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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:幸手の秘密 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:幸手の秘密
 
  木曽御嶽山の三笠山の「ミカサ」は
 ヘブライ語 MKSH が原語で
 「隠れ場、避け所」の意味であることを述べたが
 その語義と全く同じ名称を市名としているのが
 埼玉県の幸手市である。
 
 幸手は江戸時代に「薩手」とも書かれ、
 「サッテ」が「幸いな手」の通りでないことを
 示している。
 
 同語の原語もヘブライ語の
 ST(setr 隠れ場、隠れ家)で、
 その音声は
 市内の橋名となっている「志手」に近い。
 
 市の西側に接して
 鷺宮町(雷電宮)、
 久喜市(KhRKh 巻物)、
 栗橋町(KVLVT-HShM 神の声)と
 北葛飾郡内のヤハウェ神信仰の土地に連なる。
 
 「幸手」は戦国時代からみられる地名で
 「武蔵田園簿」には
 「田宮町薩手共云」とあり、
 中世末期から用いられいたとされる
 田宮荘に属していた。
 
 その田宮荘は現在の
 幸手市、
 春日部市、
 鷺宮町、
 栗橋町、
 杉戸町の
 範囲とみられている。
 
 「田宮」名は現在幸手市幸手中に鎮座する
 雷電宮の別称に由来し、
 現在でもこの地区を田宮と言う。
 
 同社の草創期など詳しい歴史は解らないが、
 古代に開基されたと伝えられている。
 
 雷電宮というからには鷺宮神社や
 板倉の雷電神社と同じ背景をも持っていると
 推測される。
 
 そこで田宮の「田」の持っている語義が
 問題になるが、
 これはヘブライ語の
 DIH(deiah) の転訛で
 「知恵、知性」を意味する。
 
 何故この語かは、同地域のすぐ北に
 権現堂地区があり、
 そこに大日神社が鎮座するからである。
 
 「大日」も「ダイヒ」で
 DIH(deiah) の音写である。
 
 同名社が
 幸手市の南隣り杉戸町の堤根に鎮座し、
 その鳥居の扁額に「大⦿宮」と画いてあり、
 「乳の神」といって
  お米を上げて乳飲子を持つ
 親が乳の出るよう
 お願したという神社である。
 
 この「チチ」、実は 
 DIH と全く同義の
 DIT(dait) の転訛である。
 
 乳の神となっているが
 本来は智恵の神なのである。
 
 この関係から
 「田宮」が
 「DIH(知恵)の宮」と解釈される。
 
 智恵はヤハウェ神や
 その信仰者に係わる名称である。
 
 この田宮の境内、
 本殿の左奥に小高い岩塚がある。
 
 直径が15㍍、高さ7、8㍍の、
 現在では
 コンクリートブロックで崩れるのを防いでいるが、
 本来は自然石だけで積み上げられた
 円錐形の岩塚である。
 
 その頂上に
 「御嶽山」と彫った石碑が建てられている。
 近辺の人の話では
  嘉永年間(1848~1854年)に
 造成されたという。
 
 となれば、
  この石塚(岩塚)は
 江戸時代に御嶽教の講社に依って
 造成されただろうがと察しはつくが、
 それ以前にも
 同様の石塚があったかどうか不明である。
 
 しかし、
 周辺に80軒からなる「石塚」姓の方々が
 住んでいることからすると、
 江戸時代末期の開設とは到底思えない。
 
 御嶽信仰が前面に立つ以前にも
 岩塚に対する信仰があったのである。
 
 ここに考慮されるべきが
 「サッテ(巻物の隠し場)」と
  「田(智恵)」である。
 
 「サッテ」は
 ここの古型の岩塚から
 起こったものと考えられるのである。
 
 岩塚がヘブライの民にとっての祭壇にして
 記念碑であるということを
 考慮しなければならない。
 
 『旧約聖書』のガド族 で述べたように、
 ヘブライの人々が、
  ヨシュアに率いられて
 死海の北ヨルダン川の東岸から
 カナンの地へ渡った後、
 
 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び
  マナセの部族の半ばが
    カナンの地のほとりに
  来た時、そのところで、
    ヨルダン川の岸辺に
  一つの祭壇を築いた」
 
