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第十一章 日本に祀られたインドの神々:八溝山(薬師信仰の山) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
八溝山(薬師信仰の山)》
 
 
  「横山:医方明の山」で取上げた
 筑摩山地の横山である東山は
  医薬神の重要な聖地であった。
 
 この東山の麓を伊那谷から
 善知烏(うとう)峠を越えて
 松本方面へ伸びていたのが
 古代の幹線街道東山道であった。
 
 この名称は単に東国の山岳地帯を
 通る道との印象が強いが、
 東海道よりもかなり早く成立した道であり、
 「東山」に因んでいわれた名称と
 考えられなくもない。
 
 東山道は松本の岡田を通って後、
 東信の上田、小諸そして碓氷峠を越えて
 松井田町の横川から高崎へと群馬県を、
 更に栃木県を北上して
 那須から福島県の白河郡へと続いていた。
 
 この街道沿い及び北関東一円に
 医薬に係わる信仰が広く行われた
 証しとしての医方明 cikitsa である
 近津を祖語とする神社が散在している。
 
 更に
 湯殿、重殿、十殿、薬師、薬王なども
 その範疇に入る神社名である。
 
 薬師名は東北地方へ入るとその主流となり、
 久須斯、久須志、久須師、薬医、医薬、薬王
 などと称された。
 
 東北地方への医薬神信仰の基点となった
 聖地の山が
 栃木県、福島県、茨城県の県境をなす
 八溝(やみぞ)山である。
 
 八溝山は、
 古代の郡名でいうと下野国那須郡が
 その西方に、陸奥国白河郡がその北方に、
 常陸国久慈郡がその南東を占めていた。
 
 同山頂は古くは白河郡に属し、
 一時常陸国になったが、また白河郡に復した。
 
 そのため山頂に鎮座する
 八溝嶺神社は
 『延喜式神名帳』において
 陸奥国白河郡七座のうちに記載されている。
 
 現在山頂社奥宮で、前宮となる同名社が
 茨城県久慈郡大子(だいご)町上野官に
 鎮座している。
 
 同社の伝承によると、
 景行天皇の時代日本武尊が
 東北遠征に向った時
 平定祈願したことに始まるとするが、
 白河郡棚倉町の都々古別神社の伝承によると、
 八溝山の賊を征圧するために祈願したとあり、
 八溝山にいた集団は非協力的であり、
 祈願を行う霊山として
 適当であったとは思われない。
 
 八溝嶺神社の祭神は
 現在大己貴の命、事代主命となっている。
 
 この地方の多くの神社が
 日本武尊の行状に結びつけて
 その由来を明らかにしようとしているが、
 突き詰めれば、それらの物語は伝説に近く、
 史実とみられるものは少ない。
 
 その主旨は神社の信仰の本質が
 何であったかさえ
 解からなくされているということである。
 
 以下の解説は
 日本武尊によって
 塗装され隠された深層を開示し、
 その存在理由を明らかにするものである。
 
 八溝嶺神社の信仰圏は史料によると、
 白河郡の
  北郷86村、
  南郷58村、
  久慈郡42村、
  那須郡260村に
 及んでいたという。
 
 久慈郡大子町の八溝山から流れ出す
 八溝川の流域の上流から
 上野宮、中野宮、下野宮に
 それぞれ近津神社が鎮座しており、
 八溝山が近津神社と
 深い係わりがあることを示す。
 
 また福島県の白河郡には
 同山の脇を固めるように
 多くの近津神社が鎮座する。
 
 『福島県の近津神社』
  ①東白河郡棚倉町山田字芳ノ木
  ②東白河郡矢祭町高野
  ③東白河郡矢祭町関岡字飯野
  ④東白河郡塙町山形字森の上
  ⑤西白河郡東村上野出島字坂上
  ⑥西白河郡矢吹町松倉字諏訪清水
  ⑦郡山市安積町荒井字安部
  ⑧喜多方市慶徳町松舞家字走下り
   (智賀田神社)
 
 また
 東白河郡棚倉町八槻字大宮の
 都々古別神社も
 近津明神を祀る神社で、
 後に説明するように薬医神の神社であるので
 近津神と同じとして以下に
 現在の都々古別名系列の神社を連記する。
 
 『福島県の都々古別神社』
  ①東白河郡棚倉町八槻字大宮
  ②東白河郡棚倉町字馬場
  ③東白河郡矢祭町金沢字沢岸
   (※若都々古別神社)
  ④西白河郡表郷村三森字都々古山
  ⑤西白河郡表郷村梁森字石崎
   (※都々古山神社)
  ⑥西白河郡表郷村高木字向上
   (※都々古和気神社)
  ⑦石川郡石川町下泉
   (※石都々古別神社)
  ⑧石川郡玉川村南須釜八又
 
