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第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱(3)御名方神と「柱」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱
(3)御名方神と「柱」》
 
   御名方神は『古事記』などの伝承によると
 八千矛神と高志国の沼河比売命、
  出雲国風土記によると
 
 「天下造らしし大神が高志国に坐す
   奴奈宜波比売命にみ娶ひして産みましし神、
   御穂須須美命」
 
 であるといい、
 
 同神の背景に
  日本海側の文化が
 投影されていると判断される。
 
 そこで考えておくべきは
 「柱を建てる」である。
 
 北陸地方の
 縄文時代後期・晩期の遺跡から
 相次いで発見された巨大柱の痕跡である。
 
 諏訪神社の
 「御柱」は山より巨木を曳行して
 各神社境内に柱を建てる祭事である。
 
 その実態は未だ説明されていないにしても
  縄文時代の
 「柱建て」は
 祭祀に係るものと考えられており、
 双方には関係がありそうである。
 
 巨大柱に係る遺物、遺構の発見された
  遺跡を挙げておく。
 
 〇 新潟県寺地遺跡(西頸城郡青海町寺地)
 
  縄文中期から晩期の集落、湿田地帯から
   縄文晩期を主体とした
  特殊な配石遺構、積石墓、
  木柱郡が見つかった。
  木柱の直径が80センチメートル程度の
  根元が
    数10本出てきた。
 
 〇 富山県桜町遺跡(小矢部市桜町)
 
  縄文時代から近世までの複合集落、
    縄文時代前期から晩期では
  丸太を杭で留めた橋状遺構等と共に
    巨大な木柱根が出土した。
  長さ3メートル、
  直径22センチメートルで
    貫穴がつけられている。
 
 〇石川県
 
 ① 新保本町チカモリ遺跡
   (金沢市新保3、5丁目)
   縄文時代後期・晩期を中心とした
     集落、方形プランの建物跡多数とともに
     巨大な栗材の半戴柱が見つかった。
 
 ② 米泉遺跡(金沢市米泉2丁目)
 
  縄文時代後期・晩期の集落、柱根及び
    環状木柱列が検出された。
  
 ③ 真脇遺跡(鳳至郡能都町真脇)
 
  縄文時代前期初頭から晩期末の遺跡、
    彫刻木柱(前期から中期前葉)
  栗材の巨大な半戴柱を環状に配した遺構
     (環状木柱列)
  このうち寺地遺跡の木柱には曳行により
    磨り減った痕跡が
  木柱面に見られたものがあり、
   諏訪の御柱と同様のことが
  行われていたことを示している。
 
 巨大木柱の曳行、
 御建は北陸3県だけだろうか。
 
 そうではない。
 
 青森県の三内丸山遺跡でも
 その遺構は出土した。
 
 また
 諏訪大社の鎮座する
 茅野市の阿久遺跡からも
 環状配石址と共に
 方形柱列址が見つかっている。
 
 これらは考古学的発掘によって
  明らかになった史料である。
 
 史書にそのような
  縄文時代の文化を継承した
 記録があるのである。
 
 出雲国風土記のいわゆる
  「国引き」神話がそれである。
 「国」と表記された「クニ」は
 本来サンスクリット語の
 guṇa がその祖語であり、
 それが「国」と解釈され
 風土記に記述されるような
 物語となったのである。
 
 Guṇa は
 「紐を構成する條、紐、糸」で
 「綱」を意味する。
 
 綱は巨大柱を曳行するための
 貴重な用具である。
 
 「国引き」は「綱引き」である。
 
 神話の主人公
 「八束水臣津野命」の名前は
  「御柱引き」の意味を含む。
 
 「八束(やつか)」は 
  gaṣtika の音写で
 「杖」が本義ながら「柱」を意味する。
 
 「水臣」は
 松江市大草町安部谷の
  アベ ambha となっているが、
 この神名においては
 「ミナ(水)」で māna 建物の派生で
  「建てる」を意味する。
 
 「津野」は単純に「綱」を
  異字体を用いて表記したもので、
 その神名は「柱建ての綱」である。
 
 風土記では三つの国を引いて来るが、
 そのうちの一つ狭田国の一部を
  日本古典文学大系から転載する。
 
  三身の綱のうち掛けて霜
  三身の綱をうちかけて、
  霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、
  河船のもそろもそろに、
  国来国来(くにこくにこ)と
  引き縫える国は、
  多久の折絶えり、狭田の国、是なり。
 
 狭田の国は現在の八束郡鹿島町の
  佐陀本郷、佐陀宮内の
 地名にあるように
 『和名類聚抄』にいう
 佐陀郷に当たるが、
 「サダ」は東出雲町の須田と同じく
 
  サンスクリット語の
 stuṅa あるいは 
 stambha (杖)を
 祖語とするものとも考えられ、
 出雲の古代においても
  「柱信仰」があったと考えられる。
 
 ここにみられる「三身」は「ミミ」で、
 「三身の綱」は「柱建ての綱」となる。
 
 また「来縫」に対し「きぬ」と
 訓を付しているのも関係ありそうである。
 
 国引きを終わった
 八束水臣津野命は
 
 「意宇の社に御杖衝き立てて
 『おゑ』と詔りたまひき」
 
 とあるが、
 
 最後の神事として
 「杖を衝く」つまり
  「柱を建て」たのである。
 
 「おゑ」は「オーレ」と同じで
 シュメル語 ār' を祖語とする
 「神を賛美する」との詞である。
 
 鹿島町には御津があるが、
 これは平田市に三御町があり、
 そこに美野瀬があるように
 「ミナツ、ミーツ」で、
 miti(Mā),minoti(Mī)、
 その西隣りの美保町に鎮座する
 田田神社、
 松江市岡本町の多太神と同じく
  daṇda (杖)に依拠するものと考える。
 
 島根県の西部石見国に美濃郡がある。
 
 現在の美濃郡は
 和名類聚抄美濃郡に載る
 
 大農、美濃、小野の
 三郷が合併して成立した
  三野の意味であるという。
 
 しかし、
 奈良時代から「美濃」は見られる古名である。
 
 益田市には現在も美濃地があり、 
  minoti を祖語とするもので、
 「柱を建てる、建設する」を意味する。
 
 これらの史料が
  全て御名方神と係っているとは
 言い難いが、
 出雲、石見に
 「柱(杖)を建てる」信仰が
  あったことは確かと考える。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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