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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:②北陸と佐渡の秘密 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:北陸と佐渡の秘密
 
 鎌倉時代の守護
 本間氏は佐渡において神社の改めを
 いろいろとやったらしい。
 
 このように「延喜式」神名帳に載る
 諸社については解釈される。
 
 だが、
 これらの神社に能登半島を離れた
  「十戒の石板」が納められている訳ではない。
 
 さて、
 神名帳が
 「御食」を「ミケ」とし、
 「飯持」を「ミケモチ」としていることにも
 背景がある。
 
 『記・紀』が崇神天皇の時
 大彦命を北陸に遣わしたことを述べているが、
 佐渡にも大彦命の勢力の遠征が
 あったとの伝承が遺っている。
 
 大彦命を祖とする
 阿部氏の「アヘ」が
 サンスクリットの
   ahar であると述べたのは
 
 第11章の
 「埼玉・鹿島:剣持神の国」であった。
 
 「ミケ」とはその
   ahar である「神饌」と称しているのである。
 
 その本実はただし前述の通り
 「御タベ」で「板」である。
 
 しかし、
 御食は「オケ」と訓めるので
 この点を疎かにできない。
 佐渡島の南端で小木(おぎ)町がある。
 
 観光用の桶舟を出すなどオケにこだわっている。
 
 また民謡の佐渡おけさ節の
  「オケサ」が生まれるなど
 その類似語は佐渡の文化の鍵となっている。
 
 「オケ」あるいは
 「オケサ」はヘブライ語の
  ARGZ(areegaz)の転訛で
 「箱、木箱」の字義で
 「契約の聖櫃」を指している。
 
 この中に「十戒の石板」が納められたのである。
 「オケサの島」は「聖櫃の島」である。
 
 そして「櫃・箱」の名称である所に
 石板は安置されている。
 
 そこは現在神社となっているが、
 「延喜式」神名帳の頃には神社として
 その社殿が無かったので、
 それには記載されなかったと考える。
 
 その神社は真野町西三川小布施に鎮座する
 小布施神社である。
 
 「小布施」は一般に
 「オブセ」と訓まれているが、
 本来は
  「コフセ」でその祖語はヘブライ語の
  KPhSH(kofesah 箱)である。
 
 安来市木佐町の支布佐神社の祖語であるなど
 何度も登場した用語である。
 
 小布勢神社とは「聖櫃神社」である。
 
 本土の西山町、柏崎市辺りから
 佐渡島へ航海して来ると
 羽茂町の海岸に辿り着く。
 
 その大石湾の大石に
 小布施神社が鎮座している。
 
 大石は「ダイ石」で「ダイ」が
   DV(Dvv) で
 「二枚の石」を意味する。
 
 「十戒の石板」を積んだ船はここに来着し、
 同社の場所で一定期間宿営していたのであろう。
 
 その後の経緯は推測できないが、
 終には
 西三川の高塚山の山麓に所が築かれたのである。
 
 至聖所とは
 幸手市神明内八海神社に
 原型を保っているような石塚で、
 「石の祭壇」である。
 
 高塚山の名称は
 この塚から付けられたものだろう。
 
 同神社本殿の背後には現在小高い聖域がある。
 
 これが石塚であったことは間違いない。
 
 伝承によると崇神天皇に派遣された
 大彦命が来征した際、
 この地にいた先住民がきつく抵抗し、
 なかなか制圧できず、
 先に進攻できなかったという。
 
 その先住民こそ石塚を護っていた
 イスラエルの人々であり、
 最重要の聖地を死守しようと
 強勢であったのである。
 
 しかし、彼らは敗れた。
 
 そのため石の祭壇の意義を知り
 保護することをも
 軽じられようになったのであろう。
 
 中世鎌倉時代になって
 守護として渡来した本間氏は
 聖跡との伝承のあったここに社殿を建てた
 石塚の保護を神社として始めたのである。
 
