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第十二章 大国主神と大物主神:神坐日向神社と大三輪氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 神坐日向神社と大三輪氏
 『古事記』の
 大国主神が少名毘古那神に去られた後
 「吾狭して何れにか能く此の国を得作らむ」
 と嘆いていた折、
 「海を光(てら)して依り来る神」があった。
 この神こそ 
 divasa (光輝) で光して来た大物主神である。
 『古事記』は
 その神名を明らかにしていなかったが、
 これで判明したことになる。
 しかも
 「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ」と 
 大国主神に言い、
 「此れは御諸山の上に坐す神なり」とある。
 「東」は日向で、
 「青垣の東の山の上」は「御諸山の上」で、
 「上」とは「高宮」「神峰」の「コウ」に当たる。
 光明(divasa)の神(大物主神)が
 三輪山の上(高宮)に鎮座したのである。
 「光明、光輝」を表わす
 サンスクリット語に jyotis がある。
 この jyotis が事代主命の祖語で、
 音訓すると「じだいす」となり、
 漢音写の「樹提」と近似する。
 『古事記』には
 「大国主神、亦神屋楯比売命を娶して
  生める子は事代主神」
 とあるが、
 その母命名は「じんやたて」と読め、
 jyotis の動詞形 jyotate (輝く)に近似し、
 「事代主」が jyotis を
 祖語とすることを示唆する。
 このように「光輝、光明」を内容とすると
 大物主神と事代主神が
 櫛御方命(大奇方日方命)の
 父の名称を混乱させる原因となっている。
 三輪山北西檜原の摂社檜原人神社には
 天照大神苦御魂神が祀られており、
 三輪山に太陽神が祀られていることを示唆する。
 檜原は「日原」とも表記される。
 同社は大神神社の境外摂社ではあるが、
 『日本書紀』崇神天皇の6年条によると、
 天照大神と倭大国魂の二神を
 天皇の居所に祀ったところ
 一緒に住むことを我慢されなかったので、
 天照大神に豊鍬入姫命を付けて
 倭笠縫邑に祀られたとある。
 その鎮座地が檜原神社の興りとするのが
 大西源一の見解である。
 つまり、
 崇神天皇の時、
 大田田根子が三輪山の奉祭に当たるようになり、
 太陽信仰が始められたと考えられる。
 檜原の豊鍬入姫宮は昭和時代末の建立だが、
 同姫は崇神天皇の皇女である。
 檜原神社の祭神を
 天照大神苦御魂神とするところみると、
 苦御魂神は天照大神の御子神と解釈でき、
 「日向御子」に当たるだろう。
 「天照大神」とは
 天の光明(日)神である大物主神であるから、
 苦御魂神はその子と想定することができる。
 上記大田田根子の祖のうち
 第三代の天日方奇日方命の
 「日方」は divasa (日、昼)に関係ありそうだ。
 同命の別称に「阿田都久志尼命」がある。
 インドのリグヴェーダなど初期の支配的神に 
 divasa と同義の語義を持つ dyaus 神がいる。
 その本義は「大空、虚空」である。
 彼の御子神には
  アグニ神、
  スーリヤ神(太陽神)、
  アーディティア(無限)、
 娘神にウシャス((曉紅神)がいる。
 「阿田都」は āditya の音写で、
 「日方」はその意訳名であろう。
 その母神アーディティ  
 āditi が「無限」の意味で、
 「久志」は「無窮」であり、
 阿田都久志尼命は「無限無窮の命」となる。
 この解釈からも「大物主」が 
 divasa であることが知られる。
 鎌倉時代の文永2年(1265)
 大神社家に依って書かれた
 「大神分身類社鈔並附尾」には
 三輪上神社一座に
 「日本大国主命、神体杉木」とある。
 上神社は高宮神社のことである。
 「日本」は「ヤマト」と解釈できる。
 大国主命には、
 これまでの「大黒主」とは違う
 解釈を考えなければならない。
 現在の高宮神社の祭神が
  「日向御子」であるからである。
 短絡的には
  大国主命と日向御子は
 同神とみることができる。
 この日向御子、苦御魂神とは
 どのような内容を含んでいるのだろうか。
  天照大神について、
 『日本書紀』は
 伊弉諾尊、伊弉冉尊が相談して
 日の神を生んだが、
 その名を
 大日霊貴
  (於保比屡咩武智:おほひるめのむち)、
 一書に天照大神、
  一書に天照大日霊尊というとする。
 「オホヒルメ」は大隅八幡宮縁起にもみえ、
 「大比留女」と表記されているが、
 サンスクリット語の ahar を転訛させ
 「女」を符した名称である。
 
