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第十二章 大国主神と大物主神:神武天皇と富登多多良伊須須岐比売命 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
 
  富登多多良伊須須岐比売命は
 神武天皇の皇后になった。
 
 父は大物主神で母は勢夜陀多良比売命である。
 
 同命が高佐士野で「七媛女」の中に
 遊行するときに神武天皇が見初めた。
 
 その屋敷が三輪山の西北の麓出雲屋敷であった。
 
 現在父母神と共に狭井坐大神荒魂神社に
 祀られている。
 
 同命が出雲屋敷にいたことは、
 彼女も大神神社の巫女であったことを示す。
 
 神武天皇は七人の巫女の中から
 皇后を選んだのである。
 
 その別称を
 『古事記』は
 比売多多良伊須須気余理比売といい、
 『日本書紀』は媛踏鞴五十鈴媛命という。
 
 「大物主神妃」で、
 「陀多良、多多良」を『日本書紀』が表記する
 「蹈鞴」の意味に本書がとらないのは、
 製鉄に係わる技術用語として
 日本へこのタタラが入って来たのは
 崇神天皇の頃であって、
 神武天皇の頃にはなかったと
 解釈するからである。
 
 本書が
 『古事記』の
 「富登多多良」の「多多良」をその母名と同じ
 「陀多良」に合わせて解釈したのは
 その理由による。
 
 『日本書紀』の制作者が
 「多多良」を「蹈鞴」と解釈したための
 表記であろう。
 
 その意味するところは「鍛冶」で
 「富登多多良」は「刀鍛冶」とすることができる。
 
 「富登」は富都、経津である。
 
 同命は神武天皇の皇后になると
 大神神社の神域を
 離れなければならなかっただろう。
 
 『日本書紀』によると、
 神武天皇は樫原宮に即位し
 「正妃を尊び皇后をとす」とある。
 
 磯城郡田原町蔵道の
 村屋坐弥富都比売神社の地へ移ったのである。
 
 同社の伝承によると、
 神武天皇元年9月に
 媛蹈鞴五十鈴姫命に村屋の神等を
 斎祀させたとある。
 
 同社は延喜式神名帳大和国城下郡に
 「村屋坐弥富郡比売神社大」と載る。
 
 祭神を現在は三穂津姫、大物主命、
 
 この判断は
 『日本書紀』の葦原中国の平定の段で
 高皇産霊尊が、
 八十万神を引いて事代主神ともども
 帰順してきた大物主神に、
 その女三穂津姫を娶あわせて
 永久に皇孫を守り奉るようにと
 地上へ還り降下させてという
 一書の伝承に従うものである。
 
 「弥富都」を「三穂津」と
 訓んだ上での判断である。
 
 だが、
 高皇産霊尊はさらに
 後世に神格化された神であり、
 神武天皇の時代における
 三穂津姫の存在は薄い。
 
 同社の祭神について
 江戸時代の
 「和州旧跡幽考」や
 「大和名所図会」は
 「韴霊劒(ふつのみたまのつるぎ)」とする。
 
 つまり
 「剣持神」はインドラ神にして大物主神である。
 
 大神神社の巫女であった
 姫蹈鞴五十鈴姫命が
 同神を祀ったとしても不自然でない。
 
 同社は
 大神神社の部宮と称される近い関係にある。
 
 しかし摂社末社には属さず、
 別宮というものの
 けじめがつけられているのは、
 同姫の神武天皇の皇后になったとの立場が
 考慮されてのことと判断される。
 
 大物主神の神妃はその摂社に祀られているが、
 三穂津姫命の名はない。
 
 そのような状況からすると、
 「弥富都比売」は姫蹈鞴五十鈴姫命
 その人をいうものなのである。
 
 「弥富都」は
 『古事記』名にある「富登」で
 「弥」は
 サンスクリット語の 
 mih (霧)で megha (雲)と同義で
 「ミフツ」は「雲‐剣」で「雷光、稲妻」である。
 
