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第十二章 大国主神と大物主神:神武天皇と富登多多良伊須須岐比売命 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
 
  富登多多良伊須須岐比売命は
 神武天皇の皇后になった。
 
 父は大物主神で母は勢夜陀多良比売命である。
 
 同命が高佐士野で「七媛女」の中に
 遊行するときに神武天皇が見初めた。
 
 その屋敷が三輪山の西北の麓出雲屋敷であった。
 
 現在父母神と共に狭井坐大神荒魂神社に
 祀られている。
 
 同命が出雲屋敷にいたことは、
 彼女も大神神社の巫女であったことを示す。
 
 神武天皇は七人の巫女の中から
 皇后を選んだのである。
 
 その別称を
 『古事記』は
 比売多多良伊須須気余理比売といい、
 『日本書紀』は媛踏鞴五十鈴媛命という。
 
 「大物主神妃」で、
 「陀多良、多多良」を『日本書紀』が表記する
 「蹈鞴」の意味に本書がとらないのは、
 製鉄に係わる技術用語として
 日本へこのタタラが入って来たのは
 崇神天皇の頃であって、
 神武天皇の頃にはなかったと
 解釈するからである。
 
 本書が
 『古事記』の
 「富登多多良」の「多多良」をその母名と同じ
 「陀多良」に合わせて解釈したのは
 その理由による。
 
 『日本書紀』の制作者が
 「多多良」を「蹈鞴」と解釈したための
 表記であろう。
 
 その意味するところは「鍛冶」で
 「富登多多良」は「刀鍛冶」とすることができる。
 
 「富登」は富都、経津である。
 
 同命は神武天皇の皇后になると
 大神神社の神域を
 離れなければならなかっただろう。
 
 『日本書紀』によると、
 神武天皇は樫原宮に即位し
 「正妃を尊び皇后をとす」とある。
 
 磯城郡田原町蔵道の
 村屋坐弥富都比売神社の地へ移ったのである。
 
 同社の伝承によると、
 神武天皇元年9月に
 媛蹈鞴五十鈴姫命に村屋の神等を
 斎祀させたとある。
 
 同社は延喜式神名帳大和国城下郡に
 「村屋坐弥富郡比売神社大」と載る。
 
 祭神を現在は三穂津姫、大物主命、
 
 この判断は
 『日本書紀』の葦原中国の平定の段で
 高皇産霊尊が、
 八十万神を引いて事代主神ともども
 帰順してきた大物主神に、
 その女三穂津姫を娶あわせて
 永久に皇孫を守り奉るようにと
 地上へ還り降下させてという
 一書の伝承に従うものである。
 
 「弥富都」を「三穂津」と
 訓んだ上での判断である。
 
 だが、
 高皇産霊尊はさらに
 後世に神格化された神であり、
 神武天皇の時代における
 三穂津姫の存在は薄い。
 
 同社の祭神について
 江戸時代の
 「和州旧跡幽考」や
 「大和名所図会」は
 「韴霊劒(ふつのみたまのつるぎ)」とする。
 
 つまり
 「剣持神」はインドラ神にして大物主神である。
 
 大神神社の巫女であった
 姫蹈鞴五十鈴姫命が
 同神を祀ったとしても不自然でない。
 
 同社は
 大神神社の部宮と称される近い関係にある。
 
 しかし摂社末社には属さず、
 別宮というものの
 けじめがつけられているのは、
 同姫の神武天皇の皇后になったとの立場が
 考慮されてのことと判断される。
 
 大物主神の神妃はその摂社に祀られているが、
 三穂津姫命の名はない。
 
 そのような状況からすると、
 「弥富都比売」は姫蹈鞴五十鈴姫命
 その人をいうものなのである。
 
 「弥富都」は
 『古事記』名にある「富登」で
 「弥」は
 サンスクリット語の 
 mih (霧)で megha (雲)と同義で
 「ミフツ」は「雲‐剣」で「雷光、稲妻」である。
 
 島根県八束郡美保関町の「三保」は
 そこに「雲津」の地名がある通り 
 mih(megha) の転写で、
 「三穂津」は雲に因んで作られた名称である。
 
 『日本書紀』では
 三穂津姫を大物主神の妻とするが、
 巫女は本来神妃にして妻であり、
 媛蹈鞴五十鈴姫もその立場にあった。
 
 明治24年の
 「神社明細帳」は祭神を
 「弥富都比売神、大物主大神」とし、
 主神を比売神とする表記となっており、
 夫妻神を表わすような表記ではない。
 
 さらに不思議なことに、
 媛蹈鞴五十鈴姫は
 神武天皇以降の皇孫の皇母にも係わらず、
 大和盆地に同姫を祀った神社が
 樫原神宮おいては他にみあたらない。
 
 奇妙である。
 
 やはり村屋神社はその邸宅であったのであろう。
 
 同社の神官は守屋氏が継いできたという。
 
 「村屋」は同一で、
 同社はかって
 「森屋神社、森屋明神」とも称されたが、
 この名称は同社から北西へ少々離れた
 大安寺の鎮座する
 「森市神社」名とも関連する。
 
 「村屋、森屋、森市」は
 サンスクリット語の 
 Mṛj で「歩き回る」の意味から 
 mṛga となり「森の獣」 の意味となる。
 
 一般的には鹿をその代表とするが、
 ここでは大物主神である。
 
 「蛇」あるいは「龍」を云ったものだろう。
 
 因みに
 諏訪大社の守矢氏、洩矢神名も
 この Mṛj を祖語とするもので、
 その信仰の中に
 
 御射山祭、御頭祭の75頭の鹿頭、鹿食免など
 鹿に係わる神事が多い。
 
 田原本町富本には「富都神社」も鎮座する。
 
 大日本地名辞書は、
 同社を村屋神社の商社と云っている。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:天照大神と多氏・大三輪氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
 
 撞賢木(斎賢木)は
 「叢(伊豆)」の枕詞という。
 
 「イツ」とは何かであるが、
 これは鑚木鑚臼ををいう。
 
 サンスクリット語の idh の音写で、 
  indhe が「点火する」、
 yate が「燃やされる、点火される」である。
 
 叢御魂である「イタマ」は 
  idhma で「聖火に用いられる薪」で、
 結局「イツ」は撞賢木である。
 
 そして 
 idh はイザナギ、イザナミの「伊邪」である。
 「ナギ」は梛で鑚木(杵)を、
  「ナミ」は「並」で鑚臼である。
 
 梛は
  兵庫県竜野市神岡町沢田梛山の
  梛八幡神社名になっており、
 八幡神社となる前には
  鑚木に係わる神社であったろうと思われる。
 
 京都府与謝郡岩滝町男山に
  鎮座する板列八幡神社の「板列」は
 「イザナミ」で鑚臼を祀るものと考える。
 
 このように考察すると、
 本居宣長がいう天照大御神(神火)は
 伊邪那岐大神の槻賢木伊豆(鑚木)の
  御霊に生れたとの理解が
 よりはっきりする。
 
 天照大神は太陽神にして火神である 
  kasāku 春日神なのである。
 
 大神神社の繞道祭は
  太陽神の象徴である神火を天照大神
 御魂として拝載する儀式ということができる。
 
 次に
 「天疎(あまさかる)」について考えてみたい。
 
 「疎」は「疏」が元字で、
  その読みは「とほる、とほす」で、
 「うとい」「すかす」の意味もある。
 
 その尊称の読みを「さかる」とするのは
 何故かだが、
 大神神社の三ツ鳥居を通ることを「透る」と
 三輪神道では説かれているので、
 「すかす」と係わると考えられる。
 
