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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:絹と地名分布 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:絹と地名分布
 
  休蜜が 本当に「亀カメ」になったのか
 との疑問も湧くだろうが、
 実際はそれどころではない。
 
 亀は元より「神」ともなっている。
 
 事実「カイコ」は
  神格化され篤く祀られているのである。
 
 以下は
  秦氏の勢力が及んだ所だけではないけれど、
 その絹に係わる用語が
 どのように及んでいるのかを示す
  地名などの展開である。
 
 広島県の東端に神石郡があり、
 現在も神石町など三町に含まれている。
 
 『和名類聚抄』に
 備後国神石郡と載るので
 吉備国のうちである。
 
 この郡内にかって亀石村があった。
 それが現在の神石町である。
 
 また同郡内に来見(くるみ)村があった。
 
 この村名は
 サンスクリット語の虫を表す 
 kṛmi によるもので、
 木蜜 kiumi の祖語であり、
 亀・神が虫を表わしていることが解る。
 
 石は同県内の世羅郡の名になっている
 サンスクリット語の 
 śaila (石)を取り入れたもので
 繭玉の比喩名なのであり、
 神石(亀石)は「蚕の繭」を意味する。
 
 第10章の「天毒とセリカ」で
 説明した用語である。
 
 『古事記』で
 大国主命の后となる
 須勢理毘売命(すせりひめみこと)は 
 sur-śaila の転移で
 「白い石」または「輝く石」で
 繭玉を名としたものである。
 
 神石郡は備後国、
 つまり吉備国内に位置するが、
 
 『古事記』孝霊天皇の条に
 天皇の御子として
 
 「比古伊勢理毘古命
  (ひこいせりひこみこと)、
  亦の名は大吉備津日古命」
 
 とあり、
 
 『日本書紀』では
 
 「彦五十狭芹彦命、亦の名吉備津彦命」
 
 としている。
 
 伊佐勢理はサンスクリット語で
 isa-śaila 「繭支配者」の意味である。
 
 吉備は休蜜と近似する。
 
 「吉備」は第13章の
 「男王卑弥弓呼と孝霊天皇」で
 みたように「熱高炉」を表わすが、
 吉備国とは、また「養蚕国」を表わす。
 
 現在の岡山県総社市名、
 津山市の総社にある
 総社宮の「総合する」の意味で
 捉えられているが、
 そうでは全くなく、
 「説文」に
 総は「神蛇なり」と説くように蚕を表わす。
 
 総社は総蛇の転移である。
 その津山市がかって属していた
 勝田郡の勝は本来
 「螣(とう)」で「はくいむし」
 つまりこれも蚕を表わす。
 
 勝田郡と並ぶ苫(とま)田郡の
 「苫」は編んで固めたものの意味で、
 ここでは繭と理解できる。
 
 また大月氏の都密にも通ずる。
 
 苫田郡の北方に
 鳥取県の気高郡が日本海沿いにあるが、
 かっての気田郡で、
 「気多」は蚕の意味の kīta に依る。
 
 郡名の「気高」あるいは町名の
 「日高」は
 サンスクリット語の 
 kita と全く同義で
 「昆虫、虫」を表わす。
 
 Kītaka の音写であり、
 「キタ」が「蚕」であることの
 証左となっている。
 
 「延喜式」神名帳気高郡に
 幡井神社が載る。
 
 現在の青谷町絹見がその所在地である。
 
 板井神社も同様に載るが、
 双方とも 
 patta によるもので同義である。
 
 この気多より
 大穴持命を勧請したというのが
 石川県羽咋市の気多神社で、
 「ハクイ」は、
 はくいむしの「螣」である。
 
 石川県はかっての越(こし)の国で、
 奈良県明日香村越で説明したように
 サンスクリット語の 
 kosa に依拠した呼称で、
 北陸の越においても
 養蚕が盛んであったことを示している。
 