 (ヨシュア記第22章10)。
 
 それは大きくて遠くから見える祭壇で
 あった(10)という。
 
 この祭壇の姿形については
 特に説明はされていないが、
 
 『出エジプト記』
 第21章25、26に述べられているような
 「石の祭壇」であったと考える。
 
 ヤハウェ神は
 モーセに十戒の伝授を行った後に言う。
 
  あなたが、もし私に石の祭壇を造るならば、
  切り石で築いてはならない。
  あなたが、もし鑿をそれに当てるならば、
  それを汚すからである。
 
  あなたは階段に依って、
  私の祭壇に登ってはならない。
 
  あなたの隠し所が、
  その上にあらわれることのないように
  するのである。
 
 ここにいう「あなたの隠し所」は
 人の体があらわになり裸の部分が
 神に晒されることを禁じた条句で、
 「サッテ」とは関係ない。
 
 石の祭壇に神が宿るのである。
 
 『創世記』第28章に語られたように
 ヤコブが石を枕にして寝たところ、
 夢に一つの梯子が地に立っていて
 神の使いたちが
 それを上り下りしていたのをみ、
 これは「神の家」で
 「天の門」だと悟ったように、
 石は神が宿る家なのである。
 
 TsVR-IShRAL(イスラエルの石)は
 「イスラエル人の神」を
 表わす通用語である。
 
 そのような信仰観念で
 雷電宮の古型の石塚は
 築かれていたと推測される。
 
 『ヨシュア記』第22章が語る祭壇は、
 ガド族などの子孫と他の支族との間で
 彼らがイスラエルの神と関係あることを
 証すための証拠として築いたのであった。
 
 だから、後世そのような祭壇をみた
 ユダヤ人たちが、
 これがイスラエルの神の僕たちが築いたことを
 証すための祭壇にして記念碑(塔)なのである。
 
 「記念碑とは 
  GL-ID(gal-Ied)」のことで、
 「証拠の(石を積み上げた)塚」の字義である。
 
 生憎ガド族等はアッシリアの捕囚により
 そのヨルダン川の沿岸ギリアド(GL-ID)を
 去らなければならなかった。
 
 そして、
  極東の島々(『イザヤ書』第41章)に
 麗しの地(鷺宮町葛梅など)を得たが
 ガド族の子供たちは
 石の祭壇をここに築き上げ、
 これを「証しの祭壇」として
 隠し守り通したのである。
 
 正に「隠れ場」なのであり、
 これが「サッテ」の由来である。
 
 しかし、
 「サッテ」には別の秘密も隠されている。
 
 ヨルダン川のほとりに築かれた祭壇が
 ガド族の子孫などが
 燔祭や犠牲及び酬思祭を
 行うことでないことを
 認め納得した他の支族たちは、
 ヨシュアから
 
 「主の僕(しもべ)モーセが
  あなたがたは命じた
  戒めと律法とを慎んで行い
  あなたがたの神、主を愛し、
  その全ての道を歩み、
  その命令を守って
  主に付き従い、心を尽くし、精神を尽くして、
  主に仕えなさい」
 
 といい、許しを与えた。
 
 この章句では何も記述されていないが、
 「戒め」である十戒を刻んだ石板と
 「律法」である聖書をの「巻物」が
 祭壇に納めるため与えられたと考えられる。
 
 「十戒」の石板の最初のものは、
 イスラエルの人々が金の子牛像を作って
 神としたため、怒ったモーセが
 それを投げつけ砕いてしまったが、
 神はモーセに二枚の石板を作らせ、
 それにまた十戒を彫り込んで渡した。
 
 その二枚の石板は「契約の箱」に納められ、
 仮庵の至聖所に安置され、
 後にダビデの子孫などに与えた石板は
 同じく二枚でモーセの手に成った石板と
 同じように複製されたものであっただろう。
 
