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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:海洋交易商人へ  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:海洋交易商人へ
 
   さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を
 知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に
 加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、
 その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島から
 インド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人たちに知られるようになった。
 
 この航海方法は、
 すでに
 古くからインドの商人には
 知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から
 太平洋海域の海路については
 インドの商人は
 かなりの知識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての
 情報はインド商人によるものとみられる。
 
 記録を残させない
 彼等の習慣から史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のために
 ギリシャ商人など西方の者には
 正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
 インドには
 紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabhā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、
 必要な資材を買った。
 
 組合員の間でカースト(階級制度)は
 全く無視されたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
 そのような海外交易商人を 
 vanika という。
 
 彼等の活躍した地域に残るのが
 ワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのも
 このワニで、
 動物のワニに例えられたのは
 商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀
 ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンプール辺りに
 船を並べて渡った記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
 中央アジアからアラビア海へ活路を見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、
 まず、
 その基地を置いたとところが
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 1980年代初めには
 十万人のユダヤ人がすんでおり、
 現在もその状況は変わらず
 コショウなど香料の市場を掌握している。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意する 
 alp を語幹とする Alleppey 、
 水を意味する 
 nus(nis) を基にしている Mattancher 、 
 また、
 アッシリア時代からアナトリアに展開した
 植民都市につけられた 
 kulam 名を持つ
 Ernakulam と 
 Kayan Kulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには
 紀元前から後二、三世紀頃まで
 ムジリス Muziris 名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し、
 居住地を広げたものと考えられる。
 
 インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 
 彼等の史跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前後にはすでに日本へと
 渡来していたと考えられる。
 
 漢書に「奴」と記され
 「漢委奴国王」名の金印を
 授かった奴国は彼等の停泊地で、
 
 その国名は
 サンスクリット語の船を表す 
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に
 月支国も成立させた。
 
 それが韓(馬韓)であり、
 後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。
 
 インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 ヘブライ人の古代日本における
 拠点の一つは
 「魏志」に記載されている
 「伊都国」と考える。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 
 世界各地に散った
 「(イスラエル)の記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が
 福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西、前原市にある。
 
 絹産業の専門家に成長していた
 大月氏大商人集団は、
 推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り
 商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと
 考えられるのである。
 
 その停泊地が韓半島では半島の西側、
 『日本書紀』雄略天皇紀に載る
 倉下(へすおと)(クルジャ)で、
 現在の群山から鐘山方面、
 百済の首都であった
 扶余の南方面とみられる。
 
 現在倉下に当たるような
 地名は見当たらないが、
 『三国史記』地理に
 「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、
 同地であったかもしれない。
 
 海洋商人となった集団が
 大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは
 難しい疑問だが、
 五翕候のうちの
 クシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと
 考える方が自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は
 日本に移動した後の氏族名
 ハタ(秦)氏と同名なので最有力ではある。
 
 クシャン王朝は
 四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルや
 グプタ王朝のため消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンである
 ラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く、
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔であったとも考えられるが、
 現在の判断では
 彼らを中央アジアからやって来た
 正体の知れない民族とされている。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:クシャン王朝 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:
クシャン王朝
 
   大月氏国の五翕候時代は40年余り続くが、
 紀元前20年頃から
 五翕候のうちの
 貴霜のギリシャ名ヘラウスが
 統一行動を始める。
 
 そして紀元後45年に
 他の翕候国を圧えて
 グジコラ・カドフィセスにより
 クシャナ王朝が成立する。
 
 カドフィセスの王朝は
 その子
 ウーマ(カドフィセス二世)の時代
 144年まで続き、
 その後やはり于闐出身の
 カニシカ王が
 その王権の座につき支配王族が交替する。
 
 カドフィセスの王朝が富み盛えたことが
 インドの仏典により知られる。
 
 中村元の「インド古代史」によると
 
 「クシャーナ帝国の財力は
  ローマとの貿易によって
  蓄積されたことも
  相当大きかったに違いない」
 
 とし、
 その実情を次のように述べる。
 
  クシャーナ族が
  西北インドを支配した時代になると、
  ローマとの交通が活発になり、
  商業活動が盛んになった。
 
  当時水路の旅行は
  盛んに行われたらしい。
 
  陸路の旅行は困難であるが、
  水路の旅行は安易であるということが、
  当時の仏典にも盛んに強調されている。
 
  この時代には
  インドからローマに輸出された
  莫大な奢侈品と交換に、
  ローマから多くの金が大量に移入された。
 
  クシャーナ帝国の商人は
  ローマとの交易を開き、
  絹・香料・宝石・染料などを売って
  ローマの黄金を獲得した。
 
  プリニウスの伝えるところによると、
  その当時は
  毎年五千万 sesterius の金を
  ローマから持ち去ったが、
  それに対して送ってよこした商品は
  原価の百倍で売られたという。
 