 ahar は「日」を表わすが、
 同類語 ahana は
 対馬の豆酸にある「天童」の母名
 「照日之菜」の祖語である。
 しかし問題はこれらの日神が女神であり、
 天照大神と想定された
 大物主 dyaus 神が男神であり、
 合致しないことである。
 天照大神は伊勢神宮に祀られている。
 垂仁天皇の時、豊鍬入姫命に代わって
 倭姫命によって奉祀され、
 大和から伊賀、近江、美濃を経て
 伊勢へ遷座した過程を記したのが
 「倭姫命世紀」だが、
 その崇神天皇58年に
 「倭弥和御室山領上宮」に奉斎されたとある。
 すると女神である「天照大神」が
 高宮神社に祀られていたことになるが、
 檜原神社が
 天照大神苦御魂神、
 伊弉諾尊、
 伊弉冉尊の
 三神を祀っている事情からすると、
 同社のいう
 天照大神苦御魂神の「天照大神」となる。
 そしてこの女神が高宮神社の祭神
   「日向御子神」となる。
 同社は大神神社の摂社であるから、
 崇神天皇時代に奉祭し始めた
 日神(太陽神)崇拝を
 三輪氏はその尊名を変えて
 継承してきたことになる。
 「御子」は「神子」である。
 神子は
 巫覡(きぬ)、幾穪(きね)であるが、
 これはサンスクリット語の
 gnā の音写で「女神」を表わす。
 巫覡は巫女で神に仕える女で
  本来は神妃を語義とするものである。
 よって
 神子である御子とは「女神」であるのである。
 大物主の神妃となった
 勢夜陀多良毘売命や
 夜麻登登母母曾毘売命は 
 gnā となったのである。
 桜井市茅原の
 倭迹迹日百襲姫命(『日本書紀』表記)を祀る
 神御前神社名の「御前」は
  貴人の「奥方、妻」の意味で
 「神妃」を神社名とするものである。
 「大神分身類社鈔並附尾」が
 上神社の祭神を日本大国主命としたのは、
 この「クニ」を遠因としているかもしれない。
 崇神天皇の頃大黒主であった神格が
 大国主へと転換されたとも考えられる。
 「神体杉木」とあるのは、
 京都市伏見区の稲荷山でみたように
 「スギ」は śuci ないし 
 śucya で「光輝」 を表わし、
 大神神社の神木でもあるが、
 天照(光明)神の鎮座に相応しい。
 さて、日向御子神の祖像であるが、
 この神はディアウス神の御子である。
 既に述べた諸神のうちの女神は
 ウシャス Usas 神以外にない。
 その名は暁を指す。
 同神が大分県宇佐市の宇佐神宮の祭神
 比売神であることは再々述べた。
 現在単に比売神とのみ称するのは、
 同神が皇大神となり
 皇祖して奉祭されるに及んで天朝に対する
 憚りからであろうと考えられる。
 欽明天皇の時代
 大神神社の大神氏の一族である大神比義が
 「豊前国宇佐郡菱形山に八幡大神を奉祭、
   宇佐八幡の祠宮の祖」
 となっており、
 相互に関係が認められる。
 ウシャスは
 夜明けの空の曙を神格の象徴としたもので、
 宇佐神宮の社殿が朱塗りされているのは
  その曙の色彩を採り入れたからである。
 同神はインドの神話が作られた初期、
 つまりグヴェーダにおいては
 最も重要な女神であり、
 多くの讃歌が語られている。
 だが、
 後にはその支配的地位を
 徐々に失ってしまった。
 ヴェロニカ・イオンズは「インド神話」の中で
 ウシャスについて次の様に述べている。
  暁であるウシャスは
  最も民衆的なヴェーダの神々の一人であって、
  最も美しい讃歌のいくつかを
  生み出す源となった。
  真紅の衣に身を包み、
  黄金のヴェールを着けた彼女は優しい
  花嫁に、あるいは夫が毎朝彼女を見るたびに
  美しさを増してゆく妻に似ていた。
  永遠の者でありながら彼女は常に若く、
  全ての生ある者に生命の息吹を与え、
  外見上の死から睡眠者を起し、
  巣から鳥を立ち上がらせ、
  与えられた仕事に人間を差し向ける。
  ウシャスは偉大なものにも貧しいものにも、
  あらゆるものに富と光をもたらし、
  全ての住居に幸せをあたえる。
  しかし、
    彼女は自分自身は若いままでいるにも
  係わらず、
  死を免れぬものに年齢をもたらす。
  ウシャスは人類の友として、
  また天と地の連結者として尊崇されている。
 このウシャス(Ushas उषस्)神こそ
 大孁日神にして天照大神の祖像である。
 暁は東の空から始まる。
 「青垣東の山の上」や「日向」の概念に合い、
 「日向御子」がウシャス神で
 ディアウス神の御子であることを示唆している。
 天照大神は日本の皇祖神として  
 その神格を高らしめたが、
 その背景にインドの神々があったのである。
 大神神社が神官を
 「祝」といわず「禰宜」といっているのは
 大田田根子の「根子」に始まる。
 崇神天皇時代以降の慣習に
 従っているものである。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:神坐日向神社と大三輪氏① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 神坐日向神社と大三輪氏①
 
