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第十二章 大国主神と大物主神:天照大神と多氏・大三輪氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
 
 撞賢木(斎賢木)は
 「叢(伊豆)」の枕詞という。
 
 「イツ」とは何かであるが、
 これは鑚木鑚臼ををいう。
 
 サンスクリット語の idh の音写で、 
  indhe が「点火する」、
 yate が「燃やされる、点火される」である。
 
 叢御魂である「イタマ」は 
  idhma で「聖火に用いられる薪」で、
 結局「イツ」は撞賢木である。
 
 そして 
 idh はイザナギ、イザナミの「伊邪」である。
 「ナギ」は梛で鑚木(杵)を、
  「ナミ」は「並」で鑚臼である。
 
 梛は
  兵庫県竜野市神岡町沢田梛山の
  梛八幡神社名になっており、
 八幡神社となる前には
  鑚木に係わる神社であったろうと思われる。
 
 京都府与謝郡岩滝町男山に
  鎮座する板列八幡神社の「板列」は
 「イザナミ」で鑚臼を祀るものと考える。
 
 このように考察すると、
 本居宣長がいう天照大御神(神火)は
 伊邪那岐大神の槻賢木伊豆(鑚木)の
  御霊に生れたとの理解が
 よりはっきりする。
 
 天照大神は太陽神にして火神である 
  kasāku 春日神なのである。
 
 大神神社の繞道祭は
  太陽神の象徴である神火を天照大神
 御魂として拝載する儀式ということができる。
 
 次に
 「天疎(あまさかる)」について考えてみたい。
 
 「疎」は「疏」が元字で、
  その読みは「とほる、とほす」で、
 「うとい」「すかす」の意味もある。
 
 その尊称の読みを「さかる」とするのは
 何故かだが、
 大神神社の三ツ鳥居を通ることを「透る」と
 三輪神道では説かれているので、
 「すかす」と係わると考えられる。
 
 しかし、
 「さかる」には更に複雑な意義があると考える。
 
 「瑞籬と三ツ鳥居」で
  コーカサス caucasus(囲垣) の国
 グルジアの ziskari(暁) は za-kari で
 「天門」の意味であることを紹介したが、
 「さかる」はこの zakari と同声である。
 
 相互関係があるのだろうか。
 
 『旧約聖書』「創世記」第28章において
 「天の門」が現れる。
 
 本書の第5章の
 「ヘブライ人とユダヤ人」で紹介したように、
 ヤコブがベエルシバを発ってから
 ハランに向う途中
 ルズという町で一夜を過ごしたところ、
 彼の夢に
 
 「一つのはしごが地の上に立っていて、
  その頂は天に達し、
  神の使いたちがそれを上り下りしている」
 
 のを見た。
 
 そこで主は彼に彼が伏しているところを
 彼の子孫に与えることを語りかける。
 
 彼は眠りから覚めて恐れ
 
 「まことに主がこのところにおられるのに
   私は知らなかった」
 
 といい、
 
 「これはなんという恐るべき所だろう。
  これは神の家である。
  これは天の門だ」
 
 と恐縮する。
 
 この地はベテル Beth-el (家‐神) で
 現状の死海西方の Bethlehem 市に当たる。
 
 「神の家」は、
  はしご(階段)を昇って上がったところにある。
 
 その概念が
  日本の神殿と全く同様であることは
 既に述べたが、
 
 メソポタミアの「高床式建物」、
  ジクラト(聖搭)にも見られ、
 北メソポタミアのシンジャール、
 その地域の紀元前1万年頃の
  旧石器時代の埋葬霊所に
 牛角を掲げることに始まっている
 想念である。
 
 牛角は階段の意義があり、
  ゲルマン民族名である
 German の祖語は
  シュメル語の galam-am で
 「牡牛の角」であるとの見解を述べた。
 
 角は天への門である。
 
 サンスクリット語の
  「角」を意味する śṛṅga が神社(シンジャ)と
 なっているとの見解も既述のところだが、
 この神社こそ「神の家」にして「天の門」である。
 
 スバル人の後裔が用いる 
 za-kari (天の門)は、
 古代メソポタミアに
  その祖先がいたころからあった用語であり、
 インド・ヨーロッパ語圏へ移入されている。
 