 しかし、
 「さかる」には更に複雑な意義があると考える。
 
 「瑞籬と三ツ鳥居」で
  コーカサス caucasus(囲垣) の国
 グルジアの ziskari(暁) は za-kari で
 「天門」の意味であることを紹介したが、
 「さかる」はこの zakari と同声である。
 
 相互関係があるのだろうか。
 
 『旧約聖書』「創世記」第28章において
 「天の門」が現れる。
 
 本書の第5章の
 「ヘブライ人とユダヤ人」で紹介したように、
 ヤコブがベエルシバを発ってから
 ハランに向う途中
 ルズという町で一夜を過ごしたところ、
 彼の夢に
 
 「一つのはしごが地の上に立っていて、
  その頂は天に達し、
  神の使いたちがそれを上り下りしている」
 
 のを見た。
 
 そこで主は彼に彼が伏しているところを
 彼の子孫に与えることを語りかける。
 
 彼は眠りから覚めて恐れ
 
 「まことに主がこのところにおられるのに
   私は知らなかった」
 
 といい、
 
 「これはなんという恐るべき所だろう。
  これは神の家である。
  これは天の門だ」
 
 と恐縮する。
 
 この地はベテル Beth-el (家‐神) で
 現状の死海西方の Bethlehem 市に当たる。
 
 「神の家」は、
  はしご(階段)を昇って上がったところにある。
 
 その概念が
  日本の神殿と全く同様であることは
 既に述べたが、
 
 メソポタミアの「高床式建物」、
  ジクラト(聖搭)にも見られ、
 北メソポタミアのシンジャール、
 その地域の紀元前1万年頃の
  旧石器時代の埋葬霊所に
 牛角を掲げることに始まっている
 想念である。
 
 牛角は階段の意義があり、
  ゲルマン民族名である
 German の祖語は
  シュメル語の galam-am で
 「牡牛の角」であるとの見解を述べた。
 
 角は天への門である。
 
 サンスクリット語の
  「角」を意味する śṛṅga が神社(シンジャ)と
 なっているとの見解も既述のところだが、
 この神社こそ「神の家」にして「天の門」である。
 
 スバル人の後裔が用いる 
 za-kari (天の門)は、
 古代メソポタミアに
  その祖先がいたころからあった用語であり、
 インド・ヨーロッパ語圏へ移入されている。
 
 ギリシャ語では 
 ςηκοζ(聖域)となったが、
 その義を
 「家畜を囲んでおく柵」
 としており、
 神社の瑞籬の起源を窺わせる。
 
 ラテン語では 
 sacró (神聖にする、祭る)
 sacrum,sacellum,sacrārium,
  sacramentum(至聖所)となり、
 
 ドイツ語でSskra (聖所)、
 sakral (聖式の、礼拝の)、
 
 英語の sakrament (聖所)である。
 
 それらの原初時代の
 シュメル語では
 sug-suku(神域)、sukud(掲げる、高くする)、
  šakar (容器、箱)、
 
 セム語では
 zagaru (高くある)、saga (聖所、寺院)、
  zigfura (聖所、寺)、
 
 この語は 
  zigfura-tu(ジグルラト・聖塔、寺塔)の
 基語である。
 
 スバル語 za-kaṅ は以上のような
  波及をみせている。
 
 これが
 
 バローチ語 
 zahir (明白な、明らかな)となり、
 
 ユダヤ語の ziher (確かな、安全な)、 
 zikh (十字)、
 
 サンスクリット語の 
 śukara となって
 「輝く、明るい、清い、白い、清浄な」の
  形容詞と共に名詞として使われた。
 
 この「聖所」の意味こそ
 「疎:サカラ」の真義で、
 つまり 
 zakaṅ が遠い祖語であり、
 「天の門」である。
 
 「疎」はジクルラトの持つ概念と
  一致するものであったのである。
 
 「天疎」は結局青垣で、
 三輪山を指すと考えられ、
 「天疎向津姫命」は「天門の向うの姫命」で
 天門は暁であるから
  曙の向うから来る(現れる)太陽神である
 天照大神ということとなる。
 
 次に「姫命」「姫神」の「ヒメ」について考察する。
 
 「特選神名牒」は
 多神社の第二座名の祭神について
 「姫命」と記述するのみである。
 
 「姫命」だけとする神社は
  これまで宇佐神宮を紹介したが、
 奈良市の春日大社の第四座がある。
 
 春日大社の「比売神」は枚岡神社
  (東大阪市出雲井町)から
 勧請されたと伝えられる。
 
 同社は
 『延喜式神名帳』河内国河内郡に
 「枚岡神社四座並名神大」と載る。
 
 社伝によると
 奥宮のある神津嶽頂が
  その鎮祭の地であったという。
 
 神津嶽は三輪山の頂
 「高の峰、神の峰、上の峰」を連想させる。
 
 『和名類聚抄』の河内国讃良郡に
  枚岡郷があり、
 枚岡神社は
 そこから遷されたと説かれたことがある
  (大日本地名辞書)。
 
 『新撰姓氏録』河内国神別の平岡連が
  讃良郡の枚岡郷から
 現在の鎮座地に移住したと考えられた。
 
 「枚岡郷」は
 現在の四条畷市の一部を
  含んでいたとみられているが、
 その四条畷の地名が
  東大阪市の同社の周辺にあった。
 今は縄手となっている。
 
 「ヒラオカ」の意味であるが、
 枚岡郷が讃良郡にあった状況から判断すると、
 これは
 サンスクリット語の viroka の転訛である。
 
 その語義は「光輝」ではあるが、
 「夜明けの光」で暁に特定された用語である。
 
 しかも「穴、空所」をも内容とする。
 
 まさに「天門」に相当する。
 
 寝屋川初町はクリシュナの父 
 vasudeva の vasu の音写で、
 隣りの日之出町名にも係わる
 「夜明けの輝き」を表わすと紹介し、
 ドヴァラカ族が
 「暁紅」崇拝の日種であると述べた。
 
 「ヒラオカ viroka」はこれに共一し、
 そのような背景をもつ地名である。
 
 クリシュナ自身も 
 vāsudeva (ヴァスデーヴァの子)と呼ばれ、
 その尊称に「暁」を持っていたのである。
 
  Viroka を他の例でみると、
 長野県塩尻市に広丘がある。
 
 その東に東山があり、
 そこに片丘があることを
 第11章の「横山:医方明の山」で述べた。
 
 「片」は keta で「光輝」を表わすが、
 広丘は「夜明けの光」が射すところである。
 
 その西方には東筑摩郡の朝日村があり、
 「ヒロオカ」を補足する地名である。
 
 Vi が「ヒ」であるのは漢音写が「毘」で
 『古事記』に
 「毘売」と表記された単語である。
 
 これが
 「比売」「姫」であることは周知のところである。
 
 枚岡名にはこのような「暁紅」の意味があり、
 枚岡神社の「姫神」は
 この viroka 神なのである。
 
 宇佐神宮の姫神は
 ウシャス神で暁神であり、
  同一となる。
 
 「本朝世紀」正暦5年条に
 「天帯姫命廟坐河内国枚岡」とあるが、
 「帯:たらし」は
 サンスクリット語の tarṣa の音写で
 「太陽、筏、海洋」を意味し、
 「天帯」は「太陽」である。
 
