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(二) 旧約聖書「イザヤ書」の 「地の果ての島々」 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (二) 旧約聖書「イザヤ書」の 「地の果ての島々」
  (a) 「地の果て」と「島々」
    
  「イザヤ書」とは
 『旧約聖書』のうち預言書と称されるものの
 第五番目の書である。
 
 その内容は三部に分割することができ、
 これまで
 第一の「イザヤ書」
 〔第一章から三九章まで〕は
 紀元前八紀に著されたといい、
 
 第二の「イザヤ書」と称される
 第四〇章から五章までは
 紀元前五五〇年頃の成立、
 
 第三の「イザヤ書」と称される
 第五六章から六六章は
 同じく紀元前五一五年頃の成立とされる。
 
 ここでは特に
 第2の「イザヤ書」と称されるもののうちの
 四〇章から四九章までに注目する。
 
 この書は一般に預言書といわれ、
 神の啓示の記述となっている。
 
 しかし、
 その内容にバビロン捕囚事件や
 ペルシャのキロス王名など、
 記述年より後の事件の具体的な
 固有名詞が載っていることから、
 当該書が宗教書としても、
 諸事項(件)発生後に記録として
 留められたとする方が妥当性がある。
 
 これまでのヘブライ学者は
 「預言」との通称にとらわれ、
 それぞれ事件以前の成立とすることに
 こだわってきたのではないかと推測される。
 
 歴史研究家的視点からすると、
 そういう第二の「イザヤ書」は
 紀元前二世紀の終末期から
 同一世紀に記録されたものと、
 少なくとも加筆されたものと考える。
 
 なぜならば、
 その頃西方〔ローマ帝国、地中海東岸〕と
 極東との交易網が
 西方諸国の人々にやっと認知され始めた
 証左がその内容に含まれているからである。
 
 その状況は
 前章(邪馬台国の性格と卑弥呼)で説明した。
 
 この第二の「イザヤ書」に興味深い事項がある
 「島々」「地の果て」などがそれである。
 
 以下に注目すべき箇所を
 ミルトス社ヘブライ語聖書対訳シリーズの
 イザヤ書から日本語部分を転載する。
 
  第四〇章
  
   一五 見よ、
      主は島々を細かいちりのように取り上げる
 
   二八 主は、永遠の神、
      地の果てまで創造された方
 
  第四一章
 
    一 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。
      国々の民よ、力を新たにせよ。
 
    五 島々は畏れをもって仰ぎ、
      地の果てはおののき、
      共に近づいて来る。
 
    九 わたしはあなたを固くとらえ、
      地の果て、
      その隅々から呼び出して言った
 
  第四二章
 
    四 島々は彼の教えを待ち望む
 
   一〇 新しい歌を主に向かって歌え、
      地の果てから主の栄誉を歌え、
      海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、
      島々とそこに住む者よ
 
   一二 主に栄光を帰し、
      主の栄誉を島々に告げ知らせよ
 
  第四三章
 
    六 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う
 
  第四五章
 
   二二 地の果てのすべての人々よ
 
  第四八章
 
   二〇 バビロンを出よ、
      カルデアを逃げ去るがよい。
      喜びの声をもって告げ知らせ、
      地の果てまで響かせ、届かせよ
 
  第四九章
 
    一 島々よ、わたしに聞け、
      遠い国々よ、耳を傾けよ
 
    六 だがそれにもまして、
      わたしはあなたを国々の光とし、
      わたしの救いを
      地の果てまでもたらす者とする
 
  まず、
 この「島々」を日本聖書協会の
 『旧約聖書』は「海沿いの国々」と記している。
 
 「オックスフォード・ケンブリッジ版」は
  coasts and islands と記している。
 
 それに影響されたのだろう。
 
 それよりも古い King James Version は
 islands〔「島」の複数形〕とし、
 「島々」と同義である。
 
 ギリシャ語版を載せる
  The Septuagint with Apocryha においても
 νησοι〔nhsoi〕とし
 νησος〔nhsos:島〕の
 複数形である。
 
