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第十一章 日本に祀られたインドの神々:大江戸(塩土老翁の鎮座地)② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
大江戸(塩土老翁の鎮座地)②
  
 
 猿田彦神の原語をサンスクリット語にみた際
 sur-endra (神々の首長)を紹介したが、
 indra が合成語となる場合に
 endra に変化するのである。
 
 『延喜式神名帳』武蔵國荏原郡に
 「薭田神社」が載る。
 
 現在東京都大田区蒲田三丁目の
 同社号の神社である。
 
 この神社名について神名帳の版木によっては
 「浦田」に表記されたものがある。
 
 地区名蒲田(かまた)は本来「ホタ」で
 「蒲桃」「浦田」と同じで「薭田」と
 音訓同祖と考えられる。
 
 つまり、
 薭田神社は伊勢市の猿田彦神を祀っていたと
 考えられるのである。
 
 すぐ近くの蒲田二丁目には
 猿田彦神の別称とされる椿神社もある。
 
 「蒲桃」「浦田」は 
 jambhu-dvipa 贍浮堤洲の「浮堤」でもあるが、
 蒲田地区内の志茂田はその転訛とみられる。
 
 蒲田の南の六郷(ろくごう) は
 サンスクリット語の六(sat)と近似する
 śata (百:勢田) の応用で、
 ここもインドラ神の神地である。
 
 多摩川を渡った神奈川県川崎市幸町は
 「サチ」で śaci であり、
 インドラ神名に係わる。
 
 蒲田の東にある糀谷(こうじや)は
 麹谷とも表記されたが、
 インドラ神の別称 kauśika の転訛で、
 漢音写では憍戸迦などとされた。
 
 『延喜式神名帳』多磨郡には
 「布多天神社」が載る。
 同社は現在調布市調布ヶ丘に鎮座する
 同名社である。
 
 その近郊に布田地名が
 多摩川を挟んだ川崎市多摩区にも
 広がってみられる。
 
 多摩区の布田の東の中野島は
 贍浮堤洲の意味を持つ地名である。
 
 布多天神社には木綿に係わる伝承がある。
 
 昔、広福長者が同社に参籠し、
 神のお告げに依り布を多摩川で晒して
 調え朝廷に献上したが、
 それが本朝の木綿の初めというものである。
 
 しかし、
 綿については、
 既に紀元3世紀の魏書倭人章に
 「倭人の風俗は規律正しく、
  男子は皆冠を被ぶらず
  木綿で頭を巻いている」とあり、
 
 また正始四年(243年)の記録には、
 帛布(絹布)とともに
 綿衣を魏の皇帝に献上したとの記述もある。
 
 同社の本朝初めてとの伝承は当たらない。
 
 但し、綿の原産地がインド亜大陸で、
 紀元前3千年頃から
 既に栽培が始められたもので、
 紀元前内には日本へも
 その栽培方法、糸つむぎ、職布の技術が
 もたらされていたと考えられる。
 
 布多天神社の伝承は
 インドの木綿の技術を持った集団が
 ここに住みついたとの証しであろう。
 
 因みに「布多」は
 サンスクリット語の「布」を表わす
 paţţa の音写である。
 
 調布市と大田区との間にあるのが
 世田谷区である。
 多摩川に近い瀬田は
 勢田、勢多、世田と書かれた古い地名である。
 
 『和名類聚抄』武蔵國多摩郡に「勢多」とある。
 
 これも伊勢市の勢田と同じく祖語を 
 śata とする同語である。
 
 その東の中町も
 伊勢市の中之切などのナカと同義である。
 
 野毛(のげ)はその同類ではあるが、
 naka (天界) の転訛であろう。
 
 用賀について
 角川地名辞典は「梵語の喩伽」と述べている。
 
 瑜伽はつまり yoga で
 同地の用賀神社は医薬の施供を
 行っていたとすることもできる。
 
 区名世田谷も「勢田、勢多」と
 その語源を同じくするだろう。
 
 ヨガである用賀とも関係する
 医方明に係わる地名について考察する。
 
 それは「荏原郡」で、
 現在品川区にその遺称が多い。
 荏原名は『万葉集』にも登場する古地名である。
 
 新編武蔵風土記が
 「荏(エゴマ)の繁茂する所」との
 見解を出しているように
 「荏」は荏胡麻のことで、
 その栽培が広く行われたことによる地名が
 「荏原」と考えられる。
 エゴマの種は搾って油を作る。
 
 これらトウゴマ(唐胡麻)から搾ってヒマシ油とし
 下剤として薬用に用いられると同様、
 薬用にされたとみられる。
 
 その原産地は日本ではなく、
 中国南部やインドなどの熱帯性植物である。
 
 この地方へは木綿と同じく
 インドからの知識を得た集団が
 持ち込んだと考えられる。
 
 胡麻油(蓖麻子油)は
 インドの医方明の四種含消薬の一つ
 taila である。
 
 品川区内の平塚の「平」がそれに係わり、
 隣接する「大崎」は「搾油者」を意味する 
 osika あるいは同義の auşţrika を祖語とする。
 
 また、山台、後地は『和名類聚抄』で
 御田郷と記されている名称に比定されいるが、
 薬草を表わす aşadhi ないし 
 ausadhi に係わる。
 
 そして、
 区名でもある「品川」は「油脂」を意味する
 サンスクリット語の sneha を祖語とする。
 
 本来
 「油を含むこと、もの」
 「油脂の多いこと、もの」の語義で、
 脂肪を表わし、エゴマをここでは指す。
 
 「シナカワ」を敢えて結びつければ、
 「油脂の多い、油でぬるぬるする」の
 snehavat となる。
 品川郷名は
 平安末期から史料に現れた地名である。
 
 この地域に現在、
 薬科・医科大学や製薬会社の工場が
 あることは因縁のあることである。
 
 以上のような環境を知れば、
 江戸にインドラ神が鎮座していても
 おかしくないだろう。
 
 『和名類聚抄』には「荏原郡桜田郷」が載る。
 
 その地域は千代田区南部から品川区まで
 広い範囲に推定されている。
 
 後には現在の皇居の濠である
 桜田濠や桜田門がある辺りで、
 徳川」家康による江戸城は
 その桜田郷を含んだ土地に建設された。
 
 そのため同地にあった桜田神社が
 現在の港区西麻布三丁目へ
 鎮座替えになったのである。
 
 築城のために同じく移転したのが
 日比谷神社で、
 現在新橋四丁目に鎮座している。
 
 桜田神社の現在の主祭神は
 平成の初めまで天照皇大神、
 豊受大神であったが、
 平安時代以前の古代においては
 塩土老翁神ないし猿田彦神である
 インドラ神を祭祀していたと考えられる。
 
