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第十四章 牛頭と鹿頭:諏訪大社の「御頭」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:諏訪大社の「御頭」
  第12章では
 「三輪氏」をなぜ「神氏」と表記するのか
 触れなかったが、
 その理由が本章で明らかになる。
 
 また
 大国主命の別称にある
 八千矛神あるいは葦原志許男神に
 ついての解釈をここで行う。
 
 さらに
 メソポタミアを起源とする
 祭官「祝」と祝祭に欠かせない
 牡牛が鹿になっている。
 
 その経緯を推察し、
 諏訪神の性格と出雲との関係を明らかにする。
 
 諏訪大社上社の祭事のうち、
 最も重要な行事は
 例年4月15日に行われる御頭祭である。
 
 同祭は上社前宮の吹き通しの建物十間廊で
 開催されるが、
 その最大の特徴は
 鹿頭が神饌と共に供えられることである。
 
 江戸時代の紀行家菅江真澄の
 「すわのうみ」には、
 75の鹿頭が
 そこには供犠されていたと書かれている。
 
 それらを俎上に載せて供えるのが
 古式であったという。
 
 同社の祖神である
 漏矢神社第12でも触れたが「鹿」を表わす。
 
 サンスクリット語の 
 mṛja がその祖語で、
 「森を歩き回る」を意味し、
 その同類語 mṛga は「森の獣」で
 特に「鹿」を表わす。
 
 長野県の諏訪郡に接する
 伊那郡名は ena(enea) の音写で
 同じく「鹿」の意味である。
 
 日本武尊の東征の際、
 神奈川県の足柄辺りや信濃で白鹿を
 退治したとの物語が語られているが、
 
 これらは
 東国の古代にあった鹿に対する
 信仰者の集団の象徴で、
 洩矢神の影響があった人々と
 考えることができる。
 
 御頭祭には「諏訪大明神画詞」が
 
 「禽獣ノ高モリ魚類ノ調味、美ヲ尽ス」
 
 と述べており、
 
 鹿頭のほか、江戸時代の史料によれば、
 猪頭のほか、鶴・雁の頭、鯉などの
 水産物が供えられたが、
 特に鹿肉も大量に供犠された。
 
 同社には「鹿食免」御幣や
 「鹿食箸」があり鹿との係わりが深い。
 
 諏訪神社の神職は「風の祝」と
 宣伝されたように祝の官として
 よく知られた。
 
 「ハフリ」ないし「ホフリ」は
 
 メソポタミアを起源とする祭官であった。
 
 その旧石器時代のムレイビト遺跡や
 新石器時代のケルメで、
 デレ遺跡、ネムリク遺跡に
 牛頭(牡牛の角)を掲げた
 痕跡が残っており、
 アナトリアのチャタル・フユク遺跡からは
 大量の牛頭の像型が発見された。
 
 それらを基盤として牛頭(牛角)が
 シュメルなどのメソポタミアの
 ペルシャ湾岸に近い文明
 (エリドゥなど)に影響を
 与えたばかりでなく、
 
 ヨーロッパへも波及し、
 クレタ、ケルト、ゲルマンの祖語
 (シュメル語で galam-am:野牡牛の階段<角>)
 であるとの考察を本書は展開した。
 
 「ハフリ」は
 メソポタミアから東方へも伝授され、
 インドのバラモン教の祝祭に
 重要な役割を負っており、
 ヴァーダ(教典)の初期の支配的最高神
 インドラ神は「牡牛」である。
 
 そして日本においても、
 古代に牛祝祭が盛んに
 行われていた事実あり、
 保食神や登由宇気神の「ウケ」は
 サンスクリット語の転訛による
 牡牛がその語源で
 「神饌」に
 その意味が転換されていることを
 紹介した。
 
 奈良時代末から平安時代のかけ
 牛馬を屠殺する祝祭は
 時の政府により
 禁止された様子も紹介したが、
 諏訪大社は牛を鹿に換えて
 その祝祭(御射山祭)の
 伝統を守っていたのである。
 