  そして
 
  「このローマの金の大量移入を
   可能ならしめた発端は、
   先グジャラがローマと使節を
   派遣したことに
   求められるべきであろう」
 
 とする。
 
 このようにタリム盆地を通じて
 玉・絹の交易路を成立し、
 それまでペルシャから
 小アジア方面への交易網を
 活用していたが、
 後には海路による大量輸送へと
 転換をはかることとなる。
 
 中央アジアと地中海沿岸に
 パルチア国があったことにより
 事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による
 効果的な交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 遮断された状態が恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 90年には
 クシャン王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も
 漢の史料ではクシャン王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 
 大月氏が
 東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞をせざるを得なかった。
 
 この間の事情について
 インドの歴史家
 R・S・シャルマは
 次のように解説する。
 
  絹は、
  中国からアフガニスタン北部と
  イランを通る
  「絹の道」によって、
  インドを経ずにローマに送られた。
 
  しかし、
  パルティア人がイランと
  その近隣地域を支配すると、
  その交易は難しくなったため、
  絹はインドの西北部を通って
  西海岸の港へ運ばれるように変わった。
 
  また、
  中国からインドの東海岸を経て
  西海岸へ運ばれることもあった。
 
 このように
 インドとローマ帝国の間には
 絹の中継貿易が
 かなりおこなわれたのである。
 
 この時期
 インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄が加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメルの時代から銅やや錫、
 木材をペルシャ湾に送った
 インド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからは
 ガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は大量の金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 80ヶ所以上で発見されているが、
 その全てが
 ヴィンダャ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易を
 開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、
 南インドの物産と
 それより東方の海路から
 もたらされた物産を
 取り扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を努めたことになる。
 
 ローマの貨幣は
 ベトナムのメコン川のデルタでも
 発見されている。
 
 カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのが
 カニシカ王の勢力で、
 武力により北はソクディアナから
 南はインドの中心ガンジス河下流へと
 進出し、
 サルフート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで
 支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)
 であろうとしたが、
 彼自身はあくまで
 月種(月神崇拝者)だとして
 変えることができなかったという。
 
 その祖族がヘブライ人である
 拘泥がみられる。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月をあしらったものがみられる。
 
 ローマの金貨が
 ヴィンダャ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が
 大量に移入された」、
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とは言っていない。
 
 また、
 第二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために
 使ったとの理由があげられる。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:大月氏国の成立 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:大月氏国の成立
 
   紀元前177年頃、
 匈奴の冒頓単于(ぼくとうぜんう)に敗れた
 月氏は紀元前176年には
 一部は安定に残留した(小月氏)ものの
 他の部族は西遷を始めた。
 
 彼等は天山北方のイリ(伊犂) に
 弓月城を築いて一時滞在したが、
 さらに西方に移動し、
 張騫の派遣された139年までには
 西トハリスタン、
 ソグディアナ、
 バクトリアに地歩を固め、
 140年には
 大月氏国を成立させたとみられている。
 
 移動したものを小月氏という。
 
 これにより以前
 マケドニアのアレキサンダー大王が
 東方への大遠征を行い、
 バクトリア、ソグディアナまで到着し、
 325年頃インダス河を下って
 アラビア海へ出て
 ペルシャのペルセポリスまで引上げた。
 
 彼(アレキサンダー大王)が
 紀元前323年に突然死去すると、
 帝国は分裂し、
 この地方はセレウコスの王朝となるが、
 その勢いが衰え、
 この地方にはバクトリア国が、
 大王に率いられて渡来し残留していた
 ギリシャ人たちによって独立成立した。
 
 ヘレニズムの東端の国といわれている。
 
 同国も
 北方のスキタイ人などの圧力に押されて
 次第にヒンズークシ山脈の南へ
 内部分裂と紛争を繰り返しながら
 移っていく。
 
 この北方からの勢力の中に
 月氏の勢力もあったといわれ、
 その間に覇権をまとめ上げたのが
 大月氏国であった。
 
 ソグディアナが
 彼等の故地であったとすれば、
 帰還ということになる。
 
 紀元前140年頃からの
 支配体制についての詳細は
 よく解らないが、
 その首都が中国名、
 藍氏(jian-ti)城で、
 バクトリアの域内にあったとされる。
 
