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(五) パルチアの台頭と強力化 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (五) パルチアの台頭と強力化 
  
  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国が
 興ったことにより事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による効果的な
 交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 交通の遮断された状態が
 恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 九十年には
 クシャナ王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も漢の史料ではクシャナ王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 大月氏が東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞せざるを得なかった。
 
 この間の事情についてインドの歴史家
 R・S・シャルマは次のように解釈する。
 
   絹は、中国からアフガニスタン北部と
   イランを通る絹の道によって、
   インドを経ずにローマに送られた。
 
   しかし、
   パルティア人がその近隣地域を支配すると、
   その交易は難しくなったため、
   絹はインドの西北部を通って
   西海岸へ運ばれることもあった。
 
   このようにインドとローマ帝国の間には
   絹の中継貿易がかなり行われたのである。
 
 この時代インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄も加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメールの時代から銅や錫、木材を
 ペルシャ湾に送ったインド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからはガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 八十ヶ所以上で発見されているが、
 その全てがヴィンダヤ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易の隆盛期を開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、南インドの物産と
 それにより東方の経路からもたらされた物産を
 取扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を務めたことになる。
 
 ローマの貨幣はベトナム南部の
 メコン川のデルタでも発見されている。
 
  カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのがカニシカ王の勢力で、武力により
 北はソグディアナから南はインドの中心
 ガンジス河下流へと進出しサルナート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)であろうとしたが、
 彼自身はあくまで月種(月神崇拝者)だとして
 変えることがなかったという。
 
 その祖族がイブル人であったと推測される。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月があしらったものがみられる。
 
  ローマの金貨がヴィンダヤ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が大量に移入された」
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とはいっていっていない。
 
 また、
 代二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために使ったとの
 理由が挙げられる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
一世紀~三世紀のアジア
パルチアの台頭と強力化
パルチアの台頭と強力化.jpg
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 

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