  大神神社の奉祭氏族としては大三輪氏
 あるいは三輪氏がよく知られる。
 この氏族は大田田根子に始まる。
 彼が三輪山を祭るようになったのは
 崇神天皇の時代からである。
 そして『記・紀』は
 それ以前に
 三輪山信仰が衰えていたことを示唆する。
 大物主神の御子神を皇后とした
 神武天皇の皇孫が
 大物主信仰を尊重したことは当然だが、
 しかし、
 崇神天皇の時代か
 その前の開化天皇の時代あたりに
 その勢力が三輪山周辺の覇権か奉祭権を
 失ってしまったと考えられる。
 つまり
 新しい権力集団が
 この地域に進攻してきたといいうる。
 その支配者たちは大物主神への奉祭を
 重要視しなかった。
 そのため社会は疲弊し疫病が広がった。
 
 その時巫女である
 倭迹迹日百襲姫による神託
 (『日本書紀』)、
 あるいは
 崇神天皇の夢に大物主神が直接顕れて
 (『古事記』)、
 旧来に復して大物主神を
 大田田根子に斎き祀らせるよう託したのである。
 大田田根子は
 『日本書紀』では茅淳県陶邑にいた。
 大物主神の御子神を皇后とした
 神武天皇の皇孫が
 大物主信仰を尊重したことは当然だが、
 『古事記』では意富多多泥古と表記し、
 河内の美努村にいた。
 「大」「意富」は
 彼が「オホ」に縁りの者であることを示す。
 「田田」は「授けられた」あるいは「選ばれた」の
 意味で、「根子」「泥古」は祭官「禰宜」である。
 「河内の美努村」「茅淳県陶邑」は
 大阪府堺市辺りとされているが、
 後に考察する。
 『古事記』には
  「大物主大神、陶津耳命の女、
   活玉依毘売を娶して生める子、
   名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子 、
     建甕槌の子、僕意富多多泥古ぞ」
  と言わせている。
 「陶津耳命」、
 『日本書紀』の「茅淳県陶邑」とある
 「陶」は大物主神を祭祀する禰宜(祝)が
 土器(陶器)を作る技術を
 備えていなければならなかった事情を
 示唆している。
 瓺玉である
 二重口縁壺などを製作する技量である。
 大田田根子の祖について、
 『記・紀』は大物主大神とするが、
 三輪高宮系図では
 大国主命の都美波八重事代主命としている。
 これは大国主神と大物主神が
 習合された後の解釈と
 みられるが、
 それは
 大田田根子の時代つまり
 崇神天皇の時代には
 すでに
 その習合がなされていたものと
 察することができる。
 太田亮が
 姓氏家系大辞典でその系統を纏めているので
 それに沿い略記してみる。
 <1>大国主神
 <2>事代主神
 <3>天日方奇日方命
  「姓氏録」には
  大物主神の男、久斯比賀多命、
    又は櫛御方命とあり、
  『日本書紀』に
  「父は大物主大神、母は活玉依媛、
   陶津耳の女、
    別の説では奇日方天日方武茅淳祇の女」
 とある。
 またの名は阿田都久志尼命という。
 <4>健飯勝命
   天日方奇日方命の子、
  『古事記』の飯肩巣見命
 <5>健甕尻命
   健飯勝命の子、健甕槌命、健甕之尾命
 <6>豊御気主命
   健甕尻命の子、健甕依命
 <7>大御気主命
   豊御気主命 <8>二男子の父
 
