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第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇
  倭人伝は「狗奴国の男王卑弥弓呼」と記す。
 
 「卑弥」は「卑弥呼」と同じで「ヒミ」で、
 「呼」も同様「コ」とするが、
 「弓」は漢語で gong であるので
 「ヒミクコ」ないし「ヒミキュウコ」となる。
 
 この卑弥弓呼名を
 日本の資料に発見することができた。
 
 磯城郡川西町唐院に鎮座する
 比売久波神社がそれであが、
 諸資料に祭神名が記されているものの
 実際のところ不詳である。
 
 同社の祭事は「奉幣神事」といい、
 例年10月18、9日に
 奉幣お渡りの儀式を行う。
 
 御幣がその中心に据えられた祭儀で
 「きぬ祭」である。
 
 同社の東側隣り
 島ノ山古墳の出土品のうちに
 車輪石がある。
 
 石製の楕円板で
 櫛山古墳の円盤(腕輪)と同様
 放射状に波打つように
 浮彫りが施されているが、
 中央の穴が小さく石製部分が幅広い。
 
 そのため車輪に似ていることから
 名付けられている。
 
 同古墳は古墳時代中期の初め
 5世紀前半の造成と推測されており、
 櫛山古墳よりは150年程
 後になることからすると、
 この車輪石は円盤の変形したもので
 比売久波神社の
 「御幣」であったと考えられる。
 
 その出土品は
 石製刀子、勾玉、菅玉など祭祀性が強い。
 
 同様の車輪石は
 奈良市佐紀町の日葉酢媛陵とされる
 佐紀陵山古墳からも三個出土している。
 
 日葉酢媛命は垂仁天皇の皇妃で、
 同古墳の造成時期は
 4世紀末から5世紀初めに想定され、
 島ノ山古墳と同時代である。
 
 同陵近くには
 歌姫町の添御縣坐神社が鎮座する。
 
 添は曾布、
 繒で「幣」のことであった。
 
 延喜式神名帳は
 比売久波神社の訓に「ヒメクハ」と共に
 「ヒメカミ」に左書きしている。
 
 「クハ」は
 サンスクリット語の kubha(kumbha) で
 「壺、甕、瓶」を意味するが、
 その同類語 kumbhi は
 さらに「鍋」を表わすので、
 これが「カミ」であろう。
 
 それらの説明は
 大阪府寝屋川市秦町の細屋神社を紹介した
 
 第12章「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 と同じであるが、
 「久波」は「細」なのである。
 
 「比売」は「黄金」を表わす 
 heme の音写である。
 
 鍋は 
 kata-cckha あるいは 
 kata-cchu と表記される
 「爐」の意味を持つ。
 
 ラテン語の 
 cācabus(釜) と同類である。
 
 Heme-cckha が
 「比売久波」「卑弥弓呼」の祖語で
 「金(属)‐釜」で「溶鉱炉」あるいは鍛冶炉を
 表現したものと考える。
 
 比売久波神社の鎮座する
 町名「川西」は加西、高市と同祖で
 「王侯、王座」であるが、
 これは狗奴国の官名
 「狗古智卑狗」の原語で
 「高市彦」でもあると考える。
 