 洩矢神を祖神として奉祭する
 守矢氏の家紋は
 
 「丸に十字㊉」で
 シュメルでは羊にその初源を持つが
 「牧者」を意味する象形で文字で、
 楔形文字としても使われ、
 メソポタミアからの伝統を
 継承したものと考えられる。
 
 同社には後に述べるように「ミナ」に絡む
 メソポタミアの影がある。
 
 洩矢神の表徴であるミシャクジ神は、
 御社宮司などと表記されるが、
 その祖語は
 サンスクリット語のシャクティ śakti で
 シヴァ神の女性的側面を表わす用語である。
 
 その表れが神妃デーヴィである。
 
 ミシャクジ神は
 立石と立木で祀られている事例が多いが、
 これは『古事記』に語られる
 大山津見神(シヴァ神)の姫神である
 磐之比売命と木花咲耶比売命
 との対に相応し、
 リンガ(陽石)と
 シャクティを表わしているのである。
 
 シャクティ神信仰は信濃まで
 伊勢など南方太平洋側から
 入って来たものである。
 
 社宮司などその信仰の分布が
 長野県南部から東海地方に
 集中していることがその理由となる。
 
 シヴァ神の美称の一つに
 パシュパティ paśupati があり、
 「家畜の主」の意味である。
 
 実際は人間を家畜とみて
 人を導く神の意義ではあるが、
 獣類の王としての象徴でもある。
 
 なぜならば、
 シヴァ神の祖像を
 インダス文明の印章にみられる
 牛頭の神に習合させた見方があるからで、
 
 シヴァ像とは
 牛角がその額に刻まれていることが多い。
 
 いずれにしても「牧者」である。
 
 シヴァ神は
 ヴェーダ時代のインドラ神(牡牛)に
 遅れてヒンドゥ教の最高神の一に
 上がった支配的神であった。
 
 「モリヤ」は
 「森の獣」を表わし信濃の南から入ってきた。
 
 これに対し、
 諏訪大社の現在の主祭神
 建御名方神は信濃の北方から
 入って来た神である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908


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第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇
  倭人伝は「狗奴国の男王卑弥弓呼」と記す。
 
 「卑弥」は「卑弥呼」と同じで「ヒミ」で、
 「呼」も同様「コ」とするが、
 「弓」は漢語で gong であるので
 「ヒミクコ」ないし「ヒミキュウコ」となる。
 
 この卑弥弓呼名を
 日本の資料に発見することができた。
 
 磯城郡川西町唐院に鎮座する
 比売久波神社がそれであが、
 諸資料に祭神名が記されているものの
 実際のところ不詳である。
 
 同社の祭事は「奉幣神事」といい、
 例年10月18、9日に
 奉幣お渡りの儀式を行う。
 
 御幣がその中心に据えられた祭儀で
 「きぬ祭」である。
 
 同社の東側隣り
 島ノ山古墳の出土品のうちに
 車輪石がある。
 
 石製の楕円板で
 櫛山古墳の円盤(腕輪)と同様
 放射状に波打つように
 浮彫りが施されているが、
 中央の穴が小さく石製部分が幅広い。
 
 そのため車輪に似ていることから
 名付けられている。
 
 同古墳は古墳時代中期の初め
 5世紀前半の造成と推測されており、
 櫛山古墳よりは150年程
 後になることからすると、
 この車輪石は円盤の変形したもので
 比売久波神社の
 「御幣」であったと考えられる。
 
 その出土品は
 石製刀子、勾玉、菅玉など祭祀性が強い。
 
 同様の車輪石は
 奈良市佐紀町の日葉酢媛陵とされる
 佐紀陵山古墳からも三個出土している。
 
 日葉酢媛命は垂仁天皇の皇妃で、
 同古墳の造成時期は
 4世紀末から5世紀初めに想定され、
 島ノ山古墳と同時代である。
 
 同陵近くには
 歌姫町の添御縣坐神社が鎮座する。
 
 添は曾布、
 繒で「幣」のことであった。
 
 延喜式神名帳は
 比売久波神社の訓に「ヒメクハ」と共に
 「ヒメカミ」に左書きしている。
 
 「クハ」は
 サンスクリット語の kubha(kumbha) で
 「壺、甕、瓶」を意味するが、
 その同類語 kumbhi は
 さらに「鍋」を表わすので、
 これが「カミ」であろう。
 