 その廟が現在何処かははっきりしないが、
 ここに
 「日」に係わる伝承があることは確かである。
 
 春日大社には
 この「比売神」が祀られているというのである。
 
 「カスカ」は
 サンスクリット語の 
 kasāka (太陽、火)を祖語とし、
 奈良市街の東方に春日山は位置する。
 
 大阪府西淀川区姫島に姫嶋神社が鎮座する。
 
 延喜式神名帳「摂津国住吉郡」に載る
 「赤留比売神社」で、
 現在その祭神名を
 「阿迦留比売命」と表記している。
 
 この「アカル」は
 サンスクリット語の ahar の転訛で、
 「大比良、大日孁」と
 同根の「日、昼」で太陽を表わす。
 
 この「姫」も太陽に係わる。
 
 大阪市住吉区住吉町の住吉大社においても
 第四宮に姫神が祀られている。
 
 「住吉大社神代記」は
 「気長帯長足姫皇后宮」と書いて
 「息長帯比売」に当てている。
 
 しかしその第四宮の御前に船玉神社を
 配置していることからすると、
 この「帯、足」は 
 tarṣa で、「筏」の船ではあるが、
 天空の船である太陽(船玉)を
 祭祀したもので、
 この姫神も太陽神と考えられる。
 
 これらの考察から
 「姫神」は一般的名詞では」なく、
 確かな一定の神格を表現するものであり、
 それが夜明けの光、
 暁あるいは暁紅神であることが明白である。
 
 「ヒメ」はサンスクリット語の
  vimala (汚点のない、透明な、白い)
 を祖語とするが、
 パーリ語では vimon と変化した。
 
 つまり「ヒメ」は無垢の少女の意味で、
 暁紅に相応しい。
 
 「姫神」の祖語はウシャス神にして
 リグ・ヴェーダが呼称する「天の娘」である。
 
 1-48は詩う
 
 「よきものを伴いて、われらがために、
  ウシャスよ、輝き渡れ、天の娘よ、
  高き光彩を伴ないて、輝く(女神)よ、
  富を伴ないて、女神よ、賜物に満ち満ちて。」
 
 このような「天の娘」は
 4-51、7-81、8-47などにみられる。
 
 多神社の祭神「姫神」は結局その暁紅神で、
 天疎向津姫命は三輪山の高宮神社に坐す
  日向御子神にして天照大神である。
 
 つまり、
 多氏族も三輪山の高宮神社の信仰に
 関係していたのである。
 
 三輪山の高宮神社を
 「コウノミヤシャ」と
 言い慣わしていることは重要である。
 
 「コウ」は 
 gaurā (光輝)でることは述べたが、
 枚岡神社の神津嶽も
 「コウ」でなければならず、
 高安郡の天照大神高座神社の
 「高座」も「コウ」でなければならない。
 
 さらに讃良郡の高宮神社、
 高宮大社祖神社の「高宮」も
 「コウノミヤ」でなければならない。
 
 その高宮に近い
 枚方市の高田は「コウダ」という。
 その隣りは香里である。
 
 暁神崇拝のドヴァラカ族(登美族)が
 「海を光して依り来る」神大物主神を
 三輪山に社を建て住まわせ奉祭し、
 
 崇神天皇の時「高宮」に
 関係のあった大田田根子が
 高宮神社の祭祀を引継いだのである。
 
 彼の所在地について、
 『古事記』は「河内の美努村」
 『日本書紀』は「茅淳県陶邑」という。
 
 堺市上之に
 『延喜式神名帳』「和泉国大島郡」に
 「陶荒田神社二座」とある」同名社が鎮座し、
 大田田根子を祭神として祀っている。
 
 ここは
 陶器の産地で特に須恵器多く産出した。
 
 ここを
 彼の出身地とするには少々問題がある。
 
 確かに「陶邑」ではあるが、
 ここは和泉国であって河内ではないこと、
 またこの陶邑古窯郡から出土する
 須恵器の製作開始時期が
 5世紀半頃からで、
 その時代の隔たりは150年ほどある。
 
 崇神天皇の時代は
 3世紀の末葉(290年以降)から
 4世紀の初葉である。
 
 更に重要な要件は
 彼が根子(禰宜)であったにも係わらず、
 堺市東部には
 それらしい雰囲気の痕跡を
 見出せないことである。
 
 陶器に係わっていたにしても
 先ず神官で祭祀ができなければ
 その役目は果たせなかったはずである。
 
 大田田根子は
 讃良郡の高宮にいた者と考えることができる。
 高宮が共通するばかりでなく、
 『古事記』のいう「河内」内であり、
 「美努」は mina (魚)で、
 マツヤ(三井など)の異名であり、
 『日本書紀』の
 「茅淳県」の「チヌ」は「黒」であった。
 
 「陶邑」については、
 秦町の細屋神社が「クワヤ」で
 「壺屋」である事情を
 「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 で述べたが、
 近くの太秦遺跡からは
 大和攝津に特徴を同じくする
  甕形土器が出土している。
 
 須恵器製作が始まる以前の弥生式土器である。
 
 秦町には加茂神社がり、
 「カモ」は kahamat (穴持) でるから、
 壺(甕)も二重口縁壺であった可能性について
 「登美族」で触れた。
 
 『古事記』に
 疫病の多いことを悩んだ
 崇神天皇が神牀に坐して
 大物主神から大田田根子に
 
 「我が御前を祭らしめたまえ」
 
 と宣告されたが、
 「神牀」は『日本書紀』の解釈によると
 「沐浴斎戒して後に坐す淨殿」となる。
 
 「牀」はまた「寐屋(とこや)」で
 現在は寝屋と転換されており、
 崇神天皇の伝承に係わる地名と
 考えることもできる。
 
 神八井耳命の母
 (勢夜陀多良比売)に連なる
 三嶋泊咋(登美族)の系譜が
 暁紅神である太陽神と関係あることは
 理解できるが、
 その父神武天皇の系譜もまた
  太陽神崇拝者(日種)である。
 
 その祖神四代の尊称を
  『古事記』は次のように表わす。
 
  第1代 太子正勝吾勝速日天忍穂耳命
  第2代 天津日子番能邇邇芸命
       天津日高日子番能邇邇芸命
  第3代 三津日高日子穂穂出見命
       虚空津日高<天津日高の御子>
  第4代 天津日高日子波限鵜葺草葦不合命
  第5代 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)
 
  第1代天忍穂耳命の「太子」については
 日本古典文学大系は「ひつぎのみこ」と読み、
 その注で「日嗣の御子の意」としている。
 
 本書では「太」は「大、意富」と同じく
 サンスクリット語の
 aha,ahar の音写であると述べてきたが、
 その語義が「日、昼」であり、
 「太子」は「日子」とすることができる。
 
 第2代から第4代の尊称にある
 「日子」に引継がれている称号である。
 
 第2代から第4代までの天津日子、
 天津日高日子は太陽を表徴する尊称であり、
 神武天皇の祖神が
 「日子」太陽神に係わっていることを
 示している。
 
 そして『古事記』は
 「天照大御神の命以ちて、
 『豊葦原之秋長五百秋之水穂国は、
  我が御子、
  正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ』
  と言因さし賜ひて、天降したまひき。」
 
 と語り、
 
 第1代天忍穂耳命が
 天照大御神の御子であるという。
 
 「天津神系」は太陽神崇拝者の系譜にある。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十二章 大国主神と大物主神:天照大神と多氏・大三輪氏① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 天照大神と多氏・大三輪氏
  ここでういう多氏は
  『古事記』の「意富臣」の氏族である。
 