 紀元前65年には
 五王国に分裂されたことが
 中国の史料にみられる。
 
 『漢書』によると、
 その五王国は
 
 ①休蜜翕候(きゅうみつきゅうこう)
 ②雙靡翕候(そうひきゅうこう)
 ③貴霜翕候(きしゃんきゅうこう)
 ④肦頭翕候(はんとうきゅうこう)
 ⑤高附翕候(こうふきゅうこう)
 
 である。
 
 翕候は王のような職位を表す。
 
 そのうちの高附は
 喀布爾(かふじ)とも表記された
 現在のアフガニスタンのカブールであり、
 
 貴霜はタリム盆地の南西、
 ギリシャ語でクスターナといわれた、
 
 現在の和田(ホータン)である
 于闐(うてん)の地であり、
 
 後に貴霜は他の王国を統一して
 インド亜大陸へも勢力を伸張し、
 仏教の擁護者
 カニシカ王を誕むこととなる。
 
 この于闐の地は
 古来玉石の産地として繁栄したのであるが、
 クシャン国もその天恵に浴した。
 
 玉は角閃石の一種で同地には
 白玉河、
 緑玉河、
 黒玉河があって
 産量の豊富であったことを示している。
 
 玉石は中国において殷の時代より
 
 圭(けい)、
 璋(しょう)、
 璧(へき)と
 
 王権の権威を象徴するのに
 用いられ尊重された。
 
 漢の時代になってもその需要は高く、
 大量に輸出されたらしい。
 その状況は唐宋の時代まで続く。
 
 その見返りとして
 漢からは絹が輸出された。
 
 このことから
 シルクロード(これは現代の命名)は
 確立されることになったのである。
 
 大月氏国にもたらされた絹が
 さらに西方に輸出されたことは間違いない。
 
 東方の漢にとって
 大月氏は「玉の民族」であり、
 西方の国にとっては
 「絹の民族」という見方も
 ここでは成り立つ。
 
 地中海沿岸のフェニキアは
 古来織物産業の活発な土地であり、
 ヘブライの地でも
 そのような技術を修得しており、
 メディアなどに移動させられてから
 6百年を過ごした後とはいえ、
 日常の衣服を生産するなどして
 技術を保持していた
 技工たちはいたに違いない。
 
 彼等が絹の専門技術者あるいは
 商人として成長したと考えられる。
 
 というのも、
 五翕候の内、
 言及していない三翕候名は
 サンスクリット語で解釈すると
 養蚕業に係わる名称であるからである。
 
 当時インドの言葉は
 仏教の伝播などと共に
 この地方へも広がっていたから
 不自然ではない。
 
 「休蜜」は krmi で
 「昆虫、虫」の意味で、
 
 ここでは「かいこ」
 つまり蚕のことである。
 
 「雙靡」は
 蚕の蛹(さなぎ)ことでサビであり、
 「肦頭」は patta で絹を意味する。
 
 貴霜についてもその語幹が kaşa で
 サンスクリット語の「草」であるが、
 書き残されたなかには
 ギリシャ語の korsano 、
 あるいは
 カニシカ王の貨幣に刻まれた
 košano の場合もあるので
 繭を表す koša を
 祖語とした部族名であった可能性もある。
 
 「後漢書西域伝」は
 高所の代りに都蜜を
 五部族のうちに記している。
 
 この語は dāma で
 「紐、縄、綵、帯」であるが、
 その意味するところは
 tanu 「紐、細線、糸」で
 繊維をいうものであろう。
 
 Tan-tu-vana は繊維を表す。
 
 以上のように
 大月氏の部族名は
 絹産業を基礎にした
 技術集団と考えられるのである。
 
 このころから
 西方のローマを初めとする
 地中海地方では
 セレスという
 絹を表す貴重な織物と糸が
 普及し始めるのである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:メディアから安定へ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:メディアから安定へ
 
   ヘブライ人が
 月氏に本当になったのかについて
 考察してみたい。
 
 まず、
 ソグディアナ Sogdiana についてである。
 
 この地名がヘブライ語で解釈した場合
 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘は
 すでになされている。
 