 それらの説明は
 大阪府寝屋川市秦町の細屋神社を紹介した
 
 第12章「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 と同じであるが、
 「久波」は「細」なのである。
 
 「比売」は「黄金」を表わす 
 heme の音写である。
 
 鍋は 
 kata-cckha あるいは 
 kata-cchu と表記される
 「爐」の意味を持つ。
 
 ラテン語の 
 cācabus(釜) と同類である。
 
 Heme-cckha が
 「比売久波」「卑弥弓呼」の祖語で
 「金(属)‐釜」で「溶鉱炉」あるいは鍛冶炉を
 表現したものと考える。
 
 比売久波神社の鎮座する
 町名「川西」は加西、高市と同祖で
 「王侯、王座」であるが、
 これは狗奴国の官名
 「狗古智卑狗」の原語で
 「高市彦」でもあると考える。
 
 卑弥弓呼は王名である。
 
 単に金属用語ではない。
 「木‐」名の多くが十市郡にあったが、
 「久波」の名を持つ
 細比売(くわひめ)命
 
『古事記』は
 十市縣主の祖大目の女で
 第8代孝霊天皇の皇后となった。
 
 この孝霊天皇こそ卑弥弓呼である。
 
 同天皇の宮殿は廬戸宮といい、
 磯城郡田原本町黒田にあったとされ、
 そこに孝霊神社が鎮座し、
 比売久波神社からは
 そう遠くないところである。
 
 「廬戸」は
 「墓側のいほりの戸」と
 奇妙な内容を含む。
 
 前出の比売久波神社の東側に
 島ノ山古墳は
 5世紀の前半の造成とされる古墳で
 3世紀中頃の孝霊天皇あるいは
 卑弥弓呼とは関係ないが、
 
 『記・紀』の宮殿名が
 『記・紀』編纂の頃
 名づけられたとしるならば
 この「墓側のいほりの戸」は生きてくる。
 
 戸は門である。
 
 その宮殿のあったという
 黒田の東南は宮古地区である。
 
 かっては「都」とも表記されたが、
 史料にみられる最古の表記は
 宮子(鎌倉時代)で、
 宮子は「クコ、キュウコ」でもあり、
 「弓呼」に通じる。
 
 廬は
 「草や木を結んだりして
  作った粗末な家」の意味だが、
 ドイツ語の「編み細工」を表わす
 zain には「鋳込み」「地金」、 
 zainer は鍛冶工と金属業に
 係わる語義がふくまれるので、
 この用語も「金属工」の意味で
 付けられたのではないかとも推測される。
 
 廬戸にそれぞれ
 「金」を付加えると「鑪炉」で
 炉、鈩(たたら)となり、
 溶鉱炉の意味となる。
 
 この地域は鏡作神社や富都神社(富本)、
 都留伎神社(川西町結崎)があり、
 唐古鍵遺跡など
 金属業の中心地であったとみられる。
 
 孝霊天皇の兄に
 大吉備諸進命、
 意富夜麻登玖邇阿礼比売命との間に
 大吉備津日子命、蠅伊呂杼との間に
 若日子建日子建吉備津日子命と
 「吉備」名があるが、
 
 これは
 サンスクリット語の 
 kvath (煮汁、精<エキス>)の転写である。
 
 動詞 
 kvathabe は
 「熱する、沸く、沸かす、煮る」であり、
 金属業の釜あるいは炉に係わる用語である。
 
 倭人伝には
 
  「倭の女王卑弥呼はもとから
  狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であったので、
  倭の戴斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  戦っている様子を報告した」
 
 とあり、
 卑弥呼と戦争状態のあったことを示す。
 
 『古事記』の孝霊天皇の条には
 
  「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、
  二柱相副ひて針間の氷河の前に
  忌瓮を居えて、
  針間を道の口と爲て
  吉備を言向け和したまひき」
 