 島根県八束郡美保関町の「三保」は
 そこに「雲津」の地名がある通り 
 mih(megha) の転写で、
 「三穂津」は雲に因んで作られた名称である。
 
 『日本書紀』では
 三穂津姫を大物主神の妻とするが、
 巫女は本来神妃にして妻であり、
 媛蹈鞴五十鈴姫もその立場にあった。
 
 明治24年の
 「神社明細帳」は祭神を
 「弥富都比売神、大物主大神」とし、
 主神を比売神とする表記となっており、
 夫妻神を表わすような表記ではない。
 
 さらに不思議なことに、
 媛蹈鞴五十鈴姫は
 神武天皇以降の皇孫の皇母にも係わらず、
 大和盆地に同姫を祀った神社が
 樫原神宮おいては他にみあたらない。
 
 奇妙である。
 
 やはり村屋神社はその邸宅であったのであろう。
 
 同社の神官は守屋氏が継いできたという。
 
 「村屋」は同一で、
 同社はかって
 「森屋神社、森屋明神」とも称されたが、
 この名称は同社から北西へ少々離れた
 大安寺の鎮座する
 「森市神社」名とも関連する。
 
 「村屋、森屋、森市」は
 サンスクリット語の 
 Mṛj で「歩き回る」の意味から 
 mṛga となり「森の獣」 の意味となる。
 
 一般的には鹿をその代表とするが、
 ここでは大物主神である。
 
 「蛇」あるいは「龍」を云ったものだろう。
 
 因みに
 諏訪大社の守矢氏、洩矢神名も
 この Mṛj を祖語とするもので、
 その信仰の中に
 
 御射山祭、御頭祭の75頭の鹿頭、鹿食免など
 鹿に係わる神事が多い。
 
 田原本町富本には「富都神社」も鎮座する。
 
 大日本地名辞書は、
 同社を村屋神社の商社と云っている。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:天照大神と多氏・大三輪氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
 
 撞賢木(斎賢木)は
 「叢(伊豆)」の枕詞という。
 
 「イツ」とは何かであるが、
 これは鑚木鑚臼ををいう。
 
 サンスクリット語の idh の音写で、 
  indhe が「点火する」、
 yate が「燃やされる、点火される」である。
 
 叢御魂である「イタマ」は 
  idhma で「聖火に用いられる薪」で、
 結局「イツ」は撞賢木である。
 
 そして 
 idh はイザナギ、イザナミの「伊邪」である。
 「ナギ」は梛で鑚木(杵)を、
  「ナミ」は「並」で鑚臼である。
 
 梛は
  兵庫県竜野市神岡町沢田梛山の
  梛八幡神社名になっており、
 八幡神社となる前には
  鑚木に係わる神社であったろうと思われる。
 
 京都府与謝郡岩滝町男山に
  鎮座する板列八幡神社の「板列」は
 「イザナミ」で鑚臼を祀るものと考える。
 
 このように考察すると、
 本居宣長がいう天照大御神(神火)は
 伊邪那岐大神の槻賢木伊豆(鑚木)の
  御霊に生れたとの理解が
 よりはっきりする。
 
 天照大神は太陽神にして火神である 
  kasāku 春日神なのである。
 
 大神神社の繞道祭は
  太陽神の象徴である神火を天照大神
 御魂として拝載する儀式ということができる。
 
 次に
 「天疎(あまさかる)」について考えてみたい。
 
 「疎」は「疏」が元字で、
  その読みは「とほる、とほす」で、
 「うとい」「すかす」の意味もある。
 
 その尊称の読みを「さかる」とするのは
 何故かだが、
 大神神社の三ツ鳥居を通ることを「透る」と
 三輪神道では説かれているので、
 「すかす」と係わると考えられる。
 
 しかし、
 「さかる」には更に複雑な意義があると考える。
 
 「瑞籬と三ツ鳥居」で
  コーカサス caucasus(囲垣) の国
 グルジアの ziskari(暁) は za-kari で
 「天門」の意味であることを紹介したが、
 「さかる」はこの zakari と同声である。
 
 相互関係があるのだろうか。
 
 『旧約聖書』「創世記」第28章において
 「天の門」が現れる。
 
 本書の第5章の
 「ヘブライ人とユダヤ人」で紹介したように、
 ヤコブがベエルシバを発ってから
 ハランに向う途中
 ルズという町で一夜を過ごしたところ、
 彼の夢に
 
 「一つのはしごが地の上に立っていて、
  その頂は天に達し、
  神の使いたちがそれを上り下りしている」
 
 のを見た。
 
 そこで主は彼に彼が伏しているところを
 彼の子孫に与えることを語りかける。
 
 彼は眠りから覚めて恐れ
 
 「まことに主がこのところにおられるのに
   私は知らなかった」
 
 といい、
 
 「これはなんという恐るべき所だろう。
  これは神の家である。
  これは天の門だ」
 
 と恐縮する。
 
 この地はベテル Beth-el (家‐神) で
 現状の死海西方の Bethlehem 市に当たる。
 
 「神の家」は、
  はしご(階段)を昇って上がったところにある。
 
 その概念が
  日本の神殿と全く同様であることは
 既に述べたが、
 
 メソポタミアの「高床式建物」、
  ジクラト(聖搭)にも見られ、
 北メソポタミアのシンジャール、
 その地域の紀元前1万年頃の
  旧石器時代の埋葬霊所に
 牛角を掲げることに始まっている
 想念である。
 