 「律法の巻物」は羊皮紙などに
 書かれたものであっただろう。
 
 紀元前8世紀に
 アッシリアへの捕囚となった人々は秘かに
 これらを帯びて長い旅を続けていたものだと
 考える。
 
 そして、安住の地と定めた幸手の地に
 彼らは「巻物の隠し場」である祭壇を
 築いたのである。
 
 「サッテ」とは、
 この
 「巻物の隠し場」をも言っているのである。
 
 二枚の石板がこの地に来た人々には
 護られていなかったことは
 後述により判明する。
 
 その巻物が実際ヨシュアから
 与えられたものか、どうかは疑わしい。
 
 しかし、
  それに代わる役目を果たしてきた
 彼らにとって最も貴重な巻物の隠し場である。
 
 20世紀後半にイスラエルの死海の沿岸の
 涸れ谷のムランで壺に入れられた
 ヘブライ語の諸書が発見されたが、
 それらは羊皮紙あるいは
 銅板に印刻されていた。
 
 湿気の多い日本で
 3千年以上昔に製作されたものが無事に
 保管され得ているか疑問であるが、
 日本へ渡って来たイスラエルの人々が
 最も重宝した巻物が納められているはずである。
 
 しかし、
 そこには疑問がある。
 
 雷電宮と神社(教会、集合所)の形式を採った
 田宮は巻物の隠れ場としては
 危険かということである。
 
 実際その奥宮ともいえる石塚が
 幸手市内にあるのである。
 
 その石塚は市内神明内に鎮座する
 八海(山)神社である。
 
 実際の巻物の隠れ場はこちらの石塚である。
 
 八海山は御嶽山三岳の一山の名称である。
 
 同石塚の頂にも、
 「御嶽山神社」、
 「八海山神社」、
 「三笠山神社」と
 
 木曽の御嶽三岳の名称を刻んだ
 石碑が建てられている。
 
 これは明治14年に
 信奉者の一人が石塚を修復した時の
 記念碑である。
 
 直径15㍍、高さ5㍍、程の円錐丘である。
 
 ここには全く神社としての建屋は無く、
 積み石の丘に樹木が
 生え覆っているに過ぎない。
 
 周囲は田圃が開かれているが、
 古い時代には森に囲まれたていただろう。
 
 何故ここが
 本当の「サッテ(隠れ場)」であるかは
 
 以下の理由に依り明らかである。
 
 同社の東側の地区を木立(きだち)というが、
 これはヘブライ語の 
 KDSh(kodesh) の音写で
 「聖、神聖」ながら「神聖な場所」で
 「至聖所」に関係し、
  神殿の奥で「契約の箱」
 
 などが安置されていた貴所の名称である。
 
 同社の鎮座地名神明内も木立と同様
 戦国期の史料にみえる古い地名で
 御嶽教の普及以前からの地名である。
 
 神明内は戦国当時には
 「志辺内」と表記されていた。
 
 江戸時代の「武蔵田園簿」には「しへ内村」、
 「元禄郷帳」に「志辺内村」とある。
 
 現在「シンメイウチ」と言うので
 古くは「シヘウチ」であったとすること
 ができる。
 
 この語義は、
  「シヘ」がヘブライ語の
 SPhR(sipher)の転訛で
 SPhR-TVRH(律法の巻物)というように
 「巻物」であるが『旧約聖書』を表し、
 「ウチ」は鷺宮町の上内の「内」と同じく
 ATR(autar) の音写で
 「(場所が)局限される、位置が定められる」
 の語義で、
 「シヘウチ」は「定位置の巻物」あるいは
 「巻物の定位置」で、
 ここ以外へは巻物を
 最早(もはや)動かさないとの意志が
 伝わってくる地名である。
 