 やはりヘブライ語版にある
 AYYM「島々」というのが本来の表記であろう。
 
 また「地の果て」について各英語版とも
 end of earth とし共通している。
 
 この用語のうち「地」は
 ヘブライ語で ARTs で
 英語〔earth〕と近似している。
 
 「果て」はイザヤ書の各表記が
  KTsHT あるいは KTsHT で前者が原型である。
 
 「地の果て」表現は
 ユーラシア大陸の東端〔日本列島〕を想起させる。
 
 紀元前数世紀から西方の関心は、
 東方特に極東への関心が高くなった。
 
 紀元前四世紀の
 アレキサンダー大王の東征の目的は
 アジア〔ユーラシア〕の
 東端に辿り着くことであった。
 
  実際は中央アジアまでで終わってしまった。
 
 「イザヤ書」のいう「地の果て」は
 明らかにその「極東」をいったものと考える。
 
 そして「島々」とは
 日本列島の西部地域とすることができる。
 
 「果て」である KTsH には
 「端」のほか「はずれ」の概念もある。
 
 大陸から少々はなれていてもかまわないのであり
 「島々」とはその「地の果て」の「はずれ」に
 あるものとすることができる。
 
 「イザヤ書」はそこに国々があると知らせている。
 
 KTsH の発音は
 「クェツェエ」であったと考えられ、
 これは「クシュウ:九州」の祖語とみられる。
 
 「州」とは「国」である。
 
 「島々」とは
 日本の九州を中心とする
 諸島々を想定して言われたことになる。
 
 このヘブライ語の
 「果て」を原語とする地称が
 九州のシナ海〔日本海〕方面にはある。
 
 例えば鹿児島県加世田市名は
 KTsHT の音写であるし、
 串木野市名も KTsH-KNP〔果て-果て〕で
 「果ての果て」となり、
 いかにも「極地」らしい。
 
 長崎県の「口之津」も
 「クチノ」 KTsNI の音写で
 語義を同じくする。
 
 
 (b) 海に満ちる者
  この「島々」の情報は
 イザヤ書第四二章一〇に登場する
 「海に漕ぎ出す者」あるいは
 「海に満ちる者」と
 海洋航海に生きる交易商人たちが
 海路を経てもたらしたものとみられる。
 
 つまり、それらの記述は、
 その頃ヘブライ人の海洋商人たちが
 「地の果て:極東」へ
 達していたことを明白たらしめているのである。
 
 その続きに「島々とそこに住む者よ」と
 すでにそこに
 ヘブライ人が居住しているといっている。
 
 さらにそればかりでなく、
 第四三章六の「地の果てから連れ帰れ」
 と述べていることからも同様に、
 「地の果て」には
 ヘブライ人がすでに居住していたといえる。
 
 それが「国々」である。
 
  ≪参考≫
 「イザヤ書」
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 

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(一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団
  『旧約聖書』「列王記」第九章は
 次のように述べる。
 
  ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にある
  エラテに近いエッヨン、ゲペルに船団を設けた。
 
  この船団にヒラムは自分のしもべであり、
  海に詳しい水夫たちをソロモンのしもべたちと
  一緒に送り込んだ。
 
  彼らはオフィルへ行き、
  そこから四百二十タラントの金を取って、
  これをソロモンのもとに持って来た。
 
 その「金」はソロモンが始めた
 主の神殿建設のために用いられた。
 
 「ヒラム」とはレバノンの地、つまり
 フェニキア人の実力者であった。
 
 この船団は続く「列王記」
 第一〇章に述べられるように
 「タルシシュ船」といった。
 
   王は海にヒラムの船団のほか、
   タルシシュ船団を持っており、
   三年に一度タルシシュの船団が
   金、銀、象牙、さる、孔雀
   を運んで来たからである。
 
 さて、
 上記の土地「オフィル」AVFYR とは
 どこであろうか。
 
 第一〇では次のように述べる。
 
  オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も
  非常に多くのアルムグの木材と宝石とを
  オフィルから運んで来た。
 
  王はそのアルムグで主の神殿と王宮の欄干や
 詠唱者のための堅琴や琴を作った。
 
 これまで西欧の学者は「オフィル」を
 同称の近似から「アフリカ」と解釈し、
 日本においても大方の解釈がそれに従っている。
 
 「アフリカ」名は紀元前にはなく、
 ヘロドトスの「歴史」によると
 ギリシャ語ではあの大陸地域を
 「リビア」としていて、
 ソロモン王の時代よりずっと後、
 紀元前後でさえそうなのである。
 