 <8>阿田賀田主命 吾田片隅命
   健飯賀田主命 
    『古事記』は飯肩巣見命の子とする。
 <9>大田田禰古命
   健飯賀田須命の子、
    『古事記』は健甕槌の子とする。
  大直禰古命
 <10>大御気持命 大田田禰古命の子、
        <11>三男子の父 
 <11>大鴨積命 大賀茂都美命
    (鴨朝臣、鴨氏の祖)、  加茂君
 
 大友主命、
 『日本書紀』推任天皇に三輪君祖大友主、
  仲哀天皇に大三輪大友主君、大神君田田彦命
 『日本書紀』仲哀天皇に神部直、大神部直
 この系図の命(みこと)名に目立つのは
 「ミカ、ミケ」「カタスミ」である。
 前者は甕と同音で「壺、瓶、甕」である。
 また肩、片、賀田の「カタ」は
 サンスクリット語の
 ghaṭa で「瓶、壺、水差し」を、
 巣見、隅の「スミ」は śami で
 「仕事、労働」を表わし、
 ghaṭa-śami は「陶工」を表現するものである。
 「陶津耳命」「陶邑」などの職に
 係わる地名に対応し、
 大田田根子が禰宜として土器を作る技術を
 持っていなければならなかったと述べたのは
 この祖名よっても理解される。
 第5代の甕尾命などの名前は
 二重口縁壺の底を
 象徴したもので、
 御気主、御気持名が二重口縁壺を
 提供する主であることを示している。
 そして、鴨、賀茂の「カモ」は khamat で
 「穴持」で
 これも二重口縁壺というものである。
 ここに二重口縁壺である櫛瓺玉大物主神と
 大穴持である大国主神が
 習合していることをみることができる。
 三輪山周辺から出土した壺で
 「横瓮」と呼ばれているものには
 穴が開いていなかった。
 それは3世紀に属するものであろう。
 その後およそ4世紀の始めから各地の古墳で
 祭祀に用いられるようになった
 二重口縁壺は大田田根子以降の
 大神神社によって、
 祈祷者が穴を穿ち易い壺かあるいは
 穴が開けられた状態の壺が
 提供されたと考えられる。
 なお、 
 ghata の gha は megha 弥伽と同音で
 漢音写では「伽」と表記される。
 『古事記』が記す大田田根子の祖
 櫛御方神、飯肩巣見命、建甕槌命を
 現在祭神としているのが
 神坐日向神社である。
 延喜式神名帳に「神坐日向神社大」とある神社で、
 桜井市三輪字御子宮に鎮座する。
 そして、
 その日向御子神を祭っているのが高宮社で
 三輪山の頂、神峯(こうのみね)に鎮座する。
 双方とも大神神社の摂社であり、
 三輪氏と強い縁(ゆか)りのある社である。
 日向社が三神を祭神としているが、
 実際のところその祭神は
 史料においても確定しがたいのが実情である。
 「日向御子」を解くことが
 その秘密を解く術となる。
 日向は「日に向う」ことで「東」と解釈されている。
 その背景についてはここでは省くが、
 その概念に「光輝」がある。
 「高宮」、神事の「コウ」は、
 単に「高い」「かみの」をいっているのではない。
 これはサンスクリット語の 
 gaura の転訛で「光輝、光明」を表わす。
 三輪山の山頂にあるに相応しい名称である。
 そして、大物主神に新しい神格で現れる。
 つまりサンスクリット語の 
 divasa (ダイブサ)で「日、昼」を表わす。
 同語は aha と同義で、
 同類語に dhan,ahana,ahar があり、
 これまで「オホ、オフル」の祖語として
 紹介してきた。
 つまり、
 大物主神は「光明」の神である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
  

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第十二章 大国主神と大物主神:大穴持命と出雲 (2)恵曇と出雲 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大穴持命と出雲(2)恵曇と出雲
 
  三輪山大神神社の山麓に
 出雲屋敷の旧跡があり、
 そこは
 比売多多良伊須気余理比売命の
 住居(屋敷)があったところで、
 「イヅモ」が iṣumat で
 「矢持」の意味であった。
 
