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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:①伊都と志都 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:伊都と志都
 
  「伊都」は中国の史書
 『三国志魏書』倭人章に表れる。
 
 〔末廬国から〕陸上を東南に五百里すすむと、
 伊都国に到着する。
 
 官は爾支といい、次を泄謨触と柄渠触という。
 
 人家は千餘戸ある。
 
 代々国王がいて、皆女王国に統属している。
 
 〔帯方〕郡からの使者が往来する時に
 常に駐まる所である。
 
 「志都」は『万葉集』の歌に表れる。
 
 生石村村主真人:おひしむらすぐりまひと
  の歌一首(巻第三・三五五)
 
  大汝少彦名之 おほなむち すくひこなの
  将座     いましけむ
  志都乃石室者 しつのいわやは  
  幾代将経   いくよへにけむ
 
 この二つの用語は
 全く関係がなさそうにみえるが、
 実際は極めて緊密な繋がりを以ており、
 
 イスラエル人と一緒に
 「十戒の石板(イスラエル聖櫃)」が
 渡来してた史実を物語っているのである。
 
 その舞台は九州筑紫川、今の福岡県である。
 
 本書の第13章 
 「倭人章の国々」 
 において「伊都国」が
 福岡県前原市に固定されていると紹介した。
 
 伊都は『古事記』の神功皇后が
 新羅への征戦のため西国に下った時に
 「伊斗村」として現れる。
 
  其の政を未だ竟(お)えざりし間に、
  其の懷妊産むに臨み、
  即ち御腹を鎭めんと爲して
  石を取り以ちて御裳の腰に纏(ま)きて、
  筑紫の國に渡り、其の御子は阿禮坐しき。
 
  故、
  其の御子の生れし地を號けて宇美と謂うなり。
 
  また其の御裳に纏きし石は
  筑紫の國の伊斗(いと)の村に在り。
 
 これは品陀和気命(応神天皇)誕生の秘話である。
 
 石をお腹に纏きつけてするなど信じ難いが、
 筑紫國、特に
 伊斗村に「石」が係わっている様子が覗われる。
 
 また『日本書紀』は
 同じ仲哀天皇と神功皇后が
 共に筑紫へ下った場面で、
 「筑紫の伊覩県主の祖五十迹手」
 が天皇を迎え、
 戦勝を祈願したので、
 五十迹手を褒めて「伊蘇志」と言った。
 
 そこで時人が彼の本土を名付けて
 「伊蘇国」と言ったとあり、
 「伊覩(いと)」というのは
 「伊蘇(いそ)」が
 訛ったものだと述べている。
 
 つまり伊覩を伊蘇とも言ったとの挿話である。
 
 時代は降って平安時代の「和名類聚抄」は
 筑紫国に恰土郡を載せ、
 訓を「イト」としており、
 「吾妻鏡」等の史書は一貫して同表記をし、
 現在隣りの志摩郡と合併し糸島郡となっている。
 
 恰土は
 前原市高祖に恰土城址がある通り同市の
 中心部が倭人章の頃の主要地とみられている。
 
 倭人章に登場する国名の末廬国は
 現在の長崎県・佐賀県にある
 松浦郡の地名であり、
 その祖語が
 サンスクリット語の
 「甘い、甘味、蜜」
 の語義であること、
 「奴国」の「ナ」も同じく
 サンスクリット語の「船」を表わす
  nau、nāvā の音写による
 地名であることを既に紹介した。
 
 それでは
 「イト」は何を示しているのかである。
 伊都は漢音で yī-dôu/dū となる。
 伊都は漢音で yī-dôu/dū〔ier-to〕 となる。
 
 これはヘブライ語の
  YD(yad 記念碑)の音写と考える。
 
 「イト」はまた
  ID(ied 証人、立会人)にも通じる。
 
 つまり
 伊都はイスラエル人証人たちの停泊地あるいは
 居留地だったと考えるのである。
 
 既に述べたように
 イスラエル人はインドにおいて
 海洋貿易商人の組合に加わり、
 彼等と争うのではなく共同して
 絹の産地セリカである極東へ
 やって来たと推測される。
 
 その主要な停泊地の一つがここである。
 奴国(福岡市博多区)は
 インド商人の停泊地・居留地である。
 
 彼らは住み分けをし
 大きな混乱を避けたのであろう。
 
 志摩町に可也山がある。
 
 「カヤ」は
 ヘブライ語の
  KVYL(koyal) で
 「玉」の語義ながら「繭」を表わしている。
 
 市名の前原は
 「蘇民将来とえびす」で紹介した
 「馬屋原」と同様で
 「白い」の
  VVYYS(vays)に係わる。
 
 ここが絹貿易の基地であったことを示している。
 
 倭人章が「官は爾支という」と言い、
 「代々国主がいる」と言う。
 
 つまり爾支とは国王である。
 爾支は漢音で
  njiai-zhi でその祖語は
 ヘブライ語の
  NGYD(nagiyd 君主、統治者)である。
 
 この用語が「シキ」と転訛し
 可也山の近くの地名師吉として遺っている。
 
 近くに
  ID(ied) の音写名である井田原もあるから、
 ここに伊都国の王は
 城(砦)を構えていたのだろう。
 
 因みに倭人章の次官、
 
 泄謨觚(せつぼくこ)は
  SVKN(sevkok)で、「代理人」で
 
 柄渠觚(へいきょこ)は
  KhVK(hakuk 法律の)、
  KhK(kok 法律) に係わる職名であろう。
 
 志摩町の引津湾名は
 その女性形名
  HKYT(hokiyt 法律の)である。
 
 商船などが航海して来た入江(湾)の名称が
 船越湾で字義の通りだが、
 もう一つの湾名及び地名となっている
 加布里(羅)は、
 この地域の性格をよく表している。
 