 牛角は階段の意義があり、
  ゲルマン民族名である
 German の祖語は
  シュメル語の galam-am で
 「牡牛の角」であるとの見解を述べた。
 
 角は天への門である。
 
 サンスクリット語の
  「角」を意味する śṛṅga が神社(シンジャ)と
 なっているとの見解も既述のところだが、
 この神社こそ「神の家」にして「天の門」である。
 
 スバル人の後裔が用いる 
 za-kari (天の門)は、
 古代メソポタミアに
  その祖先がいたころからあった用語であり、
 インド・ヨーロッパ語圏へ移入されている。
 
 ギリシャ語では 
 ςηκοζ(聖域)となったが、
 その義を
 「家畜を囲んでおく柵」
 としており、
 神社の瑞籬の起源を窺わせる。
 
 ラテン語では 
 sacró (神聖にする、祭る)
 sacrum,sacellum,sacrārium,
  sacramentum(至聖所)となり、
 
 ドイツ語でSskra (聖所)、
 sakral (聖式の、礼拝の)、
 
 英語の sakrament (聖所)である。
 
 それらの原初時代の
 シュメル語では
 sug-suku(神域)、sukud(掲げる、高くする)、
  šakar (容器、箱)、
 
 セム語では
 zagaru (高くある)、saga (聖所、寺院)、
  zigfura (聖所、寺)、
 
 この語は 
  zigfura-tu(ジグルラト・聖塔、寺塔)の
 基語である。
 
 スバル語 za-kaṅ は以上のような
  波及をみせている。
 
 これが
 
 バローチ語 
 zahir (明白な、明らかな)となり、
 
 ユダヤ語の ziher (確かな、安全な)、 
 zikh (十字)、
 
 サンスクリット語の 
 śukara となって
 「輝く、明るい、清い、白い、清浄な」の
  形容詞と共に名詞として使われた。
 
 この「聖所」の意味こそ
 「疎:サカラ」の真義で、
 つまり 
 zakaṅ が遠い祖語であり、
 「天の門」である。
 
 「疎」はジクルラトの持つ概念と
  一致するものであったのである。
 
 「天疎」は結局青垣で、
 三輪山を指すと考えられ、
 「天疎向津姫命」は「天門の向うの姫命」で
 天門は暁であるから
  曙の向うから来る(現れる)太陽神である
 天照大神ということとなる。
 
 次に「姫命」「姫神」の「ヒメ」について考察する。
 
 「特選神名牒」は
 多神社の第二座名の祭神について
 「姫命」と記述するのみである。
 
 「姫命」だけとする神社は
  これまで宇佐神宮を紹介したが、
 奈良市の春日大社の第四座がある。
 
 春日大社の「比売神」は枚岡神社
  (東大阪市出雲井町)から
 勧請されたと伝えられる。
 
 同社は
 『延喜式神名帳』河内国河内郡に
 「枚岡神社四座並名神大」と載る。
 
 社伝によると
 奥宮のある神津嶽頂が
  その鎮祭の地であったという。
 
 神津嶽は三輪山の頂
 「高の峰、神の峰、上の峰」を連想させる。
 
 『和名類聚抄』の河内国讃良郡に
  枚岡郷があり、
 枚岡神社は
 そこから遷されたと説かれたことがある
  (大日本地名辞書)。
 
 『新撰姓氏録』河内国神別の平岡連が
  讃良郡の枚岡郷から
 現在の鎮座地に移住したと考えられた。
 
 「枚岡郷」は
 現在の四条畷市の一部を
  含んでいたとみられているが、
 その四条畷の地名が
  東大阪市の同社の周辺にあった。
 今は縄手となっている。
 
 「ヒラオカ」の意味であるが、
 枚岡郷が讃良郡にあった状況から判断すると、
 これは
 サンスクリット語の viroka の転訛である。
 
 その語義は「光輝」ではあるが、
 「夜明けの光」で暁に特定された用語である。
 
 しかも「穴、空所」をも内容とする。
 
 まさに「天門」に相当する。
 
 寝屋川初町はクリシュナの父 
 vasudeva の vasu の音写で、
 隣りの日之出町名にも係わる
 「夜明けの輝き」を表わすと紹介し、
 ドヴァラカ族が
 「暁紅」崇拝の日種であると述べた。
 