 それまで社殿は無かったのである。
 
 「同社には古く社殿が無く、
  本殿背後の磐石と称する小丘に
  佐渡開祖の人らが創祀したと伝える」と、
 
 「全国神社名鑑」が由緒を述べている背景は
 上記のように考えられる。
 
 佐渡開祖(先住民)の人々である
  イスラエルの人々が
 
 「十戒の石板」
 
 と石の祭壇として築いた石塚は、
 
 『出エジプト記』
 第20章で語られたように
 自然石だけに依る
  「積み重ね」であったのである。
 
 現在の祭神は素盞鳴尊であるが、
 これは本間氏の一統とみられる
 
 佐々木氏の祖臣であり、
 大彦命であったとする説も
 上記の解釈から言われているもので、
 本来は大己貴命でもある少彦名神であり、
 ヤハウェ神なのである。
 
 「佐渡国寺社境内案内帳」は
 明徳5年(1394年)に
 本間山城与市重頼が創建したと言う。
 
 この本間氏後に再び本書で登場する 
 信仰に厚い一族である。
 
 さて、
 社殿背後の小高い丘は禁足地となって
 現在石柵で囲まれていて入れない。
 
 土地の人が磐境神社と同社を呼ぶように
 この石柵の内に「御食(みけ)石」という
 長さ70㎝の石が置かれていて、
 本来この石がご神体とされてきた。
 
 「御食石」とはすでに分析しておいたように
 「オケ石」で「箱石」となる。
 
 「おタベ石」と解釈すれば
 その室には霊体の石板が
 安置されていることになる。
 
 だがこのご神体とされてきた御食石は
 「聖所のおさえ石」で
 聖箱を納めた室の扇を固める石である。
 
 同神社の周辺から祭祀遺物が発見されている。
 
 御食石の近くから滑石製有孔石製品一個が、
 その禁足地から200㍍離れた山林中から
 長さ7㎝の子持勾玉が出てきた。
 
 子持勾玉は
 第12章 
 大国主神と大物主神で
 述べたように
 
 桜井市の大神神社の祭神大己貴神に
 係わる祭具であり、
 大彦命の傘下での人々の
 祭祀に係わる遺品であろう。
 
 この一件でも祭神を
 大己貴神とする理由となる。
 
 「コフサ」を「オフサ」と称するのは
 大彦命の後裔阿部氏族に
 「フサ(布施、布勢)」名があり、
 その理由により
 「おフサ」となったのであろう。
 
 また「御食(みけ)石」というのは、
 旧8月15日の例祭にご例祭に
 ご神体の石境に
 新穀と(食+豊)酒と餅として供饌する
 式典の神饌から名付けられたもので、
 
 第1章 
 祝祭の「ウケ」である用語である。
 
 これらは大彦命の傘下の人々が始めた
  祭祀であろう。
 
 同神社にはもう一か所禁足地があり、
 ここが奥宮と考えられる。
 
 通称岩坂と云われる
  長さ2㍍の大石を中心にした
  70㍍、50㍍の方形の地で、
 ここを田切須配石遺構といい、
 3つの大環状、
  139の小環状の配石が遺っている。
 
 田切須もまた重要な名称で、
 現在西三川の西隣りの地区名で
 この禁足地名から興った地名であろう。
 
 これを「タキリス」というが、
  その字義が「二つの板」である。
 
 「タ」がヘブライ語の
   DV(duu) で、
 「二つの」意味で羽咋市の
  「大町」の祖語であり、
 「キリス」は
   KRSh(keresh)の音写で「板」を表し、
 「タキリス」は「二枚の板」で
 「二枚の十戒の石板」を意味する。
 
 ヨシュアより与えられた二枚の石板は
 この禁足地に埋蔵されているとの開示である。
 
 ただ実際の埋蔵場所が
 本殿背後の禁足地か
 田切須の禁足地かは即断が許されない。
 
 幸手市の田宮・八海神社の関係から推して
 奥宮の性格のある後者を
  実際の「隠れ場」と
 する方が穏当な見方ではある。
 
 小布勢神社の氏子には栗の木の葉には
 小便をかけてはならないという言伝えがある。
 
 その理由はヘブライ語で
  「栗、栗の木」を
  IRMVN(aremon)というが、その近似語が
  IRMH(arimah)で]
  「山、塚、積み重ね」を意味し、
 