 その信仰により江戸郷は誕れたのである。
 
 平安10年頃、
 同社の神職は主祭神を稲荷神社に依拠した
 佐田彦神及び大宮能売神へ改祝した。
 
 一方の日比谷神社も、
 「日比谷」が戦国時代の史料にみえるのを
 初見とするが、
 「比々谷本郷」「比々谷郷」とある。
 
 「サクラダ」は śakra-deva の転訛であり、
 「比比」は原語が 
 vibhu 「支配者、主権者」を表わし、
 双方ともインドラ神を指すものである。
 
 現在日比谷公園に続いて内幸町があるが、
 ここは江戸期には中央区、港区にまたがる
 幸町の一部であった。
 
 「幸」は「サチ」 śaci の転訛とみられ、
 インドラ神か、その神妃の別称である。
 
 永田(ながた「エイダ」)町は
 江戸時代永田馬場などとの記録があるが、
 太田道潅が日枝山王社を武蔵川越から勧請する
 以前からあった地名とみられ、
 それは aidha(aindra) でインドラ神と係わる。
 
 日比谷神社のすぐ近く新橋五丁目に
 塩土老翁神を祀る
 塩竃神社が鎮座するのも興味深い。
 
 このように江戸とは
 塩土老翁神であるインド神の鎮座地である。
 
 東京の中心江戸城の周辺の歴史の深層に
 サンスクリット語文化があることを
 述べておきたい。
 
 永田町の西方に赤坂及び元赤坂がある。
 この「アカサカ」は ākāsa に由来する地名で、
 「虚空」をいい
 形而上学的には「空(くう)」を表わす」。
 
 空(くう)は
 第八章でインドの六派哲学のうち
 ヴェーダンタ派の思想で述べた caturtha 、
 つまり自我(アートマン)の第四位に対応する。
 
 この第四位の用語を用いて
 赤坂である「空虚」を表わしたのが
 四谷で「空谷」
 つまり、「涸谷」を意味する。
 
 四谷駅の辺りから赤坂方面にかけては谷合で、
 水のない「からの谷間」である。
 
 空虚の状態を日本語で「うつけ」というが、
 四谷に続く市谷(いちがや)は
 この「うつけ谷」が訛ったものである。
 
 麹町名は大田区の糀谷と同じく
 糀町とも表記された。
 
 インドラ神の別称 kauśika 
 あるいはインドラ神の
 雷電 koţi に由来すると考える。
 
  「赤坂」と「空虚」の組合せは、
 奈良県天理市和爾町に赤坂彦神社があり、
 その東奈良市内に仏教化された
 名称「虚空蔵町」がある例がある。
 
 同社は神名帳大和国添上郡に載る
 「和尓赤坂比古神社大」である。
 
 また、
 熊本県荒尾市大島の四ッ山神社は
 「虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれているが、
 「四ッ」が cutartha である
 「虚空」であることが解かる。
 
 栃木県の矢板市から大田原市を流れる川は
 箒(ほうき)川という。
 
 本書の「はじめに」において取り上げた
 「信濃風土記」逸文の「箒木」に係わる川名で
 「ほうき」が「空しいこと」の
 代名詞であることを述べたが、
 箒川名もまた「空、虚空」川である。
 
 矢板市の上伊佐野の川辺近くに
 「赤坂」地名があるばかりでなく、
 その上流塩原町へ遡ると赤川となり、
 その水源の沢を空沢という。
 
 箒川は大田原から
 那須郡の湯津上村、小川町、馬頭町の境界で
 那珂川に合流する。
 
 那珂川は
 黒磯町の那須高原から流れ出る水流を
 全て集めて来る。
 
 双方とも「四位」に由来し空虚の意味であり、
 「那珂」はまたサンスクリット語の 
 nāka の音写で「天空、大空」を意味し、
 箒の内容に一致するものである。
 
 同川は茨城県に入り那珂郡を形成し、
 ひたちなか市と大洗町の境界をなして
 太平洋に流れ入る。
 河口の北岸ひたちなか市には赤坂の地名が残る。
 
 東京都には江戸川区がある。
 その名は茨城県の境町で分流する江戸川に依る。
 
 この川名は史料では
 江戸の物資輸送の水路であることから
 銘づけられたとするが、
 その基層にはこの流域に
 インドラ神が祀られていたことによるのである。
 
 インドラ神の鎮座地として
 ここで紹介するのは
 千葉県野田市桜台の桜木神社である。
 
 同社はかって稲荷神社で平安時代の創立時に
 社地に桜の大木があったことにより、
 「桜の宮」と称されたという社伝を持つ。
 
 しかし、
 この野田最古の神社のある桜台遺跡からは
 硬玉製勾玉管玉、
 台形様石製品、
 剣先様装飾品、
 半円状石製品、
 玉杖などの祭祀に冠する遺物が発掘されており、
 4世紀から何らかの信仰の地であったことが
 明らかになっている。
 