 「ヒラオカ viroka」はこれに共一し、
 そのような背景をもつ地名である。
 
 クリシュナ自身も 
 vāsudeva (ヴァスデーヴァの子)と呼ばれ、
 その尊称に「暁」を持っていたのである。
 
  Viroka を他の例でみると、
 長野県塩尻市に広丘がある。
 
 その東に東山があり、
 そこに片丘があることを
 第11章の「横山:医方明の山」で述べた。
 
 「片」は keta で「光輝」を表わすが、
 広丘は「夜明けの光」が射すところである。
 
 その西方には東筑摩郡の朝日村があり、
 「ヒロオカ」を補足する地名である。
 
 Vi が「ヒ」であるのは漢音写が「毘」で
 『古事記』に
 「毘売」と表記された単語である。
 
 これが
 「比売」「姫」であることは周知のところである。
 
 枚岡名にはこのような「暁紅」の意味があり、
 枚岡神社の「姫神」は
 この viroka 神なのである。
 
 宇佐神宮の姫神は
 ウシャス神で暁神であり、
  同一となる。
 
 「本朝世紀」正暦5年条に
 「天帯姫命廟坐河内国枚岡」とあるが、
 「帯:たらし」は
 サンスクリット語の tarṣa の音写で
 「太陽、筏、海洋」を意味し、
 「天帯」は「太陽」である。
 
 その廟が現在何処かははっきりしないが、
 ここに
 「日」に係わる伝承があることは確かである。
 
 春日大社には
 この「比売神」が祀られているというのである。
 
 「カスカ」は
 サンスクリット語の 
 kasāka (太陽、火)を祖語とし、
 奈良市街の東方に春日山は位置する。
 
 大阪府西淀川区姫島に姫嶋神社が鎮座する。
 
 延喜式神名帳「摂津国住吉郡」に載る
 「赤留比売神社」で、
 現在その祭神名を
 「阿迦留比売命」と表記している。
 
 この「アカル」は
 サンスクリット語の ahar の転訛で、
 「大比良、大日孁」と
 同根の「日、昼」で太陽を表わす。
 
 この「姫」も太陽に係わる。
 
 大阪市住吉区住吉町の住吉大社においても
 第四宮に姫神が祀られている。
 
 「住吉大社神代記」は
 「気長帯長足姫皇后宮」と書いて
 「息長帯比売」に当てている。
 
 しかしその第四宮の御前に船玉神社を
 配置していることからすると、
 この「帯、足」は 
 tarṣa で、「筏」の船ではあるが、
 天空の船である太陽(船玉)を
 祭祀したもので、
 この姫神も太陽神と考えられる。
 
 これらの考察から
 「姫神」は一般的名詞では」なく、
 確かな一定の神格を表現するものであり、
 それが夜明けの光、
 暁あるいは暁紅神であることが明白である。
 
 「ヒメ」はサンスクリット語の
  vimala (汚点のない、透明な、白い)
 を祖語とするが、
 パーリ語では vimon と変化した。
 
 つまり「ヒメ」は無垢の少女の意味で、
 暁紅に相応しい。
 
 「姫神」の祖語はウシャス神にして
 リグ・ヴェーダが呼称する「天の娘」である。
 
 1-48は詩う
 
 「よきものを伴いて、われらがために、
  ウシャスよ、輝き渡れ、天の娘よ、
  高き光彩を伴ないて、輝く(女神)よ、
  富を伴ないて、女神よ、賜物に満ち満ちて。」
 
 このような「天の娘」は
 4-51、7-81、8-47などにみられる。
 
 多神社の祭神「姫神」は結局その暁紅神で、
 天疎向津姫命は三輪山の高宮神社に坐す
  日向御子神にして天照大神である。
 
 つまり、
 多氏族も三輪山の高宮神社の信仰に
 関係していたのである。
 
 三輪山の高宮神社を
 「コウノミヤシャ」と
 言い慣わしていることは重要である。
 
 「コウ」は 
 gaurā (光輝)でることは述べたが、
 枚岡神社の神津嶽も
 「コウ」でなければならず、
 高安郡の天照大神高座神社の
 「高座」も「コウ」でなければならない。
 
