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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:牟佐と太秦 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:牟佐と太秦 
 
   「延喜式」神名帳大和國高市郡に
 「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。
 
 この神社について本居宣長以来
 (現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。
 
 「ムサ」の地名は
 『日本書紀』の
 垂仁天皇紀に身狭桃花鳥坂、
 雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、
 欽明天皇紀の大身狭屯倉など、
 
 これまで
 身狭、
 牟狭、
 武遮、
 三瀬(江戸期)
 と表記されてきたが、
 
 具体的な地名の存在を明らかにするのは
 『日本書紀』の雄略天皇紀の
 
 「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、
  檜前民使博徳
  (ひのくまたみのつかいはいとく)を
  呉国に遣わし」
 
 と述べるに始まる。
 
 この遣使たちは14年に帰国する。
 
 「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、 
  身狭村主青らが、
  呉国の使者とともに、
  呉の献上した手伎ある、
 
  漢織(あやはとり)・
  呉織(くれはとり)
  および、
  衣縫の
  兄媛(えひめ)・
  弟媛(おとひめ)らを率いて
  住吉津に碇泊した。」
 
 そして3月に
 
 「呉人を檜隈野に置いた。
  そこで呉原と名付けた。」
 
 とある。
 
 呉原は
 現在の明日香村栗原のことである。
 
 漢織は「木綿織物」、
 呉織は「絹織物」と考えられる。
 
 呉人とは
 百済の倉下にいたヘブライ人で
 移転して来ていた
 月氏族がいた所の住民である。
 
 「呉」である「クレ」の語義は
 「離散したヘブライ人の居留地」で
 
 ヘブライ語の
 (Heb.),גָלַה,GVLH,golah は
 「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」
 をも意味する。
 
 その原語の
 (Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は
 「流浪者、祖国を追われた人」である。
 
 『日本書紀』の「呉」は
 韓半島におけるヘブライ人の居留地で
 「倉下」とも表記された。
 
 そして「呉人」とはヘブライ人を表す。
 
 後に同じく呉国から渡来し
 檜隈の於美阿志神社に祀られている
 阿美使主の一族は
 倭漢(やまとのあや)氏といわれるように
 漢(あや)氏で呉人ではない。
 
 栗原には
 「延喜式」神名帳に記す
 呉津彦神社が鎮座している。
 
 この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が
 同じ明日香村越(こし)にある
 許世都比古(こせつひこ)命神社
 (神名帳記載)で
 見瀬町のすぐ南に当たる。
 
 越および許世は
 サンスクリット語の
 kośa で繭を表す。
 
 応神天皇の時に
 百済より渡来した
 弓月君が最初に置かれた
 掖上の地にある巨瀬(古瀬)も同義である。
 
 日本書紀の雄略天皇紀には
 
 ※十五年、
  秦民、分散臣連等、各隨欲駈使勿委秦造。
  由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。
  天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。
  公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、
    充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。
 
  一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也
 
 「15年に秦の民を臣連らに分散して、
  それぞれ思うままに駆使させ、
  秦造に委ねしめなかった」
 
 とあることからすると、
 この時秦の民はこの地域に
 分散して居住させられていたのである。
 
 その状況が
 掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。
 
 御所市内にあった西寺田多田の地域も
 
 その一つと思われるが、  
 掖上内にも東寺田の地があり、
 その北側に現在一(かず)町となっている。
 かっての常門村に稲代坐神社がある。
 
 この神社も神名帳に載る古社であるが、
 その版本により「稌代坐神社」
 と表記されていて
 正式な社号は確定されていない。
 
 しかし、
 当社は大社に列しており
 優遇された由縁を持つ神社である。
 
 町名は昭和32年の
 改称によるものであるが、
 この地名は
 「地名の先祖返り」の一例と考える。
 
 その例を挙げると
 佐賀県の河上神社のある大和町や
 熊本県の三加和町である。
 
 「一(かず)」はカドで葛と同音である。
 
 常門はソロモンの転訛である。
 
 また一町には三神社が現在あるが
 「三」は見瀬、牟佐に通ずる。
 
 畝傍山の東方に城殿町がある。
 
 この地名は
 江戸期に木殿と改名させられたが、
 それ以前は史料の上では
 平安期から喜殿と表記された
 荘園名であったりした。
 
 その訓音についてであるが、
 元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。
 
 漢大陸から漢字を取り入れた当時
 「喜」は
 「ヒ」に近い発音であったとみられる。
 
 現在の中国語においても
 「喜Xi」であり、
 
 ヒマヤラ山脈名は
 喜馬拉雅と表記されている。
 
 また同町の東側に飛弾町があり、
 祖語を同じくするものとみられる。
 
 その祖語はダビデである。
 
 畝傍山の北西に寺田町がまたあり、
 その西に雲梯町があるが、
 百済国の弓月君がいたとみられる
 城内に雲梯県が
  新羅の時代から現在まで続いてあり、
 その名称に係わる地名である。
 
