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 


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