 さらに讃良郡の高宮神社、
 高宮大社祖神社の「高宮」も
 「コウノミヤ」でなければならない。
 
 その高宮に近い
 枚方市の高田は「コウダ」という。
 その隣りは香里である。
 
 暁神崇拝のドヴァラカ族(登美族)が
 「海を光して依り来る」神大物主神を
 三輪山に社を建て住まわせ奉祭し、
 
 崇神天皇の時「高宮」に
 関係のあった大田田根子が
 高宮神社の祭祀を引継いだのである。
 
 彼の所在地について、
 『古事記』は「河内の美努村」
 『日本書紀』は「茅淳県陶邑」という。
 
 堺市上之に
 『延喜式神名帳』「和泉国大島郡」に
 「陶荒田神社二座」とある」同名社が鎮座し、
 大田田根子を祭神として祀っている。
 
 ここは
 陶器の産地で特に須恵器多く産出した。
 
 ここを
 彼の出身地とするには少々問題がある。
 
 確かに「陶邑」ではあるが、
 ここは和泉国であって河内ではないこと、
 またこの陶邑古窯郡から出土する
 須恵器の製作開始時期が
 5世紀半頃からで、
 その時代の隔たりは150年ほどある。
 
 崇神天皇の時代は
 3世紀の末葉(290年以降)から
 4世紀の初葉である。
 
 更に重要な要件は
 彼が根子(禰宜)であったにも係わらず、
 堺市東部には
 それらしい雰囲気の痕跡を
 見出せないことである。
 
 陶器に係わっていたにしても
 先ず神官で祭祀ができなければ
 その役目は果たせなかったはずである。
 
 大田田根子は
 讃良郡の高宮にいた者と考えることができる。
 高宮が共通するばかりでなく、
 『古事記』のいう「河内」内であり、
 「美努」は mina (魚)で、
 マツヤ(三井など)の異名であり、
 『日本書紀』の
 「茅淳県」の「チヌ」は「黒」であった。
 
 「陶邑」については、
 秦町の細屋神社が「クワヤ」で
 「壺屋」である事情を
 「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 で述べたが、
 近くの太秦遺跡からは
 大和攝津に特徴を同じくする
  甕形土器が出土している。
 
 須恵器製作が始まる以前の弥生式土器である。
 
 秦町には加茂神社がり、
 「カモ」は kahamat (穴持) でるから、
 壺(甕)も二重口縁壺であった可能性について
 「登美族」で触れた。
 
 『古事記』に
 疫病の多いことを悩んだ
 崇神天皇が神牀に坐して
 大物主神から大田田根子に
 
 「我が御前を祭らしめたまえ」
 
 と宣告されたが、
 「神牀」は『日本書紀』の解釈によると
 「沐浴斎戒して後に坐す淨殿」となる。
 
 「牀」はまた「寐屋(とこや)」で
 現在は寝屋と転換されており、
 崇神天皇の伝承に係わる地名と
 考えることもできる。
 
 神八井耳命の母
 (勢夜陀多良比売)に連なる
 三嶋泊咋(登美族)の系譜が
 暁紅神である太陽神と関係あることは
 理解できるが、
 その父神武天皇の系譜もまた
  太陽神崇拝者(日種)である。
 
 その祖神四代の尊称を
  『古事記』は次のように表わす。
 
  第1代 太子正勝吾勝速日天忍穂耳命
  第2代 天津日子番能邇邇芸命
       天津日高日子番能邇邇芸命
  第3代 三津日高日子穂穂出見命
       虚空津日高<天津日高の御子>
  第4代 天津日高日子波限鵜葺草葦不合命
  第5代 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)
 
  第1代天忍穂耳命の「太子」については
 日本古典文学大系は「ひつぎのみこ」と読み、
 その注で「日嗣の御子の意」としている。
 
 本書では「太」は「大、意富」と同じく
 サンスクリット語の
 aha,ahar の音写であると述べてきたが、
 その語義が「日、昼」であり、
 「太子」は「日子」とすることができる。
 
 第2代から第4代の尊称にある
 「日子」に引継がれている称号である。
 
 第2代から第4代までの天津日子、
 天津日高日子は太陽を表徴する尊称であり、
 神武天皇の祖神が
 「日子」太陽神に係わっていることを
 示している。
 
 そして『古事記』は
 「天照大御神の命以ちて、
 『豊葦原之秋長五百秋之水穂国は、
  我が御子、
  正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ』
  と言因さし賜ひて、天降したまひき。」
 
