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第十四章 牛頭と鹿頭:銅剣と荒神谷遺跡 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:銅剣と荒神谷遺跡
 
  建御名方神の父神は
 『古事記』の挿話によると八千矛神である。
 
 八千矛神とは剣神であるから、
 その御子建御名方神も剣神であると
 考えるのは自然である。
 
 出雲風土記の
 出雲郡美談(みたみ)郷の条に
 
  「天の下造らしし大神の御子、
   和加布都怒志命」、
 
 秋鹿郡大野郷にも
 同名の命名が記載されているが、
 この和加布都怒志命は同風土記に登場する
 大国主神の御子のうち唯一剣に係わる尊名で、
 これは建御名方神の別称と推察される。
 
 美談郷は
 現在の平田市美談町で
 同市の南端出雲市との市境で
 斐伊川を挟んで斐川町に接する。
 
 同町にある縣(あがた)神社境内に
 和加布都怒志神社は鎮座しているが、
 かっては
 斐川町今在家の国長(川の対岸の地名)に
 あったと伝えられている。 
 
 延喜式神名帳出雲郡に
 「縣神社、同社和加布都怒志神社」
 とある。
 
 その川沿いの南側鳥井には
 風土記に「鳥屋社」及び延喜式神名帳に
 「鳥屋神社」と載る
 建御名方神を祀る神社がある。
 
 斐川町内には
 JRの荏原駅の南西の額頭内と
 その西方の神庭に
 諏訪神社が鎮座するが、
 この二社は承久の乱(1221年)後、
 信州から守護として赴いた桑原氏が
 勧請したものとみられるが、
 その北側の恵原町内に鎮座する
 「佐支多神社」にも
 建御名方神は祀られている。
 
 同社は風土記で
 「佐支多神社」と載る古社である。
 
 この「サキタ」は
 サンスクリット語 
 śakti を祖語として
 「剣」を表わす用語である。
 
 第11章の
 「埼玉・鹿島:剣持神の国」で
 「前玉神社」の「サキタマ」を
 śakti-mat(剣持)と紹介した同語である。
 
 同社の鎮座する字名を「前原」といい、
 「前」は śak- に対応する。
 
 「前」は埼玉県の「埼(さい)」と転訛したように
 「西(さい)」となっている。
 
 つまり
 「西谷(さいだに)」の「西」は 
 śakti にあるということになる。
 
 西谷には大量の銅剣が発掘された
 荒神谷遺跡がある。
 
 「サイダニ」は
 江戸時代に「才谷輪」と表記されたこともあり、
 単なる西(にし)の谷の意味ではなく
 他の由来を含んでいる。
 
 その理由が「剣」で西谷は「剣谷」である。
 
 ただし、
 ここに銅剣を埋蔵したから
 「剣谷」になったのか、
 他に理由があるのか答は簡単ではない。
 
 荒神谷遺跡には斐川町神庭西谷である。
 
 1984年の発掘調査で
 58本の銅剣が谷奥の傾斜地に刃を上に
 向けられて埋蔵されていた。
 
 それまでは
 日本全国で発見されていた銅剣数が
 300本程度であったので、
 その数の多さが驚きであった。
 
 翌年の1985年の調査で、
 その地点から僅か7メートル離れた
 同じ斜面から
 銅鐸6個と銅矛16本が出土し、
 さらに驚きを拡大させた。
 
 銅剣は全て中細形で
 弥生次代中期後半代に
 製作されたものと考えられている。
 
 しかし、
 これが重要な点であるが、
 どこで製作されたか、
 またいつ埋納されたかについては
 まだ確定的な判断が
 専門家によっても出されていない。
 
 製作地や製作者については、
 その原料の研究が大事である。
 
 銅の産地は島根県内もある。
 
 斐川町の近くでは
 平田市の唐川川を遡った鍔渕、
 八束郡東出雲町の内馬にある宝満山付近、
 この山は八雲村との境界にあり、
 同村の岩坂秋家にある
 田村神社名の「タムラ」は
 サンスクリット語の銅を意味する 
 tāmara に依るものだろうと
 第12章の「大穴持命と出雲」で述べた。
 