 その祖は神八井耳命である。
 
 父は神武天皇で、
  母は伊須気余理比売命であるが、
 同比売命の
  母は勢夜陀多良比売命、
  父は「美和の大物主神」で、
 多氏の祖はまた
 三輪山に関係しているのである。
 
 氏族名「オホ」は aha の転訛であり、
  divasa(日、昼) と同義であり、
 大物主神に対応される。
 
 依って
  多氏は太陽神崇拝の氏族と考えられる。
 
 神武天皇(皇孫)の祖は「天照大御神」である。
 
 多氏の奉際するのが
  磯城郡田原本町多字宮ノ内の「多神社」で
 
 『延喜式神名帳』大和国十市郡に
 「多坐弥志理都比古神社二座名神大」とあり、
 史料には意富社、太社、大社と表記された。
 
 現在の祭神は、
 神武天皇、神八井耳命、
 第2代綏靖天皇となった
 弟の建沼河耳命、姫神となっていて、
 四棟式本殿のそれぞれの棟に
 祀られているとされる。
 
 これらの祭神をみると、
 多氏が「神武東征」のより外から大和盆地へ
 進出して来た氏族系統を継ぐ
 主要な集団であることが解かる。
 
 しかし、
 社号にある「弥志理津比古」は
 誰をいっているのだろうか。
 
 これまでの見解では確定されていない。
 
 神名帳に「二座」とあることから
 「特選神名牒」は
 「神八井耳命即弥志理比古、姫神」
 としている。
 
 平安時代の神名帳に二座とあるからには
 その後に二座増え四座となったのは
 事実であろう。
 
 その古い時代の祭神が「弥志理比古神」である。
 
 神武天皇が崩御された後、
 庶兄当芸志美美命の神八井耳命ら
 兄弟三人を殺そうとする謀略が察知された。
 
 そこでかえって三人で庶兄を殺そうとした時、
 兄神八井耳命は
 「手足和那岐弖得殺したまはざり」としたため、
  弟の神沼河別命が
 「其の兄の持てる兵を包い取りて、
  入りて当芸志美美を殺したまひき」となった。
 
 そのため、兄は弟に
 「吾は仇を殺すこと能はず、
   汝命既に仇を得殺したまひき。
  吾は兄なれども上となるべからず。
  是を以ちて汝命上となりて、
  天の下治らしめせ。
  僕は汝命を扶(たす)けて、
  忌人(いみびと)と為りて仕え奉らむ」
 
 と申して
 天皇の位は弟に継承させ、
 自分は忌人(斎人)となった。
 
 『日本書紀』にも同様の伝承を載せ、
 
 「吾は是乃の兄なれども、
  懦く弱くして不能致果からむ。
  今汝特挺れて神武くして、自ら元悪を誅ふ。
  宜なるかな、汝の天位に光臨みて、
  皇祖の業を承けむこと。
  吾は、当に汝の輔と為り、神祇を奉典らむ」
 
 とある。
 
 神八井耳命は「忌人」「神祇を奉典らむ」と
 神職となったのである。
 
 「特選神名牒」がいう通り
 弥志理都比古は神八井耳命である。
 
 それは次のような理由付けができる。
 
 「八井」は「弥志理」と同義で同音なのである。
 
 「井」を表わすサンスクリット語に 
 jala (水、泉、清水) があり、
 「八井」は「ヤジャラ」であり、
 弥志理の「弥」は「いや」であるから
 ye と解釈すれば
 「ミシリ」ではなく「ヤシリ」と訓め、
 双方の訓音が近似する。
 
 このヤジャラ(ヤシリ)は
 サンスクリット語の 
 yajur ヤジュールであり、
 「祭祀」を意味する。
 
 ヤジュールは
 第8章 
 インド文化と祝祭
 「聖典とラパニシャット」で紹介した
 インドの四大聖典のうちの
 ヤジュール・ヴェーダの
 名称になっている用語で、
 それはバラモン教の司祭 
 Adhvaryu の唱える
 祭詞を集めた祈祷詞集である。
 
 ヤジュールは神八井耳命がなった忌人で
 「神祇を奉典」を司る神官である。
 
 つまり
 特にアディヴァーユ祭官の祝祭式を
 執行するための知識を得た者をいう。
 
 また、「八井耳」を含めて解釈すると 
 yajur-manman の音写で
 「(神祇祭祀)に専心する」の語義で、
 弟に天皇の位を譲って
 神官に徹した者の名称にふさわしい。
 
 第1章 祝祭で紹介した
 「八意(やごころ)思金神や阿知女作法」
 に係わる。
 
 そこで説明しなかったが、
 思金神の「八意」は「八井」と
 同音同義で、
 これも「ヤジュール」で「意」としたのは
 「思金 shikin 」の本義
 「知識、意識」を含味したからである。
 
 長野県下伊那郡神坂村の
 阿智神社の鎮座する阿知‐伏谷が
 adhvaryu であることを
 一層確実に理解できるだろう。
 
 このほか yajur は
 八尻、八釣など音写されている。
 
 桜井市山田を八釣川が流れ
 明日香村に八釣地区がある。
 
 ここは阿部氏の地である。
 
 阿部が hava (祝) で
 祭宮であることを補足説明するものである。
 
 さらに
 「八井」が yajur である傍証が長野県にある。
 
 『古事記』の
 神八井耳命を租とする氏族の中に
 「小長谷造(オハセノミヤッコ)」の
 名があるが、
 この名称は
 長野市篠ノ井の南「長谷」に係わる。
 
 ここは和名類聚抄の
 「信濃国更級郡小谷郷」の地で、
 長谷神社、小長往山などがあるから
 「小谷」は「小長谷」であると解されている。
 
 万葉集に
 「信濃国防人小長谷部笠麻呂」とあり、
 小長谷郷が長谷、小谷と
 大日本地名辞書は述べる。
 
 そこにある「長谷神社」は
 『延喜式神名帳』「信濃国更級郡」に
 同名で載るが、祭神を「八聖神」という。
 
 この祭神について大日本地名辞書は
 
 「科野国造、小長谷部造の祖神
  神八井耳命を祭るか」
 
 と述べ「神祇志料」の
 
 「延喜式更級郡の宮社にして
  万葉集信濃国防人小長谷部の名見え、
  小長谷部、科野国造は
   共に神八井耳命の裔孫(姓氏録)なれば
  数なきにあらず」
 
 とある条を紹介している。
 
 「八聖神」は「ヤーヒ(イ)ジリ」で
 「ヤジリ yajur 」である。
 
 八聖神を神八井耳命とする推論は正しく、
 「弥志理」が「八井」であり、
 「ヤシリ」であることを証していると考える。
 
 多神社の神名帳に載る「二座」のうち
 一座が神八井耳命であったことも
 間違いないだろう。
 
 残る一神については、
 特選神名牒も「姫神」とするだけで説明がない。
 
 祭神を姫神とする神社には宇佐神宮があり、
 その祖神は「ウシャス神」であった。
 
 「姫」名の神社は
 多神社の東方200メートル余りに
 『延喜式神名帳』にも載る
 「姫皇子神社」(田原本町多字里の東)が
 鎮座する。
 
 「多神官注進丞」(1149年)は
  その祭神を
   天媛日火孁(あまつひめひめ)神尊」
 
 とし、
 
 その裏書の「社司多神名秘伝」には
 
 「天媛日火孁者天疎向津少女命、
  天照大日火孁大神之苦魂。
  亦高宮郷座天照大神和魂神社同体異名也、
   神名帳云河内国讃良郡高座神社一座是也」
 
 とある。
 
 また注進状には
 「旧名春日宮、今云多神社」とあるが、
 春日」は「カスガ」であり、
  この用語はサンスクリット語の
 kasāka の転写と考えられ、
  「太陽、火」が語義で、
 その動詞形 kas(kasati) は
  「光を放つ、輝く」である。
 