 と語り、
 
 第1代天忍穂耳命が
 天照大御神の御子であるという。
 
 「天津神系」は太陽神崇拝者の系譜にある。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十二章 大国主神と大物主神:天照大神と多氏・大三輪氏① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
  ここでういう多氏は
  『古事記』の「意富臣」の氏族である。
 
 その祖は神八井耳命である。
 
 父は神武天皇で、
  母は伊須気余理比売命であるが、
 同比売命の
  母は勢夜陀多良比売命、
  父は「美和の大物主神」で、
 多氏の祖はまた
 三輪山に関係しているのである。
 
 氏族名「オホ」は aha の転訛であり、
  divasa(日、昼) と同義であり、
 大物主神に対応される。
 
 依って
  多氏は太陽神崇拝の氏族と考えられる。
 
 神武天皇(皇孫)の祖は「天照大御神」である。
 
 多氏の奉際するのが
  磯城郡田原本町多字宮ノ内の「多神社」で
 
 『延喜式神名帳』大和国十市郡に
 「多坐弥志理都比古神社二座名神大」とあり、
 史料には意富社、太社、大社と表記された。
 
 現在の祭神は、
 神武天皇、神八井耳命、
 第2代綏靖天皇となった
 弟の建沼河耳命、姫神となっていて、
 四棟式本殿のそれぞれの棟に
 祀られているとされる。
 
 これらの祭神をみると、
 多氏が「神武東征」のより外から大和盆地へ
 進出して来た氏族系統を継ぐ
 主要な集団であることが解かる。
 
 しかし、
 社号にある「弥志理津比古」は
 誰をいっているのだろうか。
 
 これまでの見解では確定されていない。
 
 神名帳に「二座」とあることから
 「特選神名牒」は
 「神八井耳命即弥志理比古、姫神」
 としている。
 
 平安時代の神名帳に二座とあるからには
 その後に二座増え四座となったのは
 事実であろう。
 
 その古い時代の祭神が「弥志理比古神」である。
 
 神武天皇が崩御された後、
 庶兄当芸志美美命の神八井耳命ら
 兄弟三人を殺そうとする謀略が察知された。
 
 そこでかえって三人で庶兄を殺そうとした時、
 兄神八井耳命は
 「手足和那岐弖得殺したまはざり」としたため、
  弟の神沼河別命が
 「其の兄の持てる兵を包い取りて、
  入りて当芸志美美を殺したまひき」となった。
 
 そのため、兄は弟に
 「吾は仇を殺すこと能はず、
   汝命既に仇を得殺したまひき。
  吾は兄なれども上となるべからず。
  是を以ちて汝命上となりて、
  天の下治らしめせ。
  僕は汝命を扶(たす)けて、
  忌人(いみびと)と為りて仕え奉らむ」
 
 と申して
 天皇の位は弟に継承させ、
 自分は忌人(斎人)となった。
 
 『日本書紀』にも同様の伝承を載せ、
 
 「吾は是乃の兄なれども、
  懦く弱くして不能致果からむ。
  今汝特挺れて神武くして、自ら元悪を誅ふ。
  宜なるかな、汝の天位に光臨みて、
  皇祖の業を承けむこと。
  吾は、当に汝の輔と為り、神祇を奉典らむ」
 
 とある。
 
 神八井耳命は「忌人」「神祇を奉典らむ」と
 神職となったのである。
 
 「特選神名牒」がいう通り
 弥志理都比古は神八井耳命である。
 
 それは次のような理由付けができる。
 
 「八井」は「弥志理」と同義で同音なのである。
 
 「井」を表わすサンスクリット語に 
 jala (水、泉、清水) があり、
 「八井」は「ヤジャラ」であり、
 弥志理の「弥」は「いや」であるから
 ye と解釈すれば
 「ミシリ」ではなく「ヤシリ」と訓め、
 双方の訓音が近似する。
 
 このヤジャラ(ヤシリ)は
 サンスクリット語の 
 yajur ヤジュールであり、
 「祭祀」を意味する。
 
 ヤジュールは
 第8章 
 インド文化と祝祭
 「聖典とラパニシャット」で紹介した
 インドの四大聖典のうちの
 ヤジュール・ヴェーダの
 名称になっている用語で、
 それはバラモン教の司祭 
 Adhvaryu の唱える
 祭詞を集めた祈祷詞集である。
 
 ヤジュールは神八井耳命がなった忌人で
 「神祇を奉典」を司る神官である。
 
 つまり
 特にアディヴァーユ祭官の祝祭式を
 執行するための知識を得た者をいう。
 
 また、「八井耳」を含めて解釈すると 
 yajur-manman の音写で
 「(神祇祭祀)に専心する」の語義で、
 弟に天皇の位を譲って
 神官に徹した者の名称にふさわしい。
 
