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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏》
  
  紀氏に連なる僧が宇佐八幡宮を
 なぜ勧請したかについての推測であるが、
 和歌山市宮地区の
 鳴神社、堅真音神社などは
 雷神である
 インドラ神を祭っていたとの説明をしたが、
 このインドラ神は空界の代表の神であるが、
 その「空」を神名としているのが
 ディヤウス神で、
 その娘がウーシャス神である。
 
 リグ・ヴェーダに詩われた讃歌に
 神の娘(天の娘)と呼びかけられる。
 
 紀氏名は kha の音写で
 「天空、空虚」を表わすと述べられたが、
 ディヤウス Dyaus も
 「大空・虚空」などであり同義である。
 
 宇佐神宮の祭神が
 ウーシャス ūsas で、
 その子がアシュヴィン āsvin 双神であり、
 紀氏はインドの同じ系譜の神々を
 奉祭することとなり統一がとれる。
 
 インドラ神の系統については
 第8章のうちの
 「インドの神々」で紹介してある。
 
 また「八幡神」についても
 第五章のうちの
 「ノアの系図(1)ヤペテの子孫」で触れたが、
 宇佐宮は本来上記の
 ウーシャス神、アシュヴィン双神の
 三神が主祭神であったが、
 後に
 誉田別命、息長帯比売命を祀ることにより、
 八幡宮(avatāna 権化/ヤペテ)
 となったのである。
 
 そのため宇佐八幡宮祭殿の
 中央には比咩大神、
 左右に田別命、息長帯比売命と主祭神が
 脇殿に鎮座しているという
 一見不可解な配置になっているのである。
 
 宇佐神宮の社殿の壁が
 朱塗りされているのは、
 ウーシャス神が曙神であることから
 その暁の陽色を表現しているからである。
 
 岩清水八幡宮から
 平成3年になって神像八体が発見された。
 そのうちに
 女神坐像二体、
 童形神坐像が五体あった。
 
 女神像はウーシャス神を、
 童形神像は製作年代がばらばらで
 双神の構成にはなっていないが、
 宇佐八幡宮にもあるように
 アシュヴィン双神(童子)を表わし、
 宇佐神宮の古層の信仰が
 踏襲されていた証である。
 
 石清水八幡宮の祭事は
 毎年9月15日に催される
 「石清水祭」がある。
 その時の神饌として食膳と共に
 12台の「御花神饌」が供えられる。
 
 「松・藤・つつじ・鳩」
 「梅・福寿草・うぐいす」
 「桜・山吹・蝶」など
 四季の花樹と動物・鳥・昆虫が
 それぞれにあしらわれたものである。
 
 この花に対する特徴的行いも
 これまで述べてきた
 「花山」の概念の波及であろう。
 
 そして「石清水」と「石」を
 符していることにも通じる。
 
 伏見稲荷大社の祭神のうちに
 現在、田中大神があるが、
 石清水八幡宮の奉祀家
 田中家との関係を想起させる。
 
 伏見区御香宮前町に鎮座する
 御香宮神社にも境内には湧水があり、
 「御香水」と呼ばれている。
 
 現在の社地は
 伏見桃山城の築城のため
 遷されたところだが、
 泉がある所が選ばれており
 「井」に対するこだわりがある。
 
 神社名は
 この「香水」に依るものと
 解釈されているが
 「香」は
 奈良市御蓋山南麓紀伊神社のある地を
 香山と称したと同じく 
 kha (天空)の音写で
 紀氏を表わしており、
 同氏族が往古奉祀していたとみられる。
 
 つまり、
 石清水社と同じ理由である。
 貞観4年に清泉が湧き出て
 病人たちが飲む回癒したとの
 伝聞が朝廷に聞こえ、
 「御香宮」の社号を賜ったという
 伝承の根底には「聖水」信仰がある。
 
 伏見区深草鳥居崎町に
 藤森(ふじのもり)神社が鎮座している。
 
 「藤森」は「藤杜」あるいは「藤社」であった。
 
 この神殿の相殿に「藤尾社」があり、
 社伝に依ると、同社の前身であったという。
 
 藤尾は現在の稲荷大社のある地の古名で、
 その地主神が「藤尾社」または
 「藤野井社」であった。
 
 稲荷大社が盛んになる以前の神格が
 藤尾社であったことをうかがわせるが、
 これも紀氏の信仰が
 深く係わっていると考えられる。
 
 「藤尾(ふじお)」はまた「フジピ」で、
 そのサンスクリット語の 
 puṣpa で「花」を意味し、
 sūna と同義である。
 
 稲荷大社の西方の一帯は「砂川」で
 かっての藤尾郷の地帯である。
 
 藤尾名は山科の花山など
 紀氏の「花」と深く係わる用語である。
 
 さらに「伏見」名も
 この藤尾 puṣpa に由来している。
 
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏)➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]









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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏》
  
  京都市伏見区は『和名類聚抄』がいう
 「紀伊郡」の地である。
 
 史料における初見は日本書紀「欽明天皇」条に
 「天皇幼き時、夢に人有りて云う」。
 
 『天皇が秦大津父(はたのおおつち)という者を
  寵愛されれば、
  壮大に及んで必ず天下を有(あ)らされる』。
 
 「寐(ねさ)鷩めて使いを遣わして
  普(あまね)く求めると、
  山背国の紀郡の深草里にて
  (その人を)得た」
 
 とある。
 
 ここに
 秦氏が存在したことを示す史料でもあるが、
 「紀郡」の名称は紀氏の存在を推測させる。
 
 「紀」は紀氏の氏姓に由来するものだろうか。
 
 東隣の山科には
 紀氏の影響のあった証が十分であった。
 
 山城国における紀氏の存在は、
 伏見区の西南に位置する八幡市に鎮座する
 岩清水八幡宮の奉祭氏族が
 紀氏であることによって知られる。
 
 「岩清水八幡宮護国寺略記」によると、
 紀氏の一族である
 南都大安寺(奈良)の僧行教が
 貞観5年(863年)に
 宇佐八幡宮の祭神を移座したという。
 
 行教が宇佐宮に参着中
 
 「都の近くに移座し国家を鎮座せよ」
 
 との信託を受け、
 山崎辺りまでやってきた時、
 また
 
 「移座するところは岩清水男山の峰なり」
 
 との託宣を受けたものと伝える。
 
 しかし、
 本当のところは
 ここが紀氏の勢力にあった痕と考えられる。
 
 八幡宮が遷座される以前に
 既に現在同社の摂社となっている
 岩清水社があったとみられる。
 
 なぜならば、
 岩清水社には
 今でも清水が湧き出る泉(井)があって
 神聖視されていたからと考えられる。
 
 和歌山市の紀氏の本拠である宮地区には、
 「出水(でみず)」または堅真神社の「堅」、
 その東側の和佐地区名は「井」であることなど
 「水」に係わる地名が多い。
 
 この「水」こそ「岩清水」に相応し、
 鎮座する山名「男山」の原義である。
 
 「オトコ」は
 サンスクリット語の「水」を意味する
 udaka の転訛で、
 その意義には
 「聖水を供えること、浄水」があり、
 「男山」の本義は「聖水山」となる。
 
 八幡宮のうちには
 水分社、水若宮社、灌頂堂など
 「水」に係わる神徳が備えられている。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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