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(四) 魏志倭人伝の伊都国の背景〔イトの語義と由来〕 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (四) 魏志倭人伝の伊都国の背景
             〔イトの語義と由来〕  
    
  「伊都国」とは
 魏志倭人伝に記載された国名である。
 
 本書第二章「(五)伊都国」で述べた国である。
 
 前節「(六)」
 
 『旧約聖書』「イザヤ書」の
 「地の果ての島々」に
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。
 
  「伊都」名は
 『日本書紀』仲哀天皇八年に
 「伊覩」と表記されて登場している。
 
 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 
 
 「~そこで五十迹手をお褒めになられて
  『伊蘇志』と仰せられた。
  そこで時の人は
  五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。
  いま伊覩というのは訛ったものである。」
 
  この「五十迹手」とある「イソトテ」は 
 IShT-YT〔差し出す・手〕で
 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。
 
 次の「伊蘇志」は「イソシ」で 
 IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、
 ここでは「栄光、誉れ」の語義で
 「栄誉なことだ」となる。
 
 また
 「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は 
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、
 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。
 
 このように解釈してくると
 「伊覩・伊都」の「イト」は、
 離散したヘブライ人が各地に形成した
 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。
 
 しかし、
 その背景には
 ヘブライ人たちの重要な民族の由来を
 保証するための祈りがある。
 
 つまり、
 IDH と表音が近似する YD があり、
 それは「記念物、記念碑」にして
 「証拠」「証左」が語義であることに係わる。
 
 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、
 その物語はかなり込み入っているので略記する。
 
 本当に詳しい事件の内容は
 次の第四部第一章で述べる。
 
  この「記念物」は
 ヘブライ人の人々がエジプトを脱出し
 カナアン地方などへ入植した後、
 
 その十二部族のうち
 ガド族、マナセ族、ルベン族が
 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、
 他の支族等と争いになりそうになったが、
 最終的にはヨシュアを中心とする
 他の部族が誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに
 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、
 ガド族等は
 それは紀元前八世紀のアッシリアへの捕囚や
 その後の放浪の間も
 彼らの象徴として保持しつづけ、
 「地の果て」のまでもたらし、
 時として石塚〔岩倉・岩山〕を
 造営したのである。
 
 その記念物は彼等の最高に貴重な、
 しかし
 隠し通さなければならないものであった。
 
  「ヨシュア記」
  
  第二二章一〇 ルベンとガドの人々および
   マナセの半部族はカナンの土地にある
   ヨルダン川のゲリロトに着いたとき、
   そこに一つの祭壇を築いた。
   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第二二章三四 それでルベン族とガド族は
   その祭壇を
   「まことにこれは私たちの間で主が神で
    あるという証拠だ」と呼んだ。
   (日本聖書協会)
 
 この「証拠」あるいはミルトス社版が
 「証人」としているヘブライ語が ID である。
 
 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ
 「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、
 特にヘブライの十二部族のうちの
 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては
 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の
 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。
 
 「祭壇」人がノミを入れた彫み石で
 組まれたものでない、
 自然の石を積み上げた石塚であった。
 
 倭人伝の伊都国の当該地が
 現福岡県の糸島市だとはすでに述べた。
 
 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に
 宮地嶽神社が鎮座しているが、
 その神殿の基壇は石組されたもので
 「石塚」を踏襲しているといってよい。
 
 因みに
 「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で
 「最高のもの」「最良のもの」を表し、
 「証拠」に係るものが
 その昔奉祭されていたと解釈できる。
 
  これらが証明するところは
 「伊都国」がヘブライ人たちの
 「居留地」だったということである。
 
 前市名であった
 「マエバル:前原」は MIBRA の音写で
 「渡し場」つまり「港」を表し、
 ヘブライ系海洋貿易商船が
 船付けした所となる。
 
 古代紀元前後の頃は
 玄界灘からの加布里湾が
 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、
 湾内は波も静かで
 船溜りとして適しい状況であった。
 
  和歌山県の(現)橋本市辺りは
 紀伊国の「伊都郡」であるが、
 郡内にある町名「九度山」は
 そのような山(岳)名もないことからしても
 「クドヤマ」は
 ヘブライ語の KDYM の音写で
 「東の、東方の」の語義である。
 
 つまり
 当地が「東の伊都」との表れで、
 九州の伊都の勢力が
 東方へ伸張してきたことを示している。
 
  ≪参考≫
 
 日本創世記
 
 第二章 魏書倭人伝の諸国地理
 
 「(五)伊都国」
 
  現在の福岡県糸島市の地が中心で、
 奈良時代に「恰土」と表記された地である。
 
 ここは紀元前二世紀頃から
 「絹」を求めて渡来した
 ヘブライ商人たちの居留地である。
 
 更に倭人章は続けて
 「東南至奴國~有二萬餘戸」とある。
 
M.K記

 連絡先:090-2485-7908


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