 越国には秦氏の足跡が濃厚である。
 
 福井県敦賀市にある
 気比神宮の「気比(けひ)」は
 「カイコ」の「カイ」と
 同義同根である。
 
 同社と関係のある
 敦賀半島の
 常宮(じょうみや)の常宮神社、
 西方の三方五湖の水月湖を包む
 常神半島の名称の元である
 三方町常神の常神神社は
 「常世虫(とこよむし)」を
 常神として奉祀しているものである。
 
 新撰字鏡、名義抄に
 蠋(しょく)を
 「トコヨムシ」としており、
 字義は蚕である。
 
 気比神宮の祭神に
 八百万神(やおよろずしん)坐す。
 
 この祭神が「絹蚕」を意味するのである。
 
 神宮の西方三島町に
 現在正八神社が鎮座する。
 
 神名帳の天八百萬比畔神社に
 比定できるが、
 「八神」は絹虫の意味である。
 
 「八」は京都市太秦の
 蜂岡の「ハチ」であり、
 神は木密である。
 
 八百万神の「八」も同様で「絹」、
 百万神は「百万虫」で、
 これは漢字で蚕を表わす
 「竅:ケフ」の
 「八・百・万」に依っている。
 
 「淮南子」天文訓に
 「卵生する者は八竅なり」とある。
 
 よって、
 八百万神は「絹/蚕」ということになり、
 「気比」と同義となる。
 
 気比神宮の気比を地名としているのが、
 福井県丹生郡朝日町に
 気比神社を祀る気比庄であるが、
 同地の南佐々生には
 「佐々牟志神社」があり、
 これは蚕を表わす蠶を崩したものである。
 
 蠶を
 『和名類聚抄』が「加比古」、
 『名義抄』が「かいこ」とする。
 
 因みに蚕は
 本来棕日雙「みみず」の意味である。
 
 気比庄の東側隣接地が鯖江市で、
 「サバ」は蚕の「さなぎ」を表わす。
 
 大月氏の雙靡(そうひ)と同根の名称である。
 
 市の中心鯖江の地に柳町があるが、
 柳は楊(よう)で「さなぎ」を表わす。
 
 「蛹(よう)」の転訛ある。
 
 蛹は「説文」に「繭虫」とある。
 
 柳町の隣り
 横江町もこれに依るものであろう。
 
 鯖江市の北側は福井市となるが、
 ここは「北の庄」の地である。
 
 「北」は
 足羽川の北側にあるからというのが
 通説であるが、
 南の庄という呼称は無いので
 それは妥当しない。
 
 その地域に
 堅達町、
 北野町、
 上北野、
 志比、
 四ツ井、
 四ツ居の
 地名があることから、
 昆虫ではあるが
 蚕を表わす 
 kita, kita-ja に依るものと考える。
 
 志比以下は気比の訛であろう。
 
 同地が足羽郡として成立する以前は
 「キタヤ北野」であったとみられる。
 
 板井郡金津町の北、
 北野も同様の地名である。
 
 福井県の東北に位置する勝山市にも
 北野津又、北郷町と
 蚕に由来する地名があり、
 永平寺町の志比と上志比村の志比は
 気比の訛ったものである。
 
 勝山市勝山には白山神社が鎮座している。
 
 勝山名は岡山県にも同名の町があるが、
 これも本来は
 「螣山」で「はくいむし」である
 蚕を表わす山名である。
 
 その山名が北山であり白山である。
 
 白山は「しらやま」を元名と考える。
 
 「しら」は広島県の世羅と同じく
 サンスクリット語の 
 śaila、sila (石)であり、
 繭玉の比喩名である。
 
 柳田邦夫が江戸時代になって
 「おしらさま」という
 蚕の呼称を紹介しているが、
 それと一致する。
 
 当神社について
 朝鮮半島の
 白頭山信仰が持ち込まれたとの
 見解もみられるが、
 それは蛇足であり、
 同神社の起源は
 古代の絹産業にかけた
 信仰に始まっているのである。
 