 栗の木の葉が、
 二枚の石板を納めた石塚に通じるからである。
 
 「石の祭壇」に小便をかけるなどの無礼は
 許される筈もない。
 
 幸手市の場合、
  石の祭壇を
 「オウガル AVN-GL」(石の積み重ね)といったが、
 佐渡の場合
  「オホマ IRMH」といい、
 「大日」と表記しているのである。
 
 既に述べたように
 「延喜式」神名帳の大日神社の所在地、
 「和名類聚抄」の大日郷の所在地を
 波茂町椿尾とするのは、
 小布勢神社の至近距離にあるからである。
 
 高塚山と呼ばれる丘陵地こそ
 大日(石塚)である。
 
 「和名類聚抄」の波茂郡に越太郷があるが、
 小布施は同郷の中心的地域といわれている。
 
 そのため
 越太は越伏(こふせ)の
 誤記ではないかとの説もあるが、
 「越太」は「コシタ」で
  サンスクリット語の
  koṣṭhe の音写で
 大彦命の傘下の人々が持ち込んだ用語である。
 
 その語義は
 
 「貯蔵室、倉庫、周壁、囲まれた場所」
 
 であり、
 5、6世紀世紀にはそのような評判が
 この地にあって
 平安時代に郷名になったのであろう。
 
 以上の見解のように佐渡はヨシュアより
 ガド族等に授けられた十戒を訓んだ
 「二枚の石板」を埋納し
 隠れ場を築き護ってきた「秘密」も
 聖所なのである。
 
 とはいえ、
  この石板は『出エジプト記』の神殿に
 安置されたものではないを認めておきたい。
 
 従って小布勢神社に安置されている石板を
 「イスラエルの石板」ということにする。
 
 ヘブライ国がソロモン王亡き後
 イスラエル国とユダヤ国に分裂し、
 紀元前8世紀に
 アッシリアにより滅ぼされ
 捕囚となったのは北のイスラエル国の人々で
 
 (うしなわれた十支族)で、
 
 ガド族はそれに属していたからである。
 
 これに対しエルサレムの神殿に安置されていた
 
 「モーセの十戒」を
 「ユダヤの聖櫃」
  「ユダヤの石板」
 
 ということができる。
 
 英語で言う 
   Ark of Judei(ユダヤの箱)である。
 
 この「ユダヤの聖櫃」も
 紀元前587年に新バビロニアに
 依ってエルサレムの神殿が破壊されたために
 行方不明になってしまった。
 
 現在もその所在は知られていない。
 
 その「ユダヤの石板」の現在の安置所を
 私(小嶋秋彦)は
 幸いにも天の導きにより知ることを得ているが、
 本書には述べないこととした。
 
 季(とき)がいたれば公表することもできようが、
 季はその季ではない。
 
 最後に北陸道の別称を
 
 『日本書紀』が
  「クヌカノミチ」、
 
 西宮記が
  「クルカノミチ」、
 
 北山抄が
  「久流加之道」という理由を述べる。
 
 「クヌカ」は
  少彦名と石板の移動宿営地である
  KhNYH(khanaykh) の音写である。
 
 鹿西町、真野町の金丸の「カネ」の祖語である。
 
 「クルカ」は
   GVLH(golah) の音写で祖国からの
 「追放、捕囚」の字義が
 「離散したイスラエル人の居留地」と
  なった用語で、
 本節でみたようにイスラエルの人々の
 濃密に居住した北陸地方の名称として相応しい。
 
 富山市の呉羽名はこの
   GVLH 名であろう。
 
 呉羽が属していた
  婦負郡は現在「ニフ」と
 呼ばれるが古代には「メフ」であった。
 
 これはヘブライ語の
   MPhRTs の転訛で
 「入江、湾」を表わす用語で
 富山湾に因んだ地名である。
 
 その富山は「富山郷」名に由来するが、
 市内の本郷町辺りが当該比定地であろう。
 
 隣りの「大町」名は
  羽咋市の場合と同じく
 「二つの」であり、
  太田は証人の
   ID(Ied)に依る。
 
 その太田地区に刀尾神社が鎮座し、
 「トウオ(ビ)」が
  「富トミ」になったらしい。
   DV-AVN で「二つの石」の意味で
 「富山」は「二石の山」でイスラエルの
 「石の祭壇」に係わる。
 
 富山市域も
 イスラエルの人々の居留地であったのである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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