 神明内の小字名は、
  前・後・北・台とあるが、
 「台」は神社周辺を言うもので、
 ヘブライ語の
 DVYR(deviyr) の遺称であろう。
 
 「本殿」あるいは「至聖所」の語義で、
 「神殿の最奥にあって最も神聖な場所」
 を意味する。
 
 この呼称からも
 神明内にある石塚は奥宮としての印象である。
 
 その西隣りの吉羽(よしば)(上下)名の
  小字名には「かつも原」があり、
 吉羽が本来「キツバ」であったことを
 覗わせている。
 
 ヘブライ語の
  「(地中に)埋める、埋葬する」、
 時には「墓」とも変化する
 KBR の音写とみられる。
 
  石塚の中に
 何かを埋蔵しているとの意味がそこにある。
 吉羽の西隣りが幸手地区となる。
 
 さて、
  神社名について説明する。
 
 同地には先に述べたように
  全く神社としての
 建屋も鳥居のようなものも無い。
 
 単なる石塚の様相を呈している。
 
 その姿は
  『出エジプト記』第20章に述べられた
 「石の祭壇」の姿である。
 
 自然石の積み重ねで、
 中に講社記念の石などがはめ込まれている。
 
 その神社名について
 八海山神社とする資料もあるが、
 御嶽信仰に依り取り入れられた名称で、
 本来は「八海」だけの方がよさそうである。
 
 何故ならば、
 著者(小嶋秋彦)が同神社を拝観し、
 ある氏子の方を訪ねた時、
 その方は神社名を「ハッカム」と言って
 すぐに「ハッカイ」と言い直した。
 
 「ハッカム」はヘブライ語の 
 Kh(H)KhM(智恵者) であり、
 田宮の DIH と同類で
  ヤハウェ神の尊称である。
 
 実に2000年の時を超えてこの地の人々は
 その意味が
  解らなくなっているかもしれないが、
 ヘブライ語を口上に乗せているのである。
 
 ある老人は「石塚」のことを
 「オウガとかオウガルという」
 と著者(小嶋秋彦)に言った。
 
 この祖語もヘブライ語の
 AVN-GL そのままで
 「石(岩)-塚(積み重ね、山)」である。
 
 正しくここでは
  ヘブライ語が生きていて、
 周辺には、
  その石塚の管財人、監視人また
 「(神の)岩の家」と名乗っている人々がいる。
 
 この石塚は八海(智恵者)神社にして、
 明らかにイスラエルの神の「隠れ場」にして
 「律法の巻物『旧約聖書』」が
 埋納されている祭壇である。
 
 ここまで
  イスラエル人の定着を書き連ねて、
 各地で
 巻物や幕屋への信仰を潜在させている地域を
 紹介してきたが、
 
 ここ程に
  「律法の巻物」を埋蔵しているとの
 遺産が覗える地方はない。
 
 それでは、
 
 「隠れ場」として秘密を護っている地に
 
 「サッテ」
 「キダチ」
 「シヘウチ」
 「ハッカム」
 「オウガル」
 「キッバ」などの
 
 秘密を明かす名称が
 何故与えられているのだろう。
 
 著者(小嶋秋彦)が八海神社の周囲の方と
 話したのは全部で20分弱であった。
 
 ほとんどの人は口堅く、
 「サッテ」の名の如く語ろうとしなかった。
 
 しかし、
 石塚の祭壇を見つめ周囲を少々回るうちに
 全てを理解できるような資料を得たのである。
 
 その状況は自己自身の能力ではなく、
 神に導かれているとの思いさえした。
 
 つまり、
 神はこの隠れ場をいつか
 
 「目が見えるもの」
 「耳が聞えるもの」
 
 を使わせて
 秘密を公にすることを望んでいたのである。
 
 そのため上記のような名称を
 ここに遺しておいたのである。
 
 それは、
 
 『イザヤ書(第2)』第41章の詩編に
 語られているように
 
 「海沿いの国々」「島々」に
 再び神の栄光を語り告げ、
 
 第49章6
 
  主は言われる、
 
  「私は
      あなたをもろもろの国人の光となして、
   わが救いを地の果まで至らせよう」
 
 とする神の意志である。
 
 神はいまイスラエルの神の日本における
 復興を望んでいるように思う。
 
 本書がイスラエルの人々(ガド族)の秘密を
 公表するのは、
 その意向に適っていると考えるからでもある。
 
 この分節「幸手の秘密」の草稿を
 纏め上げ得たのはいる。
 
 クリスマスの宵(12月24日)のことであり、
 天の配剤をそこにも感じている。
 
 幸手とは、
  イスラエルの人々(ガド族)の
 隠れ場(至聖所)を長い間秘密裡に
 護り続けてきた聖地なのである。
  
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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