 武生市京町に
 総社大神宮が鎮座している。
 
 総社は岡山県でみたように
 神蛇である総蛇(蚕)のことである。
 
 同社の西方の大虫神社のある大虫町と
 養蚕業に係わる信仰がみられる。
 
 武生は竹生であり、
 朝日町の佐々牟志神社のある
 佐々生の佐々を竹としたもので
 
 敦賀市の笙の川の笙とも同義である。
 
 そして
 原語は蠶で
 「朁」のみを取った名称である。
 
 神名帳但馬国の気多郡に
 「気多神社」があり、
 現在の京都府城崎郡日高町上郷
 同名社である。
 
 「日高」は「気高」の訛で、
 橿原市城殿の旧名「喜」が「ヒ」で
 あったことに対応する。
 
 上郷の「上」も蚕を表わす。
 
 城崎郡には神名帳に「気比神社」が載り
 豊岡市気比宮代の同名社であろうが、
 同地には現在「絹巻神社」もあり、
 絹産業との縁(ゆか)りをみせている。
 
 八神は、
 敦賀市の気比神宮の解説で述べたが、
 「八上」も「八神」と同義である。
 
 『古事記』の大国主命の
 妻請い物語の登場する
 八上比売命(やかみひめのみこと)の
 名になっており、
 やはり「絹虫・蚕」である。
 
 八上比売命は
 現在鳥取県八頭郡河原町曳田の
 八上比売命沼神社に祀られている。
 
 旧八上村の地である。
 「曳」は「匹ひき」のことで、
 布帛など反物二反を一として
 数える単位名である。
 
 同社は神名帳の因幡国八上郡に
 売沼(ヒメヌ)神社として載る。
 
 現在の郡名八頭は
 「八上」と「智頭」の
 合併したものであるが、
 「ハットウ」で
 大月氏の翕侯名昑頭と対応し、
 これも地名の先祖帰りである。
 
 売沼神社の呼称「ヒメヌ」は
 「ヒメヌノ」の意味で
 「売布(ひめふ)」の転訛と考えられる。
 
 売布神社名の神社が、
 神名帳
 丹波国熊野郡、
 竹野郡、
 但馬国気多郡に載る。
 
 熊野郡の場合は
 久美町女布権現山もある。
 
 竹野郡の場合は
 網野町大津女布谷の
 「売布神社」である。
 
 気高郡の「売布神社」は
 (現)城崎郡日高町国保に鎮座する。
 
 この「ヒメ」とは
 絹のことで木密の転訛である。
 
 「売布ひめふ」は「絹布」のことで、
 帛(はた)を意味する。
 
 神名帳摂津国河辺郡にも
 「売布神社」
 「高売布神社」と載る。
 
 前社は兵庫県宝塚市売布山手町にあり、
 池田市綾羽の伊居太神社の西方に位置する。
 
 後社は三田市酒井に鎮座する。
 
 そして摂津国東生郡に載る
 「比売居曽神社名神大」は
 〔蚕-繭〕を意味する
 kośa の音写「古佐」の地名を持つのが
 篠山市である。
 
 市内には
 畑宮、
 奥畑、
 畑井、
 畑市、
 幡路と
 「ハタ」名が多い。
 
 畑宮の北隣りには瀬利がある。
 
 これは瀬理と同じで
 「石」である繭を表わす。
 
 また「八上」は
 八上毘売命、
 八神と同じく「蚕」を表わす。
 
 同地は
 京都府の亀岡市へ天引峠を越えて通じ、
 秦氏の関係した養蚕地とみられる。
 
 最後に姫路市であるが、
 播磨国風土記の飾磨郡「伊和里」に
 
 「蠶子落ちし處は、
  即ち日女道丘と號く」
 
 とあり、
 
 「日女道(ひめじ)」が
 「蠶子(ひめじ)」に
 依るものであると語っている。
 
 その丘は
 現在姫路城天守閣のある
 姫山であるという。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:秦氏と絹産業 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]







