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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:千葉(坂戸神社の人身御供神事) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:千葉(坂戸神社の人身御供神事)
 
  千葉県袖ケ浦市坂戸市場に
 坂戸神社が鎮座している。
 
 社伝に依ると
 白鳳2年(673年)の創建と伝えられる。
 
 元逆手神社とも称された。
 
 例祭は7月29日で、
 古来人贄(人身御供)を献ずる神事が
 行われていたが、
 現在は行われていない。
 
 その祭事では人を祭壇に献げ、
 殺す振りをするというものであった。
 
 「袖ケ浦町誌」には
 それらの事情が説明されている。
 
  例祭は陰暦6月27日、今は7月29日、
  「人身御供」の奇習があった。
 
  あらかじめ
  「くじ」で決められた氏子の一人を
  大きな板の上に載せて神前に供え、
  神官が断ち切る真似をするのであるが、
  その人は3年以内に必ず死ぬといわれた。
 
  安房を統治して上総地方に進出した
  里見義堯はこの風習を禁止し、
  代わりに青緍(あおざし)十貫を寄進したいう。
 
 里見義堯は16世紀の人であるから
 室町時代には禁止されたものである。
 
 太古においては
 実際に
 殺人が行われていたのではないかと疑われる。
 
 だが、
 実際はこの人身御供神事において
 人殺しが行われたことは一切ないはずである。
 
 祭事の起源が、
 人を殺生することに主眼がないからである。
 
 以下にその理由を説いていく。
 
 確かに「坂戸」や、
 神納地区に鎮座する卒土神社の
 「サクタ」がヘブライ語の
 「屠殺する」の 
 ShKhT(shkhiti) や
  「屠殺」を意味する 
 ShVKhT(shoyket) を祖語とし、
 
 特に
 「ユダヤ教の教義に従って」行う屠殺で、
 犠牲祭、祝祭に係わっていることに間違いない。
 
 しかし、
 その行為の場面は創世記第22章に語られる
 アブラハムが
 我が子イサクを神々に献げようとした故事に
  倣っており、
 犠牲とされたイサクは
 その殺生の寸前に神によって救われる。
 
 一人児のイサクさえ神の犠牲にしようとした
 アブラハムは
 神に祝福されることとなったのである。
 
 創世記第22章からその様子を抜粋する。
 
 22:1
 
  これらの事の後、
  神はアブラハムを試みて彼に言われた、
  「アブラハムよ」。
  彼は言った、「ここにおります」。
 
 22:2
 
  神は言われた、
  「あなたの子、
   あなたの愛するひとり子イサクを連れて
   モリヤの地に行き、
   わたしが示す山で
   彼を燔祭としてささげなさい」。
 
 22:3
  
  アブラハムは朝はやく起きて、
  ろばにくらを置き、
  ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、
  また燔祭のたきぎを割り、
  立って神が示された所に出かけた。
 
 22:4
 
  三日目に、アブラハムは目をあげて、
  はるかにその場所を見た。 
 
 22:5
 
  そこでアブラハムは若者たちに言った、
  「あなたがたは、
   ろばと一緒にここにいなさい。
   わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、
   そののち、
   あなたがたの所に帰ってきます」。
 
 22:6
 
  アブラハムは燔祭のたきぎを取って、
  その子イサクに負わせ、
  手に火と刃物とを執って、
  ふたり一緒に行った。
 
 22:7
 
  やがてイサクは父アブラハムに言った、
  「父よ」。
  彼は答えた、
  「子よ、わたしはここにいます」。
  イサクは言った、
  「火とたきぎとはありますが、
   燔祭の小羊はどこにありますか」。
 
 22:8
 
  アブラハムは言った、
  「子よ、
   神みずから燔祭の小羊を
   備えてくださるであろう」。
  こうしてふたりは一緒に行った。
 
 22:9
 
  彼らが神の示された場所にきたとき、
  アブラハムはそこに祭壇を築き、
  たきぎを並べ、
  その子イサクを縛って
  祭壇のたきぎの上に載せた。 
 
 22:10
 
  そしてアブラハムが手を差し伸べ、
  刃物を執ってその子を殺そうとした時、 
 
 22:11
 
  主の使が天から彼を呼んで言った、
  「アブラハムよ、アブラハムよ」。
  彼は答えた、
  「はい、ここにおります」。
 
 22:12
 
  み使が言った、
  「わらべを手にかけてはならない。
  また何も彼にしてはならない。
  あなたの子、あなたのひとり子をさえ、
  わたしのために惜しまないので、
  あなたが神を恐れる者であることを
    わたしは今知った」。 
 
 22:13
 
  この時アブラハムが目をあげて見ると、
  うしろに、
     角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
  アブラハムは行ってその雄羊を捕え、
  それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
 
