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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:クシャン王朝 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:
クシャン王朝
 
   大月氏国の五翕候時代は40年余り続くが、
 紀元前20年頃から
 五翕候のうちの
 貴霜のギリシャ名ヘラウスが
 統一行動を始める。
 
 そして紀元後45年に
 他の翕候国を圧えて
 グジコラ・カドフィセスにより
 クシャナ王朝が成立する。
 
 カドフィセスの王朝は
 その子
 ウーマ(カドフィセス二世)の時代
 144年まで続き、
 その後やはり于闐出身の
 カニシカ王が
 その王権の座につき支配王族が交替する。
 
 カドフィセスの王朝が富み盛えたことが
 インドの仏典により知られる。
 
 中村元の「インド古代史」によると
 
 「クシャーナ帝国の財力は
  ローマとの貿易によって
  蓄積されたことも
  相当大きかったに違いない」
 
 とし、
 その実情を次のように述べる。
 
  クシャーナ族が
  西北インドを支配した時代になると、
  ローマとの交通が活発になり、
  商業活動が盛んになった。
 
  当時水路の旅行は
  盛んに行われたらしい。
 
  陸路の旅行は困難であるが、
  水路の旅行は安易であるということが、
  当時の仏典にも盛んに強調されている。
 
  この時代には
  インドからローマに輸出された
  莫大な奢侈品と交換に、
  ローマから多くの金が大量に移入された。
 
  クシャーナ帝国の商人は
  ローマとの交易を開き、
  絹・香料・宝石・染料などを売って
  ローマの黄金を獲得した。
 
  プリニウスの伝えるところによると、
  その当時は
  毎年五千万 sesterius の金を
  ローマから持ち去ったが、
  それに対して送ってよこした商品は
  原価の百倍で売られたという。
 
  そして
 
  「このローマの金の大量移入を
   可能ならしめた発端は、
   先グジャラがローマと使節を
   派遣したことに
   求められるべきであろう」
 
 とする。
 
 このようにタリム盆地を通じて
 玉・絹の交易路を成立し、
 それまでペルシャから
 小アジア方面への交易網を
 活用していたが、
 後には海路による大量輸送へと
 転換をはかることとなる。
 
 中央アジアと地中海沿岸に
 パルチア国があったことにより
 事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による
 効果的な交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 遮断された状態が恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 90年には
 クシャン王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も
 漢の史料ではクシャン王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 
 大月氏が
 東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞をせざるを得なかった。
 
 この間の事情について
 インドの歴史家
 R・S・シャルマは
 次のように解説する。
 
  絹は、
  中国からアフガニスタン北部と
  イランを通る
  「絹の道」によって、
  インドを経ずにローマに送られた。
 
  しかし、
  パルティア人がイランと
  その近隣地域を支配すると、
  その交易は難しくなったため、
  絹はインドの西北部を通って
  西海岸の港へ運ばれるように変わった。
 
  また、
  中国からインドの東海岸を経て
  西海岸へ運ばれることもあった。
 
 このように
 インドとローマ帝国の間には
 絹の中継貿易が
 かなりおこなわれたのである。
 
 この時期
 インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄が加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメルの時代から銅やや錫、
 木材をペルシャ湾に送った
 インド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからは
 ガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は大量の金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 80ヶ所以上で発見されているが、
 その全てが
 ヴィンダャ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易を
 開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、
 南インドの物産と
 それより東方の海路から
 もたらされた物産を
 取り扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を努めたことになる。
 
 ローマの貨幣は
 ベトナムのメコン川のデルタでも
 発見されている。
 
 カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのが
 カニシカ王の勢力で、
 武力により北はソクディアナから
 南はインドの中心ガンジス河下流へと
 進出し、
 サルフート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで
 支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)
 であろうとしたが、
 彼自身はあくまで
 月種(月神崇拝者)だとして
 変えることができなかったという。
 
 その祖族がヘブライ人である
 拘泥がみられる。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月をあしらったものがみられる。
 
 ローマの金貨が
 ヴィンダャ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が
 大量に移入された」、
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とは言っていない。
 
 また、
 第二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために
 使ったとの理由があげられる。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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