 Shoykhet(Shokhtim) 
 がそれに相当する用語であるが、
 「儀式のための屠殺」が本義である。
 
 その祖語はシュメル語の sukud-e-en
  「神を高くする」に想定してよいだろう。
 
 Sukud は
 メソポタミアの高床式神殿で
 検討した用語である。
 
 この語は神域を表す 
 suk 、 sug と関連し、
 ソクディアナ名の語幹と考えられる。
 
 烈王紀下は
 「高き所を建てたの」で
 サマリアは取られたと述べており、
 ヘブライ人がそのままの信仰を
 ここに持って来たとしてもおかしくない。
 
 そのサマリア名をつけたのが
 ソグディアナの中心都市
 サマルカンドであると考えることもできる。
 
 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、
 その象徴は牡牛である。
 
 サマルカンド近郊の町キシュ Kish は
 ヘブライ語で「牡牛の」の意味の 
 kiish によるだろう。
 
 ソクディアナには牡牛に係わる地名が
 よくみられる。
 
 そこを流れる川の名称
 アム Amu はシュメル語で野牛である。
 
 後世オクサス óxus となるが、
 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。
 
 サマルカンドとキシュの間の町
 マイムルク Maimurg は
 セム語で三日月を表す。
 
 13世紀から14世紀にかけて
 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを
 支配においたイスラムの
 マメルク Mameluku 朝名と同義である。
 
 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を
 行っていた可能性があり、
 その担い手がサマリアから移動させられた
 メディア周辺にいたヘブライ人で、
 メディア国の拡大の時期に
 中央アジアまで
 さらに移動したのではないかと
 推測される。
 
 ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、
 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、
 同山脈の東端を回ると
 トルファン(高咼)へと出る。
 
 ここにはベゼクリクの町があった。
 
 この町名も
 ヘブライ人の残した名称とみられる。
 
 Bezeklik の beze- は
 ベツレヘム Bethlehem の beth で
 家を表す。
 
 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。
 
 Klik は
 ヘブライ語の kirkh で、
 ドイツ語の kirche 、
 英語の church と同語である。
 
 キリスト教の場合には、
 教会、寺院であるが、
 その内容は
 「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは
 「信徒」を意味する。
 
 さらにその原義は
 「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。
 
 よって、 
 Bezeklik も「神殿」のことである。
 
 現在中国名胜金台という町がここにある。
 
 Śheng-jin-taù は Singer あるいは
 Sinagug の転訛とみられ、
 ベズクリクと同じ神殿の字義である。
 
 月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)
 との間にいたと史記大宛列伝はいう。
 
 同列伝は紀元前139年に
 前漢の武帝が
 張騫を西域の大月氏に向けて派遣した事情と
 西域・中央アジアの状況を
 報告したものである。
 
 月氏について中国の史料には
 和氏、禹氏、牛氏などと表記される。
 
 「漢書地理志」で
 月氏道の名を載せた安定は
 現在の安西、安北、安南(新疆区)が
 その遺称で
 甘粛省の西の端にあり、
 敦煌を中心とする。
 
 そのまた西南の外れに現在、
 阿克塞阿哈薩克(アクサイ・カザフ)族
 自治県があるが、
 その都市名が博罗轉井である。
 
 同市名を中国語読みすると、
 Pak-luo-zhuan-jing となるが、
 
 これはパリサイで
 英語の pharisee 、
 ドイツ語のPharisäer であり、
 キリスト教の時代に
 
 「内面的戒律よりも
  外面的規則を重要視した
  ユダヤの政治宗教的一団」
 
 の名に対応するもので、
 ヘブライ語と解釈できるのである。
 
 ここにおけるその銘名は、
 そのような宗教的立場の表明ではなく、
 その原義が
 「離れている者」であることから、
 遠く原郷のイスラエルを
 離れているとの意味に解釈できる。
 
 民族名は中国語の訓音では 
 A-ke-Sak-Ha-sa-Ke となる。
 
 Hasaka 哈薩克は
 カザフ Kazakh 族のことである。
 
 その母体はウィグル族で、
 九世紀にモンゴルの東部にいたが
 契丹に追われて西遷し、
 一部がこの地方に定住し
 遊牧から農業へと生活の形態を変えた。
 
 彼等をウィグル・カザフ族といい、
 後に単に
 カザフ族といわれるようになった。
 
 カザフ名は
 この地方で付けられるたものである。
 
 カザフ Kazakh は
 本来どのような意味なのか。
 
 その意味は「牧夫」と推測される。
 
 シュメル語の kuś (牧夫) も思い出すが、
 阿克塞 Ahesak を oxas 、
 ドイツ語の Ochs (牡牛) 
 とするのは間違いない。
 
 中国史料が月氏を牛氏といった。
 
 哈薩克 Hasake (Kazakh) は、
 ドイツ語の Hächer (捕史) 
 動詞形 haschee (捕らえる)か、
 hashie ren (肉を刻む) 
 Haschee (刻み肉) に
 対応すると考えられる。
 