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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:秦氏と絹産業
 
  天満宮のある北野には
 平安時代菅原道真が祀られる以前から
 天神を祀った神社があった。
 
 そこに牛にまつわる伝承があるのは
 大酒神社の牛祭りの牛と理由を同じくする。
 
 北野は単なる
 北の野の意味ではないであろう。
 
 本来は「キタヤ」で秦氏の桑園が広がって
 養蚕業が行われていたと推測される。
 
 キタヤはサンスクリット語の 
 kitaja で絹糸を表す。
 
 神名帳葛野郡に載る
 「木嶋坐天照御魂神社並名神大」は
 右京区太秦森ヶ東町にある養蚕神社、
 通称蚕の宮で、
 この地域で
 養蚕が盛んに行われたことを物語る。
 
 大酒神社のある現在地名
 蜂岡の「ハチ」も
 ハク patta を由来とする。
 
 城陽市久世の富野(との)
 「トミ」を基とする
 月氏の翕侯名都蜜と同じく 
 dāma (糸、繊維) によるものである。
 
 京都市西京区の西隣には亀岡市で、
 「亀」は城のある亀山による呼称であるが、
 その原義は
 大月氏の五翕侯の一つ
 休蜜 kiumi と
 同じく虫である蚕を意味する。
 
 市内に繭を意味する 
 kośa による古世町もある。
 
 亀岡市は丹波国桑田郡に属していた。
 
 『日本書紀』雄略天皇紀の
 16年秋11月にある。
 
 「詔して、桑の栽培に適した国県に
  桑を植えさせた。
 
  また秦の民を割り当て移して、
  庸調を献じさせた」
 
 とある件に関連するとみられる。
 
 市内の矢田(やだ)町は
 那須与一堂があることから
 「矢」字が使われているが、
 本来は「シダ」であろう。
 
 隣の余部町に広く
 志田(しだ)があることから推測され、
 それは
 茨田神社の「シダ」を
 転訛させたものであり、
 『日本書紀』のいう
 秦氏を分散させたうちの
 一か所と考えられる。
 
 丹波の丹は丹物と
 語義を同じくするもので、
 サンスクリット語の
 「糸、繊維」を表す 
 tan/tantu 、
 動詞を 
 tan 「繊維を廣く、伸ばす」に
 由来する用語である。
 
 その丹羽国で「延喜式」神名帳に載る
 矢田神社は、
 與謝郡に「矢田部神社」(野田川町石川)、
 ここには
 
 「大虫神社名神大」
 「小虫神社名神大」
 
 があり、虫は蚕を表す。
 
 丹波郡に矢田神社(中郡峰山町矢田)、
 熊野郡にも矢田神社とある。
 
 熊野郡の矢田神社の所在地は
 久美浜町海上で、
 久美も「木蜜」に対応する名称で、
 郡名「熊野」も「久美」であり、
 蚕を意味していることになる。
 
 桑田郡には
 「桑田神社」
 「小川月神社名神大」
 「松尾神社」とあり、
 秦氏との関係を覗わせている。
 
 言うまでもなく
 「桑田」は「桑畑」のことである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:牟佐と太秦 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:牟佐と太秦 
 
   「延喜式」神名帳大和國高市郡に
 「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。
 
 この神社について本居宣長以来
 (現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。
 
 「ムサ」の地名は
 『日本書紀』の
 垂仁天皇紀に身狭桃花鳥坂、
 雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、
 欽明天皇紀の大身狭屯倉など、
 
 これまで
 身狭、
 牟狭、
 武遮、
 三瀬(江戸期)
 と表記されてきたが、
 
 具体的な地名の存在を明らかにするのは
 『日本書紀』の雄略天皇紀の
 
 「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、
  檜前民使博徳
  (ひのくまたみのつかいはいとく)を
  呉国に遣わし」
 