 地名を考察すると、
 「桜台」は śakra-deva で
 桜田と祖語が同じである。
 
 市名「野田」は nātha の音写で
 「保護者、支配者、主」でインドラ神を指す。
 
 さらに同社近郊にある「中野台」は贍浮提である。
 
 両地名とも桜台に近接しており関係が知られる。
 同市の東南の隅瀬戸地区に
 猿田彦神社が鎮座しており、
 「瀬戸」は勢田、瀬田と同儀 sata で
 「百」を意味する
 インドラ神の尊称に係わる。
 
 桜木神社の現在の祭神には
 猿田彦神も塩土老翁神も含まれていないが、
 稲荷神社の本宮である
 京都府の伏見稲荷大社には
 猿田彦神及び天鈿女命である
 大宮能女神が祀られており、
 稲荷信仰と全く関係がないわけではない。
 
 江戸川は、
 古くは太田河と表記され「ふとゐ」と呼ばれた。
 
 平安時代承知2年(835年)の
 「類聚三代格」に
 「下総國太田河」とあるのが初出で、
 「更科日記」に
 「下総國と武蔵國のさかひにてふとゐかは」
 とみえる。
 太日(ふとゐ)は贍浮提洲の「浮提」の転訛で
 伊勢の浦田、インドラ神の天界を表わす。
 
 このような状況から4世紀の太初において
 インドラ神に係わる信仰が行われたと
 推察されるのである。
 
 太日河名は
 インドラ神信仰に依りつけられたものと考える。
 
 同神は仏教において帝釈天といわれるが、
 葛飾区の柴又帝釈天はこの流域に
 インドラ信仰が実在することを示している。
 
 徳川家康が関東へ移封されて来てから
 江戸の経済は拡大を続け、
 近郊から多くの物資が運び込まれるようになり、
 太日河は
 江戸への運河の役目を果たすようになったため、
 その名を江戸川と改称されたという。
 
 江戸川の東京湾への河口の東は
 現在船橋市であるが、
 そこに船橋大神宮が鎮座する。
 
 同社は『延喜式神名帳』「下総國葛飾郡」に載る
 「意富比神社」である。
 
 この「意富比」については
 本義が明らかにされていない。
 
 神名帳は「イフヒ」と訓音をつけているが、
 後の「埼玉・鹿島:剣持神の國」の
 稲荷山古墳の鉄剣でも追求するが、
 「意富」は「オホ」で
 「飫富、太、大」と同音の用語である。
 
 よって「意富比」は「太日」と表記でき、
 これは太日河の「ふとゐ」である。
 
 ここで何故「フトイ」と解釈できるかは
 同神宮の鎮座地宮本の地区内に
 「峰台」の小字名があることによる。
 
 宮本は鎌倉期からみえる地名であるが、
 その地の古名が峰台であったと推測される。
 
 同社を西方からみると
 確かに小高い峰の上にある。
 
 峰台は「フタイ」と読め、
 「ふとゐ」と殆んど同音である。
 
 初めに「ふとゐ」があり、
 峰台が当て字(あてじ)とされたものであろう。
 
 神社名も本来は「ふとゐ」であったと考えられ、
 インドラ神信仰から
 同神が祀られていた可能性が高い。
 
 塩土老翁神は
 さらに東北の宮城県塩釜市一森山にも
 奉祭されている。
 塩釜神社と一般に書かれているが、
 塩竈神社が正式名で、
 その別宮に鎮座している。
 同社の本殿には武鹿槌神、経津主神が
 祀られている。
 
 両神とも後からやってきた祭神で
 先住の祭神は塩土老翁神と考えられる。
 
 三神の関係は極めて興味深い。
 
 後の「インドラ神の影」などを
 参考にして戴きたい。
 
 塩竈神社は
 『延喜式神名帳』には
 記載されていない神社であるが、
 陸奥鎮護の第一の社とされる。
 
 鎮座する一森山はすぐ南の
 多賀城市丸山と同じく
 meru(sumeru) 、
 つまり、
 インドラ神の住む山名に係わると考えられる。
 
 
 近郊の利府町の加瀬、多賀城市の笠神は
 鹿児島県金峰町の花瀬、加世田市名と同様に
 「光輝」を意味する kāsa に依る。
 
 多賀城市の桜木、栄、境山なども 
 śakra に係わるだろう。
 
 そして何より「塩竈(塩釜)」名は
 インドラ神が住む天界 svarga あるいは 
 svarga-loka
 に由来するのではないかと推測されるのである。
 
 紀元前3000年紀に
 西アジアに誕れたインドラ神は、
 極東の日本の東北の一隅にまで
 「東方の守護神」として
 やって来て鎮座しているのである。
 
M.K記

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第十一章 日本に祀られたインドの神々:大江戸(塩土老翁の鎮座地)➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
大江戸(塩土老翁の鎮座地)➀
  
  塩土老翁(しおつちのおじ)は
 『日本書紀』に登場する。
 
 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降り、
 膂宍(そしし)の空国を求めて
 通って吾田の長屋の笠沙の御崎に着いた時に、
 その地の神、
 事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)に会う。
 
 そこで天孫が「國があるか」と尋ねると、
 「あります。刺(おお)せに従って献上します」
 といって、
 その領国を瓊瓊杵尊に差し上げたので、
 天孫はそこに滞在したという。
 
 『日本書紀』の一書は、
 この事勝国勝長狭の別名を
 塩土老翁というと記す。
 
 また海幸彦、山幸彦の物語にも登場する。
 
 山幸彦が兄海幸彦の釣針を失ってしまい
 困って海辺を彷徨っていたと表われて、
 目無籠を作って山幸彦を
 それに乗せ海神の宮へ送り、
 釣針を捜すよう案内した神として
 塩土老翁が現れる。
 
 『古事記』も同様の伝承を載せ、
 その神の名を
 塩椎神(しほつちのかみ)と称する。
 
 因みに
 『日本書紀』の目無籠を
 『古事記』は
 「无間勝間(まなしかつま)の小船」と表わす。
 
 これは、
 メソポタミアのアッカドの創健者サルゴン王が
 瀝青を塗り込められた籠
 (シュメル語の pisan )に入れられて
 ユーフラテス川に流された物語や
 『旧約聖書』の「出エジプト記」の
 モーセの出生後に同様の籠の役目に共通する。
 