 前者は牧夫を想起させ、
 後者は
 第4章中の「ゲルマン」で論じた
 ゲルマン人の故郷
 西イランの Kāshān の名称、
 ユダヤ教の教義に
 適っているとの意義である
 「清浄」を表す kosher と関係する。 
 
 Hasake (ドイツ語の Hasche) は
 レビ記の
 
 「燔祭の獣の皮を剥ぎ、
    節々に切り分けなければならない」
 
 に対応するよう用語で
  祝祭を行うものたちの意味となる。
 
 祝(ハフリ)の原郷、
 現在のシリア東部ハブール川の上流にある
 エル・ハサカ El.Hazeke にも表されている。
 
 阿克塞哈薩克族とは
 「牛飼い族」あるいは
 「牛祝・祭族」となる。
 
 カザフは牧夫の意味に相当する。
 
 パリサイ(博罗轉井)名と
 この族名を考慮すれば
 月氏(ヘブライ人)の影響が
 あったことによると
 考えてもよいと思われる。
 
 禺氏も牡牛を表す 
 gu によるものであろう。
 
 周辺には、
 大革、
 長革のつく地名があり、
 牧畜に適した高原であることを
 印象づけている。
 
 「失われた十支族」といわれる
 ヘブライ人が
 この地方にいたと
 指摘できる資料が
 ヘブライの資料にもある。
 
 それは『旧約聖書』にもその名前のある
 「エズラ第四書」という
 ヘブライ語の資料である。
 
 そこにアルザレ Arzare という地方名が
 
 「彼等が最後まで住んだ」
 
 地として記されている。
 
 そこは、
 ユーフラテス川を越えて
 一年半の長い道のりを
 要するところだといっている。
 
 アルザレは、
 安定あるいは安価の訓音に近い。
 
 また、
 博罗轉井の南西方に
 5,798メートルの高さの
 阿尓金山及びその名称の山脈があるが、
 これは、
 ウィグル語の
 「黄金」を表す altun を
 漢語化した名称とみられるが、
 「アルタン」もまたアルザレに近似する。
 
 しかも
 アルザレ、アルタンは
 セム語(アッカド語)の同じく
 「黄金」を意味する
 hurasu を祖語とするとみられるものである。
 
 和氏については事情がある。
 
 月氏が渡来する以前、
 ここは和氏の郷であった。
 
 『史記』五帝本紀堯帝の
 「和仲に命じて、西土に居らしむ。
  
  昧谷(まいこく)と曰ふ。
  敬(つつし)みて日の入るを導(みちび)き、
  西戎を便程す」
 とあることと係わるからである。
 
 和仲は和氏の次子の意味で、
 西土は三危(さんき)とも呼ばれた。
 
 同じ堯帝条に
 
 「三苗を三危に遷(うつ)し、
  以って西戎に変じ」
 
  とあり、
 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な
 莫高窟のある三危山にその名を遺す。
 
 西土は西戎の地である。
 
 和氏はまた夏氏であり、
 月氏が西遷して移り住んだ地を
 大夏(バクトリア)というのは
  これに依るものである。
 
 夏は史記にも「夏本紀」があるが、
 殷より古い王朝とも考えられる。
 
 以前には空想の王国とされていたが、
 最近は考古学的資料が
  夏の実在を証明するようになり、
 今では
 中国の最初期の王朝名として
  認められるようになっている。
 
 堯帝により和氏の一部が
  移転させられた理由により
 そこの住民を和氏と称したのである。
 
 第九章中国の祝祭と皇帝で述べる
 和氏が
 米作りと養蚕業に優れていたとすると、
 月氏は
  彼等より
 絹についての知識・情報を得たのである。
 
 月氏が絹商人へと
 変化していくきっかけである。
 
 敦煌の北方、新彊区内に哈蜜市がある。
 
 この町は和氏が建てた町と考えられる。
 
 雲南省の少数民族に
 哈尼(はに)族がいる。
 
 彼等は古くは
 「和夷(ほい)」
 「和蜜(ほまん)」
 「和泥(ほに)」などとも呼ばれ、
 史記に載る和氏の一族と考えられる。
 
 哈尼族ばかりでないが、
 雲南の民族は紡織・織布に優れ、
 色彩豊かで個性的な織物は
  歌垣(かがい)という祭礼で
 人々が着る衣裳のすばらしさで
 よく知られている。
 
 手工業は農閑期の母親に
 手ほどきを受けて伝統の継承者となる。
 
 彼等の祖先は
 もっと北方の四川省方面にいた人々と
  考えられている。
 
 四川省は蚕(蜀)で
 古来栄えた地方である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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