 と述べるに始まる。
 
 この遣使たちは14年に帰国する。
 
 「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、 
  身狭村主青らが、
  呉国の使者とともに、
  呉の献上した手伎ある、
 
  漢織(あやはとり)・
  呉織(くれはとり)
  および、
  衣縫の
  兄媛(えひめ)・
  弟媛(おとひめ)らを率いて
  住吉津に碇泊した。」
 
 そして3月に
 
 「呉人を檜隈野に置いた。
  そこで呉原と名付けた。」
 
 とある。
 
 呉原は
 現在の明日香村栗原のことである。
 
 漢織は「木綿織物」、
 呉織は「絹織物」と考えられる。
 
 呉人とは
 百済の倉下にいたヘブライ人で
 移転して来ていた
 月氏族がいた所の住民である。
 
 「呉」である「クレ」の語義は
 「離散したヘブライ人の居留地」で
 
 ヘブライ語の
 (Heb.),גָלַה,GVLH,golah は
 「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」
 をも意味する。
 
 その原語の
 (Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は
 「流浪者、祖国を追われた人」である。
 
 『日本書紀』の「呉」は
 韓半島におけるヘブライ人の居留地で
 「倉下」とも表記された。
 
 そして「呉人」とはヘブライ人を表す。
 
 後に同じく呉国から渡来し
 檜隈の於美阿志神社に祀られている
 阿美使主の一族は
 倭漢(やまとのあや)氏といわれるように
 漢(あや)氏で呉人ではない。
 
 栗原には
 「延喜式」神名帳に記す
 呉津彦神社が鎮座している。
 
 この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が
 同じ明日香村越(こし)にある
 許世都比古(こせつひこ)命神社
 (神名帳記載)で
 見瀬町のすぐ南に当たる。
 
 越および許世は
 サンスクリット語の
 kośa で繭を表す。
 
 応神天皇の時に
 百済より渡来した
 弓月君が最初に置かれた
 掖上の地にある巨瀬(古瀬)も同義である。
 
 日本書紀の雄略天皇紀には
 
 ※十五年、
  秦民、分散臣連等、各隨欲駈使勿委秦造。
  由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。
  天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。
  公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、
    充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。
 
  一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也
 
 「15年に秦の民を臣連らに分散して、
  それぞれ思うままに駆使させ、
  秦造に委ねしめなかった」
 
 とあることからすると、
 この時秦の民はこの地域に
 分散して居住させられていたのである。
 
 その状況が
 掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。
 
 御所市内にあった西寺田多田の地域も
 
 その一つと思われるが、  
 掖上内にも東寺田の地があり、
 その北側に現在一(かず)町となっている。
 かっての常門村に稲代坐神社がある。
 
 この神社も神名帳に載る古社であるが、
 その版本により「稌代坐神社」
 と表記されていて
 正式な社号は確定されていない。
 
 しかし、
 当社は大社に列しており
 優遇された由縁を持つ神社である。
 
 町名は昭和32年の
 改称によるものであるが、
 この地名は
 「地名の先祖返り」の一例と考える。
 
 その例を挙げると
 佐賀県の河上神社のある大和町や
 熊本県の三加和町である。
 
 「一(かず)」はカドで葛と同音である。
 
 常門はソロモンの転訛である。
 
 また一町には三神社が現在あるが
 「三」は見瀬、牟佐に通ずる。
 
 畝傍山の東方に城殿町がある。
 
 この地名は
 江戸期に木殿と改名させられたが、
 それ以前は史料の上では
 平安期から喜殿と表記された
 荘園名であったりした。
 
 その訓音についてであるが、
 元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。
 
 漢大陸から漢字を取り入れた当時
 「喜」は
 「ヒ」に近い発音であったとみられる。
 
 現在の中国語においても
 「喜Xi」であり、
 
 ヒマヤラ山脈名は
 喜馬拉雅と表記されている。
 
 また同町の東側に飛弾町があり、
 祖語を同じくするものとみられる。
 
 その祖語はダビデである。
 
 畝傍山の北西に寺田町がまたあり、
 その西に雲梯町があるが、
 百済国の弓月君がいたとみられる
 城内に雲梯県が
  新羅の時代から現在まで続いてあり、
 その名称に係わる地名である。
 