 ローマ帝国時代もそれと同じである。
 
 同解釈の前提には地中海沿岸に
 全て因むとの思向があるようである。
 
 しかし、
 「列王記」第九章一二が記すとろによると、
 ソロモン王は「葦の海」つまり
 「紅海」の最奥の地エドムの
 「エラテに近いエッション、ゲベル」で
 「船団を設けた」のである。
 
 つまり、地中海沿岸でなく、
 アラビア海方面の交易を目的にしたのが
 タルシシュ船団の運んで来た物品を
 検討することにする。
 
 「オフィルから」運ばれて来たのは
 「金、銀、象牙、猿、孔雀」及び
 「アルムグの木材、宝石」とある。
 
 『旧約聖書』のイブル語 
 ZHV(金)、KhSPh(銀)、ShNHBYM(象牙)、KPYM(猿)
 との四つは明白であるが、
 最後に記されている用語 TKYMM は現代においては
 「インコ」として使われているが、
 英語訳本においては古くは 
 baboons〔ひひ〕として解釈されていたが、
 最近では peacocks〔くじゃく〕と解釈されている。
 
 ここでも「孔雀」として見解を述べる。
 
 また「アムルグ」AMLMG(単数形)ALMGYM(複数形)は
 現在においては「白檀」と解釈されている。
 
 さて、
 金銀はアフリカのアラビア海岸にもありそうだし、
 象牙、猿も南方地帯では入手できそうである。
 
 ソロモンは王時代より一千五百年ど遡った時代
 メソポタミアのアッカド・サルゴン王の
 楔型文字碑文のうちに極めて参考になる記述がある。
 
 このサルゴン大王は別称シャルル・キーン
 〔紀元前二四一一~二三二五〕という。
 
   キシュの王シャルル・キーン、
   彼は三十四もの戦闘を勝ち抜き、
   海の果てに至るまで城壁を打ち壊した。
 
   メルッハの船、マガンの船、ティルムンの船を
   アッカドの港に停泊させた。
 
 メルッハは maluha
 〔ma-lulu-ha 土地ー人々ー魚:魚人の土地〕で
 現在インド亜大陸の西側の地称
 「マルハ:ma-li-ha〔土地ー人ー魚:魚人の土地〕 
 に当る。
 
 マガンは
 パキスタンのインダス河口より西方一帯である。
 
 ティルムンは現在のバーレン島をさす。
 
 このメルッハから輸入された物品名のリストが
 他の粘土板に同じく楔型文字で記されている。
 
 それには以下のようにある。
 
  黒檀、牛、孔雀、紅玉
  
  金、銀、ラビスラズリ
 
  錫、象牙、猿、鶏
 
 ソロモン王がタルシシュ船で輸入した品々は
 全てこのリストに含まれている。
 
 因みに
 紅玉とはルビー、ラビスラズリは青い石類で
 アフガニスタンの北方山地からからしか産出しない。
 
 孔雀だが生棲していた原産地はアジアのみである。
 
 「ヤクジャク」は中国南部からマレー、
 インドシナ、ジャワが分布地であった。
 
 また、
 サルゴン大王、ソロモン王が入手し得たのは
 インドのものでインド亜大陸とスリランカに
 しかいない。
 
 あのアショカ王が建てたマウリア王朝名は
 「孔雀王朝」との由来である。
 
  ここで
 日本語に「白檀」「黒檀」と表記されている用語を
 メソポタミアのシュメール、アッカドの時代の
 言葉で検討してみる。
 
 W.F.Leemans の 
 Forein Trade in the Old Babylonian Period 
 〔Studia ET Document, Vol. VI〕において
 ウル〔ペルシャ湾に近い古代の都市名〕から
 発見された粘土板に刻まれた楔形文字文の中に
 gis-melluh〔メルッハの木材〕 
 gis-mes-melluh〔メルッハの mes 木材〕
 との記述がある。
 
