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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:①八潮市立資料館・藤波邸の「牛角兜」 [小嶋秋彦]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:八潮市立資料館・藤波邸の「牛角兜」
 
  埼玉県越谷市南部の
  大成町、川柳町、伊原、蒲生と
  この辺りには久伊豆神社が集中している。
 
 それに続く
 草加市の青柳、
 八潮市八俣、鶴ヶ曽根
 にも鎮座し、
 その南端は、
 西袋の氷川神社と通称されている
 氷川久伊豆合祀社である。
 
 その宮は柳の宮と呼ばれ、
  それによる同地名もある。
 
 「柳」は
 久伊豆神社の関係する地名であることは
 「久伊豆神社とお獅子様」で述べた。
 
 柳之宮の北には南後谷地区がある。
 
 越谷市の北後谷に対する南後谷である。
 
 同地は平安時代からの居住跡が
 発掘調査により確認されている。
 
 地区内にある八潮市立資料館2階には、
 紺屋(監染屋)の紹介展示が、
  二体の青銅製染工を
 据えつけるなど詳しくなされており、
 この地方で「染め」の紺屋業が
 盛んであったことを明示している。
 
 後谷が「コーヤ」で
 ヘブライ語の
 kogl(玉、球)を祖語とし、
 繭、生糸の加工を業とした人々を言う。
 
 その活躍の伝統を記録しているのである。
 
 同資料館に付属して
 「藤波邸」の旧家屋が
 文化財として保存されているが、
 その床の間に勇壮な
 木彫りの兜が置かれている。
 
 当館では単に「兜」と銘打っているが、
 本書は敢えて「牛角兜」と呼ぶことにする。
 というのも、
  実に太い牛角を備えた兜だからである。
 
 鎌倉彫の一木彫で、
 その製作年代は大正期、
 20世紀の初めで
  未だ100年を経ていないものだが、
 この牛角兜の持つ文化的価値は極めて高い。
 
 人類の霊あるいは神といった
 見ることのできない
 存在に対する信仰を意識し始めてからの
 1万年の重みを象徴しているからである。
 
 その高さは120㎝、
  幅もおよそ100㎝を超えている。
 
 基台となっている帽子状の部分の高さは
  50㎝四方、角の部分の長さが110㎝ある。
 
 左右の牛角の太さ(直径)は
 根元で15㎝余である。
 
 この牛角の祖型は
 野牛あるいは水牛と呼ばれる
  種の牡牛の角である。
 
 日本の伝統的和牛のものではない。
 
 牛角の張りが「脹(ふくら)」で、
  まさに弓状を成し、
 両角が大きな半円を描くようである。
 
 この牛角兜は
  藤波家が20世紀の初めに置物として
 買い入れたものではない。
 
 特別に製作されたもので、
 その原型を同家は 
 永年伝統として
 継承してきたものとみられる。
 
 一私家の系譜で恐縮だが
  同家は江戸時代の中頃まで
 小櫃家といい、
 それも江戸期の初期
  本間姓から改姓した家系である。
 
 その本間氏については現在の当主が
 「八潮市史研究」に掲載して
 明らかにしているところに依れば、
 鎌倉時代の御家人本間氏が本貫であるという。
 
 その祖は本間能忠で、
 『群書類従』にその系譜が載るが、
 現在の神奈川県海老名市に当たる
 相模国高座郡海老名郷の住人
 海老名源八李定の次男であるという。
 
 厚木市金田に本間屋敷の字名があり、
 そこの妙継寺はその屋敷跡と伝えられている。
 
 本間氏は佐渡の守護代を勤めることがあった。
 
 「北陸と佐渡の秘密」で登場した
 鎌倉時代の守護本間氏である。
 
 本間能忠の能久などである。
 
 文永8年(1271年)と推定される
 日蓮の佐渡送りにも関係し、
 日蓮は送られる直前
 本間屋敷預かりの身になったらしい。
 
 日蓮書状に
 「此れ十二辰時勘気、
  武蔵守殿(大和宣時)
  御あつかりにて、
  十三日丑時にかまくらをいて、
  佐土の国になかされ候か、
  たうしハほんまのえちと
  申しところに、
  のちの六郎左衛門尉殿代官右馬太郎と申者
  あつかり候か、いま四五日ハあるへけに候」
 
  (本満寺文書/神奈川県史資)とみえる。
 
 「のちの六郎左衛門」が
 本間六郎左衛門重達とされる。
 
 「のち」は「当主」の意味で
 サンスクリット語の 
  nātha(主人、支配者)が
  用いられていると考える。
 
 この書状でも解る通り、
  本間屋敷は「えち」にあった。
 
 「えち」は
  鎌倉時代から戦国期にかけての郷名で
 依智郷と表記され、現在の依知である。
 
 厚木市の相模川と中津川(及び小鮎川)が
  合流する金田以北上依知の両河の間を
  称していった郷名である。
 
 本間氏の母体海老名氏は、
  平安期から中世に現在の
 埼玉県児玉郡美里町を中心に活動した
 武蔵七党のうちの横山党の出であり、
 康平年間(1056-65年)に相模守として
  この地に来た源田郎親季を祖とする。
 
 さらに
 横山党の祖は武蔵権介として下向した
 小野義隆(義孝)である。
 
 この小野氏は
  村山源氏の出と諸家系図纂は言うが、
 厚木市に小野があり
  小野神社が鎮座することから、
 その祖はこの地域に縁りのあった
  種族と考えられる。
 
 「ホンマ」
 「エチ」
 「エビナ」は、
 この氏族の来歴を明らかにする。
 
 「エチ」は
 奈良県天理市庵治町と同祖である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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