 天理市内にも喜殿町があり、
 
 そこに八坂神社が鎮座している。
 
 田原本町の橿原に近いところに
 秦庄がある。
 
 以上の状況でも明らかなように
  見瀬である牟佐は
 ヘブライに係わる用語である。
 
 これは、また
 「絹」を意味するヘブライ語
 (Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。
 
 つまり、
 隣り合う町名「見瀬」と「越」は
 それぞれ
 ヘブライ語とサンスクリット語による
 同義で「絹」を表すのである。
 
 さらに 
 MHShY と百済とは
 極めて重要な縁があるが後述する。
 
 メッシュは古代ローマにおいては
 ユダヤ人の代名詞であった。
 
 御所市、橿原市、明日香村などに
 点在する
 秦氏の居住地を牟佐と称したのである。
 
 呉国については、
 漢大陸の南部
 孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする
 見解や高句麗のこととする見解があるが、
 これは双方とも妥当ではない。
 
 それは、
 『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節
 で明らかである。
 
 「冬10月に呉国・高麗国が
  揃って朝貢した」
 
 とある。
 
 呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
 漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って
 (一緒に)渡来するとは
  余程のことがない限り考えられない。
 
 同雄略天皇紀の20年冬の条に
 
 「高麗の王が、大いに軍兵を発して、
  百済を攻撃し滅ぼした。
 
  兵糧は、すでに無くなって、
  深く憂いに泣いた」
 
 21年春の条に
 
 「百済国は、属党がすでに亡び、
  倉下に集まって憂えていたが、
  実に天皇のお力によって、
  またその国を造ったと言った」
 
 とある。
 
 呉とは
 この百済国内にあった倉下のことで
 GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の
  漢字音である。
 
 弓月君のいた土地と考える。
 
 さて、日本へ渡来した月氏族を
  なぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、
 
 すでに
 「月氏とシルクロード」で述べたように
 大月氏は絹の専門家集団である。
 
 ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ
  肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の
 祖語である
 サンスクリット語の絹を意味する
 patta に由来するものである。
 
 この語は衣を意味するもので
 織物をも含んでいることになる。
 
 原義が「薄いもの」の意で、
 板にも適用される。
 
 ヘブライ語の 
 KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。
 
 この二語は
 サンスクリットごの 
 patta を原語とし、
 その語も実は、
 古代の絹産業発生の地、
 四川省の和人(倭人)が
 「蚕」を表す用字として用いた
 「八はち」が祖語である。 
 