 犠牲に献げようとしたひとり子イサクは
 殺されなかったのである。
 
 坂戸神社の場合には
 「神官が断ち切る真似」をしてしまった。
 
 本来は、
 その用具は剣であった思われるが、
 太刀を振り上げるところで
 止めなければならなかったのである。
 
 生贄の役にされ、
 断ち切られることを神前でされれば
 精神的な負担は重大である。
 
 数年のうちに病気になって
 死んでしまったとの伝えは充分理解できる。
 
 室町時代へと時代が下がり、
 その祭事の本来の意義が忘却され、
 形式だけが残された悲惨さである。
 
 起源は創世記の故事に倣った
 子供を祝福するための祭事であったと考える。
 
 決して殺人が行われたわけではない。
 
 小櫃川の河口にある久津間は
  かって葛間と表記され、
 坂戸神社の氏子の域内であるが、
 ガド族名に依る地名である。
 
 ガド族は
 ヨルダン川の沿岸に祭壇を築いたとき、
 祈りと戒律を守ることを信仰の全てとし、
 決して燔祭(祝祭)を行わないと
 誓った(誓約、あかし)のである。
 
 彼らが生贄を神に献げる道理がない。
 
 モリヤの地とはモリヤ山のことで、
 現在のエルサレムの
 "岩のドーム"が建っている所で、
 中には大きな岩が祀られている。
 
 ここは
 紀元7世紀に
 イスラム教の聖地となったために
 ドームが建てられているのである。
 
 卒土神社の鎮座する神納は、
 飽富神社の神納田の地などと
 解釈されているがそうではない。
 
 アブラハムが
 イサクを神に献げ(納め)ようとした
 そのことを表しているのである。
 
 「カンノウ」の原語はヘブライ語の
 KhHNH(khonoh) で「祭司職」を表わす。
 坂戸神社の鎮座している
 
 坂戸市場の「市場」は「シバ」で
 TsYVN(シオン)の転訛である。
 
 同語は一般に
 シオン(zion)として知られるが、
 「ツィヴゥン」がヘブライ語の発音に近く、
 「シバ」に近い。
 
 しかも、
 
 TsYVN (シヴォン)は
 「目印、標、印をつけること」であり、
 
 TsYVD (シウダ)は
  「供給物、必需品」から「商品」を表し、
 商いに係わる「市場」と
 漢語を用いたのは巧妙で、
 ヘブライ語を理解していた者が
  命名したとしか思えない。
 
 これらの用語は
 
 第3章 カルト人の進出
     「創世記 カインの本実」
 
 でも紹介し、
 
 人類が土地を離れて
 商人へとなっていく様子と、
 商人カインは
 スバル人を想定して
 作られる挿話であると解いた。
 
 ヘブライ語で「商人」を表わす用語に
 SVHR(svoher) があり、
 svar(スバル)とほとんど同音である。
 
 ユダヤ人は商人の性格が非常に強い。
 羊飼いは
  商人となる要因の体質を
 持っていると述べたのは
 
 第2章 メソポタミアと牡牛の
          「供犠の起源」であったが、
 
 ヘブライ人はその本質が羊飼いである。
 
 この袖ケ浦の地域は
 秦氏族が定着した所である。
 
 坂戸神社の西を流れる浮戸川名は
 「ハタ」であり、
 その西方の房総半島の山中
 君津市久留里の奥から
 流れてくる小櫃(おひつ)川は
 「コヒツ」で
 KPhSh (箱)を訓音及び語義から
 表記したものである。
 
 神納の南木更津の曽根は
 「子供、児」を表わす
 SVN(son)の音写で
 英語と表記は同じである。
 
 坂戸神社の人身御供神事は、
 子供の健全な成長を願って
  始められたものと推測され、
 いつの間にか
 大人がその犠牲の役目を
 するようになったのである。
 
 また
 牛袋、牛袋野名は
 「牛角」を表わす。
 
 「袋」は「脤(ふくら)」の転写で、
 弓のように「ふくれていること」または
 「ふくれているもの」を表し
 牛角を比喩するのに的確である。
 
 弓月君名も「ふくら」である
 kulag である。
 
 シオン TsYVN である「市場」はまた
 「千葉」の祖語である。
 
 千葉市中央区の中心部に
 市場町や亥鼻町名があることが傍証となる。
 
 双方が一帯であることが解る。
 
 「チバ」名は
 万葉集巻20に
 「知波」と表記されているのが初出で、
 
 日本後記の
  延暦24年(805年)に
 「千葉国造」が現れる。
 
 和名類聚抄には
 「下総国千葉郡千葉郷」とあり、
 訓を「知波」としている。
 
 戦国期になると千葉荘が生まれている。
 
 その荘内に「井花」が現われる。
 
 これは
 亥鼻山は猪鼻山、
 城も猪鼻城と呼ばれていた。
 
 その「亥」と「猪」の
 どちらが古いかであるが、
 猪の方が古いとも考えられる。
 
 猪は「猪」で「チョ、シャ〔cha〕」
 と発音される。
 
 「猪鼻」は井花(いばな)の訓からすると
 「チョ(シャ)バナ」で、
 TsYVN(ツィヴゥン)と訓め
 「市場」と共通になり
 「チバ」なのである。
 
 亥鼻町の南にある葛城は
 「ガドの城」の意味を持つが、
 「城(しろ)」は
 ヘブライ語の「宮殿、城砦」を意味する
 TsYRH(shiro) を原語とするもので、
 Ts(t) は「シ、チ」と訓めるのである。
 
 和名類聚抄の千葉郷は
  現在の市場町、亥鼻町の辺りで、
 都川を挟んだ地域に想定できる。
 
 その
 「都」は「ト」で 
 TsYRH(城)に依るものだろう。
 
 猪鼻山はその都川沿いに
 亀岡町があるように
 亀山であったろう。
 
 亥鼻公園内に神明社が鎮座するが、
 ここに
 シオン TsYVN の信仰が始まった頃の
  祠と推測される。
 
 「神明」は「カンメイ」訓め、
 「モーセ五書」を意味する
  KhVMSh(khumesh)に通じるからである。
 
 都川の北方の院内は「インダイ」で、
 安来市の十神山(砥神嶋)をいう 
 AYNDZL(indzl)の転訛でモーセ五書である
 「律法」は信仰に結びつく、
 
 千葉神社の鎮座する
 通町公園の「通」は、
 その TORH が祖語である。
 
 静岡県藤枝市の
 大津谷川の上流に千葉山がある。
 そこには智満寺がある。
 
 「智満(ちまん)」は 
 TsYVN の転訛で、
 「千葉」も同根であることを
 うかがわせている。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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