 とあるように配下を西方へ派遣し
 勢力を拡大している様子がみられ、
 これは卑弥呼との戦争を内容とする
 記録と考えられる。
 
 第12章「大国主神の奉祭氏族(1)磯城氏」
 でみた様に
 前者は「吉備上つ道臣の祖」で、
 後者は「吉備下つ道臣、笠臣の祖」となった。
 
 このほか日子寝間命が
  「針間の牛鹿臣の祖」、
 
 日子刺肩別命が
  「高志の利波臣、豊国の国前臣、 
  五百原君、角鹿の海直の祖」
 
 とあり、
 
 豊国の国前臣と九州へも
 その勢力が及んだ様子を窺わせており、
 九州を勢力圏とする
 卑弥呼の邪馬臺国と対峙する状況が
 見え隠れする。
 
 大吉備津日子命の別称を
 比古伊勢理毘古命
 (『日本書紀』五十狭芹彦命)という。
 
 「伊佐」は isa で「支配者」、
 「勢理」は saila で、
 須勢理毘売命と同じく「繭」をいう。
 
 伊佐勢理 isa-saila は
 「繭の支配者」となる。
 
 第16章 
 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰
 「絹と地名分布」で
 吉備を kṛni の指摘するが、
 事実吉備国が
 絹糸の産地であると共に鉄の生産地でもあり、
 「長船」のような刀鍛冶の地でもあった。
 
 大吉備津日子命の二つの名称は
 それを表わしている。
 kvath, kṛni はその訓音が近似しており、
 双方が融合して
 「キビ」 となったと考えられる。
 
 孝霊天皇の御陵は「片岡の馬坂の上」とあり、
 現在の北葛城郡王子町本町にある。
 
 同天皇の活動の本拠が
 大和盆地の北西地域であったことを示す。
 
 卑弥弓呼、孝霊天皇の時代は
 倭人伝の記すとおり、
 3世紀中葉(正始8年、247年)であり、
 まだ大古墳が造られ以前である。
 
 第9代開化天皇の御陵まで
 各天皇の御陵に記されている墳丘は
 いずれも前方後円墳ではない。
 
 箸塚を卑弥呼の大塚とするのは
 不自然なことである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:狗奴国② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々

 第5章「旧約聖書」創世記の
 「ヤハウェ神とモーセ」で
 説明した
 「出エジプト記」第12章に
 主ヤハウェがモーセに向って告げる
 正月には各家ごとに
 小羊を一頭取らなければならないとし、
 
 「イスラエルの会衆は皆夕暮れにこれを屠り、
  その血を取り、
  小羊を食する家の入口の二つの柱と鴨居に
  それを塗らなければならない。
  そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、
  種入れぬパンと若菜を添えて食べなければ
  ならない」
 