 先に挙げた
 雄略天皇紀15年条の続きは
 次のように記す。
 
 「そこで、秦造酒は、
  それを大変気に病んで、
     天皇のお供えしていた。
 
  天皇は、秦造酒は寵愛され、
  詔して秦の民を集めて、
  秦酒公に賜った。
 
  そこで公は180種を率いて、
  庸調の絹、縑(かとりきぬ)を
  奉献して朝廷に充積した。
  
  よって姓を賜って
  禹豆麻佐というのである。
 
  いずれも充積の貌(かたち)である。
 
 〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』
  に依る〕
 
 秦氏が絹産業の専門家集団である
 真骨頂である。
 
 ここで検討したいのは
 
 禹豆麻佐、
 
 京都市右京区の地名
 太秦についてであるが、
 
 この『日本書紀』の
 
 「充積の貌(かたち)である」
 
 とする地名譚はおもしろいが、
 そのまま認め難い。
 
 そこで考えられるのが
 「北の牟佐」である。
 
 牟佐はこ
 れまで説いてきた大和国の牟佐で、
 その本義はヘブライ語の「絹」を表す
 MHShY(meshe)である。
 
 禹豆(うず)はサンスクリット語の
 uttra の転訛で「北の」意味である。
 
 山城国名に出てきた
 歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。
 
 このように「ウヅマサ」は
 「北の牟佐」の意味である。
 
 太秦は、
 大和国の南の牟佐に対する
 北の牟佐、北の秦人なのである。
 
 「ハタ」氏が
 その漢字表記に
 「秦」が用いられた理由は、
 彼等が月神崇拝者であることによる。
 
 アブラム(アブラハム)の一族が
 カルディアのウル(メソポタミア)で
 奉じていた月神名が
 セム語で sin 神であり、
 その神名と同音の秦〔qin〕を
 当てたものと考えられる。
 
 また、
 太秦と表記された理由は
 「ウヅマサ」が大和の牟佐から
 新しく開墾された土地、
 「大牟佐」である。
 
 「太秦」は
 「オウシン」と漢音訓ではない
 「オウシ」に別の意義がある。
 
 その説明は後に詳しく触れる。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:茨田神社と茨田 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:茨田神社と茨田
 