 籠に入った者は
 後に民族の指導者となる運命にある。
 
 『日本書紀』の「神武天皇紀」は、
 東征のきっかけになる、
 東方に美しい国があって、
 そこは山が四周を廻っていますと
 神武天皇に紹介したものを
 塩土老翁とであると記す。
 
 同神はまた塩土神、塩筒老翁と表記された。
 
 上記の三つの物語に共通する要点は
 常に「案内する」「紹介する」役目を
 果たすことにある。
 
 その性格を考慮すると、
 その音訓を
 「エンド(塩土)」或いは
 「エンドラ(塩土老)」とし、
 解釈することができる。
 
 つまり英語の introduce に結びつく。
 
 「導く、案内する、紹介する」の語義であるが、
 これはラテン語の同義語 
 into,indere に依る用語で、
 
 ギリシャ語の εναισωμι 
 (引き渡す、提供する、与える、見せる、示す)
 とも関係する。
 
 つまり、『日本書紀』の著述者たちは
 「エンドラ神」を「導き」の神と
 解釈していたのである。
 
 だが、
 その本来の神格は西アジアから
 インドへやってきた
 インドラ Indra 神である。
 
 インドラ神はリグ・ヴェーダで多く語られる
 天界の最高位に坐ます天王であり、
 アーリア人がインド亜大陸へ進出して来た時
 多くの悪魔退治をした武勇の英雄神で、
 彼等を安全に新天地に定住させる
 守護神でもあった。
 
 アーリア人にとって「導き」の神であった。
 
 叙事詩時代になると、
 彼は相変わらず天界の最高位に
 座してはいたものの権威は失墜し、
 東方の守護神にもなっていた。
 
 しかし、
 インド人(商人たち)がインド亜大陸から
 東方のベンガル湾を経て、
 太平洋地域をへ進出していく時、
 その方面の守護神との趣旨もあったが、
 また開拓神の役目を負った。
 
 2世紀に始まったとみられ
 インドの植民地的国、
 現在のベトナムに造られた
 チャンパ(林邑)には
 インドラプラ市が建てられ、
 11世紀までその名称は踏襲された。
 
 インドラ神は、
 また古代日本にもやって来た。
 その最古の鎮座地の一つが奈良県桜井市である。
 
 「桜は
  インドラ神の別称サカラ śakra に依る」
 ものであり、
 三輪山の大神神社の祭神、
 大物主(おおものぬし)大神は
 「デーブス」で
 インドラ神の尊称「天空の主」を表わす
 divas-pati を表わす。
 Pivas はまた divasa と同義で
 「天空、日、昼」を表わす。」
 
 神武天皇に
 「東方に美しい国があって、
  そこは青山が四周を巡っている。」と
 塩土老翁が紹介したのはこの大和であった。
 同神が大和に
 深い係わりのあることを示している。
 
 桜井市桜井には御幸田町がある。
 「幸」は「サチ」で、
 これはインドラ神の力を表わす
 śaci でインドラ神の称号であるが、
 インドラ神の神妃インドラニーの
 別称シャティを伴っている。
 「幸田」は śaci-devu の転訛となる。
 
 桜井の南の地区浅古(あさこ)は
 「セコ」で śakra が漢訳で
 「釈、釈加、帝釈」と表記されるように
 桜井と同根である。
 
 瓊瓊杵尊の天降り神話に係わる
 塩土老翁の伝承にある
 「吾田長屋の笠狭」の吾田は「アタ」で、
 サンスクリット語の adhi- に依るもので、
 「上に、上方に」の意味であるが、
 ここでは adhi-pa (支配者)、 
 adhi-deva (最高神)の語義で
 インドラ神を表わす、
 インドラ神の称 sur-adhi-pa は
 「神々の首長」である。
 
 吾田は
 現在鹿児島県日置郡金峰町宮崎の阿多に当たる。
 
 同町内の花瀬は、加世田市名と同根で
 「光を放つ、輝く」の意味である 
 kasati の転訛である。
 阿多の字名松田、金峰町と
 加世田市の境を流れる万之瀬川、
 その川に接する加世田市の益山や万世は、
 インドラの神の住むメル山(須弥山)の
 Indra-mandia (インドラの住居)に由来する
 と考えられる。
 
 松田南に鎮座する和田利神社は 
 vadhar 名の転訛であり、
 インドラ神が祭祀されていたとみられる。
 vadhar は「飛び道具」で、
 特にインドラ神の武器「金剛杵」を表わす。
 
 この地域には
 インドラ文化に影響された
 支配者がいたとみられ、
 そこに『記・紀』神話の謂う
 天孫降臨以前に既にその勢力があったのである。
 
 インドラ神は東方の守護神であるが、
 大和国の東方は三重県の伊勢である。
 
 この「イセ」は
 サンスクリット語の支配者を意味する
 iśa の転訛でもある。
 
 鳥羽市に堅神町があり、
 堅神神社が鎮座する。
 
 「カタ」は伊勢湾中の島
 神島で八代神社の祭事として
 例年1月1日に行われる
 ゲッター祭の「ゲッター」とも同義で、
 Indra-ketu (旗、光輝)に由来する。
 
 鳥羽地区内の賀多神社も堅神である
 インドラ神を祀っていたものとみられる。
 
 小浜町にある土宮神社の「土」は
 塩土神に対応するが、
 土宮は伊勢市豊川町の
 
 豊受大神宮(外宮)の境内社として
 鎮座する祭神のうちに
 土御祖(つちみおや)神が祀られており、
 天照皇大神宮(内宮)の摂社
 土御祖神社祭神である。
 
 「止由気宮儀名帳」によると宮地神である。
 
 現在外宮山田原の地主神として尊崇されている。
 
 「土」は宇治土公(うじつちこう)氏の名と
 通じるが、
 同氏は伊勢市宇治浦田町の
 猿田彦神社の奉祭氏族で、
 明治時代までもその役目を継承してきた。
 
 猿田彦神は古事記に猿田毘古神と表記され、
 邇邇芸命(日本書紀の瓊瓊杵尊)が
 天降りしようとした時、
 天の八衢にいて、
 天宇受売神(天鈿女命)に問わせたところ、
 