 とある事情に合致する。
 
 ヤハウェの示す力には
 インドラ神と同じ影がある。
 
 モーセは
 エジプトの王の前で持っていた杖を投げると
 蛇になった。
 
 また、
 その杖で水に触れるとエジプトの水という水が
 全て赤い血の色となり飲めなくなった。
 
 赤い御幣を玄関入口に立てるというのは
 ユダヤ教の仕方である。
 
 ヤーダヴァ族である登美族が
 メソポタミアから受け継いできた
 宗教的慣習であろう。
 
 赤御幣の形は「雷光、稲妻」を
 模したものとみられる。
 
 他の神社では白紙で作られるが、
 その形はやはり同様の稲妻状である。
 
 つまり赤御幣は
 インドラ神の武器である金剛杵(vajura)の
 象徴で倭族の伝統「帛」と習合したものである。
 
 ヴァジュラは本来棒または
 槌で「杵(きね)」であった。
 
 「杵」はエローラ石密第四窟に浮彫りされた
 「ドウルガー女神像」では「棍棒」となっている。
 
 ヤーダヴァ族である登美族の信仰に係わる
 考古学的資料を指摘しておく。
 
 4世紀末期の造成とされる
 櫛山古墳(天理市柳本町)は
 崇神天皇陵(行燈山古墳)の陪塚で、
 双方中円墳で
 祭祀が行われた跡を残している。
 
 この古墳の構造で後方部の表面に
 赤い砂層が敷き詰められている様子は
 赤御幣と同じく赤に対する
 こだわりの表れである。
 
 砂も大神神社の
 「清めの砂」に関連していそうある。
 
 その発掘された遺留品がの中に
 石製の「腕輪」と判断されているものがある。
 
 その面には放射状に波打つ装飾が見られる。
 
 これは腕輪ではなく円盤である。
 
 同古墳の周濠から江戸時代に出土したと
 伝えられる銅板にも
 円盤状の紋様が施されており、
 その主旨を同じくするものと考えられる。
 
 大神神社の山ノ神祭祀遺跡の遺物の中にも
 「双孔円板」が数百枚含まれていた。
 
 この円板も円盤とすることができるだろう。
 
 その数の多さは目立っている。
 
 円盤はインドの神、
 ヴィシュヌ神の武器として知られている。
 
 ヤーダヴァ族のクリシュナは大叙事詩
 マハーバーラタ
 (サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)
 においてヴィシュヌ神の権化とされ、
 後のヒンズゥ教の聖典プラーナにおいては
 その性格が一層強くなり、
 ヤーダヴァ族に
 ヴィシュヌ神との関係がみられる。
 
 同神はすでにリグ・ヴェーダ
 
 「(ऋग्वेद Rigveda)は、
  古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。
   サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語
  (英語: Vedic Sanskrit)で書かれている。
 
  全10 巻で、
    1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。」
 
 にその神名がみられ、
 インドラ神のよき協力者である。
 
 その讃歌には
 インドラ神が牡牛として現れるのに対し、
 牡牛を神獣とする。
 
 その同名は太陽の光輝を神格化したもので、
 クリシュナの別称が
 ヴァースデ・ヴァ vāsudeva で
 その父が
 ヴァースデーヴァ vāsudeva 
 の子という意味を持つが、
 そのvāsが
 「夜が白んで明るくなる」
 「夜明けに輝く」の語義を持っていて、
 
 ヴィシュヌ
 (英: Vishnu, Viṣṇu, 
  デーヴァナーガリー:विष्णु)は、
 ヒンドゥー教の神である。
 
 仏教名は「毘紐天」、「韋紐天」、
 あるいは「那羅延天」。
 
 音写語としては
 「微瑟紐」、「毘瑟怒」などもある。
 
 そしてそれは、
 天照大神の祖像と説いた
 ウシャス神名にも係わり、
 大神神社に関連する。
 
 さらに
 インドラ神の協力者であることも
 その係わりの強さを示す。
 
 円盤は
 太陽光の放射を表徴させたものであると
 考えられる。
 
 櫛山古墳まどから出土した円盤は
 ヤーダヴァ族(登美族など)の系譜の
 遺品であることに相違あるまい。
 
 この「円板」はいわゆる
 「御諸」を表わしているのかもしれない。
 
 インドラ神は雷神で
 積雲 mih(migh)-māla の神であり、
 それは同神の首輪(花輪)である。
 
 御諸が「環」であることは前章で述べた。
 そうすると
 円盤が大物主神の象徴であると理解される。
 
 ただし「双孔」であることに疑念は残る。
 
 そこで別の面から解釈を述べておきたい。
 
 奈良市の北部は
 平安時代は添上郡添下郡であった。
 
 この「添」由来を「繒」にあると考える。
 
 延喜式神名帳の添下郡に
 「添御縣坐神社大」が載る。
 
 現在二つの否定社があり、
 奈良市歌姫町の同名社及び
 奈良市三碓(みつがらす)の同名社である。
 
 延喜式祈年祭の「
 御県神官祭祝詞」に次のようにある。
 
  御県に坐す皇神等の前に曰さく
  高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布と
  御名は白して、
  此の六御県に生り出づる
  甘菜、辛菜を持ち参ゐり来て、
  皇御孫の命の長御膳の遠御膳と
  聞こしめすが故に、
  皇御孫の命の宇豆(うづ)の幣帛を
  称辞意へ奉(まつ)らくと宣る。
 