 ギリシャ語では 
 ςηκοζ(聖域)となったが、
 その義を
 「家畜を囲んでおく柵」
 としており、
 神社の瑞籬の起源を窺わせる。
 
 ラテン語では 
 sacró (神聖にする、祭る)
 sacrum,sacellum,sacrārium,
  sacramentum(至聖所)となり、
 
 ドイツ語でSskra (聖所)、
 sakral (聖式の、礼拝の)、
 
 英語の sakrament (聖所)である。
 
 それらの原初時代の
 シュメル語では
 sug-suku(神域)、sukud(掲げる、高くする)、
  šakar (容器、箱)、
 
 セム語では
 zagaru (高くある)、saga (聖所、寺院)、
  zigfura (聖所、寺)、
 
 この語は 
  zigfura-tu(ジグルラト・聖塔、寺塔)の
 基語である。
 
 スバル語 za-kaṅ は以上のような
  波及をみせている。
 
 これが
 
 バローチ語 
 zahir (明白な、明らかな)となり、
 
 ユダヤ語の ziher (確かな、安全な)、 
 zikh (十字)、
 
 サンスクリット語の 
 śukara となって
 「輝く、明るい、清い、白い、清浄な」の
  形容詞と共に名詞として使われた。
 
 この「聖所」の意味こそ
 「疎:サカラ」の真義で、
 つまり 
 zakaṅ が遠い祖語であり、
 「天の門」である。
 
 「疎」はジクルラトの持つ概念と
  一致するものであったのである。
 
 「天疎」は結局青垣で、
 三輪山を指すと考えられ、
 「天疎向津姫命」は「天門の向うの姫命」で
 天門は暁であるから
  曙の向うから来る(現れる)太陽神である
 天照大神ということとなる。
 
 次に「姫命」「姫神」の「ヒメ」について考察する。
 
 「特選神名牒」は
 多神社の第二座名の祭神について
 「姫命」と記述するのみである。
 
 「姫命」だけとする神社は
  これまで宇佐神宮を紹介したが、
 奈良市の春日大社の第四座がある。
 
 春日大社の「比売神」は枚岡神社
  (東大阪市出雲井町)から
 勧請されたと伝えられる。
 
 同社は
 『延喜式神名帳』河内国河内郡に
 「枚岡神社四座並名神大」と載る。
 
 社伝によると
 奥宮のある神津嶽頂が
  その鎮祭の地であったという。
 
 神津嶽は三輪山の頂
 「高の峰、神の峰、上の峰」を連想させる。
 
 『和名類聚抄』の河内国讃良郡に
  枚岡郷があり、
 枚岡神社は
 そこから遷されたと説かれたことがある
  (大日本地名辞書)。
 
 『新撰姓氏録』河内国神別の平岡連が
  讃良郡の枚岡郷から
 現在の鎮座地に移住したと考えられた。
 
 「枚岡郷」は
 現在の四条畷市の一部を
  含んでいたとみられているが、
 その四条畷の地名が
  東大阪市の同社の周辺にあった。
 今は縄手となっている。
 
 「ヒラオカ」の意味であるが、
 枚岡郷が讃良郡にあった状況から判断すると、
 これは
 サンスクリット語の viroka の転訛である。
 
 その語義は「光輝」ではあるが、
 「夜明けの光」で暁に特定された用語である。
 
 しかも「穴、空所」をも内容とする。
 
 まさに「天門」に相当する。
 
 寝屋川初町はクリシュナの父 
 vasudeva の vasu の音写で、
 隣りの日之出町名にも係わる
 「夜明けの輝き」を表わすと紹介し、
 ドヴァラカ族が
 「暁紅」崇拝の日種であると述べた。
 
