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(六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕
  さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島からインド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人には知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から太平洋海域の海路について
 インドの商人は古くから
 かなりの智識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての情報は
 インド商人によるものとみられる。
 
 記録を残さない彼らインド人の習慣から
 史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のためにギリシャ商人など
 西方の者には正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
  インドには紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabahā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、必要な資材を買った。
 
 組合員の間ではカースト(階級制度)は
 全く無視されていたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
  そのような海外交易商人を vanika という。
 
 彼らの活躍した地域に残るのがワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのもこのワニで、
 動物のワニに例えられたのは商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンブール辺りに船を並べて 
 軍団を渡らせた記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
  中央アジアからアラビア海へ活路見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、まずその基地を置いたところが
 南インドの西岸マラバール海岸にある
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 一九八〇年代初めには
 十万人のヘブライ人が住んでいた。
 
 現在もその状況は変わらずコショウなど
 香料の市場を掌握していた。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意味する alp を語幹とする
 Alleppey、水を意味する mus(mis) を基にしている
 Mattancher、また市につけられた kulam 名を持つ
 Ernakulam と Kayankulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには紀元前から後二、三世紀頃までに
 ムジリス muziris 〔語義はコショウ〕名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し居住地を
 広げたものと考えられる。
 
  インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 彼らインド人の足跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前には既に日本へ渡来していたのである。
 
 『漢書』に「奴」と記され「漢委奴国王」名の
 金印を授かった奴国は彼らの居留地で、
 その国名はサンスクリット語の船を表す
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に月支国も成立させた。
 
 後で詳しく述べるがそれが韓(馬韓)である。
 
  インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 イブル人の古代日本における拠点の一つは
 『魏志倭人伝』に記載されている「伊都国」である。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 世界各地に散った「(イスラエルの)記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西糸島市に当る。
 
  絹産業の専門家に成長していた
 大月氏の商人集団は、推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと考えられる。
 
  海洋商人となった大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは難しいが、
 五翕候のうちのクシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと考えるのが自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は日本に移動した
 後の氏族名ハタ(秦)氏と同名なので、
 「ハタ」は patta が原語であり、
 秦氏が絹織物の技術集団だった歴史的事実から
 イスラエル人の一部であることに間違いない。
 
  クシャン王朝は四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルやグプタ王朝のために
 消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンであるラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く。
 
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔でもあったと考えられるが、
 現在の判断では彼らを中央アジアからやっ来た
 正体の知れない民族とされる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 11p
前二世紀後半の世界
海洋交易商人①
海洋交易商人①.jpg
  標準世界史地図 17p
五世紀後半のアジア
海洋交易商人② 
  海洋交易商人②.jpg
M.K記

 連絡先:090-2485-7908


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