 この祝詞で添郡を「曾布」と表記しており、
 それは「繒」である。
 
 そして後段に述べられる「幣帛」でもある。
 
 「添県」は「きぬの県」なのである。
 
※本生図と踊子像のある石柱
<天鈿女命>
イメージ 1
 
 
※有孔円盤「双孔円板」と勾玉

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:狗奴国① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々
 
  狗奴国について「倭伝」は
 「(女王国と)同じ倭の種族なのであるが、
  女王に属していない。」
 
 と述べる。
 
 また「倭人伝」は
 
 「狗奴国があり、男子が王となっている。
  その官に狗古智卑狗がおり、 
  この国は女王に服属していない。」
 
 と述べ、
 正始8年(247年)には次のような記述がある。
 
 東洋文庫「東アジア民族史」より転載する。
 
  〔帯方郡の〕太守(長官)王頎が
  新たに任官されると、
  倭の女王卑弥呼は、
  もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と
  不和であったので、
  倭の載斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  〔狗奴国と〕戦っている様子を報告した。
 
 これらの記録だけが考察の材料である。
 
 「狗奴国」の訓み方は「狗」が
 漢語では gou であり、
 「奴」は奴国を「ナとする限りにおいて」
 na (漢語 nu)で、
 gou-nau となり「クナ」と訓める。
 
 この「クナ」は
 サンスクリット語の 
 gnā の転訛で
 「女神」に依るものと考える。
 
 奴国が nau (船)国、
 末廬国が madhura 
 (甘いもの、蜜)国であるから、
 サンスクリット語の地名であっても
 不思議ではない。
 
 gnā は「女神」であるが、
 また神妃で
 「巫覡(ふげき)」となって
 「巫女(かんなぎ)」を
 いうものである。
 
 「巫覡」は邪馬臺国の卑弥呼、
 大神神社の勢陀多良比売命など
 紀元2~4世紀には
 その祭政時代を担う重要な役目を
 果たしていた。
 
 そのような状況を明らかにしているのが
 佐賀県三養基郡三田川町の
 吉野ヶ里遺跡である。
 
 遺跡のうちからは
 祭祀の遺構が発掘されている。
 
 この地域は遺跡の東方に
 目違原の地名があるように
 「和名類聚抄」の肥前国三根郡米多郷内である。
 
 「米多」はその訓みを「女多」と記入されている。
 
 「メタ」は
 サンスクリット語の「祝祭」を意味する
 medha に由来する。
 
 奈良県大和郡山市稗田町に鎮座する
 売多神社名に通ずる。
 
 同社は『古事記』の編纂を担った
 語部の性格を持つ稗田阿礼を祀り、
 延喜式神名帳大和国添上郡に載る神社である。
 
 阿礼の祖神は天鈿女命である。
 
 同女神の実態については
 第1章祝祭で詳しく述べた。
 
 同女神は祝であったが、
 『古事記』の天の石屋戸の場面で
 「神懸かり為て」とあることからまた
 巫覡であることが解かる。
 
 その踊子の姿は巫女舞いである。
 「売多」を神名帳は「ヒメタ」と訓ませているが、
 これは天鈿女命の性格から「メタ」である。
 
 舞踊を
 サンスクリット語で 
 tandava ということは
 第1章などで紹介したが、
 その転訛された地名を持つのが
 吉野ヶ里遺跡の地籍「田手」である。
 
 その地名は遺跡のすぐ南に鎮座する
 田手神社に依るだろう。
 
 同社の現祭神は
 撞賢木叢之御魂疎向津媛命で
 天照大神であることは
 前章で明らかにしたところであるが、
 天鈿女命は天照大神の
 隠れた天の石屋戸の前で踊った。
 
