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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(4)都農神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(4)都農神社》
 
  宮崎県児湯郡都農町に都農神社が鎮座する。
 
 『延喜式神名帳』に日向国児湯郡に載るが、
 その社殿に神武天皇が東征の出立に際し
 宮崎の宮を発った後、
 この地で武運長久を祈念して
  鎮祭したという古社である。
 
 同社の祭神は大己貴命、大国主命と、
 同神とされる二神名を並列させている、
 同社神域の西方に藤見の地名がある。
 
 これは「トウミ」と訓め、「トミ」に通じ、
 大和盆地の古族登美氏族、
 また出雲の富氏と
 大国主神を奉祭していた氏族名に共通する。
 
 この都農町のある児湯郡辺りには
 「富」の付く地名が目立つのである。
 
 日向市の富高・富島、
 西都市岡富、新富町富田、国富町、
 宮崎市富吉で都農神社を取り巻いている。
 
 この一帯は「『三国志』「魏書」
 第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条
 に載る「投馬国」でもあり、
 投馬は「富」である。
 
 ここが投馬国である一つの証は、
 その官名「弥弥」が
 日向市の美々津町名及耳川に
 その名を遺していることである。
 
 風土記日向国逸文に「吐濃峯」の一文がある。
 
  日向國古庚郡、
  常ニハ兒湯郡トカクニ、
  吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。
 
  神ヲハス、
  吐乃大明神トソ申スナル。
  昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、
  此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、
  船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、
  新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、
 
  韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、
  弓射給ケル時、
  土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、
  弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、
  男一人女一人ソ有ケル。
 
  其ヲ神人トシテ召仕ヒケリ、
  其ノ子孫今ニ残レリ。
 
  是ヲ頭黒ト云う。
 
  始テホリ出サルル時、
  頭黒サシ出タリケル故ニヤ、
  子孫ハヒロゴリケルカ。
 
  疫病ニ死シ失テ、二人ニナリタリケリ。
 
  其ノ事ヲカノ國ニ記ニ云ヘルニハ、
  日々ニ死ニツキテ僅ニ残ル
  男女両口ト云ヘリ。
 
  是 
  國守神人ヲカリツカヒテ
  國役シタガワシムル故ニ、
  明神イカリヲナシ給テ、
  アシキ病起リテ死ニケル也。
 
  是ヲ思へバ、
  男女ヲモ口トハ云フベキニコソト
  覚ルナリ。
 
  吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、
  必ズイヤシ給トカヤ、
 
  カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、
  頌文シテ云。
 
  五常以汝為高、
  今者此物高於汝、
  若有懐憤、
  宜令平却ト唱ヘテ、
  杵ト云フモノヲシテ、
  朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、
  疱瘡イユト云ヘリ。
 
  コトノツイデナレバシメス。
 
 都農神社が祭神を二座としているのは
 「男一人女一人」に依拠した配慮であろうか。
 
 この中で注目されるのは「頭黒」で、
 彼等が神人であることである。
 
 「吐乃ノ大明神」とは
 都農神社の祭神で「頭黒の神人」である。
 
 逸文の伝承は事実とはいえそうもないが、
 「吐乃ノ大明神」の背景に「黒」があったから、
 
 このような話となったと推測される。
 
 吐濃峯とは
 都農神社の後方にある岩山とみられ、
 
 「大明神」とは大国主神である。
 
 三輪山の大神神社の祭神が
 「大国主神」であったとの見解を述べたが、
 「頭黒」は
 その大国主から発想された神人であろう。
 
 というのも「吐乃」である「都農」が
 「黒」を意味しているからである。
 
 大阪市住吉はかって
 墨江(すみのえ)であったが、
 これは大阪湾をいう。
 
 『古事記』の「血沼(ちぬ)海」、
 『日本書紀』の「葦淳(ちぬ)海」で、
 「チヌ」は墨で「黒」の意味である。
 
 このチヌこそ「都農」の祖語である。
 
 漁師の専門用語で九州方面から伝わった
 「葦淳鯛(ちぬたい)」は黒鯛のことである。
 
 都濃町の南、
 川南町に平田川へ流入する川で黒鯛川があり、
 黒鯛の地名がある。
 
 七福神に「大黒天」がいるが、
 彼には鯛がつきものである。
 
 その理由はこの「チヌ」にある。
 
 そしてその祖像が
 大国主(大黒主)神であることは
 知られているが、
 仏教が入ってきてから自在天の化身である
  mahākāra (大黒)と習合したものである。
 
 都農神社は大黒主(大黒主)神を祀る
  「黒神社」である。
 
 都農川の北方に心見川が流れ、
 心見の地名もあるが、
 これはサンスクリット語の意味する 
 śyama の転写であり、
 心見川は「黒川」である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(3)出雲族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(3)出雲族》
 