 すると、
  多神社に太陽神が祀られていたことになり、
 姫皇子神社の祭神天媛日火孁女神が
 多神社の祭神であってもおかしくなる。
 
 「日火」の表現はまさに kasāka に該当する。
 
 注進状は多神社の一座を
  「天祖賢津日孁神命」とし、
 それより古い「社司多神命秘伝」は
 
  「天祖賢津日孁神は天疎向津姫命。
  春日部座高座大神之社同体異名也」
 
 とする。
 
 「春日部座高座大神」とは
 『延喜式神名帳』河内国高安郡に載る
 「天照大神高座神社二座並大」で、
 現在八尾市教興寺字弁天山に鎮座する。
 
 「春日部神」、「三代実録」の
 貞観元年(859年)に
 「春日戸神」とあるほか、
 「大智度論」巻54の奥書、
 天平14年(742年)に
 「河内国高安郡春日戸」とあることから
 「春日戸」として考察すると、
 春日は kasāku で「戸」とは「門」であり、
 「春日戸」は三輪山と考えられる。
 
 kasāku はその頂にある高宮名の 
 gaura 、śuci (杉)に対応する
 「光輝、照、光明」の意味で一致するし、
 三ツ鳥居に象徴される
 三輪山は「天門」であった。
 
 「高座(たかくら)」は
 三輪山の峯の移入である。
 
 高座の「クラ」は 
 kūla で「小高い山、山の傾斜」で、
 「高座」は「コウクラ」が本音で
 「輝く小山」となる。
 
 弁天山は山になっており、
 同社はその中腹の傾斜地に鎮座する。
 
 同神社名は三輪山の天照大神が
 「高座」に鎮座しているとの称名で、
 春日戸神は天照大神を称するものである。
 
 多神社の「姫神」(天祖賢津日孁)は
 その「高座大神之社同体異名也」
 といっているのであり、
 天照大神であることを示唆している。
 
 多神社と姫皇子神社の祭神の関係を
 整理すると次のようになる。
 
  多神社
   天祖聖津日孁神、
   又の御名天疎向津姫命
   (天照大神)
 
  姫皇子神社
   天媛日火孁神尊、
   又の御名天疎向津少女命
   (天照大日孁尊の分身、
    天照日孁大神之苦魂)
 
 「天疎津姫」について『日本書紀』の
 「神功皇后」において
 
 「神風の伊勢国の百伝う度逢県の
  折鈴五十鈴宮に坐す神、
  撞賢木叢之御魂天疎向津媛命」
 
 とある。
 
 Kasāku の同類語 
  kaṣ(kaṣati)  は「摩擦する」、
 kaṣa は「摩擦」を表わすが、
 摩擦によって発するのが
  kasāku (火) で、
 これは鑚火に関係する。
 
 つまり
 鑚木鑚臼によって神火を採るのが
 鑚火祭で、
 すでに述べたように出雲の熊野神社は
 「日本火出初社」として知られるが、
 その他の神社でも行われた。
 
 同社における鑚火のための鑚木が
 「撞賢木」である。
 
 檜、樅、など槙が使われた。
 
 本居宣長の「古事記伝」は「撞」を槻とみて
 
 「天照大御神は伊邪那岐大神の
   槻賢木にて伊豆の枕詞なり」
 
 と記す。
 
 大神神社の檜原神社は、
  天照大神苦御魂神を祀るが、
 伊弉諾尊、伊弉冉尊を配祀する。
 
 『記・紀』によると
 天照大神は諾冉神の御子であるからである。
 
 これらの状況をみると、
 伊弉諾尊は鑚木で伊弉冉尊は
 鑚火臼であると考えられる。
 
 両神の国生み神話が
 『記・紀』に語られるが、
 その最後に『日本書紀』の火産霊神、
 『古事記』が
 
  「火之夜芸速男神を生みき、
  亦名は火之炫毘古神、
  亦之名は火之迦具上神」
 
 と謂ふ。
 
 「此の子を生みしに因りて、
    美蕃登灸かれて病臥せり」
 
 という火神が誕れる。
 
 延喜式の「鎮火祭」の祝詞には
 
 「神伊佐奈伎、伊佐奈美の命、
   妹妋二柱嫁継ぎ給て、
  八百萬神等生給いて、
   麻奈弟子に、火結神生給いて、
  美保止焼被れて、石隠坐て(略)」
 
 とあり、
 
 諾冉両神から
 火結神が生れることを述べている。
 
 美蕃登、美保止は女陰で
  鑚臼の「穴」というものである。
 
 両神の国生みに当たり
 右に回ったり、左に回ったり
 柱を中心に行く方向についての物語があり、
 鑚火における鑚木を
  どのように回すかの規則があったものと
 みられる。
 
 大神神社の繞道祭はかっては
  「繞堂」と表記されていたという。
 
 「繞」は「回わる、めぐる」の意味であり、
  三ツ鳥居のうちの
 繞堂と称するところで
 鑚木である繞柱を回して
 鑚火を行っていたものと推測する。
 
 現在は火打ち石によって
  採火するようになっているとのことで、
 この神火(大松明)を拝戴した信者たちが、
 同社の摂社、末社を担ぎめぐる(繞)ことから
 繞道祭と表記されるようになっている。
 
 信者たちは
 それぞれにその神火をいただいて帰宅し、
 新年の祭りを始めたという。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十二章 大国主神と大物主神:青垣と神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 青垣と神社
 「青垣」を
 三輪山そのものとする考えを述べた。
 それは『古事記』の原書に
 「倭青垣東山」とあることに依る。
 「垣」は天門である三輪山そのものであり、
 「青」は緑の樹木に包まれていることを
 想起させる。
 サンスクリット語の
 「垣、囲壁」を表わす 
 kaksyā は kakṣa と同類で
 双方とも「帯」の意味を含む。
 『古事記』雄略天皇条の歌に
 「みもろに築く玉垣」とある「玉」は
 サンスクリット語の
 dāna の音写で「帯、紐」を意味し、
 「玉垣」は神殿などの周囲に設けられた垣で、
 瑞籬などをいうものである。
 帯は環状にして使用されるもので、
 mālā は「環」を表わし御諸の原語 
 mih(megha)-mālā の構成語で、
 環が輪であることから三輪となっている。
 この環こそ三輪山の垣なのである。
 サンスクリット語 
 kakṣa (垣) の同義語に 
 kāñci (垣) があるが、
 これはラテン語の 
 cingo 、cinxi、cingulum と
 祖語を同じくする。
 その祖語は
 北メソポタミアの山脈
 シンジャール sinjer に
 遺留されている。
 Sinjer はドイツ語に 
 Zingel (囲壁、市の城壁、段丘)、
 Sigel (市の外壁)となっている。
 またサンスクリット語に 
 śṛṅga があり、その本意は「角」である。
 パーリ語では śinga と表記される。
 シンジャール山脈のある地方は
 ハブール地方で
 牛角信仰の主要な地域であったとの考察を
 第2章:メソポタミアと牡牛で展開した。
 同語はまた
 「小塔、高さ、頂点、山頂、峰」の
 意味を持つが、
 śṛṅga-gāta は
 「三角形、三角形の場所」を表わす。
 その訓音は、
 śṛṅga-vera が
 生姜:しょうがを意味するので、
 英語の ginger 、
 ドイツ語の Ingwer にあるように
 「シンジャール」 であることに間違いない。
 「角」が
 カルト(ケルト)人の祖語であることは
 第3章:カルト人の進出などで考察した。
 ラテン語の cerat は「角」であるが、
 ドイツ語 Gurt は「帯、紐」である。
 これらの用語が持っている概念が
 シンジャールである。
 「青垣」はこの 
 sinjer を祖語とする
 サンスクリット語の
 śṛṅga(シンガ):角を音写した用語である。
 メソポタミアの
 アルパチア遺跡から出土した碗に描かれた
 高床式建物の屋根は
 牛角の形容をみせていた。
  
