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(一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団
  『旧約聖書』「列王記」第九章は
 次のように述べる。
 
  ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にある
  エラテに近いエッヨン、ゲペルに船団を設けた。
 
  この船団にヒラムは自分のしもべであり、
  海に詳しい水夫たちをソロモンのしもべたちと
  一緒に送り込んだ。
 
  彼らはオフィルへ行き、
  そこから四百二十タラントの金を取って、
  これをソロモンのもとに持って来た。
 
 その「金」はソロモンが始めた
 主の神殿建設のために用いられた。
 
 「ヒラム」とはレバノンの地、つまり
 フェニキア人の実力者であった。
 
 この船団は続く「列王記」
 第一〇章に述べられるように
 「タルシシュ船」といった。
 
   王は海にヒラムの船団のほか、
   タルシシュ船団を持っており、
   三年に一度タルシシュの船団が
   金、銀、象牙、さる、孔雀
   を運んで来たからである。
 
 さて、
 上記の土地「オフィル」AVFYR とは
 どこであろうか。
 
 第一〇では次のように述べる。
 
  オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も
  非常に多くのアルムグの木材と宝石とを
  オフィルから運んで来た。
 
  王はそのアルムグで主の神殿と王宮の欄干や
 詠唱者のための堅琴や琴を作った。
 
 これまで西欧の学者は「オフィル」を
 同称の近似から「アフリカ」と解釈し、
 日本においても大方の解釈がそれに従っている。
 
 「アフリカ」名は紀元前にはなく、
 ヘロドトスの「歴史」によると
 ギリシャ語ではあの大陸地域を
 「リビア」としていて、
 ソロモン王の時代よりずっと後、
 紀元前後でさえそうなのである。
 
 ローマ帝国時代もそれと同じである。
 
 同解釈の前提には地中海沿岸に
 全て因むとの思向があるようである。
 
 しかし、
 「列王記」第九章一二が記すとろによると、
 ソロモン王は「葦の海」つまり
 「紅海」の最奥の地エドムの
 「エラテに近いエッション、ゲベル」で
 「船団を設けた」のである。
 
 つまり、地中海沿岸でなく、
 アラビア海方面の交易を目的にしたのが
 タルシシュ船団の運んで来た物品を
 検討することにする。
 
 「オフィルから」運ばれて来たのは
 「金、銀、象牙、猿、孔雀」及び
 「アルムグの木材、宝石」とある。
 
 『旧約聖書』のイブル語 
 ZHV(金)、KhSPh(銀)、ShNHBYM(象牙)、KPYM(猿)
 との四つは明白であるが、
 最後に記されている用語 TKYMM は現代においては
 「インコ」として使われているが、
 英語訳本においては古くは 
 baboons〔ひひ〕として解釈されていたが、
 最近では peacocks〔くじゃく〕と解釈されている。
 
 ここでも「孔雀」として見解を述べる。
 
 また「アムルグ」AMLMG(単数形)ALMGYM(複数形)は
 現在においては「白檀」と解釈されている。
 
 さて、
 金銀はアフリカのアラビア海岸にもありそうだし、
 象牙、猿も南方地帯では入手できそうである。
 
 ソロモンは王時代より一千五百年ど遡った時代
 メソポタミアのアッカド・サルゴン王の
 楔型文字碑文のうちに極めて参考になる記述がある。
 
 このサルゴン大王は別称シャルル・キーン
 〔紀元前二四一一~二三二五〕という。
 
   キシュの王シャルル・キーン、
   彼は三十四もの戦闘を勝ち抜き、
   海の果てに至るまで城壁を打ち壊した。
 
   メルッハの船、マガンの船、ティルムンの船を
   アッカドの港に停泊させた。
 
 メルッハは maluha
 〔ma-lulu-ha 土地ー人々ー魚:魚人の土地〕で
 現在インド亜大陸の西側の地称
 「マルハ:ma-li-ha〔土地ー人ー魚:魚人の土地〕 
 に当る。
 
 マガンは
 パキスタンのインダス河口より西方一帯である。
 
 ティルムンは現在のバーレン島をさす。
 
 このメルッハから輸入された物品名のリストが
 他の粘土板に同じく楔型文字で記されている。
 
 それには以下のようにある。
 
  黒檀、牛、孔雀、紅玉
  
  金、銀、ラビスラズリ
 
  錫、象牙、猿、鶏
 
 ソロモン王がタルシシュ船で輸入した品々は
 全てこのリストに含まれている。
 
 因みに
 紅玉とはルビー、ラビスラズリは青い石類で
 アフガニスタンの北方山地からからしか産出しない。
 
 孔雀だが生棲していた原産地はアジアのみである。
 
 「ヤクジャク」は中国南部からマレー、
 インドシナ、ジャワが分布地であった。
 
 また、
 サルゴン大王、ソロモン王が入手し得たのは
 インドのものでインド亜大陸とスリランカに
 しかいない。
 
 あのアショカ王が建てたマウリア王朝名は
 「孔雀王朝」との由来である。
 
  ここで
 日本語に「白檀」「黒檀」と表記されている用語を
 メソポタミアのシュメール、アッカドの時代の
 言葉で検討してみる。
 
 W.F.Leemans の 
 Forein Trade in the Old Babylonian Period 
 〔Studia ET Document, Vol. VI〕において
 ウル〔ペルシャ湾に近い古代の都市名〕から
 発見された粘土板に刻まれた楔形文字文の中に
 gis-melluh〔メルッハの木材〕 
 gis-mes-melluh〔メルッハの mes 木材〕
 との記述がある。
 