  富氏の伝承によると「勾玉」のことを
 「財(たから)」といって尊重してきた。
 
 財は竹玉(たけたま)であり、
 大神神社でいう竹玉が
 太初においては
 勾玉であったことを示唆している。
 
 前に富氏は出雲井神社を奉祭しており、
 その祭神を大国主と述べたが、
 その正式な神名は「久那斗神」である。
 
 同神は簸川町富村の
 富神社においても祀られるている。
 
 久那斗神を
 敢えて大国主神と述べたのは
 次のような事情に依る。
 
 同神は「岐、来名戸」とも表記されるが、
 これは
 サンスクリット語の 
 khanati(te) の音写である。
 
 その語義は「掘る、穿つ、貫く」で、 
 khanitr は「掘る者」となる。
 
 「掘る」のは「穴を掘る、穿つ」の意味であり、
 当然大穴持命に通じ、大国主神を表わす。
 
 つまるところの久那斗神は大国主神となる。
 
 出雲郷内に竹花、また
 意宇川を越えた松江市竹矢町があるように
 ここが「タカ」の里であったことが理解できる。
 
 出雲風土記から「タカ(多久)」のつく
 神社を拾ってみる。
 
 ○嶋根郡 多気社(松江市上宇部尾町多気神社)
 ○楯縫郡 多久社(平田市多久町多久神社)
 ○神門郡 多吉社(簸川郡多伎町多岐多岐神社)
 ○神門郡 多支枳社(簸川郡多伎町口田儀
                               多伎芸神社)
 ○神門郡 多吉社(簸川郡多伎町多岐
                       多岐神社境内大穴持神社)
 ○神門郡 多支社(簸川郡多伎町
                          小田尾若権現社に比定)
 ○神門郡 多支支社(簸川郡多伎町口田儀
     多伎芸神社境内、旧社地奥田儀の田尻谷という)
 ○飯石郡 多加社(飯石郡吉田村杉戸
                            大歳神社に比定)
 
 その他、出雲郡に多義村が載る。
 
 これは現大原郡加茂町大竹に比定されており、
 その近く斐川町の学頭に大黒山がある。
 
 阿陀加夜 ādi-gaya が
 出雲の太初の種族であることを
 紹介したのであるが、
 この名称が三輪山周辺にも
 遺っていることを説明しておきたい。
 
 阿陀が「小田」と転訛して多岐町にあるが、
 この ādi が桜井市芝地区の小字
 「織田」となっている。
 
 また芝のすぐ東三輪山との間が
 茅原(ちはら)であるが、
 これはまた「カヤハラ」と訓め
 「カヤ」は gaya の音写で、
 合わすと「阿陀加夜」と同音となる。
 
 また芝の北の箸中の向うには太田地区があり、
 これも 
 ādi の転訛である。
 
 同地には天照御魂神社が鎮座するが 
 ādi は「太初の」の他に
 「太陽」を語義としており、
 その祖語に相応しい。
 
 同社は
 『延喜式神名帳』の大和国城上郡に載る
 「他田坐天照御魂神社大」に比定されている。
 
 これらの名前も阿陀加夜怒志である
 大神神社の大国主神に係わるが、
 その奉祭氏族、
 礒城氏族を含む
 登美族を称したものと考えられる。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(3)出雲族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(3)出雲族》
 
   「タカ」は大国主神と不離の用語である。
 
 第11章「剣を地名とする地名」で紹介した
 茨城県真壁郡大和町の大国主命を祭る
 大国玉神社の隣りに
 鎮座する高久神社名及び
  その地区名「高久」は明らかに
 「大国主神」に係わるものである。
 
 そしてこの
 「タク」が多くみられるのが出雲である。
 
 「出雲風土記」の神門郡に「多伎郡」があり、
 
  「天の下造らしし大神の御子、
  阿陀加夜努志多伎吉比売坐す。
  故、多吉といふ。
  神亀3年、字を多伎と改むとある。」 
 
 「天の下造らしし大神」とは、
 同郡の「八野(やの)郡」に
 「天の下造らしし大神、大穴持命」とあり、
 大穴持命(出雲特有の大国主神の尊名)を表わす。
 
 既に数回述べたように
 「阿陀加夜努志」は
 サンスクリット語の 
 ādi-gaya の転写で、
 主(努志)を添えた名称で、
  「太初種族の主」という意義で
 「多伎吉比売命」は
 『古事記』にいう
 「天の下という造らしし大神」に合致する。
 
 「多伎吉比売命」は
 『古事記』にいう「高比売命」で
 別称を下光(したてる)比売命という。
 
 「多伎」は「タカ:竹」で
 大穴持命自身を表わし、
 「吉」は「芸」と同じで、
 邇邇芸命の「芸(ぐん)」と同様
 サンスクリット語の音写で
 「紐を構成する條(すじ)、糸、網」を意味し、
 「多伎芸」は竹玉と同義で勾玉あるいは
 臼玉(菅玉)を表わす。
 
 それは大穴持命の御子の名称である。
 
 「多伎郷」は現在の簸川郡多伎町に当たる。
 
 同町多岐に鎮座する多岐神社及び
 口田儀の多伎芸神社には
 阿陀加夜怒志多伎吉比売命が祀られている。
 
 多伎とは口田儀の間に挟さまれて
 小田地区があり、
 小田神社も鎮座するが、
 「オダ」は「阿陀」と祖語
 ādi (太初の) を同じくする。
 
 そして
 小田温泉のある小字名
 高木は多伎吉の転訛である。
 
 八束郡東出雲町は
 出雲國風土記にも載る
 かっての意宇郡の地で「出雲郷」を現在
 「アダカエ郷」と呼んでいるが、
 そこに阿太加夜神社が
 鎮座していることは既述のとおりで、
 この辺りが出雲の発祥地である。
 
 同社の西側を意宇川が流れ、
 上流は八雲村で熊野神社が鎮座する。
 
 意宇が奈良県桜井市辺りにいた
  『古事記』にいう生尾人と
 関係があるだろうということを述べたが、
 大物主神を考察した際に述べた 
 ahi-dvis(蛇王、龍王)を
 思い出していただければ、
 双方の濃密な関係を知ることができる。
 
 熊野神社の西方に
 「蛇山」があることからすると、
 意宇川の流れる峡谷は蛇の里である。
 
 つまり
 意宇は 
 ahi の転訛である。
 
 須佐之男命の
 八俣の遠呂智(おろち・大蛇)退治の物語は、
 彼の勢力がこの地方へ入って来た時に
 蛇族(意宇)を征圧したことを
 物語っているのである。
 
 その蛇族とはすでに述べたように
 富(とび)氏族であろう。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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