 第1章 祝祭で紹介した
 「八意(やごころ)思金神や阿知女作法」
 に係わる。
 
 そこで説明しなかったが、
 思金神の「八意」は「八井」と
 同音同義で、
 これも「ヤジュール」で「意」としたのは
 「思金 shikin 」の本義
 「知識、意識」を含味したからである。
 
 長野県下伊那郡神坂村の
 阿智神社の鎮座する阿知‐伏谷が
 adhvaryu であることを
 一層確実に理解できるだろう。
 
 このほか yajur は
 八尻、八釣など音写されている。
 
 桜井市山田を八釣川が流れ
 明日香村に八釣地区がある。
 
 ここは阿部氏の地である。
 
 阿部が hava (祝) で
 祭宮であることを補足説明するものである。
 
 さらに
 「八井」が yajur である傍証が長野県にある。
 
 『古事記』の
 神八井耳命を租とする氏族の中に
 「小長谷造(オハセノミヤッコ)」の
 名があるが、
 この名称は
 長野市篠ノ井の南「長谷」に係わる。
 
 ここは和名類聚抄の
 「信濃国更級郡小谷郷」の地で、
 長谷神社、小長往山などがあるから
 「小谷」は「小長谷」であると解されている。
 
 万葉集に
 「信濃国防人小長谷部笠麻呂」とあり、
 小長谷郷が長谷、小谷と
 大日本地名辞書は述べる。
 
 そこにある「長谷神社」は
 『延喜式神名帳』「信濃国更級郡」に
 同名で載るが、祭神を「八聖神」という。
 
 この祭神について大日本地名辞書は
 
 「科野国造、小長谷部造の祖神
  神八井耳命を祭るか」
 
 と述べ「神祇志料」の
 
 「延喜式更級郡の宮社にして
  万葉集信濃国防人小長谷部の名見え、
  小長谷部、科野国造は
   共に神八井耳命の裔孫(姓氏録)なれば
  数なきにあらず」
 
 とある条を紹介している。
 
 「八聖神」は「ヤーヒ(イ)ジリ」で
 「ヤジリ yajur 」である。
 
 八聖神を神八井耳命とする推論は正しく、
 「弥志理」が「八井」であり、
 「ヤシリ」であることを証していると考える。
 
 多神社の神名帳に載る「二座」のうち
 一座が神八井耳命であったことも
 間違いないだろう。
 
 残る一神については、
 特選神名牒も「姫神」とするだけで説明がない。
 
 祭神を姫神とする神社には宇佐神宮があり、
 その祖神は「ウシャス神」であった。
 
 「姫」名の神社は
 多神社の東方200メートル余りに
 『延喜式神名帳』にも載る
 「姫皇子神社」(田原本町多字里の東)が
 鎮座する。
 
 「多神官注進丞」(1149年)は
  その祭神を
   天媛日火孁(あまつひめひめ)神尊」
 
 とし、
 
 その裏書の「社司多神名秘伝」には
 
 「天媛日火孁者天疎向津少女命、
  天照大日火孁大神之苦魂。
  亦高宮郷座天照大神和魂神社同体異名也、
   神名帳云河内国讃良郡高座神社一座是也」
 
 とある。
 
 また注進状には
 「旧名春日宮、今云多神社」とあるが、
 春日」は「カスガ」であり、
  この用語はサンスクリット語の
 kasāka の転写と考えられ、
  「太陽、火」が語義で、
 その動詞形 kas(kasati) は
  「光を放つ、輝く」である。
 
 すると、
  多神社に太陽神が祀られていたことになり、
 姫皇子神社の祭神天媛日火孁女神が
 多神社の祭神であってもおかしくなる。
 
 「日火」の表現はまさに kasāka に該当する。
 
 注進状は多神社の一座を
  「天祖賢津日孁神命」とし、
 それより古い「社司多神命秘伝」は
 
  「天祖賢津日孁神は天疎向津姫命。
  春日部座高座大神之社同体異名也」
 
 とする。
 
 「春日部座高座大神」とは
 『延喜式神名帳』河内国高安郡に載る
 「天照大神高座神社二座並大」で、
 現在八尾市教興寺字弁天山に鎮座する。
 
 「春日部神」、「三代実録」の
 貞観元年(859年)に
 「春日戸神」とあるほか、
 「大智度論」巻54の奥書、
 天平14年(742年)に
 「河内国高安郡春日戸」とあることから
 「春日戸」として考察すると、
 春日は kasāku で「戸」とは「門」であり、
 「春日戸」は三輪山と考えられる。
 
 kasāku はその頂にある高宮名の 
 gaura 、śuci (杉)に対応する
 「光輝、照、光明」の意味で一致するし、
 三ツ鳥居に象徴される
 三輪山は「天門」であった。
 