 その高床式建物を守るために垣、壁が
 備え付けられただろうことも考察した。
 それらを総合した神殿 
 sig (壁)-gur (穀倉)が
 シンジャールなのである。
 「青垣」 の音訓は 
 sei-en (日本語音訓)だが、
 古語では sin-gan であったとみられる。
 垣は「クァン、グワン」と訓まれた。
 漢音に於いては qing-yen である。
 Singan は śṛṅga または
  その同義の śṛṅgaka である。
 三輪山はその śṛṅga の概念に合致する
 円錐形の山容である。
 三輪山は確かに緑の樹木に包まれ、
 その状態から「青」が連想され
 用いられたと想像できるが、
 実は「青」には別の理由も考えられる。
 桜井茶臼山古墳の遺物の中に
 碧玉製の玉杖があったのを始め、
 三輪山の山ノ神祭祀遺跡からは
 五個以上の碧玉製曲玉、
 南麓の脇本遺跡の菅玉など、
 この周辺からは
 緑色、青色の宝玉が多く出土している。
 それには理由があり、
 大物主神であるインドラ神は
 indra-nīla といって青玉(サファイア)、
 緑柱石(エメラルド)と結びつけられ、
 それらの宝玉に飾られているからである。
 Nīla は
 「青、蒼、青緑、紺青」の色を表わす。
 さらに「黒い、暗青色」を含む。
 Mahā-nīla はサファイアをいう。
 この概念が「青」字を使わせたのである。
 「神社」は青垣がさらに転訛された表現である。
 三輪山は神殿を必要としないので
 青垣が妥当であったが、
 「本殿/神殿」を備えた宮にとっては
 その表現は相応しくなかった。
 神社の定型は
 アルパチア遺跡の碗に描かれた
 高床式建物同様、
 神体を斎(ゆま)はる聖所への階段があり、
 屋根には角状の千木が施されている。
 また神殿の前には拝殿が建てられ、
 その左右から壁を継ぎ、
 神殿を包む囲壁とされる。
 神殿地には
 神職以外入れないというのが原則で、
 ここが天空界であることを示唆している。
 その象徴として鳥居を設け
 神社が天空界であることを参拝者に
 教えている。
 神社(ジンシャ)とは
 日本固有の用語ではなく、
 ハフリ:祝と同様
 メソポタミアから始まった
 宗教用語なのである。
 第5章 旧約聖書「創世記」でみたように
 祝祭の宗族ユダヤ教の
 宗教施設シナゴーグ synagogue (英語) も、
 「集会所」がその役柄で、
 宗旨として神体を持たない理由によるが、
 その祖語も sinjer であろう。
 キリスト教の教会
 kirche(ドイツ語)、 
 church(英語)なども
 祖語は「角」である kert である。
 「神社」が
 サンスクリット語の śṛṅga 、
 パーリ語の sīng (角)= sinjer に
 由来するとして少しもおかしくない。
※高床式神殿、牛頭、
 空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の
 碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
イメージ 1
※ARPACHIYAH 1976
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:瑞垣(籬)と三ツ鳥居 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 瑞垣(籬)と三ツ鳥居
  第10代崇神天皇の宮城は、
 『古事記』で「師木の水垣宮」、
 『日本書紀』で「磯城の瑞籬宮」という。
 
 瑞籬は古語で「ミスカキ」と訓まれた。
  
 「ミス」とは何か。
 
 『古事記』のいう「水」であろうか。
 
 いやこれは「御簾」のことで、
 スダレのことである。
 
 そして、「ミスカキ」の表現するものは、
 大神神社の象徴「三ツ鳥居」なのである。
 
 現在も鳥居の中央に赤く縁取られた御簾が
 注連縄(しめなわ)とともに垂らされている。
 
 三ツ鳥居は「御簾鳥居」であったと
 思えるほどである。
 
 しかし、それは妥当しない。
 
 この鳥居は
 集合された三ツの鳥居であるからである。
 鳥居には壁がつけられており、
 その壁の部分を瑞垣と呼んでいる。
 
 瑞垣は矢来のことで
 細い竹などで縦横に組んだ柵をいい、
 その細密に組んだり格子状にした垣をいう。
 
 三ツ鳥居の場合は左右の板壁の上の部分に
 交差した格子を浮彫りし、
 兎(うさぎ)と流水が施されている。
 
 この「垣」を追求することは
 三輪山・大神神社を理解することになる。
 
 つまり、
 三輪山が「青垣東山」であるからである。
 
 「青垣」を大和盆地を包囲する山々とする
 見解が一般的であるが、
 三輪山そのものとも考えられる。
 
 「垣」は日本固有の用語ではない。
 
 インド・ヨーロッパ語圏の用語である。
 
 サンスクリット語の 
 kakṣa あるいは kakṣya 、
 ドイツ語の Heck 、 Hecke 、
 英語の hedge と
 祖語を同じくすると理解され、
 その語義は「囲壁、柵、垣」と共通している。
 
 更にその遠祖は
 シュメル語にある 
 kak (棒、杭)にある。
 
 Kak-šar は「園の杭」となる。
 
 この kakšar から派生したのが 
 kavkasis (ラテン語 caucasas)で、
 コーカサスの語幹 
 kavkas は「囲い」の意味を成す。
 
 コーカサス山脈は黒海とカスピ海の間にあり、
 高い岳で5000メートルを越す。
 
 大小二つの山脈があり、
 その山間に
 グルジア国やアゼルヴァイジャンなどがある。
 
 第4章カルト人の移動で紹介したように、
 グルジアのカルトヴェリ(イベリア人)は
 古代メソポタミアのスバル人の後裔である。
 
 彼等は紀元前4・5世紀に移って来てから
 この峻烈な山々に天然の要塞(囲い)と考え、
 そう呼んだに違いない。
 
 グルジア人の中に
 イメレディと呼ぶ人々がいる。
 
 彼等がメソポタミアの
 テル・ブラクの前4千年紀の神殿から
 大量に見つかった
 「眼の偶像」の創造者であるとの見解も述べた。
 
 眼( mat )は太陽の象徴であったが、
 この用語は
 インド・ヨーロッパ語圏に移入され、
 ギリシャ語に ημέρα として残る。
 
 サンスクリット語の 
 ahar と同義で「日、昼」を表わす。
 
 この用語が古代日本にやって来て
 「ヒモロギ」となる。
 
 Ημέρα-γη は
 「日(太陽)の土地」の語義で
 「神籬」と表記される。
 
 「日神」あるいは「天照神」の坐す所をいう。
 
 崇神天皇の時、
 天照大神が遷座された斎宮は
 礒城神籬といわれる。
 
 三輪山は 
 divasa(日、昼)である dyaus 神、
 大物主神(事代主神)を祀り、
 既にして神籬である。
 
 幽宮(カクレノミヤ)という
 神の鎮まる宮居をいう表現がある。
 
 『日本書紀』に伊弉諾尊が
 淡路に幽宮を構えて隠れられたいう。
 
 「カクレ」は「隠れ」で
 「垣」の向うに入ることをいう。
 
 「垣の向う」はまた「日向」である。
 
 「日向御子」はウシャス女神で
 暁の神であることを述べたが、
 スバル人の後裔が
 グルジアの暁を表わす
 ziskari は za-kari (天‐門)
 と構成されている。
 