 「ヒラオカ viroka」はこれに共一し、
 そのような背景をもつ地名である。
 
 クリシュナ自身も 
 vāsudeva (ヴァスデーヴァの子)と呼ばれ、
 その尊称に「暁」を持っていたのである。
 
  Viroka を他の例でみると、
 長野県塩尻市に広丘がある。
 
 その東に東山があり、
 そこに片丘があることを
 第11章の「横山:医方明の山」で述べた。
 
 「片」は keta で「光輝」を表わすが、
 広丘は「夜明けの光」が射すところである。
 
 その西方には東筑摩郡の朝日村があり、
 「ヒロオカ」を補足する地名である。
 
 Vi が「ヒ」であるのは漢音写が「毘」で
 『古事記』に
 「毘売」と表記された単語である。
 
 これが
 「比売」「姫」であることは周知のところである。
 
 枚岡名にはこのような「暁紅」の意味があり、
 枚岡神社の「姫神」は
 この viroka 神なのである。
 
 宇佐神宮の姫神は
 ウシャス神で暁神であり、
  同一となる。
 
 「本朝世紀」正暦5年条に
 「天帯姫命廟坐河内国枚岡」とあるが、
 「帯:たらし」は
 サンスクリット語の tarṣa の音写で
 「太陽、筏、海洋」を意味し、
 「天帯」は「太陽」である。
 
 その廟が現在何処かははっきりしないが、
 ここに
 「日」に係わる伝承があることは確かである。
 
 春日大社には
 この「比売神」が祀られているというのである。
 
 「カスカ」は
 サンスクリット語の 
 kasāka (太陽、火)を祖語とし、
 奈良市街の東方に春日山は位置する。
 
 大阪府西淀川区姫島に姫嶋神社が鎮座する。
 
 延喜式神名帳「摂津国住吉郡」に載る
 「赤留比売神社」で、
 現在その祭神名を
 「阿迦留比売命」と表記している。
 
 この「アカル」は
 サンスクリット語の ahar の転訛で、
 「大比良、大日孁」と
 同根の「日、昼」で太陽を表わす。
 
 この「姫」も太陽に係わる。
 
 大阪市住吉区住吉町の住吉大社においても
 第四宮に姫神が祀られている。
 
 「住吉大社神代記」は
 「気長帯長足姫皇后宮」と書いて
 「息長帯比売」に当てている。
 
 しかしその第四宮の御前に船玉神社を
 配置していることからすると、
 この「帯、足」は 
 tarṣa で、「筏」の船ではあるが、
 天空の船である太陽(船玉)を
 祭祀したもので、
 この姫神も太陽神と考えられる。
 
 これらの考察から
 「姫神」は一般的名詞では」なく、
 確かな一定の神格を表現するものであり、
 それが夜明けの光、
 暁あるいは暁紅神であることが明白である。
 
 「ヒメ」はサンスクリット語の
  vimala (汚点のない、透明な、白い)
 を祖語とするが、
 パーリ語では vimon と変化した。
 
 つまり「ヒメ」は無垢の少女の意味で、
 暁紅に相応しい。
 
 「姫神」の祖語はウシャス神にして
 リグ・ヴェーダが呼称する「天の娘」である。
 
 1-48は詩う
 
 「よきものを伴いて、われらがために、
  ウシャスよ、輝き渡れ、天の娘よ、
  高き光彩を伴ないて、輝く(女神)よ、
  富を伴ないて、女神よ、賜物に満ち満ちて。」
 
 このような「天の娘」は
 4-51、7-81、8-47などにみられる。
 
 多神社の祭神「姫神」は結局その暁紅神で、
 天疎向津姫命は三輪山の高宮神社に坐す
  日向御子神にして天照大神である。
 
 つまり、
 多氏族も三輪山の高宮神社の信仰に
 関係していたのである。
 
 三輪山の高宮神社を
 「コウノミヤシャ」と
 言い慣わしていることは重要である。
 
 「コウ」は 
 gaurā (光輝)でることは述べたが、
 枚岡神社の神津嶽も
 「コウ」でなければならず、
 高安郡の天照大神高座神社の
 「高座」も「コウ」でなければならない。
 