 Iṣu (矢)はまた iṣ に通じ
  「神酒、天に湛える爽快な水」で
 雨の比喩名であった。
 
 このことによると
 「出雲:雲を出るもの」が
 「雨」であることを理解できる。
 
 八束郡東出雲町出雲郷の
 阿陀加夜神社のある
 地籍は「竹花」という。
 
 そのすぐ北隣りは松江市竹矢町であるが、
 実は竹花、竹矢は同義である。
 
 「花」が
 サンスクリット語の 
 hāna の音写で
 「矢」の語義であるからである。
 
 「竹」は既にみたように大国主神であり、
 阿太加夜努志、大穴持命で、
 竹花・竹矢は
  「大国主神の降らす雨」の
 意味で出雲と同義となる。
 
 出雲郷から遠くない八
  雲村日吉・岩坂の境に雨包山があるが、
 その東側周辺に安部地区がある。
 
 これは水を意味する 
  ambu あるいは ambu-da (雲) に依る。
 
 出雲には「矢」の付く地名が極めて多い。
 
 八雲村の熊野山(天狗山)への矢谷、
 松江市の竹矢町に接した矢田町、
 安来市矢田、
 出雲市矢尾町・矢野町、鹿島町の
 一矢などである。
 
 出雲の名称については出雲風土記に説明がある。
 
  出雲と号(なづ)くる所以は
    八束水臣(みずおみ)津野命、
  詔りたまひしく「八雲立つ」と詔りたまひき。
  故八雲立つ出雲といふ。
 
 この水臣は「安部」にいた者であろう。
 
 その條(くだり)によると
 出雲は八雲と同義であると判断できる。
 
 ※「八雲立つ出雲の国」は〔狭布の推国〕。
 
   所以号「意宇」者。
    國引坐 "八束水臣津野命" 詔、
   「八雲立出雲國 者、狭布之推國在哉。
     初國小所作。故將作縫詔而
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十二章 大穴持命と出雲(1)熊野神社と来待神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大穴持命と出雲(1)熊野神社と来待神社
 
 風土記は8世紀の中頃編纂されたものだが、
 それから250年後の
 延喜式神名帳の出雲国のうちに
 「大穴持」を社名とする神社が
 意宇郡に3社、
 出雲郡に6社ある。
 
 「大穴持命」は
 出雲国造神賀詞にも述べられる
 
 出雲国特有の神名であろう。
 
 八束郡宍道町来待に
 延喜式神名帳意宇郡に載る
 来待(きまち)神社が鎮座する。
 
 祭神は大物主櫛瓶玉命で社伝によると
 崇神天皇の頃
 大和国三輪山から勧請されたという。
 
 同社の東方上来待神社に
 佐久田神社が鎮座するが、
 「サクタ」は大物主神である
 インドラ神の剣をいうものである。
 
 同社の周辺佐倉は 
 śakra でインドラ神の尊称である。
 
 来待川の西方の白石地区の
 「才」には同じく神名帳に載る佐為神社、
 下白石に佐為高宮神社が鎮座するが、
 佐為は佐伊で大神神社の摂社名に係わる。
 
 高宮も同じく三輪山の頂の高宮神社に係わる。
 
 ここで注視するのは来待で、
 「キマチ」が
 サンスクリット語の
 kha-mat の音写で、
 その意味が「穴持」であることである。
 
 Kha はこれまで
 紀伊国の「紀」あるいは「香」として
  紹介してきた用語で、
 そこでは
 「空虚、虚空、天空」と説明したが、
 また「穴」をも含んでいる。
 