 その他十殿神社と薬医神社も挙げておく。
  ①東白河郡塙町山形字小屋曽根
   (※十殿神社)
  ②東白河郡塙町那倉字岩下
   (※十殿神社)
  ③東白河郡塙町片貝字後沢
  ④いわき市平谷川字吉野村作
 
 都々古別神社については
 『延喜式神名帳』白河郡に
 「都都古和気神社名神大」と載り、
 その重要であったことが解かる。
 
 同社は陸奥一の宮と称された。
 
 その比定社について
 現在の棚倉町八槻大宮の都々古別神社か
 ②棚倉町字馬場の同名社かで
 論議があってどちらか決しかねているという。
 
 しかし、
 どちらか一方に決める必要はない。
 
 本来
 近津神は cikitsa の神、
 アシュヴィン双神と
 いわれるように双子で、
 二神一体の神である。
 
 二つの神社で一宮と
 考えることができるのである。
 
 そのような例は祭神が誰かの問題はさておき、
 諏訪神社を典型とする。
 
 上社下社があり、
 上社には前宮と本宮、
 下社には春宮と秋宮と不二一如の形態にある。
 
 祭神建御名方神より
 古層の信仰である社宮司社として
 北方御社宮司社と南方御社宮司社
 とあるばかでなく、
 御名方神の史料での初出は
 「南方」神であり「北方」神が想定されての
 神名とさえも考えられるのである。
 
 都々古別神社の場合でも、
 八槻と久慈川を挟んだ向には二柱神社があり、
 八槻地区の字名双の平がある。
 
 八槻の地名については「陸奥国風土記」逸文に
 日本武尊の射た八本の矢が芽を出して
 槻の木(現在の欅)になったとか、
 日本武尊が射た矢が着いたので
 矢着(つき)となり
 後に八槻となったとの伝承を載せているが、
 後に地名に合わせた作り話に過ぎない。
 
 「ヤッキ」は
 サンスクリット語の 
 yāti(Yā)-duhkha の転訛である。
 
 Yāti は本来「動く、行く、歩く」であるが、
 「逃げる、のがれる、通過する」から
 「消失する、消滅する」の意味となり、
 duhkha は
 「苦悩、不幸、困難、悲惨」で
 その音写が「受苦」であり、
 「ヤッキ」は「苦悩逃れ」「苦悩別れ」である。
 
 duhlhatā は仏教において
 八苦性として論理付けられている。
 
 八苦とは
  生苦、
  老苦、
  病苦、
  死苦、
  愛別離苦、
  怨憎会苦、
  雖復希求而不得苦、
  略説五取蘊苦である。
 
 「八槻」をこの八苦とも解釈できるが、
 以下に説明する「都々古別」の語義から
 「苦悩のがれ」とする方が妥当である。
 
 因みに
 この「受苦」は長野県の中信地方(松本市付近)の
 方言「ずく」となっている。
 
 「ずくを出す」「ずくがある」などと使われるが
 「困難に向って進む」
 「苦労をする気力」の意味である。
 
 「都々古別」の意味であるが、
 これは「恙(つつが)別れ」を表わす。
 
 「恙」とは「病気などの災難」のことで、
 古風な手紙の用語「恙無し」は
 病がなく息災であることで、
 唱歌「ふるさと」の
 「つつがなしやわがとも」も
 同語の内容を理解しやすい。
 
 「恙別れ」は
 「病気などの災難を払い、決別する」意味で
 厄払いの予防的意味もある。
 
 神社名に
 「都々古」だけのものがないことでも理解できる。
 
 表郷村の
 「都々古山神社」の「山」は
 「止(や)め」の訛りである。
 
 よって都々古別と八槻は
 その祖語において同義である。
 
 この理由により
 都々古別とは薬医神でもあり近津神と
 神格を同じくすると理解される。
 
 八溝山を水源として
 棚倉町から塙町、矢祭町を南下し、
 茨城県の大子町に入る川が久慈川である。
 
 茨城県ではそこに久慈郡を形成した。
 
 「久慈」は「久しい滋養」で
 薬による健康の増進を想起させる。
 
 久慈は「ヒサジ」とも読め、
 その原語はサンスクリット語の
 bhisaj (癒す、医師、薬)で
 「ヒサジ」と訓じられる。
 
 Bhisajya, bhaisajya (薬) の滋養で、
 小鳥神社のある
 福岡県志摩町久家と語義を同じくする。
 
 福島県いわき市平谷川に
 薬医神社が鎮座するが、
 「平・たいら」は 
 bhaisajya (四種含消薬)の一つ
 「油・ごま油」を表わす 
 taila に依るものと考えられる。
 