 つまり
 日向御子(高宮神社)の鎮座する
 三輪山は天門であり、
 三ツ鳥居はその象徴である。
 
 大神神社の神域には本殿(宝倉)がない。
 三輪山を神体と考えている。
 
 三輪山の禁足地前に三ツ鳥居があり、
 その前に拝殿があり、
 拝殿への入口には鳥居は無く、
 〆柱が立てられているのみである。
 
 いかに三ツ鳥居が重要であるかが解かるが、
 三輪山自体が天門(神門)である。
 
 ここで三ツ鳥居の意義について
 考察してみたい。
 
 ウシャス女神は「御子」であるからには、
 その親神は「日向」である。
 
 日向神はいうまでもなく
 ディアウス神であり、
 divasa で日神である大物主神であるが、
 暁(天門)の向う(奥)に坐す(次に現れる)のは
 太陽である天照大神ということになる。
 
 天照大神は天界の支配的神である。
 
 この「天・天空」を表わす用語が 
 cuturth (第四位で空(くう)を象徴する) の
 派生語で tūrya で、
 これも第四位の「空」を表わす。
 
 「空」は「天空、天界」に通じ、 
 tūrya はその象徴である。
 
 この用語が「鳥居」と転写されたのである。
 
 その様子は既に
 第11章の「稲荷、黄金山信仰」で、
 稲荷神社の赤鳥居
 に対する想念として紹介した。
 
 大神神社の場合も既にみたように
 雲や太陽神への信仰から
 天空への想念が強い。
 
 tūrya は traya (tri-) に
  その訓音が近くその字義が
 「三」 を表わし、
 「三重の、三より成る、三種の」
 の意味でもある。
 
 これらの概念を表現したのが
 「三ツ」鳥居である。
 
 traya と祖語を同じくする。
 
 同様の概念で鳥居を「三」に構えたのが
 京都市右京区太秦森の
 東木嶋坐天照御魂神社の境内にある
 三角形、三本柱の鳥居である。
 
 「天照御魂」とはこの三ツ鳥居とみられる。
 
 町名森の東の「東」は「日向」であろう。
 
 三輪山には中世の史料に一部
 「神体杉木」あるいは磐座に
 当てるものがあるほか、神体は無い。
 
 大神神社のご神体は「天」なのである。
 
 そして三輪山はその天門であり、
 三ツ鳥居は天門の象徴なのである。
 
 三ツ鳥居の扉は年中閉ざされたままである。
 
 春秋の大祭においてさえも、
 御開扉と称するものの
 宮司が御簾を巻き上げるに過ぎない。
 
 しかも
 御簾の向うには幔(とばり)が掛けられていて
 中央の扉を拝観することはできない。
 
 ただ年に一度
 元旦の午前1時から始まる
 繞道祭:にょうどうさい(ご神火まつり)に
 おいてのみ開扉される。
 
 それは
 垣内で鑚火を採るためであるが、
 ご神火とは
 天照若御魂神にして日向御子、
 ウシャス(暁)である
 「天照大神」の象徴と考えられる。
 
 天門より参られる
 天照大神をお祭りするのであり、
 それは初日の出を拝礼するのと
 同じ意義を持つ。
 
 三ツ鳥居の本鳥居の柱の前に
 「唐居敷」と呼ぶ方形の石が据えられている。
 
 この二つの石は柱を支えるのでもなく、
 鳥居の構造に係わるものでもない。
 
 特別の意義があって置かれた様子である。
 
 「唐居敷」は
 「唐を置き据える」とみられ、
 「唐」の持つ意味が重要である。
 
 「カラ」はサンスクリット語の 
 kīla の転訛である。
 
 その語義は「杙、閂、橛釘」で、
 これが indra-kīd となると
 「門前の杭」、「入口の土合石」の意味となる。
 
 閂は釘である。
 
 橛は「門の中央に立ててある低い杭」で
 「門前の杭」であり、
 「入口の土台石」は
 唐居敷が象徴するに相応しい。
 
 ここで
 三ツ石を置いているのは
 脇鳥居を持つ構造で
 本鳥居が中央であるからであろう。
 
 Indra-kīd の indra は
 インドラ神によるが、
 ここでは
 猿田彦神の性格を考察した際に
 明らかにしたが、
 「案内する、紹介する」門を
 主旨とした意味合いである。
 
 摂社玉列神社(桜井市慈恩寺)の境内には
 猿田彦社が鎮座している。
 
 『日本書紀』が大物主神の神妃となった
 勢夜陀多良比売命の父を
  「三嶋溝橛」と「橛」字を使っているのは、
 彼がやはり大神神社の信奉者
 であったことを物語っていると
 みることができる。
 
