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第十三章 「倭人伝」狗奴国:狗奴国① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々
 
  狗奴国について「倭伝」は
 「(女王国と)同じ倭の種族なのであるが、
  女王に属していない。」
 
 と述べる。
 
 また「倭人伝」は
 
 「狗奴国があり、男子が王となっている。
  その官に狗古智卑狗がおり、 
  この国は女王に服属していない。」
 
 と述べ、
 正始8年(247年)には次のような記述がある。
 
 東洋文庫「東アジア民族史」より転載する。
 
  〔帯方郡の〕太守(長官)王頎が
  新たに任官されると、
  倭の女王卑弥呼は、
  もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と
  不和であったので、
  倭の載斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  〔狗奴国と〕戦っている様子を報告した。
 
 これらの記録だけが考察の材料である。
 
 「狗奴国」の訓み方は「狗」が
 漢語では gou であり、
 「奴」は奴国を「ナとする限りにおいて」
 na (漢語 nu)で、
 gou-nau となり「クナ」と訓める。
 
 この「クナ」は
 サンスクリット語の 
 gnā の転訛で
 「女神」に依るものと考える。
 
 奴国が nau (船)国、
 末廬国が madhura 
 (甘いもの、蜜)国であるから、
 サンスクリット語の地名であっても
 不思議ではない。
 
 gnā は「女神」であるが、
 また神妃で
 「巫覡(ふげき)」となって
 「巫女(かんなぎ)」を
 いうものである。
 
 「巫覡」は邪馬臺国の卑弥呼、
 大神神社の勢陀多良比売命など
 紀元2~4世紀には
 その祭政時代を担う重要な役目を
 果たしていた。
 
 そのような状況を明らかにしているのが
 佐賀県三養基郡三田川町の
 吉野ヶ里遺跡である。
 
 遺跡のうちからは
 祭祀の遺構が発掘されている。
 
 この地域は遺跡の東方に
 目違原の地名があるように
 「和名類聚抄」の肥前国三根郡米多郷内である。
 
 「米多」はその訓みを「女多」と記入されている。
 
 「メタ」は
 サンスクリット語の「祝祭」を意味する
 medha に由来する。
 
 奈良県大和郡山市稗田町に鎮座する
 売多神社名に通ずる。
 
 同社は『古事記』の編纂を担った
 語部の性格を持つ稗田阿礼を祀り、
 延喜式神名帳大和国添上郡に載る神社である。
 
 阿礼の祖神は天鈿女命である。
 
 同女神の実態については
 第1章祝祭で詳しく述べた。
 
 同女神は祝であったが、
 『古事記』の天の石屋戸の場面で
 「神懸かり為て」とあることからまた
 巫覡であることが解かる。
 
 その踊子の姿は巫女舞いである。
 「売多」を神名帳は「ヒメタ」と訓ませているが、
 これは天鈿女命の性格から「メタ」である。
 
 舞踊を
 サンスクリット語で 
 tandava ということは
 第1章などで紹介したが、
 その転訛された地名を持つのが
 吉野ヶ里遺跡の地籍「田手」である。
 
 その地名は遺跡のすぐ南に鎮座する
 田手神社に依るだろう。
 
 同社の現祭神は
 撞賢木叢之御魂疎向津媛命で
 天照大神であることは
 前章で明らかにしたところであるが、
 天鈿女命は天照大神の
 隠れた天の石屋戸の前で踊った。
 