 「高座(たかくら)」は
 三輪山の峯の移入である。
 
 高座の「クラ」は 
 kūla で「小高い山、山の傾斜」で、
 「高座」は「コウクラ」が本音で
 「輝く小山」となる。
 
 弁天山は山になっており、
 同社はその中腹の傾斜地に鎮座する。
 
 同神社名は三輪山の天照大神が
 「高座」に鎮座しているとの称名で、
 春日戸神は天照大神を称するものである。
 
 多神社の「姫神」(天祖賢津日孁)は
 その「高座大神之社同体異名也」
 といっているのであり、
 天照大神であることを示唆している。
 
 多神社と姫皇子神社の祭神の関係を
 整理すると次のようになる。
 
  多神社
   天祖聖津日孁神、
   又の御名天疎向津姫命
   (天照大神)
 
  姫皇子神社
   天媛日火孁神尊、
   又の御名天疎向津少女命
   (天照大日孁尊の分身、
    天照日孁大神之苦魂)
 
 「天疎津姫」について『日本書紀』の
 「神功皇后」において
 
 「神風の伊勢国の百伝う度逢県の
  折鈴五十鈴宮に坐す神、
  撞賢木叢之御魂天疎向津媛命」
 
 とある。
 
 Kasāku の同類語 
  kaṣ(kaṣati)  は「摩擦する」、
 kaṣa は「摩擦」を表わすが、
 摩擦によって発するのが
  kasāku (火) で、
 これは鑚火に関係する。
 
 つまり
 鑚木鑚臼によって神火を採るのが
 鑚火祭で、
 すでに述べたように出雲の熊野神社は
 「日本火出初社」として知られるが、
 その他の神社でも行われた。
 
 同社における鑚火のための鑚木が
 「撞賢木」である。
 
 檜、樅、など槙が使われた。
 
 本居宣長の「古事記伝」は「撞」を槻とみて
 
 「天照大御神は伊邪那岐大神の
   槻賢木にて伊豆の枕詞なり」
 
 と記す。
 
 大神神社の檜原神社は、
  天照大神苦御魂神を祀るが、
 伊弉諾尊、伊弉冉尊を配祀する。
 
 『記・紀』によると
 天照大神は諾冉神の御子であるからである。
 
 これらの状況をみると、
 伊弉諾尊は鑚木で伊弉冉尊は
 鑚火臼であると考えられる。
 
 両神の国生み神話が
 『記・紀』に語られるが、
 その最後に『日本書紀』の火産霊神、
 『古事記』が
 
  「火之夜芸速男神を生みき、
  亦名は火之炫毘古神、
  亦之名は火之迦具上神」
 
 と謂ふ。
 
 「此の子を生みしに因りて、
    美蕃登灸かれて病臥せり」
 
 という火神が誕れる。
 
 延喜式の「鎮火祭」の祝詞には
 
 「神伊佐奈伎、伊佐奈美の命、
   妹妋二柱嫁継ぎ給て、
  八百萬神等生給いて、
   麻奈弟子に、火結神生給いて、
  美保止焼被れて、石隠坐て(略)」
 
 とあり、
 
 諾冉両神から
 火結神が生れることを述べている。
 
 美蕃登、美保止は女陰で
  鑚臼の「穴」というものである。
 
 両神の国生みに当たり
 右に回ったり、左に回ったり
 柱を中心に行く方向についての物語があり、
 鑚火における鑚木を
  どのように回すかの規則があったものと
 みられる。
 
 大神神社の繞道祭はかっては
  「繞堂」と表記されていたという。
 
 「繞」は「回わる、めぐる」の意味であり、
  三ツ鳥居のうちの
 繞堂と称するところで
 鑚木である繞柱を回して
 鑚火を行っていたものと推測する。
 
 現在は火打ち石によって
  採火するようになっているとのことで、
 この神火(大松明)を拝戴した信者たちが、
 同社の摂社、末社を担ぎめぐる(繞)ことから
 繞道祭と表記されるようになっている。
 
 信者たちは
 それぞれにその神火をいただいて帰宅し、
 新年の祭りを始めたという。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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