 つまり
 その御前を祀る女神で、
 大宮能女神であり、
 豊宇気毘売神(登由宇気神)であることが
 本書の考察でみえてきた。
 
 伊勢市の伊勢神宮の周辺に
 夫婦関係にある猿田彦神社は在っても
 天鈿女命をその名で祭る神社はない。
 
 つまり
 豊受大神宮(外宮)こそが
 天鈿女命の鎮座地にして
 天照大神への奉祭神なのである。
 
 京都市伏見区の稲荷大社には
 猿田彦大神、大宮能売大神と
 揃って祀られている。
 
 田手神社の本来の祭神は
 同じ女神ではあるが、
 天疎向津媛命ではなく、
 踊子の語義からして
 天鈿女命であったはずである。
 
 その変更は
 神功皇后の半島遠征に纏わると推測される。
 
 田手の直ぐ西側神埼町神崎に鎮座する
 櫛田宮は
 福岡市博多区上川端町の
 櫛田神社と関係し、
 神功皇后の奉祭伝承を持つ。
 
 「吉野」は「キー」で「クナ」と訓音が近く
 巫覡、狗奴と同根語と考えられる。
 
 だが、ここは狗奴国ではない。
 
 「女王に支配されている領域の
  国々の内の弥奴国」である。
 
 「ミナ」は
 サンスクリット語の 
 menê の音写で「女、婦人」を意味する。
 
 弥奴は
 後世の三根郡名や上峰町名の祖語である。
 
 「吉野(キー)」が 
 gnā である巫覡の別名であることが解かったが、
 吉野を地名とする地域は処々にみられる。
 
 そしてそれらの一つが
 狗奴国の遺称地と考えられ、
 その一所が
 所在地として追求されなければならない。
 
 倭人伝の記録された時代(紀元3世紀)には
 各地に巫覡がいたのであろう。
 
 「キー(吉野)」名の地名を追ってみた。
 
 ○福岡県鞍手町、小竹町「吉野」
 
 ○福岡県大牟田市吉野
 
 ○熊本県荒尾市宮内(クナイ)
 
 ○熊本県下益城郡南町吉野(吉野山、築地)、
  築地は「チク地」だが、「キネ地」とみられる。
  隣りには舞原がある。
 
 ○熊本県菊地市木野、鹿本郡菊鹿町木野、
  和名類聚抄の菊地郡城野郷
 
 ○鹿児島県鹿児島市吉野
 
 ○岡山県東部吉野川(地名に吉野郷)
 
 ○徳島県板野郡吉野町(吉野川)
 
 ○奈良県吉野郡
  (吉野町、東吉野町など13町村、五条市)、
  大台ケ原を水源とし
  吉野郡を流れ下る吉野川は
  和歌山県に入って紀ノ川と改称される。
 
 以上が古代に「キノ」があったとみられる
 遺称地であるが、
 九州の西部、南部にその所在地があり、
 近畿地方には大きな吉野の地域がある。
 
 このうちのどこかということになるが、
 やはり
 奈良県の吉野郡から大和盆地と
 考えざるを得ない。
 狗奴国は邪馬臺国であるからには
 かなり広大な地域を傘下に置く大国である。
 邪馬臺国を奴国(福岡市)に連なる
 九州の域内とすることを前提とし、
 倭国伝の
 「女王国から東へ渡ること千余里」は
 その重要な判断資料である。
 吉野郡は「キノ」で、
 吉野川の流れる五条市の和歌山県境に
 木ノ原の地名がある。
 木原(きのはら)町、
 天香具山の西側の木之本に通じる。
 大和高田市磯野町名も「キノ」である。
 更に平安時代の資料によると
 十市郡のうちに喜荘(きのしょう)があった。
 その遺称地はないが、
 桜井市粟殿内の
 小字名「木之庄」の比定にされている。
 粟殿に「キノ」があることは興味深い。
 「キノ」は巫覡(ぶげき)であるが、 
 大神神社は巫女の神社であることは
 『記・紀』の伝承始め多くが語られている。
 三輪山信仰が
 太初における祭政の中心であった状況は
 第12章で詳しく見てきたところである。
 「きぬ」は
 今でも大神神社の隠れた信奉の象徴である。
 