 さらに讃良郡の高宮神社、
 高宮大社祖神社の「高宮」も
 「コウノミヤ」でなければならない。
 
 その高宮に近い
 枚方市の高田は「コウダ」という。
 その隣りは香里である。
 
 暁神崇拝のドヴァラカ族(登美族)が
 「海を光して依り来る」神大物主神を
 三輪山に社を建て住まわせ奉祭し、
 
 崇神天皇の時「高宮」に
 関係のあった大田田根子が
 高宮神社の祭祀を引継いだのである。
 
 彼の所在地について、
 『古事記』は「河内の美努村」
 『日本書紀』は「茅淳県陶邑」という。
 
 堺市上之に
 『延喜式神名帳』「和泉国大島郡」に
 「陶荒田神社二座」とある」同名社が鎮座し、
 大田田根子を祭神として祀っている。
 
 ここは
 陶器の産地で特に須恵器多く産出した。
 
 ここを
 彼の出身地とするには少々問題がある。
 
 確かに「陶邑」ではあるが、
 ここは和泉国であって河内ではないこと、
 またこの陶邑古窯郡から出土する
 須恵器の製作開始時期が
 5世紀半頃からで、
 その時代の隔たりは150年ほどある。
 
 崇神天皇の時代は
 3世紀の末葉(290年以降)から
 4世紀の初葉である。
 
 更に重要な要件は
 彼が根子(禰宜)であったにも係わらず、
 堺市東部には
 それらしい雰囲気の痕跡を
 見出せないことである。
 
 陶器に係わっていたにしても
 先ず神官で祭祀ができなければ
 その役目は果たせなかったはずである。
 
 大田田根子は
 讃良郡の高宮にいた者と考えることができる。
 高宮が共通するばかりでなく、
 『古事記』のいう「河内」内であり、
 「美努」は mina (魚)で、
 マツヤ(三井など)の異名であり、
 『日本書紀』の
 「茅淳県」の「チヌ」は「黒」であった。
 
 「陶邑」については、
 秦町の細屋神社が「クワヤ」で
 「壺屋」である事情を
 「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 で述べたが、
 近くの太秦遺跡からは
 大和攝津に特徴を同じくする
  甕形土器が出土している。
 
 須恵器製作が始まる以前の弥生式土器である。
 
 秦町には加茂神社がり、
 「カモ」は kahamat (穴持) でるから、
 壺(甕)も二重口縁壺であった可能性について
 「登美族」で触れた。
 
 『古事記』に
 疫病の多いことを悩んだ
 崇神天皇が神牀に坐して
 大物主神から大田田根子に
 
 「我が御前を祭らしめたまえ」
 
 と宣告されたが、
 「神牀」は『日本書紀』の解釈によると
 「沐浴斎戒して後に坐す淨殿」となる。
 
 「牀」はまた「寐屋(とこや)」で
 現在は寝屋と転換されており、
 崇神天皇の伝承に係わる地名と
 考えることもできる。
 
 神八井耳命の母
 (勢夜陀多良比売)に連なる
 三嶋泊咋(登美族)の系譜が
 暁紅神である太陽神と関係あることは
 理解できるが、
 その父神武天皇の系譜もまた
  太陽神崇拝者(日種)である。
 
 その祖神四代の尊称を
  『古事記』は次のように表わす。
 
  第1代 太子正勝吾勝速日天忍穂耳命
  第2代 天津日子番能邇邇芸命
       天津日高日子番能邇邇芸命
  第3代 三津日高日子穂穂出見命
       虚空津日高<天津日高の御子>
  第4代 天津日高日子波限鵜葺草葦不合命
  第5代 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)
 
  第1代天忍穂耳命の「太子」については
 日本古典文学大系は「ひつぎのみこ」と読み、
 その注で「日嗣の御子の意」としている。
 
 本書では「太」は「大、意富」と同じく
 サンスクリット語の
 aha,ahar の音写であると述べてきたが、
 その語義が「日、昼」であり、
 「太子」は「日子」とすることができる。
 
 第2代から第4代の尊称にある
 「日子」に引継がれている称号である。
 
 第2代から第4代までの天津日子、
 天津日高日子は太陽を表徴する尊称であり、
 神武天皇の祖神が
 「日子」太陽神に係わっていることを
 示している。
 
 そして『古事記』は
 「天照大御神の命以ちて、
 『豊葦原之秋長五百秋之水穂国は、
  我が御子、
  正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ』
  と言因さし賜ひて、天降したまひき。」
 
 と語り、
 
 第1代天忍穂耳命が
 天照大御神の御子であるという。
 
 「天津神系」は太陽神崇拝者の系譜にある。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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