 「平」は日本武尊の東征時
 「平潟」と記された古名である。
 
 タイラであるごま油は
 「蓖麻子油(ヒマシユ)」を指す。
 
 トウゴマの種子を搾った油で
 現在でも使われている。
 
 含消薬の名称のとおり飲んで
 下剤の効力がある。
 
 その他石鹸の原料また工業用などで
 磨耗を減らすために用いられた。
 
 トウゴマ(唐胡麻)はヒマ(蓖麻)あるいは
 唐荏とも呼ばれる。
 
 その原産地はアフリカという。
 
 熱帯では潅木のように繫るが、
 温泉地帯になると一年草となる。
 
 塙町の十殿神社については、
 また横山に戻らなければならない。
 
 横山から流れ出す川を「田川」というが、
 この「田」は dyu (光明、日)の転訛であり、
 横山が「片、欠」である 
 ketu (光輝)の山の意義に一致する。
 
 この dyu の派生語が dyuti で
 「光輝、光彩威厳」を表わし、
 この同義語が dyoti , dyotis 
 (光明、輝き)となり、
 また jyotis ともなる。
 
 これらの用語を漢語にしたのが
 松本市の鉢伏山の麓をなす
 「寿台」である。
 
 現在「ことぶきだい」と称しているが、
 「ジュタイ」が東山道を下って
 関東に入り重殿、十殿また湯殿と
 表記される神社目になったのである。
 
 湯殿神が医薬神として知られる
 由縁にはこのような背景がある。
 
 塙町の十殿神社も医薬神を祀ったのである。
 
 Jyotis は漢語に「樹提」と音写された。
 
 なお、
 「田川」名は続日本紀の
 延暦8年(789年)5月29日条に
 「信濃国筑摩郡人、
 外少初位下後部牛養無位宗豊人等に
 姓田川造を賜ふ」とあり、
 奈良時代にはここに田川の名が
 成立していたことを示している。
 
 八溝山の西方は栃木県那須郡である。
 
 「那須」名は遅くとも4世紀中頃には
 ここにあったと考えられる。
 
 『先代旧事本紀』に
 「那須国造、纏向日代朝御代、
  建沼河命孫大臣命定賜国造」とあり、
 纏向日代朝とは日本武尊を
 東国へ東征させた景行天皇の朝廷をいい、
 「那須国」の成立を
 4世紀後半と推定されてるので、
 その地名の成立はさらに遡るはずである。
 
 奈良平安時代になると那須郷が
 『和名類聚抄』
 下野国那須郡のうちにみえるが、
 現在の大田原市の南西部、
 黒羽町の北西部の一帯とみられている。
 
 現在那須町大畑に近津神社、
 湯津上村湯津に千勝神社、
 小川町薬利に薬利神社が鎮座するほか、
 温泉の豊富なことから湯殿神社である
 温泉神社が数多く祀られている。
 
 この那須名はアシュヴィン双神の古名
 ナーサティヤ Nāsatya に係わる。
 
 同神名は西アジア誕れである。
 
 紀元前2000年紀の中頃
 ミタンニ国の王シャッティワザと
 ヒッタイトの王シュッピルリウマとの間で
 取り交わされた条約文で
 ミトラシル、アルナシル、インダルと共に
 ナサットヤナの神名が記録されており、
 ナーサティヤに対応される。
 
 サンスクリット語において
 nās , nāśati , naśayati は
 本来「なくす、失わせる、消える」であるが、
 「消滅、破壊」で
 「病気をとり除く」意味にも用いられた。
 
 つまり、
 八槻の「八」である yati と同じ意味であり、
 医療神アシュヴィン双神と同義となる。
 
 那須はこの nās の移入である。
 同義は、
 英語で nurse となり、
 「保護、養育、治療」を意味し、
 「看護師」名として広く知られるところである。
 
  以上のように八溝山の周囲は
 医薬に係わる痕跡に包まれている。
 
 そこで「八溝」の意味を追求すると、
 結局アシュヴィン双神の別称である
 ヤマ yama に至りつく、
 その意味は「双生児、ふたご」である。
 
 「ヤミゾ」は yama-ja (双子)あるいは
 yamatā (ヤマ神であること)の転訛であろう。
 
 その論拠を支援する資料に
 那須郡黒羽町側で
 八溝山から流れ出る武茂川の谷合に
 上南方、南方(なんぽう)の地名が
 あることである。
 
 同じ yama 神には
 アシュヴィン双神とは別に
 「死んで天界にある祖先を支配する神」
 また、別の神話で「下界を支配する死の神」、
 仏教のいう閻魔をいうことがあり、
 彼が南方の守護神のため yama-diś は
 「ヤマ神の住する方向」で
 「南方」を表わすのである。
 