 また美保関町森山伊屋谷、
 石見銀山のある太田市大森町からも
 銅は産出された。
 
 これらの産地の
 銅か錫など周辺流域のものが銅剣などと
 同一であれば
 製作地は出雲に絞られることとなる。
 
 この遺跡名を「荒神谷」としたのは、
 埋蔵の近くに三本の松木があり、
 
 同木を神体とする
 三宝荒神が地元の人々によって
 祀られていたことによるという。
 
 「三宝荒神」信仰は
 仏教が普及して以後の信仰名である。
 
 「三宝」については
 「三本の松木」に表わされた
 後出の「三方」ともとれるし、
 
 「銅剣、銅鐸、銅矛」の三つが
 底にあるのかもしれない。
 
 「荒神」についても、
 出雲の神社の鎮座状況からみると
 素盞鳴尊に別称と判断されるが、
 ここでは
 サンスクリット語の「青銅」を意味する 
 āra-kūta に依拠していると考えられるが、
 今のところ何れも確証がない。
 
 「荒神」を素盞鳴尊と前提する場合には、
 これらの銅剣は
 出雲以外から持ち込まれた可能性が高くなる。
 
 その他の場合には
 出雲郡(斐川町)内における製作の可能性が
 高いと考える。
 
 素盞鳴尊は、
 『記・紀』神話においては
 天照大神と師弟の関係にあり、
 国土建設の役割を果たした
 祖神の一に並んでいる。
 
 だが、
 出雲にとっては外来の神である。
 
 『日本書紀』巻第一に
 「素盞鳴尊の行状は乱暴を極めた」とある。
 
 この乱暴こそ「荒(すさ)む」で「スサ」、
 『古事記』では「須佐」
 『日本書紀』で「素盞」の神名に
 依拠するところである。
 
 つまり「荒神」である。
 
 『日本書紀』は
 同神が「韓郷(からくに)の島」に行ったが、
 そこに留まらず、
 舟に乗ってこの国へやって来たと語る。
 
 その荒む様子は高天原で
 天照大神を困らせる物語として描かれている。
 天鈿女命が活躍する天岩屋戸の場面は、
 その乱暴に困り果てた
 天照大神が隠れてしまったために
 催された事件であった。
 
 高天原を追放された
 素盞鳴尊は寄稲田姫を助けて
 大蛇を退治することになるが、
 その大蛇の尾からは  
 『古事記』の草那芸の太刀、
 『日本書紀』の一書の天叢雲剣を取り上げた。
 
 この物語は、
 外から出雲にやって来た同神を
 奉祭する勢力が、蛇神を信仰し、
 優れた剣を造作できる先住の勢力を征圧して
 彼等の剣を取り上げたという内容となる。
 
 第12章で島根県東部の意宇郡名は
 八雲村に蛇山があるように
 サンスクリット語の 
 ahi の転写であることを指摘し、
 同村の日吉に剣神社が鎮座することから
 出雲で作られていたとも述べた。
 
 このように
 銅剣の出雲内製作の史料は前記ばかりでなく、
 さらに、後述するようにかなりある。
 
 ここでは
 銅剣が外から持ち込まれた可能性を
 考察するために
 素盞鳴尊の奉祭氏族について追求してみたい。
 
 その氏族集団とは天穂日命の勢力であり、
 その後裔である出雲国造の諸族である。
 
 ここでは詳しく述べないけれど、
 杵築大社(出雲大社)の主神は
 大己貴命であるが、
 大己貴命(大国主神)は
 出雲国造氏族の氏族神ではない。
 
 その経緯は『記・紀』に明らかである。
 
 同氏族の氏族神は素盞鳴尊である。
 
 杵築大社の本殿瑞籬外の
 真後ろに素鵞社を配置させている。
 
 拝殿で遥拝する者は、
 主祭神を拝すると共に、
 素盞鳴尊の別称である
 素鵞社を遥拝するという
 仕組みになっているのである。
 
 素鵞あるいは須賀は
 出雲国風土記に
 「清けし」との伝承によると述べられているが、
 本来は「穂日」を「スイガ」から「スガ」と
 読んだことによると考えられる。
 