 卑弥弓呼は王名である。
 
 単に金属用語ではない。
 「木‐」名の多くが十市郡にあったが、
 「久波」の名を持つ
 細比売(くわひめ)命
 
『古事記』は
 十市縣主の祖大目の女で
 第8代孝霊天皇の皇后となった。
 
 この孝霊天皇こそ卑弥弓呼である。
 
 同天皇の宮殿は廬戸宮といい、
 磯城郡田原本町黒田にあったとされ、
 そこに孝霊神社が鎮座し、
 比売久波神社からは
 そう遠くないところである。
 
 「廬戸」は
 「墓側のいほりの戸」と
 奇妙な内容を含む。
 
 前出の比売久波神社の東側に
 島ノ山古墳は
 5世紀の前半の造成とされる古墳で
 3世紀中頃の孝霊天皇あるいは
 卑弥弓呼とは関係ないが、
 
 『記・紀』の宮殿名が
 『記・紀』編纂の頃
 名づけられたとしるならば
 この「墓側のいほりの戸」は生きてくる。
 
 戸は門である。
 
 その宮殿のあったという
 黒田の東南は宮古地区である。
 
 かっては「都」とも表記されたが、
 史料にみられる最古の表記は
 宮子(鎌倉時代)で、
 宮子は「クコ、キュウコ」でもあり、
 「弓呼」に通じる。
 
 廬は
 「草や木を結んだりして
  作った粗末な家」の意味だが、
 ドイツ語の「編み細工」を表わす
 zain には「鋳込み」「地金」、 
 zainer は鍛冶工と金属業に
 係わる語義がふくまれるので、
 この用語も「金属工」の意味で
 付けられたのではないかとも推測される。
 
 廬戸にそれぞれ
 「金」を付加えると「鑪炉」で
 炉、鈩(たたら)となり、
 溶鉱炉の意味となる。
 
 この地域は鏡作神社や富都神社(富本)、
 都留伎神社(川西町結崎)があり、
 唐古鍵遺跡など
 金属業の中心地であったとみられる。
 
 孝霊天皇の兄に
 大吉備諸進命、
 意富夜麻登玖邇阿礼比売命との間に
 大吉備津日子命、蠅伊呂杼との間に
 若日子建日子建吉備津日子命と
 「吉備」名があるが、
 
 これは
 サンスクリット語の 
 kvath (煮汁、精<エキス>)の転写である。
 
 動詞 
 kvathabe は
 「熱する、沸く、沸かす、煮る」であり、
 金属業の釜あるいは炉に係わる用語である。
 
 倭人伝には
 
  「倭の女王卑弥呼はもとから
  狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であったので、
  倭の戴斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  戦っている様子を報告した」
 
 とあり、
 卑弥呼と戦争状態のあったことを示す。
 
 『古事記』の孝霊天皇の条には
 
  「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、
  二柱相副ひて針間の氷河の前に
  忌瓮を居えて、
  針間を道の口と爲て
  吉備を言向け和したまひき」
 
 とあるように配下を西方へ派遣し
 勢力を拡大している様子がみられ、
 これは卑弥呼との戦争を内容とする
 記録と考えられる。
 
 第12章「大国主神の奉祭氏族(1)磯城氏」
 でみた様に
 前者は「吉備上つ道臣の祖」で、
 後者は「吉備下つ道臣、笠臣の祖」となった。
 
 このほか日子寝間命が
  「針間の牛鹿臣の祖」、
 
 日子刺肩別命が
  「高志の利波臣、豊国の国前臣、 
  五百原君、角鹿の海直の祖」
 
 とあり、
 
 豊国の国前臣と九州へも
 その勢力が及んだ様子を窺わせており、
 九州を勢力圏とする
 卑弥呼の邪馬臺国と対峙する状況が
 見え隠れする。
 
 大吉備津日子命の別称を
 比古伊勢理毘古命
 (『日本書紀』五十狭芹彦命)という。
 
 「伊佐」は isa で「支配者」、
 「勢理」は saila で、
 須勢理毘売命と同じく「繭」をいう。
 
 伊佐勢理 isa-saila は
 「繭の支配者」となる。
 
 第16章 
 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰
 「絹と地名分布」で
 吉備を kṛni の指摘するが、
 事実吉備国が
 絹糸の産地であると共に鉄の生産地でもあり、
 「長船」のような刀鍛冶の地でもあった。
 
 大吉備津日子命の二つの名称は
 それを表わしている。
 kvath, kṛni はその訓音が近似しており、
 双方が融合して
 「キビ」 となったと考えられる。
 
 孝霊天皇の御陵は「片岡の馬坂の上」とあり、
 現在の北葛城郡王子町本町にある。
 
 同天皇の活動の本拠が
 大和盆地の北西地域であったことを示す。
 
 卑弥弓呼、孝霊天皇の時代は
 倭人伝の記すとおり、
 3世紀中葉(正始8年、247年)であり、
 まだ大古墳が造られ以前である。
 
 第9代開化天皇の御陵まで
 各天皇の御陵に記されている墳丘は
 いずれも前方後円墳ではない。
 
 箸塚を卑弥呼の大塚とするのは
 不自然なことである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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