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(七) 小月氏 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (七) 小月氏
 
  『史記』「大宛列伝」は
 匈奴に敗れた月氏について同族が分離したことを
 「立ち去ることのできなかった
  残余の小部落の者は南山の羌族と合流して、
  その地を保有し、小月氏と号した」と記す。
 
 南山とは祁連山脈のことをいう。
 
 西遷した者たちを大月氏というのに対して
 残った者立ちを小月氏というのである。
 
 その小月氏を
 『後漢書』「西羌伝」は「湟中月氏胡」といい、
 「其先大月氏之別也」とし、
 「大きな種族は七あり、
  すぐれた兵は合わせて九千余人、
  湟中及び令居に分かれてある。
  また数百戸が張掖にある。
  これらを号して義従胡という」とある。
 
 湟中は現在に青海省の青海湖の東方方面
 西寧市の西南僅かの所にある。
 
 「胡」とは胡族のことで、
 中国の西方、北方にあった漢族以外の種族を
 呼ぶのに漢の時代以降に用いられた。
 
 その種族の別称「義従」は漢音で
 Yi-tsung となるが、この呼称は
 ヘブライ語の YTSA の音写とみられる。
 
 その語義は
 「(外へ)出る、出かける、~離れる」であり、
 前記したパリサイ(博羅轉井)と同じであり、
 「離れた者」と解釈され、
 イスラエルを離れた者たちとの解釈が
 成り立っているのである。
 
 また湟中は現在においても
 魯沙尓(爾) lu-sha-er とも呼ばれている。
 
 これはエルサレム市の表記は
 耶路撤冷 Yelusaleng で、
 この語頭「耶」が消滅したのが魯沙爾であろう。
 
 西寧市の東方湟水の北岸に平安という町がある。
 
 この町名も小月氏と何らかの関係により
 成り立ったのではないかとみられる。
 
 というのもエルサレム市の市名は
 永い間「平和の礎」と解釈されてきた。
 
 現在の解釈においては
 ダビデが首都を建設する以前から
 同名で呼ばれていたことが明らかであることから、
 カナン語で暁に対する「夕明(茜)」を神とする
 サレム神に因む名称であることが
 知られるようになった。
 
 しかし、
 それは二十世紀に入ってからの解釈で、
 それまでには、
 ヘブライ語の SLVN (salum、平和、安息、平安)に
 よるものとされてきたのである。
 
 よって、
 平安の町は魯沙爾の意義の解釈から
 生まれた呼称とみられる。
 
 このように小月氏の居住した地域には
 イスラエル人と関連付けられる遺称があり、
 月氏がイスラエルであるとの見解を
 補うものとなっている。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
二世紀中頃のアジア
大月氏&小月氏
大月氏&小月氏.jpg
M.K記

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(六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕
  さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島からインド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人には知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から太平洋海域の海路について
 インドの商人は古くから
 かなりの智識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての情報は
 インド商人によるものとみられる。
 
 記録を残さない彼らインド人の習慣から
 史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のためにギリシャ商人など
 西方の者には正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
  インドには紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabahā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、必要な資材を買った。
 
 組合員の間ではカースト(階級制度)は
 全く無視されていたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
  そのような海外交易商人を vanika という。
 
 彼らの活躍した地域に残るのがワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのもこのワニで、
 動物のワニに例えられたのは商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンブール辺りに船を並べて 
 軍団を渡らせた記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
  中央アジアからアラビア海へ活路見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、まずその基地を置いたところが
 南インドの西岸マラバール海岸にある
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 一九八〇年代初めには
 十万人のヘブライ人が住んでいた。
 
 現在もその状況は変わらずコショウなど
 香料の市場を掌握していた。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意味する alp を語幹とする
 Alleppey、水を意味する mus(mis) を基にしている
 Mattancher、また市につけられた kulam 名を持つ
 Ernakulam と Kayankulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには紀元前から後二、三世紀頃までに
 ムジリス muziris 〔語義はコショウ〕名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し居住地を
 広げたものと考えられる。
 
  インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 彼らインド人の足跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前には既に日本へ渡来していたのである。
 
 『漢書』に「奴」と記され「漢委奴国王」名の
 金印を授かった奴国は彼らの居留地で、
 その国名はサンスクリット語の船を表す
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に月支国も成立させた。
 
 後で詳しく述べるがそれが韓(馬韓)である。
 
  インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 イブル人の古代日本における拠点の一つは
 『魏志倭人伝』に記載されている「伊都国」である。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 世界各地に散った「(イスラエルの)記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西糸島市に当る。
 
  絹産業の専門家に成長していた
 大月氏の商人集団は、推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと考えられる。
 
  海洋商人となった大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは難しいが、
 五翕候のうちのクシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと考えるのが自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は日本に移動した
 後の氏族名ハタ(秦)氏と同名なので、
 「ハタ」は patta が原語であり、
 秦氏が絹織物の技術集団だった歴史的事実から
 イスラエル人の一部であることに間違いない。
 
  クシャン王朝は四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルやグプタ王朝のために
 消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンであるラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く。
 
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔でもあったと考えられるが、
 現在の判断では彼らを中央アジアからやっ来た
 正体の知れない民族とされる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 11p
前二世紀後半の世界
海洋交易商人①
海洋交易商人①.jpg
  標準世界史地図 17p
五世紀後半のアジア
海洋交易商人② 
  海洋交易商人②.jpg
M.K記

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(五) パルチアの台頭と強力化 [神聖の系譜]



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  (五) パルチアの台頭と強力化 
  
  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国が
 興ったことにより事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による効果的な
 交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 交通の遮断された状態が
 恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 九十年には
 クシャナ王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も漢の史料ではクシャナ王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 大月氏が東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞せざるを得なかった。
 
 この間の事情についてインドの歴史家
 R・S・シャルマは次のように解釈する。
 
   絹は、中国からアフガニスタン北部と
   イランを通る絹の道によって、
   インドを経ずにローマに送られた。
 
   しかし、
   パルティア人がその近隣地域を支配すると、
   その交易は難しくなったため、
   絹はインドの西北部を通って
   西海岸へ運ばれることもあった。
 
   このようにインドとローマ帝国の間には
   絹の中継貿易がかなり行われたのである。
 
 この時代インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄も加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメールの時代から銅や錫、木材を
 ペルシャ湾に送ったインド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからはガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 八十ヶ所以上で発見されているが、
 その全てがヴィンダヤ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易の隆盛期を開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、南インドの物産と
 それにより東方の経路からもたらされた物産を
 取扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を務めたことになる。
 
 ローマの貨幣はベトナム南部の
 メコン川のデルタでも発見されている。
 
  カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのがカニシカ王の勢力で、武力により
 北はソグディアナから南はインドの中心
 ガンジス河下流へと進出しサルナート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)であろうとしたが、
 彼自身はあくまで月種(月神崇拝者)だとして
 変えることがなかったという。
 
 その祖族がイブル人であったと推測される。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月があしらったものがみられる。
 
  ローマの金貨がヴィンダヤ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が大量に移入された」
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とはいっていっていない。
 
 また、
 代二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために使ったとの
 理由が挙げられる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
一世紀~三世紀のアジア
パルチアの台頭と強力化
パルチアの台頭と強力化.jpg
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