 出雲国造と同じく天穂日命を祖とする
 武蔵国造の奉祭する
 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の
 氷川神社の祭神は須佐之男命、
 稲田姫命、大己貴命で、
 須佐之男命が筆頭である。
 
 埼玉県に広がる
 氷川神社の属社における 
 祭神は須佐之男命で、
 大己貴命まで祀るところはほとんどない。
 
 さいたま市大宮区の氷川神社を
 奉祭する神職は角井氏といい、
 古代から連綿として
 同社の祭祀に当たってきた。
 
 そして杵築大社の神職は千家氏であるが、
 この「センゲ」名は
 サンスクリット語の 
 śṝnga の転写で、
 つまり「角」を意味するのである。
 
 島根県益田市に須子町があるが、
 これは素鵞あるいは須賀であり、
 その町内に角井(古くは角井郷)がある。
 
 素盞鳴尊と「角」は離せない関係にある。
 
 千家氏(出雲国造にして杵築大社の神職)と
 角井氏(武蔵国造の族にして氷川神社の神職)は
 穂日命を祖とする同族であることが
 この「角」の解釈でよく知ることができる。
 
 その「角」とは「牛頭」である。
 
 素盞鳴尊の別称は
 「牛頭(ごず)天王」である。
 
 京都市東山区祇園町の
 八坂神社は素盞鳴尊、櫛稲田媛命を祀り、
 「牛頭天王」でよく知られる。
 
 同社は
 京都府綴喜郡田辺町天王高ヶ峰の
 朱智神社の
 建速須佐之男神を勧請したものと知られる。
 
 同社の主祭神は迦屚米雷命で、
 この命は息長氏に連なることから
 息長氏の祖神を祀る神社と考えられており、
 「牛頭天王」は崇神天皇以降に
 興った信仰であろう。
 
 既にみて来たように
 牛頭信仰は世界の宗教的流れの中で
 中心的基盤であり、
 何層にもなって別の種族、
 時代を重ねて注目されてきた。
 
 天穂日命の後裔である
 出雲国造一族もその神職の名称から
 牛頭信仰を持っていたことに間違いない。
 
 ただし、
 それは「天王」ではなかった筈であるばかりでか、
 出雲においての牛頭信仰の祖でもなかった。
 
 天穂日命の葦原中国への派遣について、
 『古事記』は
  「思金神及び八百萬の神、
   議(はか)り白ししく、
  『天菩比神、是れ遣はすべし』とまをしき。
   故天菩比神遣はしつれば、
     及ち大国主神に媚び附きて、
   三年に至るまで復奏さざりき。」
 
 と記す。
 
 つまり「媚び附いて」、
 『日本書紀』では「倍婚」というが、
 大国主神に服従してしまい、
 遣使の役目を果たさなかったというのである。
 
 しかし、
 素盞鳴尊の神話上の行状からすれば、
 大国主神の国を制圧して
 自分達が支配者になったまま
 葦原中国(出雲)を
 天孫に献上しようとしなかったというのが
 本当のところであろう。
 
 大国主神を奉ずる先住の人々、
 第12章の「出雲族」で述べた
 意宇(多)氏、つまり
 ヤーダヴァ(ドヴァラカ)族の
 鍛冶集団を征圧したのは
 建御雷神などではなく、
 天穂日命氏族であったとの理解が
 生れてくるのである。
 