 それは「赤御幣」である。
 「幣」は「ヘイ」だが、また「キヌ」でもある。
 「説文」に「幣、帛也」とあり、
 幣帛(みてくら)とも表わされる。
 帛は絹布であるが、
 「丹書して神を祠るきぬ」であり、
 またの名を「繒」という。
 その元祖を
 第9章中国の祝祭と皇帝「中国の祝祭」で
 三星堆遺跡の祭祀に関係して説明した。
 倭族の古来の伝統が
 三輪山では生きているのである。
 この赤(丹)色の御幣は災難よけを主旨に
 大神神の憑り代として
 参拝者に授けられている。
 御幣は信奉者各家の入口に立てられ、
 玄関から禍事災難を入らせないという。
 家の入口に赤いものを立てるのは
 メソポタミアを発祥地とする
 ヘブライ人の慣習でもある。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々
 
  ここでは
 これまでに参考にしてきた
 「後漢書倭伝」
 「三国志魏書倭人伝」に登場する
 諸国のうち一部を
 解説して纏めることとする。 
 
 そのうちの狗奴国については
 少々詳しく考察してみる。
 
 まず「倭人伝」に従い、
 魏から倭に渡行する
 途次の国と倭の国々についてみる。
 
 (1)狗邪韓国
 
 韓半島の南端の国で、
 帯方郡より海路七千余利里。
 
 狗邪は「姑射と偎人」で述べた。
 
 現在の釜山地方である。
 
 (2)対馬国
 
 狗邪韓国から海路千余里。
 
 現在の長崎県の対馬であり、
 その語義は「馬韓に対面する」である。
 
 (3)一大国
 
 対馬国より南へ海を渡り千余里。
 
 現在の長崎県壱岐。
 
 (4)末廬国
 
 一大国から海を渡り千余里。
 
 現在の佐賀県・長崎県に広がる
 松浦郡のうち、具体的な場所は定かでない。
 
 しかし、
 「マツラ」は 
 第1章祝祭
 「淀姫と佐保佐神社」などで述べたが
 サンスクリット語の 
 madhura (甘いもの、密) が
 祖語である。
 
 (5)伊都国
   
 末廬国から東南に五百里。
 
 現在の糸島郡。
 
 (6)奴国
  
 伊都国から東南に百里。
 
 現在の福岡市博多の地域。
 
 「奴」の祖語は
 サンスクリット語の「船」を表わす 
 nau である。
 
 第16章のユダヤ人と月氏や
 第10章天毒とセリカで触れた。
 
 (7)不弥国
 
 奴国から東に百里。
 
 現在の福岡県宗像郡福間がその比定地。
 
 (8)投間国
 
 不弥国から水行二十日。
 
 現在の宮崎県児湯郡都農町、
 日向市の南部。
 
 第12章大国主神と大物主神
 「大国主神の奉祭氏族(4)都農神社」で述べた
 「藤見」がその遺称だが、
 その官名「弥弥」から
 日向市の美々津町まで含む広い地域。
 
 (9)邪馬臺国 
 
 投間国から「南に進み」、
 水行十日、陸行一ヶ月かかるとあるが、
 水行陸行の時間的配分は不明瞭。
 
 不弥国から投間国まで水行二十日とすると、
 その方向と時間の推量から
 鹿児島県地方となるが、
 
 実際は
 「水行一ヶ月、陸行十日」
 であった可能性もある。
 
 (10)女王に支配されている領域、
    二十カ国及び奴国
 
 これらの国も九州の域内と考える。
 
 (11)狗奴国
 
 「魏書倭人伝」は「その南に狗奴国があり」と、
 女王の支配している領域に位置していると
 記しているが、
 時代的に魏より前の時代の史書ではあるが、
 「魏書」により纏めたものとの見解のあ
 「後漢書倭伝」には
 「女王国から東へ渡ること
  千余里で拘奴国に至る」とある。
 狗奴、拘奴と異字になっているが、
 同じ国と解釈される。
 
 この「倭伝」の情報を
 より正確なものとすれば
 狗奴国瀬戸内海を東進して
 千余里の近畿地方となる。
 
 魏書にも
 
  「女王国の東、
   海を渡ること千余里のかなたに、 
   また国がある。
   いずれも倭種の国である」と
 
 後段に述べ、
 その国名を明らかにしていない。
 
 後漢書の表記とほとんど同じで、
 この国が「狗奴国」と解釈することができる。
 
 
M.K記
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