 「キマチ」は「穴を備えた、穴持」で
 「瓶玉」あるいは「瓺玉」
 そのものを表わしているのである。
 
 ここに大物主神と大穴持命とが
 習合している様子がよく知られる。
 
 崇神天皇の時に
 大田田根子が三輪山を奉祭するようになり、
 大物主神が当地方へ入ってきたものであろう。
 
 八束郡八雲村東岩坂に鎮座する
 毛社神社の「毛」は
 この kha が祖語であろう。
 
 毛社は熊野大社をいう。
 
 そして
 松江市大庭の神魂(かもす)神社
  kha-mat に係わる。
 
 同社の神体は杵築大社と同様「釜」である。
 
 瓺玉が雲であることは既に述べた。
 
 Khamat である
 「カマ、キマ」はまた雲を表わす。
 
 八雲村の熊野の「クマ」はこの転訛である。
 
 同社西方の松江市の熊山、空山、
 その南大原郡大東町の
 薦澤(こもざわ)などの地名を考慮すると
 熊野は「雲野」である。
 
 熊野大社は延喜式神名帳に
 「熊野坐神社名神大」と載る。
 
 意宇郡に於いて最も貴重な神社で、
 最も古い神社と考えられている。
 
 祭神は素盞鳴尊であるが、
 出雲国造神賀詞に
 
 「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」
 
 とあり、
 
 「御気野命」が
 祖神であったことを窺わせている。
 
 「御毛野」とも表記される。
 
 「ミケノ」は「雲(megha)野」ではあるが、
 しかしその原初はより複雑である。
 
 というのも「毛(気)野」が
  kha の派生語 
 khana の音写とみられるからで、
 同じく「穴」を表わし
 大穴持命が祀られていた可能性がある。
 
 「加夫呂伎」は「神祖」とも表記されている。
 
 大穴持命といっても
 ここでは久那斗神名である。
 
 Khana は穴ではあるが、
 「坑」「穴を掘る」で、
 久那斗 khanati(te) 、また 
 khanitr (掘る者)に近い。
 
 熊野大社は「日本火出初社」として知られる。
 
 毎年十月十五日には
 鑚火(きりび)祭が行われる。
 
 この祭事で火を鑚り出すのに
  鑚臼(実)鑚木が用いられる。
 
 鑚臼は一枚の板で、
 鑚木は一本の棒で杵という。
 
 鑚木(杵)鑚臼に
 穴ができるように挽り込んで
 火を興すのである。
 
 この「穴を掘る杵」こそ
 毛野(気野)である「御気野命」にして
 久那斗神なのである。
 
 意宇の山狭に火を興す神が
 鎮座するのはなぜだろうか。
 
 それは
 ここで金属生産ないし加工(鍛冶)が
 行われていたからである。
 
 金属業にとって火は不可欠である。
 
 「加武呂/加夫呂」を
 サンスクリット語の 
 kamara (鍛冶工、金属工)とさえ考えられる。
 
 熊野の東側の岩坂には
 田村神社が鎮座し、
 祭神を
 金山毘古、金田(きんだ)明神としている。
 
 久那斗は後に
 「キヌタ:砧」と変化しており、
 「金田」はその砧であり、
 金山毘古神は
 製鉄の神としてよく知られている。
 
 ただし「田村」が 
 tamara の音写とすると「銅」を表わすので
 銅加工が行われていたとみられる。
 
 その北方桑並川の下流に
 志多備神社が鎮座するが、
 「志多」は鉄、
 「備」は鞴(ふいご)と同義で炉を表わし、
 この神社名は「鉄炉」である。
 
 『古事記』に
 
 須佐之男命の歌として
 記載されているものがある。
 
  八雲立つ出雲、八重垣つまごみに、
  八重垣つくる、その八重垣を
 
 この内容は
 
  「自然の雲のたなびく出雲に
   妻(稲田毘売)のために
   八重に垣をつけた家を建てた」
 
 というような安らかなものではない。
 
  「矢のように煙(雲)が立っている。
   それは熱炉(八重垣)が
    たくさん作られているからである」
 
 といっているのであり、
 意宇郡の辺りが
  金属業の盛んな地方であったことを示す。
 
 それ故、
  須佐之男命は
 大蛇の尻尾から
 優秀な剣を得ることができたのである。
 
 因みに能義郡広瀬町の富田(とだ)は 
  dhamita の転訛で
 「煙で隠された」の意味である。
 
 古くは富田荘があった地方である。
 
 出雲国をおおよそ
 南北に貫流する斐伊川は
 比喩的に「鉄川」である。
 
 「斐伊」は
 サンスクリット語の 
 pinga の転訛で
 「黄褐色の、赤褐色の」の意味で、
 赤錆びた鉄の色を表わし、
 それだけ川の流域で
 鉄が採れたことを示す。
 
 出雲風土記大原郡に
  「樋伊郷の人樋印友知麻呂」とあるが、
 「樋印友」は pinga に由来するだろう。
 
 その大原郡加茂町を流れる赤川は 
  pinga の意訳名である。
 
 斐伊川は
 島根県と鳥取県の県境船通山を
  本源とするが、
 鳥取県側に
 日野郡日南町の北方に印賀山があり、
 鉄穴谷の地名がある。
 
 この印賀も 
 pinga に依るものであろう。
 
 県名
 「鳥取」も「多多羅」と同じ
  「熱路」を表わす言葉を祖語とし
 鉄生産に係わる。
 
 神魂神社及び素盞鳴尊、
  稲田姫命、大己貴命を祭神とする
 八重垣神社の鎮座するのは
  松江市大庭(おおば)町であるが、
 この「庭」も「雲」に由来しているのである。
 
 サンスクリット語の 
 nabhas がその祖語で
 「雲、雷、蒸気」を表わす。
 
 この用語は
  ギリシャ語の νεπηος 、
 ドイツ語の Nebel と同根である。
 
 大庭は神魂神社の神域を
 「神庭(おおば)」
 と称したことに始まるという。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
  

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