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(三) 月氏〔大月氏〕とシルクロード (大月氏国の成立) [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
   (三) 月氏〔大月氏〕とシルクロード
     (大月氏国の成立)
  
  紀元前一七七年頃、
 匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう) に敗れた
 月氏は一七六年には一部は安定に残留したものの
 他の人々は西遷を始めた。
 
 彼らは天山北方のイリ(伊犁・伊列)に
 弓月城を築いて一時滞在したが、
 更に西方に移動し、
 張騫の派遣された一三九年までに
 西トハリスタン、ソクディアナ、バクトリアに
 地歩を固め、
 一四〇年には
 大月氏国を成立させたとみられている。
 
 移動したものを大月氏、
 祁連山辺に残留したものを小月氏という。
 
 これより以前紀元前四世紀
 マケドニアのアレクサンダー大王が
 東方への大遠征を行い、
 バクトリア、ソクディアナまで到着し、
 三二五年頃
 インダス河を下ってアラビア海へ出て
 ペルシャのペルポリスまで引上げた。
 
 彼が三二三年に突然死去すると、帝国は分裂し、
 この地方はセレウコスの王朝となるが、
 その勢いが衰え、
 この地方にはバクトリア国が、
 大王に率いられて渡来し残留していた
 ギリシャ人たちによって独立成立した。
 
 ヘレニズムの東端の国と言われている。
 
 同国も北方のスキタイ人などの圧力に押されて
 次第にヒンズークシ山脈の南へ
 内部分裂と紛争を繰り返しながら移っていく。
 
 この北方からの勢力の中に
 月氏の勢力もあったと言われ、
 その間に覇権を纏(まと)め上げたのが
 大月氏国であった。
 
 ソクディアナが彼らの故地であったとすれば、
 帰還ということになる。
 
  紀元前一四〇年からの支配体制についての詳細は
 よく解らないが、
 その首都が中国名藍氏(Yun-shi)城で、
 バクトリアのバクトラ内にあったとされる。
 
  紀元前六五年には五王国に分裂されたことが
 中国の史料にみられる。
 
 『漢書』によるとその五王国は、
 
  (1) 休蜜翕候:きゅうみつきゅうこう 
  (2) 隻靡翕候:そうひきゅうこう 
  (3) 貴霜翕候:きしゃんきゅうこう
  (4) 肦頭翕候:はんとうきゅうこう
  (5) 高附翕候:こうふきゅうこう
 
 翕候は王のような職位を表す。
 
 そのうちの
 高附は喀布爾〔かふじ(る)〕とも表記された
 現在のアフガニスタンのカブールであり、
 貴霜はタリム盆地の南西、
 ギリシャ語でクスターナと云われた
 現在の和田(ホータン)である于闐(うてん)の地であり、
 後に貴霜〔クシャン〕は他の王国を統一して
 インド亜大陸へも勢力を伸長し、
 仏教の擁護者カニシカ王を誕むこととなる。
 
  この于闐の地は古来玉石の産地として
 繁栄したものであるが、
 クシャン国もその天恵に浴した。
 
 玉は角閃石の一種で同地には
 白玉河、緑玉河、黒玉河があって
 産量の豊富であったことを示している。
 
 玉石は中国語において殷の時代より
 圭(けい)、璋(しょう)、壁(ぺき)と
 王権の権威を象徴するのに用いられ尊重された。
 
 漢の時代になってもその需要は高く
 大量に輸出されたらしい。
 
 その状況は唐宋の時代まで続く。
 
 その見返りとして漢からは絹が輸出された。
 
 このことからシルクロード(これは近代の銘々)は
 開発確立されることとなったのである。
 
 大月氏国に齎(もたら)された絹が更に
 西方に輸出されたことは間違いない。
 
 東方の漢にとって大月氏は「玉の民族」であり、
 西方の国にとっては「絹の民族」という
 見方もここでは成り立つ。
 
 地中海沿岸のフェニキアは古来
 織物産業の活発な土地であり
 イスラエルの地でもそのような技術を習得しており、
 メディアなどに移動させられてから
 六百年を過ごした後とはいえ、
 日常の衣服を生産するなどして技術を保持していた
 技工たちはいたに違いない。
 
 彼らが絹の専門技術者あるいは
 商人として成長したと考えられる。
 
 というのも、五翕候のうち言及していない
 三翕候名はサンスクリット語で解釈すると
 養蚕業に係わる名称であるからである。
 
 当時インドの言葉は仏教の伝播などとともに
 この地方へも広がっていたから不自然ではない。
 
  「休蜜」は Krmi で「昆虫、虫」の意味で、
 ここでは「かいこ」つまり蚕のことである。
 
 「隻靡」は蚕の蛹(さなぎ)のことでサビであり、
 「肦頭」は patta で絹を意味する。
 
 貴霜についてもクシャンの語幹が kusa で 
 サンスクリット語の「草」であるが、
 書残されたなかにはギリシャ語の Korsano 、
 あるいはカニシカ王の貨幣に刻まれた
 košana の場合もあるので
 繭を表す koša を祖語とした
 部族名であった可能性もある。
 
 『後漢書』西域伝は高附の代わりに都蜜を
 五部族のうちに記している。
 
 この語は dāma で「紐、縄、綵、帯」であるが、
 その意味するところは tanu 「紐、細線、糸」で
 繊維というものであろう。
 
 tantu-uana は織機を表す。
 
 以上のように大月氏の部族名は絹産業を基礎にした
 技術集団と考えられるのである。
 
 この頃から
 西方のローマを初めとする地中海地方では
 セレスという絹を表す
 貴重な織物と糸が普及し始めるのである。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 11p
 前二世紀後半の世界
前二世紀前後の世界.jpg
M.K記

 連絡先:090-2485-7908


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