 『記・紀』は大国主命の国譲り後に
 新しい統治者を送るのではなく、
 天穂日命にその祭政を任せている。
 
 ただし、
 その後裔は崇神天皇の時代の
 出雲振根の事件を初め、
 繰り返し時の政朝から
 その服従に疑いを持たれ、
 出雲国造神賀詞にみられるように
 代が替わるごとに
 服従の誓約を述べなければならない
 ことになっている。
 
 不思議なことに
 天孫族の支配に最も反抗したと語られた
 建御名方神の留まる
 諏訪の勢力に対しては服従の誓約や
 建御雷神に述べた条件が
 守られているかなどの尋問は
 その神話上も史料上の記録にも
 全く見当たらない。
 
 『古事記』の物語が
 いかに虚構であるかが解かってくる。
 
 つまり、
 天孫族の出雲支配に抵抗したのは
 天穂日命氏族であり、
 大国主命あるいは
 建御名方神ではなかったのである。
 
 「延喜式神名帳」因幡国高草郡に
 「天穂日命神社」「天日名鳥命神社」と共に
 「阿太賀都健御熊命神社」が記載されている。
 
 天日名鳥命は天夷鳥命などとも表記され、
 天穂日命の御子神である。
 
 健御熊は『日本書紀』に
 「大背飯三熊之大人、別名武三熊之大人」
 とあり、
 天夷鳥命の別称とされる。
 
 その神名を修飾する
 「阿太賀都」は
 サンスクリット語で理解すると
 adhi-gata で
 その意味は「得る、獲る、横取」である。
 
 3年間復命しなかった父の後を追って、
 『日本書紀』は武三熊之大人が
 派遣されたが父に従って
 復命しなかったと述べている。
 
 『三国史記』の「新羅本紀第二」の
 十四代儒礼尼師今の
 十四年に以下のような
 奇妙な話が記述されている。
 
 東洋文庫から転載する。
 
  伊西国(慶北清道郡)が侵略して来て
  金城を攻めた。
  わが国は〔国民を〕総動員して防いだが、
  撃退することができなかった。
  突然異様な姿の兵隊がやって来た。
  その数は数え切れないほどで、
  彼等は皆竹葉を首飾りにしており、
  わが軍とと共に賊軍を攻撃し、
  これを討ち破った。
  その後、彼等の行先がわからなかった。
  〔ただ、〕人々は竹葉数万枚が
  竹長陵に積み上げてあるのを見て、
  〔これが彼等の耳飾りの竹葉でないかと〕
  疑った。
  このことによって、
  人々は先王が陰兵をもって
  この戦いに援助したのだと思った。
 
 ここに登場する竹葉は
 三又戈と同じと考えられ、
 矢ないも矛、剣とみられる。
 
 天鈿女命が
 天石屋戸の前で手に持って踊った
 「小竹葉」である。
 
 『日本書紀』で
 「素盞鳴尊が韓郷に行ったが、
  そこに留まらず」
 に舟でこの国へやって来たと
 語られているところをみると、
 この「異様な姿の兵隊」とは
 素盞鳴尊を奉祭する集団と考えられる。
 
 竹葉が積み上げられたとは、
 剣などを積み上げたと考える。
 
 それはまさに
 「矛を納める」(戦闘を終わらせる)意味である。
 
 荒神谷遺跡の銅剣が
 よそから持ち込まれたとするならば、
 それは征圧をし終わった集団の
 戦勝を祝う祭事と考えることができる。
 
 祭祀用剣であるから
 刃こぼれなどが無くて当然だろう。
 
 斐川町の東隣りの
 宍道町の西端、斐川町境に佐々布地区がある。
 
 これは「ササハ・竹葉」の字義である。
 
 その直ぐ東の白石に才という字名があり、
 佐為神社が鎮座する。
 
 竹葉は「佐為」で「剣」である。
 
 358本の銅剣が
 外部からのものとするならば、
 それは出雲国造氏族の所行と考える。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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