 よって黒羽町の南方(なんぽう)が 
 yama 神名により付けられた地名であり、
 八溝が「ヤマ」に依拠していると
 判断されるのである。
 
 また、
 松本市には「野溝(のみぞ)」があり、
 本来「ヤミゾ」で同地区はまた
 「二子(ふたご)」の地名と重なって
 呼び慣らされているのである。
 
 これも八溝山が筑摩山地の横山と同じく
 医方明神を山名にしている証拠資料ともなる。
 
 八溝山は
 アシュヴィン双神を祀る
 医薬師信仰の山である。
 
 石都々古別神社のある石川町は
 双里が神社地近くにある。
 
 その北に玉川村があり、同名社が鎮守する。
 玉川村の北方は須賀川市となるが、
 そこには小山田及び小作田があり、
 双方とも薬草 osadhi に依るものだろう。
 
 玉川村の東側は平田村だが、
 そこには蓬田地区や蓬田岳があるのは
 信州の横山にあった蓬平に係わる。
 
 村内の諏訪神社のある「北方」は 
 ketu (光輝)に依るもので、
 その「キタカタ」を市名とするのが
 喜多方市で、
 かっては北方とも書かれた。
 
 慶徳町松舞家に智賀多神社が鎮座する。
 
 慶徳は戦国期から
 経徳とも表記された地名で、
 「北方」に通じる。
 
 喜多方市域はかっては耶馬郡で、
 現在も磐梯町など八町村が郡を構成している。
 
 史料での初見は
 『続日本紀』の「耶磨郡」(840年)で、
 『延喜式和名類聚抄』には
 耶麻郡と表記されている。
 
 耶麻郡及び喜多方市内には山神社が多い。
 
  喜多方市五社(山首社を含む)、
  熱塩加納村八社、
  北塩原村七社、
  山都町七社、
  西会津町十七社、
  磐梯町三社、
  猪苗代町二社とあり、
 
 耶馬名が信仰と係わり合って、
 単に山間に村落があるというような
 意味合いでないことを示している。
 
 山神名は横山の塩尻市内内田に
 「山ノ神」の地名があるとおり、
 直接的「山岳」の意味ではなく 
 yama (双神)を表現したものであることが
 判明してくる。
 
 その語義を忘却させて、
 日本の宗教的深層に
 沈潜している神名なのである。
 
 耶麻名はアシュヴィン双神である 
 yama に由来する地名である。
 
 次に、
 その日本の宗教的深層の沈潜している
 神名の一例を取上げたい。
 
 八溝山の南方は
 茨城県久慈郡で
 近津神社が鎮座する大子町である。
 
 「大子(だいご)」名は
 町内の大子地区の名に依るが、
 その由来も隣り田気(たげ)にある
 「王子神社」に依拠する。
 
 大子は「王子」である。
 「田気」は「子孫、小児」を表わす
 サンスクリット語の
 tuki の転訛で王子に対応し、
 王子神社はまた近津神社に相応するのである。
 
 「王子」を町名にしている町が
 奈良県北葛城郡王寺町である。
 
 町名を王寺にしているが、
 原義は王子であろう。
 
 王寺地区名が広くあるが、太子地区もある。
 
 ここが王子の里であるのは
 次のような理由による。
 
 本町地区に現在「親殿神社」が鎮座する。
 
 その訓音「チカトノ」は「チカツ」に近似し、
 近津神社と祖語を同じくすることが理解できる。
 
 同社は『延喜式神名帳』大和国葛下郡に
 「深溝(ふかみぞ)神社」と載る神社に比定される。
 
 「深溝」は「シンコウ」で「智識」を表わす。
 パーリ語のsukhā
  (サンスクリット語の śikaṣa)の転訛である。
 
 親殿神社の東方の河合町薬井は
 同社の薬園であっただろうか。
 北方に片岡神社が鎮座する。
 
 この地区が孝霊天皇馬阪陵のある片丘で、
 近津神と「片」との関係を
 塩尻市片丘と同様ここにもみることができる。
 
 片岡神社の祭神を清滝大神というが、
 「滝」は大子町の「田気」と同義で 
 tuki である王子を表わす。
 
 「清」は美称であろう。
 
 王寺町の南側は畠田地区が占める。
 
 「ハタ」は vaidya つまり、「医師」を表わす。
 
 そこには神名帳に載る
 「火幡(ほわた)神社名神大」が鎮座しているが、
 その社名の左側には
 「ホタ」との訓音も付されており、
 社名が「ホタ・ハタ」であったことが窺われる。
 
 小鳥信仰で紹介した高知県西部の幡多郡名と
 祖語を同じくしているのである。
 
 王寺も医薬師の神・近津信仰の里である。
 
 そのような状況は表面的には見えず、
 歴史の奥に沈潜してしまっているのである。
 
 それは茨城県久慈大子町の場合も同様である。
M.K記

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