 「わたしは同神で、名を猿田毘古神という。
  ここに出ていたのは、
  天神の御子が天降りされると聞いたので
  御先導きをして奉りたいと
  お迎えに参ったのです」
 
 と述べた。
 
 その性格は塩土老翁と同じ「導き」の役柄である。
 このことより
 同神は道祖神と結びつけられている。
 
 天宇受売神は
 後に猿田毘古の名を負って
 猿女君と称されることとなる。
 
 『古事記』は
 猿田毘古神が阿邪訶に坐す時、漁をしていて
 比良夫貝に手を咋い合されて
 海塩(潮)に沈み溺れてしまったと語る。
 
 阿邪訶は
 現在の松阪市大阿坂町で
 阿射加神社が鎮座しており、
 猿田彦神を祭神といしている。
 
 また、
 伊勢市宇治浦田町に猿田彦神社が鎮座し、
 その主祭神である。
 
 猿田彦神は道祖神と結びつけられていることを
 述べたが、
 その他白鬚明神、椿大神、庚申としても
 考えられている。
 
 猿田彦は
 塩土老翁神とその性格で
 「導き」に要約され共通する。
 
 実は「サルタ」は
 サンスクリット語の 
 surendra,suradhpa に伝拠する用語である。
 
 双方とも「神々の首長」を意味し、
 インドラ神の呼称である。
 
 Sur-endra(indra),sur-adhi-pa で、
 sur が「神の」、 
 adhi は吾田(阿多)と同じで「上方の」、
 pa は pati と同じで「祖、父祖」を表わす。
 
 猿田彦神、塩土老翁神が同じ神であることは
 明らかである。
 
 猿田彦神社のある伊勢市宇治浦田は
 伊勢神宮の内宮・外宮の中間にあり、
 その重要さが窺われる。
 
 同神の後裔大田命が
 倭姫命に神宮の宮地を献上したと伝えられ、
 伊勢の地の古い勢力の中心であったとことを
 示す。
 
 伊勢の国に堅神、土宮と
 インドラ神(塩土老翁神)が
 祭祀されていたことは明らかである。
 
 浦田の隣りの桜木町名は śākrá に依るが、
 「浦田」にも重大な秘密が隠されている。
 
 それがインドラ神の住居である
 メル山(須弥山)がある。
 
 Jambu-dvipa を表わしているからである。
 
 同語が漢訳されると「蒲桃」と表記される。
 
 蒲桃(ほとう)は浦田(ほた)と近似する。
 
 その音訳は
 贍部州(じゅんぶしゅう)、
 閻浮提地(えんぶたいち)と表わされ、
 「浮提」が蒲桃、浦田に対応する。
 
 dvipa は本来「河の沙洲、島」であるが、
 中央の地を表わし、
 浦田の周辺の地名、
 中村町、中之切・中之町は
 その概念を地名としたものであろう。
 
 ただし、「ナカ」を nāka とも取れ、
 その場合は「天、天空」の意味で 
 nāka-pati が「天主、神」 となり、
 この用語を転訛させたとも考えられる。
 
 どちらにしてもインドラ神に纏わる。
 
 さらに鳥羽「トバ」も 
 dvipa の転訛とみられ、
 志摩郡名も「洲、島」で、
 つまるところの贍部州を表わしている。
 
 鳥羽市の土宮神社のある小浜町の山名
 大日和山も dvipa の音訳である。
 
 浦田の西側の地区名勢田(せた)は
 インドラ神を称するのに
 śata-koti (インドラ神の雷電) 、
 śatadhrti (同)、
 śata-katatu (百倍の供儀を求める)など
 多くの
 śata (百の意味)が用いられており、
 インドラ神の代名ともなっており、
 「セタ」はその音写である。
 
 神島はその形が亀に似ていることから
 亀島とも呼ばれたが、
 「内容儀式帳式帳」「神宮雑例集」などでは、
 「歌島」と表記され、
 平安・鎌倉時代には
 「カトー」と呼ばれていたことを覗わせる。
 
 八代神社の祭事であるゲッター祭も
 本来「ケタ」であったと考えられる。
 
 鳥羽市の堅神名、また八代神社名は
 明治6年に改称されたもので、
 それまでは白鬚明神であった。
 
 同神社は先述のように猿田彦神の別称である。
 
 八代神社は九州熊本県八代市に
 その本社が鎮座する。
 またの名を妙見宮といい、
 北極星の光輝を神格化した古社である。
 
 また一つの呼称北方宮は 
 ketu (光明)によるもので、
 周囲の町名月町にもそれは転訛されている。
 
 神島の「ケタ」も ketu で光輝であるが、
 白鬚明神である
 インドラ神の「旗、標識」印に係わる。
 
 インドラ神は大きな首輪をいつも着けている。
 
 ゲッター祭の直径120センチメートル程度に
 グミの木を輪に作り麻を巻きつけた日輪は、
 その首輪を表わし、
 インドラ神の象徴と考えられる。
 
 信者たちが竹棹竿により
 その日輪を高々と持ち上げるのが
 祭事のクライマックスである。
 
 インドラ神はさらに遠い東方の守護に当たる。
 
 その鎮座地が関東の江戸である。
 
 ただし、その信仰は狭い江戸に限られておらず、
 関東一円に広がっている。
 
 ここではかって武蔵といわれた
 東京都の東部と神奈川県の北部に
 その痕跡を探っていく。
 
  「江戸」が史料にみられるのは
 平安末期が初見である。
 
 弘長元年(1261年)10月21日付の
 平長重書状に
 「武蔵國豊島郡江戸之内前嶋村」とある。
 
 弘長四年(1264年)4月15日付 
 平重政譲状(佐賀県深江家文書)には、
 この古名江戸は、
 その縁をインドラ神にあると察する。
 
 江戸はまた大江戸とも通称する。
 
 これは māh-endra のことで 
 māh- が「大きい」で、
 endra が、江戸と転訛したのである。
 同語は māh-endra 同語である。
 
M.K記
 

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第十一章 日本に祀られたインドの神々:古賀(小鳥信仰の里) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:古賀(小鳥信仰の里)
 