   「延喜式」神名帳山城国乙訓郡のうちに
 「茨田(また)神社」が記載されている。
 
 この神社名を持つ現存の神社が
 見当たらない。
 
 そのため
 京都市南区上久世町の綾戸国中神社のうち
 合祀されている一方の
 綾戸神社を充てる見解もある。
 
 神名帳には訓読として
 社号の右に「マタ」左に「スイタ」と
 付している。
 
 茨の訓音は「シ」、
 「次」は「シにしジ」であるので
 「スイタ」が原語に近く
 「シタ」「スィタ」であったと言える。
 
 「シタ」の付く神社名は
 南区久世大藪町に鎮座する木下神社がある。
 
 語頭の「木」を「クサ」と解釈したこと及び
 当神社がある久世(クセ)であることを
 加味すると、
 木下は「久世茨田」と解釈できる。
 
 よって、
 茨田神社の比定地社は木下神社となる。
 
 すでにみたようにこの地は
 秦氏の勢力の中心地であった。
 
 大藪町のヤブはヤハウェ神の別称
 YH
 (ヤハウェ神名を
  むやみに呼ばないための別称)
 の転訛である。
 
 「スイタ」名は
 南の久世郡の神名帳にも載る
 「水度(みとの)神社」の訓読にも係わる。
 
 同社は城陽市寺田宮の平に現存するが、
 やはり秦氏の勢力地に鎮座している。
 
 茨田名は秦氏と強い係わりを表す。
 
 後に触れるが
 亀岡市の矢(や)田町は本来「シタ」であり、
 丹波に矢田神社がみられるのは
 ここから始まる。
 
 「延喜式」神名帳河内国に茨田郡が載る。
 同郡は明治29年に廃止され
 北河内郡へ合併されたが、
 現在の枚方市と交野市の地域である。
 
 茨田の初出は『古事記』仁徳天皇記の
 「役秦人作茨田堤、茨田三宅」である。
 
 『日本書紀』の
 仁徳天皇紀、宣化天皇紀にも
 茨田屯倉があらわれる。
 
 秦氏に役目を担わせて淀川の堤防を築き、
 農業地を造成させたいうものであるが、
 秦氏はここに居住することになったか、
 以前から居住していたことになる。
 
 『古事記』には景行天皇の御子の名を挙げ
 「櫛角別王者茨田下連等の祖」としている。
 
 櫛角名は荒樔田について述べたように
 「アラクサクルセ」つまり
 「牛頭の角」を彷彿させる名称である。
 
 茨田三宅は中世に交野郡に入った。
 
 『和名類聚抄』交野郡三宅郷は
 現在の交野、磐船、星田のようで
 星田について
 吉田東吾が地名事典で
 
 「古の茨田屯倉遺号となるべし」と
 「スイダ」に依ることを推察しているが、
 現在の枚方市に鎌倉期からみえる
 津田にも当てはまる。
 
 すぐ南には
 交野市の織物神社のある倉治がある。
 
 茨田郡内の『和名類聚抄』に載る
 幡多郷は
 現在の寝屋川市太秦の地域で、
 『新撰姓氏録』には
 河内国諸蕃には秦宿禰とある。
 
 茨田の訓音を神名帳には
 「マタ、スイタ」、
 『和名類聚抄』には河内国茨田郡に
 「マツタ」、
 その茨田郡の茨田郷を
 「万牟多」としている。
 
 これは何を意味するのだろうか。
 
 実は茨田が秦氏と強い係わりを持つのは
 この事情のよるのである。
 
 「万牟」は
 ヘブライ語の「水」の意味の
 MYMの転訛とみられる。
 
 また「マツ」は同じく
 「雨」を表わす
 MTsRあるいはMTsRITの音写であり、
 双方とも水神、降雨神を旨とする
 名称と考えられ、
 「スイ(水)」との表現が理解できる。
 
 また「水度」もその概念に依るだろう。
 
 ヤハウェ神が古代日本で
 水神として尊崇された事実は
 これから次第に明らかになっていくだろう。
 
 現在もそれは継承されている。
 
 またその神社名の表記として
 「茨」字を
 なぜ使ったかであるが、
 これもモーセの伝承に係わる。
 
 出エジプト記第3章において
 モーセがシナイのホレブの山で
 神の啓示を受けた時の節句は
 
 「ときに主の使いは、
  しばの中の炎のうちに彼に現れた。
 
  彼がみると、
  しばは火に燃えているのに、
  そのしばはなくならなかった」
 
 と語る。
  
 この神の坐す「しば」こそ
 「茨:いばら」なのである。
 
 またアブラハムが
 現在のエルサレムのモリヤの山で
 その子イサクを殺して
 神に燔祭の犠牲として献げようとした時
 
 「角をやぶに掛けている
  一頭の牡羊がいたと」
 
 語られる「やぶ」を連想させる。
 
 京都府南区久世の茨田神社であると述べた
 木下神社の所在地はもと藪といわれた
 大藪町である。
 
 秦氏が築いた茨田堤は
 水を鎮める事業であったことは勿論で、
 神名帳茨田郡に載る
 堤根神社も茨田神社の水神を
 祀ったものであろう。
 
 城陽市久世の水度神社も
 同じ神を祀ったことが理解できる。
 
 このように茨田神社には、
 やぶ(いばら)の中に坐す水神
 ヤハウェ神が鎮座していると
 考えられるのである。
 
 ヤハウェ神は
 このモーセの「十戒」の告知の故事から
 山の神エル・シダイ 
 AL(山)-SDY(山頂)と呼ばれる。
 
 この呼称は
 創世記17章1に、
 主がアブラハムの99歳の時現れて
 告示があった時の言葉で、
 日本語では「全能の神」と訳されている。
 
 だが 
 SDY は
 セム語(アッカド語)の山頂を表す
 複数形 šedu (単数形 šadu ) に
 依拠した用語である。
 
 ただし、
 シュメル語において 
 šudu は「完全な」の意味であり、
 また、
 アッカド語 šedu は
 守護神として用いられているのであろう。
 
 これらの概念が移入されたものであろう。
 
 茨田の「シダ」は 
 SDY の音写であり、
 秦氏の居住地では
 
 「シタ、セト、セタ」
 となって地名に留めている。
 
 南インド西海岸コーチン市隣接する
 マッタンチェリ 
 Mattancheri 名とも関係する。
 
 ここが
 ユダヤ人の古くからの
 居住地であることは
 すでにユダヤ人と月氏の
 「海洋交易商人」で述べた。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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