 ここに表現された木材〔gis〕は
 前述した説明で理解できるように
 インド方面〔magan,malluha〕からの
 輸入木材である。
 
 mes 表記の記録はウル市ばかりでなく、
 同市にも近い
 ウルク Urk 市の楔形文字板からも
 見つかっている。
 
 M.W.Green Hans J.Nissen の 
 Zeichenligte der Archaischen Texte aus Uruk
 〔ウルク古代文典の文字表〕に
 gis-mes-gi-su,gis-mes-babbar,
 gis-mes-ru,gis-mes-mes などとある。
 
 この mes 表記の絵文字は長方形▭の形象で
 材木と受け取れる。
 
 しかし、
 mes が何を指しているのか上記二つの研究書は
 明らかにしていない。
 
 そこで本書の探求の結果を述べると、
 同語の本来の語義は「東方の」あるいは
 「東国」である。
 
 その東国とはメルッハ、マガンに当る。
 
 その前者の研究書〔ウル市の〕が紹介している
 gis-mes-ha-lu-ub-maganna の haluub には
 インダス文明の遺跡と知られる
 「ハラッパ」名が想像される。
 
 この「東国」の語義が木材名へと転嫁され、
 インド亜大陸特有のしかも貴重な「檀」を
 指すことになったのである。
 
 上記ウルクの用語を解釈すると
 以下のようになる。
 
  gis-mes-gi-su〔木材-檀-黒〕長い黒檀
  gis-mes-babbar〔木材-檀-白い〕白檀
  gis-mes-ru〔木材-檀-香り〕香檀
  gis-mes-mes〔木材-檀-東方の〕東方の檀
  gis-mes-pes〔木材-檀-大きい〕大きな檀
 
  黒檀はインド西部とスリランカが原産地である。
 
 白檀に至っては
 インドシナとインドネシア地域にしかない。
 
 「アムルグ」のサンスクリット語における
 発音の類似語は alam-kāra で
 「装飾、装飾物、荘叢、叢飾」を語義とする。
 
 サンスクリット語の「檀」材の用語は
 malaya で特に白檀を指す。
 
 インド亜大陸南面の端に近い Malabar 名や
 マレーシアのマレー半島名になっている。
 
 なお日本などにおいて「旃檀」との通称があるが、
 これはサンスクリット語 candan〔檀木〕を
 音写して漢字表記したものである。
 
  このように分析すると、
 「列王記」第九章二八がいう
 「オフィル AVFYR」はインド亜大陸から
 東南アジア地方ということが確実である。
 
 インド西部には同名に近似した
 マルワ文化〔紀元前一七〇〇~一四〇〇〕と
 同時代の金属併用文化の遺跡名もある。
 
 パキスタンに近いジャスタン南東部の
 ウダイプール市の東方三キロメートルにある
 アハール Ochar 遺跡である。
 
 同地はインダス河中流で
 メルッハとマガンの地の中間にある。
 
 またサンスクリット語の 
 ahar は「日、昼」の語義ながら
 「太陽信仰」あるいは「火信仰」に係わっている。
 
 「列王記」がいう AVFYR(オフィル)は明白に
 現在いうところのアフリカではなく
 「インド」を言った呼称である。
 
 メソポタミアは
 紀元前の二〇〇〇年も前に
 東方インド亜大陸との間で
 盛んに交易を行っていたのであり、
 ましてやソロモン王の時代〔紀元前一〇世紀〕
 イブル人たちはフェニキア人〔ヒラム〕の
 協力を得たが、紅海からアラビア海を経て
 東方との交易路を開発し
 インドへ至っていたのであり、
 その東西交流の実在に疑いはない。
 
  インド亜大陸の南西端に広がる
 ケララ KeRaLa 州とは
 「イブル人の共同体 KhLL」が語源であろう。
 
 紀元前のうちにイブル人たちは 
 ムディリス〔胡椒の語義〕という貿易港を建て
 彼らの居留地とし、更に
 東方インド洋方面への活躍の基地にしたのである。
 
 一四、一五世紀の西欧の航海時代、
 香辛料の胡椒貿易を牛耳ったのは
 このイブル人であり、
 二一世紀に入った今日においても
 三十万人からのイブル人たちが
 そこで活躍している。
 
  ≪参考≫
 タルシシュ船団
 
 DNA調査ポイントの青写真
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 


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