  インドの理科学知識は五明学といわれ、
 その中に医薬学を取扱った
 医方明 cikitśa-vidyā があった。
 
 cikitśa は「治療、医学」 、
 vidyā は「知識」を表わす。
 
 医方明の概略は第八章で説明した。
 
 また、
 神々の中にも医療神がおり、
 薬草が繫るカイラーサ山に住む
 デーヴィ女神、シヴァ神、
 さらに
 アシュヴィン双神は特に人間の間で
 医療活動をする神として知られる。
 
 同神は曙の女神ウシャスの双子の神で、
 馬車を駆って天を走り密を振り撒くといわれる。
 
 ソーマ祭においては
 信者から献貢されたソーマ酒のお返しに、
 彼の特別な供物スラー酒と密が配られた。
 
 その徹宵祭に
 彼に捧げられるアシュヴィン讃詠が唱されるが、
 その詠唱者のバラモンは
 鳥の衣裳を着けるという。
 
 医療と鳥は強く結びついているのである。
 
 ヴェーダの讃歌の病魔払いに
 小鳥は欠かせい演題である。
 
 サンスクリット語の鳥は kha-ga で、
 本義は「空中を動く、飛ぶ」の意味で
 鳥の他に太陽、遊星、風、電気をも表わす。
 
 この khaga が古代日本に入り
 「古賀」と転訛され国土に同化している。
 
 福岡県古賀市が先ず挙げられる。
 古賀名は江戸時代天正年間(1573~1592)
 村名として記録されているのが
 史料的に初出であるが、
 実際はより古い地名と考えられる。
 
 古賀市筵内(むしろうち)に
 小鳥神社が鎮座している。
 
 同名の神社は
 九州の福岡県と鹿児島県に散在する
 語義不明の神社であった。
 
 小鳥は
 医薬に係わる信仰と医療の実務を
 象徴するものである。
 
 市内東方に薬王寺地区があって、
 寺は南北朝時代に
 禅宗の寺院が建立されたことによるが、
 伝承によるとここは近くに鬼王山があって、
 鬼王と京王の葉の里であったという。
 
 「薬の里」との言伝えは重要である。
 
 地区内の愛宕神社のある地籍
 「社家尾」は 
 cìkìtśa-vidyā の転訛遺称である。
 
 薬王寺の西側「小山田」は 
 oşadhì で薬草を意味する。
 
 この地域で
 薬草を栽培していたか採取していたのである。
 
 oşadhì (ausadha) の同類語に 
 bhaìşajya があり「薬」を表わす。
 
 bhaìşajya が薬を表わす。
 
 鬼王・京王は
 このバジュラージャであったに違いない。
 
 古賀市の隣り新宮町の古名
 和白(わじろ)の祖語でもある。
 
 bhaìşajya には
 四種の含消薬が知られている。
 
 酥 sarpih、
 油 tailam,
 密 madhuh,
 石密 pkāntiam 
 
 の四つである。
 
 このうち
 
 密、石密は甘露 amŗta で
 宗教的にも重要な素材である。
 
 本来「不死の」「神、不死者」 であるが、
 「神酒」「療治、薬」の意味を含む。
 
 市内薦野にある天降(あまふり)神社は
 アムリークを祖語とするとみられる。
 その近くに麦田があるが、
 之は麦芽 muldhu に依る
 麦芽糖に係わるものだろう。
 