 つまり
 その御前を祀る女神で、
 大宮能女神であり、
 豊宇気毘売神(登由宇気神)であることが
 本書の考察でみえてきた。
 
 伊勢市の伊勢神宮の周辺に
 夫婦関係にある猿田彦神社は在っても
 天鈿女命をその名で祭る神社はない。
 
 つまり
 豊受大神宮(外宮)こそが
 天鈿女命の鎮座地にして
 天照大神への奉祭神なのである。
 
 京都市伏見区の稲荷大社には
 猿田彦大神、大宮能売大神と
 揃って祀られている。
 
 田手神社の本来の祭神は
 同じ女神ではあるが、
 天疎向津媛命ではなく、
 踊子の語義からして
 天鈿女命であったはずである。
 
 その変更は
 神功皇后の半島遠征に纏わると推測される。
 
 田手の直ぐ西側神埼町神崎に鎮座する
 櫛田宮は
 福岡市博多区上川端町の
 櫛田神社と関係し、
 神功皇后の奉祭伝承を持つ。
 
 「吉野」は「キー」で「クナ」と訓音が近く
 巫覡、狗奴と同根語と考えられる。
 
 だが、ここは狗奴国ではない。
 
 「女王に支配されている領域の
  国々の内の弥奴国」である。
 
 「ミナ」は
 サンスクリット語の 
 menê の音写で「女、婦人」を意味する。
 
 弥奴は
 後世の三根郡名や上峰町名の祖語である。
 
 「吉野(キー)」が 
 gnā である巫覡の別名であることが解かったが、
 吉野を地名とする地域は処々にみられる。
 
 そしてそれらの一つが
 狗奴国の遺称地と考えられ、
 その一所が
 所在地として追求されなければならない。
 
 倭人伝の記録された時代(紀元3世紀)には
 各地に巫覡がいたのであろう。
 
 「キー(吉野)」名の地名を追ってみた。
 
 ○福岡県鞍手町、小竹町「吉野」
 
 ○福岡県大牟田市吉野
 
 ○熊本県荒尾市宮内(クナイ)
 
 ○熊本県下益城郡南町吉野(吉野山、築地)、
  築地は「チク地」だが、「キネ地」とみられる。
  隣りには舞原がある。
 
 ○熊本県菊地市木野、鹿本郡菊鹿町木野、
  和名類聚抄の菊地郡城野郷
 
 ○鹿児島県鹿児島市吉野
 
 ○岡山県東部吉野川(地名に吉野郷)
 
 ○徳島県板野郡吉野町(吉野川)
 
 ○奈良県吉野郡
  (吉野町、東吉野町など13町村、五条市)、
  大台ケ原を水源とし
  吉野郡を流れ下る吉野川は
  和歌山県に入って紀ノ川と改称される。
 
 以上が古代に「キノ」があったとみられる
 遺称地であるが、
 九州の西部、南部にその所在地があり、
 近畿地方には大きな吉野の地域がある。
 
 このうちのどこかということになるが、
 やはり
 奈良県の吉野郡から大和盆地と
 考えざるを得ない。
 狗奴国は邪馬臺国であるからには
 かなり広大な地域を傘下に置く大国である。
 邪馬臺国を奴国(福岡市)に連なる
 九州の域内とすることを前提とし、
 倭国伝の
 「女王国から東へ渡ること千余里」は
 その重要な判断資料である。
 吉野郡は「キノ」で、
 吉野川の流れる五条市の和歌山県境に
 木ノ原の地名がある。
 木原(きのはら)町、
 天香具山の西側の木之本に通じる。
 大和高田市磯野町名も「キノ」である。
 更に平安時代の資料によると
 十市郡のうちに喜荘(きのしょう)があった。
 その遺称地はないが、
 桜井市粟殿内の
 小字名「木之庄」の比定にされている。
 粟殿に「キノ」があることは興味深い。
 「キノ」は巫覡(ぶげき)であるが、 
 大神神社は巫女の神社であることは
 『記・紀』の伝承始め多くが語られている。
 三輪山信仰が
 太初における祭政の中心であった状況は
 第12章で詳しく見てきたところである。
 「きぬ」は
 今でも大神神社の隠れた信奉の象徴である。
 
 それは「赤御幣」である。
 「幣」は「ヘイ」だが、また「キヌ」でもある。
 「説文」に「幣、帛也」とあり、
 幣帛(みてくら)とも表わされる。
 帛は絹布であるが、
 「丹書して神を祠るきぬ」であり、
 またの名を「繒」という。
 その元祖を
 第9章中国の祝祭と皇帝「中国の祝祭」で
 三星堆遺跡の祭祀に関係して説明した。
 倭族の古来の伝統が
 三輪山では生きているのである。
 この赤(丹)色の御幣は災難よけを主旨に
 大神神の憑り代として
 参拝者に授けられている。
 御幣は信奉者各家の入口に立てられ、
 玄関から禍事災難を入らせないという。
 家の入口に赤いものを立てるのは
 メソポタミアを発祥地とする
 ヘブライ人の慣習でもある。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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