 ここに表現された木材〔gis〕は
 前述した説明で理解できるように
 インド方面〔magan,malluha〕からの
 輸入木材である。
 
 mes 表記の記録はウル市ばかりでなく、
 同市にも近い
 ウルク Urk 市の楔形文字板からも
 見つかっている。
 
 M.W.Green Hans J.Nissen の 
 Zeichenligte der Archaischen Texte aus Uruk
 〔ウルク古代文典の文字表〕に
 gis-mes-gi-su,gis-mes-babbar,
 gis-mes-ru,gis-mes-mes などとある。
 
 この mes 表記の絵文字は長方形▭の形象で
 材木と受け取れる。
 
 しかし、
 mes が何を指しているのか上記二つの研究書は
 明らかにしていない。
 
 そこで本書の探求の結果を述べると、
 同語の本来の語義は「東方の」あるいは
 「東国」である。
 
 その東国とはメルッハ、マガンに当る。
 
 その前者の研究書〔ウル市の〕が紹介している
 gis-mes-ha-lu-ub-maganna の haluub には
 インダス文明の遺跡と知られる
 「ハラッパ」名が想像される。
 
 この「東国」の語義が木材名へと転嫁され、
 インド亜大陸特有のしかも貴重な「檀」を
 指すことになったのである。
 
 上記ウルクの用語を解釈すると
 以下のようになる。
 
  gis-mes-gi-su〔木材-檀-黒〕長い黒檀
  gis-mes-babbar〔木材-檀-白い〕白檀
  gis-mes-ru〔木材-檀-香り〕香檀
  gis-mes-mes〔木材-檀-東方の〕東方の檀
  gis-mes-pes〔木材-檀-大きい〕大きな檀
 
  黒檀はインド西部とスリランカが原産地である。
 
 白檀に至っては
 インドシナとインドネシア地域にしかない。
 
 「アムルグ」のサンスクリット語における
 発音の類似語は alam-kāra で
 「装飾、装飾物、荘叢、叢飾」を語義とする。
 
 サンスクリット語の「檀」材の用語は
 malaya で特に白檀を指す。
 
 インド亜大陸南面の端に近い Malabar 名や
 マレーシアのマレー半島名になっている。
 
 なお日本などにおいて「旃檀」との通称があるが、
 これはサンスクリット語 candan〔檀木〕を
 音写して漢字表記したものである。
 
  このように分析すると、
 「列王記」第九章二八がいう
 「オフィル AVFYR」はインド亜大陸から
 東南アジア地方ということが確実である。
 
 インド西部には同名に近似した
 マルワ文化〔紀元前一七〇〇~一四〇〇〕と
 同時代の金属併用文化の遺跡名もある。
 
 パキスタンに近いジャスタン南東部の
 ウダイプール市の東方三キロメートルにある
 アハール Ochar 遺跡である。
 
 同地はインダス河中流で
 メルッハとマガンの地の中間にある。
 
 またサンスクリット語の 
 ahar は「日、昼」の語義ながら
 「太陽信仰」あるいは「火信仰」に係わっている。
 
 「列王記」がいう AVFYR(オフィル)は明白に
 現在いうところのアフリカではなく
 「インド」を言った呼称である。
 
 メソポタミアは
 紀元前の二〇〇〇年も前に
 東方インド亜大陸との間で
 盛んに交易を行っていたのであり、
 ましてやソロモン王の時代〔紀元前一〇世紀〕
 イブル人たちはフェニキア人〔ヒラム〕の
 協力を得たが、紅海からアラビア海を経て
 東方との交易路を開発し
 インドへ至っていたのであり、
 その東西交流の実在に疑いはない。
 
  インド亜大陸の南西端に広がる
 ケララ KeRaLa 州とは
 「イブル人の共同体 KhLL」が語源であろう。
 
 紀元前のうちにイブル人たちは 
 ムディリス〔胡椒の語義〕という貿易港を建て
 彼らの居留地とし、更に
 東方インド洋方面への活躍の基地にしたのである。
 
 一四、一五世紀の西欧の航海時代、
 香辛料の胡椒貿易を牛耳ったのは
 このイブル人であり、
 二一世紀に入った今日においても
 三十万人からのイブル人たちが
 そこで活躍している。
 
  ≪参考≫
 タルシシュ船団
 
 DNA調査ポイントの青写真
M.K記

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