 天降神社と薬王寺の間にある地区名
 
 「米多比(ねたい)」は 
 
 mādhvi の転訛したものである。
 
 その語義は「甘い」であるが、
 「密を愛好する」者、
 つまりアシュヴィン双神の別称でもある。
 
 「医療を施す者は」
 nādhyika 蜂蜜採集者でたったのである。
 
 米多比地区内に須賀神社が鎮座する。
 
 「スカ」は 
 cìkitśa の転訛で社家と同義である。
 
 同社名は筵内、新原にもある。
 
 小鳥神社の北に舞の里があるが、
 「マイ」は
 医方 vaidya を祖語としていると見られる。
 
 千鳥は小鳥と同義で、
 宗像郡福間町にある舎利蔵は
 元来「米倉」ながら、
 ここでは sārika 鶯(うぐいす)であろう。
 
 sāri は「美しい声の小鳥」で、
 小鳥神社の隣りの地名、
 久保は雲雀(ひばり)を意味する
 kupa が祖語である。
 
 さらに
 新宮町との境にある鹿部は社家尾と同義である。
 
 駅東にある古賀神社は本義小鳥神社で、
 古賀が小鳥信仰の里sであることを示している。
 
 古賀の地名を持つところは
 古賀市ばかりではない。
 
 佐賀県鳥栖市もまた鳥の里である。
 
 市内に古賀、原古賀があり、
 三養基郡中原町にも原古賀がある。
 
 「ハラ」は bali で、
 「供物、捧げ物」を表わし、
 原古賀は「供養の小鳥」を意味する。
 
 福岡市警固3丁目にも
 小鳥神社が鎮座している。
 
 警固は「ケゴ」 と訓読され、
 角川日本地名大辞典に依ると
 
 「古代律令制下では
  大宰府に付属した外敵防衛施設
  警固所が地名に転訛した」 
 
 とされている。
 
 しかし、
 ケゴはさらに古くからのものと考えられる。
 
 小鳥である 
 khaga が祖語である。
 
 薬院は薬井とも書かれ、
 
 「往昔異国より博多に着いた船が
  薬草を多く持って来たので
  当地に薬園を構えて栽培した」
 
 との伝承を同大辞典は紹介している。
 
 明らかにここが
 医療に対する信仰と施供が
 行われていたことを示している。
 
 天神2丁目にある警固神社の地には、
 慶長2年(1597年)に
 黒田長政が福岡城を築城するまでは
 小烏(小鳥か)神社があったという。
 
 現在祭神を
 神直日神、大直日神、八十柱津日神としており、
 災苦、病魔除けの追儺祭を行っている。
 
 この地区の文化的土壌は医療に関係している。
 
 「往昔異国より博多に着いた船」は、
 インドの商人たちであったと考えられる。
 
 福岡の古名、
 魏書倭人章などに登場する「奴」は
 サンスクリット語の「船」を表わす 
 nau であり、
 那珂郡、那珂川などの「ナカ」は
 同義の 
 nauka ないし naukā (小船) に由来する。
 
 奴国は紀元前より
 インド商人 vanika (海洋交易商人)により
 開かれた交易湊であった。
 
 警固の祖語は 
 khaga で小鳥信仰の里である。
 
 行橋市大谷字近池にも
 小鳥神社が鎮座している。
 
 字名「近池」は 
 cikitśh の転訛であり、
 大谷の東隣り大生田の
 清地(すがち)神社と祖語を同じくする。
 
 同名社は
 行橋市、苅田町、勝山町、犀川町の
 京都郡内に9社、
 築上郡築城町にも1社あり、
 医療信仰が行わた事実を示す。
 
 糸島郡志摩町久家(きゅうけ)にも
 小鳥神社が鎮座している。
 
 久家は「ヒサヤ」で
 薬を表わすbhaişajya の
 同類語 bhişaj (療治、医師) 、
 bhişajya  (医薬、治療する)
 に依拠する。
 
 因みに
 愛知県西尾市に創業した
 製薬会社久屋大黒堂の「久屋」も
 同語を祖語とする商号である。
 
 古賀市の地名久保は
 雲雀(ひばり)で雀の仲間である。
 
 アジアの仏教寺院の門前で
 売られている鳥のほとんどが雀である。
 
 雀のような小さい鳥を
 神社名とする神社郡がある。
 
 四国の高知県宿毛市辺りは
 旧幡多郡である。
 
 宿毛市大島に鎮座する
 鷣神社(はい たかじんじゃ)がそれで、
 片島、宇須々木、そして橋上町に2社ある。
 
 鷣は「ハシタカ」で、橋上はその意訳であろう。
 
 ハシタカは
 負雀(すずめだが)で
 鷹に似た小さい鳥(鶲)である。
 
 幡多郡西土佐村の5社、
 中村市、高岡郡窪川町に1社府廿社ずつ
 その社号がみられる。
 
 ここの旧郡名「幡多」は
 サンスクリット語 
 vaidya (医方)に依拠するものと考える。
 
 延喜式神名帳幡多郡には
 高知坐(たかちいます)神社
 (宿毛市平田町高知山)がり、
 その地名平田は幡多と同根である。
 
 Vaidya は
 本来「学術に熟達した者」の意味であり、
 「高い知識者」「高知」の語義である。
 
 khaga (小鳥)が祀られているのは
 西日本ばかりではない。
 
 茨城県古河市も
 その市名 khaga に依拠している。
 
 市内古河及び宮前町に雀神社があり、
 古河は古賀と同義である。
 
 さらに、
 栃木県宇都宮市に雀宮町があり、 
 雀宮神社が祀られている。
 
 これらも医薬に係わる神社である。
 
 M.K記

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第十一章 日本に祀られたインドの神々:横山(医方明の山) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:横山(医方明の山)
 
  長野県の塩尻市と岡谷市の南北に走る
  筑摩山地がある。
 
 その最高峰を鉢伏山という。
 同山は信府統記に「八峰瀬」と表記されている。
 
 「鉢伏」は奈良市の高円山の南に鉢伏町があり、
 これは延喜式神名帳添上郡に
  「宅布世神社」がある。
 
 「ヤブセ」と訓読されるので、
  八峰瀬はヤブセと読まれる。
 
 ヤブセは
  サンスクリット語の「草」を表わす yavosa で、
 第1章で紹介した九州長崎県などの
 矢保佐神社の社号と同義である。
 
 鉢伏山の山頂には
  鉢伏権現社の奥宮が鎮座する。
 
 その前宮は現在松本市内田にある
 牛伏(ごふく)寺の境内に置かれている。
 
 その縁起に依ると、
  同寺は古くは鉢伏山の中腹にあり、
 蓬堂(よもぎどう)といわれていたという。
 
 蓬は薬草に使われる草木であり、
 ここのヤブセとはヨモギ(蓬)と考えられる。
 
 出血に対し揉んでその汁を止血に使ったり、
 乾燥させて灸のための藻草を作る。
 
 筑摩山地には、
  現在の塩尻市片丘北熊井の山間に
 蓬平(よもぎたいら)という地名がかってあり、
 そこに堂宇が建てられていたことが
  伝えられている。
 
 この辺りの山地は
  一般に東山と言い慣わされている。
 
 東山の南端、塩尻峠の近くに
  旧塩尻(東山)地区があり、
 そこに東名神社がある。
 
 東名は暁光、曙のことと解釈されるが、
 延喜式神名帳信濃国筑摩郡に載る
  「阿礼神社」と関係する。
 
 同社名の神社は
  現在塩尻市塩尻町大宮に前宮、
 その東方へ2Kmの柿沢明神平に
  奥宮(社)がある。
 
 阿礼はサンスクリット語の 
  aruna (赤色、曙、太陽) 
 あるいは arusi (同)に依拠する。
 
 筑摩山地が東山と称される由緒である。
 
 同社の伝承によると奥社は 
 五百砥(いおと)山にあった言うが、
 その本名は医王堂山であったらしい。
 
 「式内社調査報告」では
 五百砥山にあった奥社の
 旧蹟地について
 「阿礼神社前社より東方凡三十町、
   同奥社より東方凡二十町、
  鉢伏山支脈塩尻峠の北方にあり」とされる。
 