 イスラエル人が渡来する以前の弥生時代から
 この地には他種の人々が居住していた。
 
 彼らの遺産が
 志登支古墳群を代表とする支石墓である。
 
 これらの墓地の支石下には
 甕棺で死者が埋葬されている。
 
 この葬送の様式を韓半島などにあることから
 中国及び韓半島の影響と
 決めつけている向きがあるが、
 甕棺葬送はアーリア人が侵入する以前の
 インドにおける風俗で、
 そこには支石が同様に立てられていた。
 
 奴国の地である福岡市に
 この遺品が多いことから考えると、
 この地の先住の人々は
 奴国と同じインドからの渡来人たちで、
 彼らの築いたものともみられる。
 
 支石を立てる風俗は
 ヘブライ人と全く同じであり、
 彼らの容認できるものであった筈である。
 
 そのため、
 この地を「イト」とは別に
 「加布里」とか「支登」と
 ヘブライ語で呼んだのである。
 
 「カブリ」は
  KBRH(keburah 埋葬)、
 「シト」は「幸手の秘密」で述べた
 STR(setr 隠れ場所、避け所)の音写で、
 いずれも墓地を表わしていると考える。
 
 STRは幸手市名の祖語であるが、
 同市内に「志手」との地名もあり、
 志登との同一性が覗われる。
 
 前原市井田、三雲辺りには
 弥生時代の遺跡が集中しており、
 伊都国の主要地と考えられてきた。
 
 しかし、
 ここはヘブライ人たちの信仰上の聖地である。
 
 ヨシュアがガド族などの部族に授けた
 「十戒の二枚の石板(イスラエルの聖櫃)」が
 ここに渡来し、奉祭されていたのである。
 
 井田はもちろん
  ID(ied) である。
 
 その字名に郡里がある。
 
 「コオリ」は 
  GVLH(golah離散したイスラエル人の居留地)名
  である。
 
 三雲の「ミクモ」は
   MKhBVA(mkhboa) の音写で
 「隠し場所、隠れ場」で、
 この用語はこれまで何回も登場し、
 そこには「律法の巻物」で
 「十戒の石板」が安置されていた。
 
 ここ三雲にも同じ痕跡がある。
 
 「筑前同続風土記」が記すところに依ると、
 その東部に「築山という小山」があり、
 また「東北郊に茶臼塚」があるという。
 
 茶臼塚は、
 「南北十四間、東西七八間」の
 大きさだという。
 
 同風土記がこれ等の塚を
 俗に高麗人の塚だと言い伝えていると
 記しているが、
 「郡」「高麗」とは
 「離散したイスラエル人の居留地」ことであり、
 韓半島北部に国を建てた高句麗ないし
 後の高麗国とは全く関係がない。
 
 続風土記に述べられている二つの塚は
 幸手市の田宮と八海神社の石塚、
 佐渡島の小布勢神社と田切須の石塚のように
 双つ一組の石塚造成方法は一致している。
 
 「双塚」を証明しているのが隣りの地名
 曽根で
  ShNY(sheney 二つの、二つ一組の) の
 音写である。
 
 三雲の南隣り井原の下町名は七尾市にも
 同名の町名があるが、
 ここでは
  ShTY-MTsVH(shety-matsuvah)の転訛で
 「二つの記念碑」を表わしているようである。
 
 松井や末永は
   MTsVH に従うものだろう。
 
 そして大門名は
   IRMH(ianmah)の転訛で
 「山、塚、積み重ね」の字義で
 佐渡島の大目神社名に相当する。
 
 前原市の西隣り二丈町は
 「二上山(現二丈岳)」から
 転じた町名という。
 
 これは「二つの小丘」を表わす。
 「上」の「カミ」は
   GBVV(gauu 積み重ね)か
  GBI(gebai 小山、丘)の音写とみられる。
 
 「築山」と「茶臼塚」の二つの塚は
 イスラエル人たちが築いた「石の祭壇」で、
 伊都の祖語
   YD(yed 記念碑)を示す
 最も有力な痕跡である。
 
 そして、 
  そこには「文字が書かれた石」が
 納められていたのである。
 
 三雲地区内に鎮座する細石神社名が
 それを示している。
 
 同社は一般に「さざれ神社」と言うが、
 それは、後のこと、本来は「ホソ石」から
 始まったと考える。
 
 「ホソ」はヘブライ語の
 「(木、石)に彫刻される」の
   PhSL(phosal)を基にした用語である。
 
 「さざれ」は後追いの呼称で、
 同社のご神体は「小さな石」と
 伝承されているので
 「繭」を表わしているとも言える。
 
 三雲の東隣りは高祖地区となるが、
 この「タカソ」は
 「託社(たくこそ)」の転訛とされる。
 
 同名は「タク神社」の転訛である。
 
 市内の多久地区に託社神社が鎮座し、
 一般に高祖宮と呼ばれている。
 
  「タク」は西隣りの二丈町武に
  係わる用語で、
 祖語はヘブライ語の
   TVK(teyk)である。
 
 語義は現在
  「書類入れ、ファイル」などとして
 用いられているが、
 
 ラテン語の 
 thēca(箱、容器)、
  tecatus(箱に入った)とも
 概念を同じくし、
 ここでも
 「(書き物を入れた)箱」
 と解釈でき、
 いわゆる「聖櫃」と理解される。
 
 三雲の二つの塚が護っていたのは
  聖櫃なのである。
 
 周辺の地名板持、蔵持も関連の名称である。
 
 ここは渡来したイスラエル人たちが
 「イスラエルの聖櫃」を護るために
  築いた記念碑「石の祭壇」の聖地であった。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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