 天理市内にも喜殿町があり、
 
 そこに八坂神社が鎮座している。
 
 田原本町の橿原に近いところに
 秦庄がある。
 
 以上の状況でも明らかなように
  見瀬である牟佐は
 ヘブライに係わる用語である。
 
 これは、また
 「絹」を意味するヘブライ語
 (Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。
 
 つまり、
 隣り合う町名「見瀬」と「越」は
 それぞれ
 ヘブライ語とサンスクリット語による
 同義で「絹」を表すのである。
 
 さらに 
 MHShY と百済とは
 極めて重要な縁があるが後述する。
 
 メッシュは古代ローマにおいては
 ユダヤ人の代名詞であった。
 
 御所市、橿原市、明日香村などに
 点在する
 秦氏の居住地を牟佐と称したのである。
 
 呉国については、
 漢大陸の南部
 孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする
 見解や高句麗のこととする見解があるが、
 これは双方とも妥当ではない。
 
 それは、
 『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節
 で明らかである。
 
 「冬10月に呉国・高麗国が
  揃って朝貢した」
 
 とある。
 
 呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
 漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って
 (一緒に)渡来するとは
  余程のことがない限り考えられない。
 
 同雄略天皇紀の20年冬の条に
 
 「高麗の王が、大いに軍兵を発して、
  百済を攻撃し滅ぼした。
 
  兵糧は、すでに無くなって、
  深く憂いに泣いた」
 
 21年春の条に
 
 「百済国は、属党がすでに亡び、
  倉下に集まって憂えていたが、
  実に天皇のお力によって、
  またその国を造ったと言った」
 
 とある。
 
 呉とは
 この百済国内にあった倉下のことで
 GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の
  漢字音である。
 
 弓月君のいた土地と考える。
 
 さて、日本へ渡来した月氏族を
  なぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、
 
 すでに
 「月氏とシルクロード」で述べたように
 大月氏は絹の専門家集団である。
 
 ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ
  肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の
 祖語である
 サンスクリット語の絹を意味する
 patta に由来するものである。
 
 この語は衣を意味するもので
 織物をも含んでいることになる。
 
 原義が「薄いもの」の意で、
 板にも適用される。
 
 ヘブライ語の 
 KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。
 
 この二語は
 サンスクリットごの 
 patta を原語とし、
 その語も実は、
 古代の絹産業発生の地、
 四川省の和人(倭人)が
 「蚕」を表す用字として用いた
 「八はち」が祖語である。 
 
 先に挙げた
 雄略天皇紀15年条の続きは
 次のように記す。
 
 「そこで、秦造酒は、
  それを大変気に病んで、
     天皇のお供えしていた。
 
  天皇は、秦造酒は寵愛され、
  詔して秦の民を集めて、
  秦酒公に賜った。
 
  そこで公は180種を率いて、
  庸調の絹、縑(かとりきぬ)を
  奉献して朝廷に充積した。
  
  よって姓を賜って
  禹豆麻佐というのである。
 
  いずれも充積の貌(かたち)である。
 
 〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』
  に依る〕
 
 秦氏が絹産業の専門家集団である
 真骨頂である。
 
 ここで検討したいのは
 
 禹豆麻佐、
 
 京都市右京区の地名
 太秦についてであるが、
 
 この『日本書紀』の
 
 「充積の貌(かたち)である」
 
 とする地名譚はおもしろいが、
 そのまま認め難い。
 
 そこで考えられるのが
 「北の牟佐」である。
 
 牟佐はこ
 れまで説いてきた大和国の牟佐で、
 その本義はヘブライ語の「絹」を表す
 MHShY(meshe)である。
 
 禹豆(うず)はサンスクリット語の
 uttra の転訛で「北の」意味である。
 
 山城国名に出てきた
 歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。
 
 このように「ウヅマサ」は
 「北の牟佐」の意味である。
 
 太秦は、
 大和国の南の牟佐に対する
 北の牟佐、北の秦人なのである。
 
 「ハタ」氏が
 その漢字表記に
 「秦」が用いられた理由は、
 彼等が月神崇拝者であることによる。
 
 アブラム(アブラハム)の一族が
 カルディアのウル(メソポタミア)で
 奉じていた月神名が
 セム語で sin 神であり、
 その神名と同音の秦〔qin〕を
 当てたものと考えられる。
 
 また、
 太秦と表記された理由は
 「ウヅマサ」が大和の牟佐から
 新しく開墾された土地、
 「大牟佐」である。
 
 「太秦」は
 「オウシン」と漢音訓ではない
 「オウシ」に別の意義がある。
 
 その説明は後に詳しく触れる。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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