 東明神社の地に当たる。
 
 しかし、
 そこに医王堂があったわけではない。
 
 医王堂は蓬平にあったと考えられる。
 
 蓬平の山上が高ボッチ高原で、
 横山神社のある「横山」である。
 
 北熊井には横畑、横町といった地名がある。
 
 医王堂に類する遺称は見られないが、
 「横」がそれを代弁していると考える。
 
 「ヨコ」はサンスクリット語の 
 yoga の転訛である。
 
 インドのヨガの概略については
 第8章で紹介した。
 
 本来「実施、適用、対応」の意味で、
 「医療、治療」を強調する用語である。
 
 鉢伏山のヤブセである薬草と
 ヨコである医療を合わせ、
 筑摩山地は医薬の山である。
 
 佐保佐神社のある長崎県松浦郡、
 田平郡にある阿羅仁神社は
 デーヴィ女神をいうものであると述べたが、
 ここの阿礼神社も同女神を
 その往昔には祀っていたとみられる。
 
 東山には大欠(おおかけ)、
 欠ノ湯温泉と「欠」のつく地名がある。
 
 「欠(けつ)」は
 サンスクリット語の 
 ketu の転訛で「光明、光輝」を表わし、
 aruni (暁)に対応する。
 
 塩尻市の熊井、内田は
 かって片丘村であった。
 
 この「片」は「欠」と同根である。
 
 北熊井には北原、北村の地籍が
 古くからあるが、
 双方とも ketu-māla に由来する。
 
 meru (須弥山)にある天国の一つの名称である。
 
 信府統記には八峰瀬山の傍らの山として
 「丸山」名がみられ、
 meru 山の転訛と考えられる。
 
 さらに同地区内には
 ナカラ古屋敷という古名があった。
 
 ナカラは nagara の転訛で、
 現在町村、中屋敷といった地名が
 みられるように
 「町、都市、城、城邑」を意味する。
 
 蓬平近くの旧跡からは
 平安時代のものとみられる高さ
 2㍍の瓦塔が発掘されている。
 
 そこにあった医王堂は
 平安時代まで存続したと考えられる。
 
 筑摩山地の周辺地帯を
 古代において天界と見做していた形跡がある。
 
 阿礼神社の前宮がある
 塩尻町区の西側にある堀ノ内に
 大門神社が鎮座する。
 
 その境内から完全な銅鐸が発掘されており、
 古い歴史を持つ。
 
 その西方は大門地区と呼ばれる。
 大門は deva-māna (神々の住所) あるいは
 devana (光輝)と天神 deva に
 係わる名称である。
 
 柴宮名はシヴァ Siva 神の宮と考える。
 Deva は狭義にはシヴァ神をいう。
 
 市内大門の西方を流れる
 奈良井川は narayaka を祖語とする。
 
 これもシヴァ神の別称である。
 また地区名宗賀は svarga (天界、天国)に、
 洗馬は saiva (シヴァ崇拝者)に
 由来するとみられる。
 
 西方に聳える日本アルプスは
 正しくは飛騨山脈だが、
 「ヒダ」はヒマラヤ(雪山)と同義の
 Vindhya 山脈名を移入したもので
 デーヴィ女神の住居のある山名である。
 
 筑摩野は天界であり、
 横山医方明の山であった。
 
 筑摩山地の東側は岡谷市であるが、
 鉢伏山の南麓の深い谷を水源とし、
 横山の東側を流れる川が横河川と呼ばれ、
 岡谷市長池には横川地区もある。
 
 長地(おさち)名は
 サンスクリット語の薬草を表わす
 osadhi の転訛である。
 
 長地地区にある東堀(堀ノ内の東側の意)は
 古来医薬に纏わる伝承、文化があり、
 その伝統を土壌に製薬業の創始者が出ている。
 
 諏訪神社には「諏訪薬」の秘伝があり、
 その傘下から多くの製薬企業が誕れた。
 
 長地は医薬の採集地であったと考えられる。
 
 松本市の松本城の東方に
 横田・横田神社があり、女鳥羽がある。
 
 「メトバ」は福岡県古賀市の米多比と同じく
 mādhvi (甘い、蜜を愛好する者)に
 依る地名である。
 
 横田の北の大村内に
 「松宮前大明神社」が鎮座するが、
 マツは madhu で「甘い、蜂蜜」を意味する。
 
 同地区内の「大宮神社」が松宮本宮であろう。
 
 横田と女鳥羽との間の元町名も 
 madhu の転訛である。
 
 松本の松はこの松宮(madhu)を祖語とする。
 
 女鳥羽の岡宮神社、
 その北方の岡田、岡田神社も
 「薬剤(解毒剤)」を意味する
 agada に依る地名と考える。
 
 岡田神社は延喜式神名帳筑摩郡に載る神社で、
 信府統記によると「芝宮」といわれたともいい、
 芝宮と同義と考えられ、
 
 医療神であるシヴァ神が
 祀られていたとみられる。
 『日本書紀』天武天皇紀14年10月条に
 「東間温湯」が出てくるが、
 この地域にある浅間温泉に当てられている。
 
 「宇治拾遺」に
 「しなののくにつくまの湯といふ所に、
  薬湯あり」とよまれ、
 筑摩の湯は薬湯であった。
 
 岡谷市の横川、
  下伊那郡阿智村の横川、
  上伊那郡辰野町の横川(川)、
 群馬県碓氷郡松井田町横川は、
  ヨガの修行者 yoga-cāra 
 あるいはヨガの修行者 
  yoga-cāra に依るとも考えられが、
 医薬に係わる地名であることには
  間違いないと考える。
 
 彼等は健康のための薬剤についての知識にも
 熟達していたのである。
 
 M.K記


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