 三ツ鳥居は、三輪山を天門とする、
 その前に立つ「垣」であり、
 門前の「杙」である。
 
 大神神社の霊威の象徴として
 「清めの砂」がある。
 
 建物の普請や造作に際して
 その地に振り撒かれる。
 
 この「砂」はまた
 「天空、虚空」の意味を持つ
 サンスクリット語の 
 śuna に由来する信仰である。
 
 稲荷大社の場合でも
 「砂」が関係していた。
 
 Śuna の近似音語 
 sūna は「花」を表わすが、
 「ほとぎ、そん」といった
 三枝祭(ゆりまつり)
 に欠かせない神饌である。
 
 同祭は
 率川(いさがわ)坐大神御子神社の
 例祭である。
 
 三枝の花(笹ゆり)を
 岳(ほとぎ)、罇(そん)という
 酒樽を飾ってお供えをするという。
 
 「そん」は罇(酒樽)とされているが、
 その神饌の主体は笹ゆりである花であり、
 sūna の転訛したものと考えられる。
 
 三枝祭の特殊神饌では
 折櫃(おりびつ)を柏葉で迎う。
 
 この「柏葉」で神饌を奉る禰宜を
 「かしわ手」といい、
 「膳夫」と
 表記されるようになったと推測される。
 
 三輪山信仰は天空への信仰なのである。
 
※三輪山信仰
※三ツ鳥居
 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:神坐日向神社と大三輪氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 神坐日向神社と大三輪氏
 『古事記』の
 大国主神が少名毘古那神に去られた後
 「吾狭して何れにか能く此の国を得作らむ」
 と嘆いていた折、
 「海を光(てら)して依り来る神」があった。
 この神こそ 
 divasa (光輝) で光して来た大物主神である。
 『古事記』は
 その神名を明らかにしていなかったが、
 これで判明したことになる。
 しかも
 「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ」と 
 大国主神に言い、
 「此れは御諸山の上に坐す神なり」とある。
 「東」は日向で、
 「青垣の東の山の上」は「御諸山の上」で、
 「上」とは「高宮」「神峰」の「コウ」に当たる。
 光明(divasa)の神(大物主神)が
 三輪山の上(高宮)に鎮座したのである。
 「光明、光輝」を表わす
 サンスクリット語に jyotis がある。
 この jyotis が事代主命の祖語で、
 音訓すると「じだいす」となり、
 漢音写の「樹提」と近似する。
 『古事記』には
 「大国主神、亦神屋楯比売命を娶して
  生める子は事代主神」
 とあるが、
 その母命名は「じんやたて」と読め、
 jyotis の動詞形 jyotate (輝く)に近似し、
 「事代主」が jyotis を
 祖語とすることを示唆する。
 このように「光輝、光明」を内容とすると
 大物主神と事代主神が
 櫛御方命(大奇方日方命)の
 父の名称を混乱させる原因となっている。
 三輪山北西檜原の摂社檜原人神社には
 天照大神苦御魂神が祀られており、
 三輪山に太陽神が祀られていることを示唆する。
 檜原は「日原」とも表記される。
 同社は大神神社の境外摂社ではあるが、
 『日本書紀』崇神天皇の6年条によると、
 天照大神と倭大国魂の二神を
 天皇の居所に祀ったところ
 一緒に住むことを我慢されなかったので、
 天照大神に豊鍬入姫命を付けて
 倭笠縫邑に祀られたとある。
 その鎮座地が檜原神社の興りとするのが
 大西源一の見解である。
 つまり、
 崇神天皇の時、
 大田田根子が三輪山の奉祭に当たるようになり、
 太陽信仰が始められたと考えられる。
 檜原の豊鍬入姫宮は昭和時代末の建立だが、
 同姫は崇神天皇の皇女である。
 檜原神社の祭神を
 天照大神苦御魂神とするところみると、
 苦御魂神は天照大神の御子神と解釈でき、
 「日向御子」に当たるだろう。
 「天照大神」とは
 天の光明(日)神である大物主神であるから、
 苦御魂神はその子と想定することができる。
 上記大田田根子の祖のうち
 第三代の天日方奇日方命の
 「日方」は divasa (日、昼)に関係ありそうだ。
 同命の別称に「阿田都久志尼命」がある。
 インドのリグヴェーダなど初期の支配的神に 
 divasa と同義の語義を持つ dyaus 神がいる。
 その本義は「大空、虚空」である。
 彼の御子神には
  アグニ神、
  スーリヤ神(太陽神)、
  アーディティア(無限)、
 娘神にウシャス((曉紅神)がいる。
 「阿田都」は āditya の音写で、
 「日方」はその意訳名であろう。
 その母神アーディティ  
 āditi が「無限」の意味で、
 「久志」は「無窮」であり、
 阿田都久志尼命は「無限無窮の命」となる。
 この解釈からも「大物主」が 
 divasa であることが知られる。
 鎌倉時代の文永2年(1265)
 大神社家に依って書かれた
 「大神分身類社鈔並附尾」には
 三輪上神社一座に
 「日本大国主命、神体杉木」とある。
 上神社は高宮神社のことである。
 「日本」は「ヤマト」と解釈できる。
 大国主命には、
 これまでの「大黒主」とは違う
 解釈を考えなければならない。
 現在の高宮神社の祭神が
  「日向御子」であるからである。
 短絡的には
  大国主命と日向御子は
 同神とみることができる。
 この日向御子、苦御魂神とは
 どのような内容を含んでいるのだろうか。
  天照大神について、
 『日本書紀』は
 伊弉諾尊、伊弉冉尊が相談して
 日の神を生んだが、
 その名を
 大日霊貴
  (於保比屡咩武智:おほひるめのむち)、
 一書に天照大神、
  一書に天照大日霊尊というとする。
 「オホヒルメ」は大隅八幡宮縁起にもみえ、
 「大比留女」と表記されているが、
 サンスクリット語の ahar を転訛させ
 「女」を符した名称である。
 
 ahar は「日」を表わすが、
 同類語 ahana は
 対馬の豆酸にある「天童」の母名
 「照日之菜」の祖語である。
 しかし問題はこれらの日神が女神であり、
 天照大神と想定された
 大物主 dyaus 神が男神であり、
 合致しないことである。
 天照大神は伊勢神宮に祀られている。
 垂仁天皇の時、豊鍬入姫命に代わって
 倭姫命によって奉祀され、
 大和から伊賀、近江、美濃を経て
 伊勢へ遷座した過程を記したのが
 「倭姫命世紀」だが、
 その崇神天皇58年に
 「倭弥和御室山領上宮」に奉斎されたとある。
 すると女神である「天照大神」が
 高宮神社に祀られていたことになるが、
 檜原神社が
 天照大神苦御魂神、
 伊弉諾尊、
 伊弉冉尊の
 三神を祀っている事情からすると、
 同社のいう
 天照大神苦御魂神の「天照大神」となる。
 そしてこの女神が高宮神社の祭神
   「日向御子神」となる。
 同社は大神神社の摂社であるから、
 崇神天皇時代に奉祭し始めた
 日神(太陽神)崇拝を
 三輪氏はその尊名を変えて
 継承してきたことになる。
 「御子」は「神子」である。
 神子は
 巫覡(きぬ)、幾穪(きね)であるが、
 これはサンスクリット語の
 gnā の音写で「女神」を表わす。
 巫覡は巫女で神に仕える女で
  本来は神妃を語義とするものである。
 よって
 神子である御子とは「女神」であるのである。
 大物主の神妃となった
 勢夜陀多良毘売命や
 夜麻登登母母曾毘売命は 
 gnā となったのである。
 桜井市茅原の
 倭迹迹日百襲姫命(『日本書紀』表記)を祀る
 神御前神社名の「御前」は
  貴人の「奥方、妻」の意味で
 「神妃」を神社名とするものである。
 「大神分身類社鈔並附尾」が
 上神社の祭神を日本大国主命としたのは、
 この「クニ」を遠因としているかもしれない。
 崇神天皇の頃大黒主であった神格が
 大国主へと転換されたとも考えられる。
 「神体杉木」とあるのは、
 京都市伏見区の稲荷山でみたように
 「スギ」は śuci ないし 
 śucya で「光輝」 を表わし、
 大神神社の神木でもあるが、
 天照(光明)神の鎮座に相応しい。
 さて、日向御子神の祖像であるが、
 この神はディアウス神の御子である。
 既に述べた諸神のうちの女神は
 ウシャス Usas 神以外にない。
 その名は暁を指す。
 同神が大分県宇佐市の宇佐神宮の祭神
 比売神であることは再々述べた。
 現在単に比売神とのみ称するのは、
 同神が皇大神となり
 皇祖して奉祭されるに及んで天朝に対する
 憚りからであろうと考えられる。
 欽明天皇の時代
 大神神社の大神氏の一族である大神比義が
 「豊前国宇佐郡菱形山に八幡大神を奉祭、
   宇佐八幡の祠宮の祖」
 となっており、
 相互に関係が認められる。
 ウシャスは
 夜明けの空の曙を神格の象徴としたもので、
 宇佐神宮の社殿が朱塗りされているのは
  その曙の色彩を採り入れたからである。
 同神はインドの神話が作られた初期、
 つまりグヴェーダにおいては
 最も重要な女神であり、
 多くの讃歌が語られている。
 だが、
 後にはその支配的地位を
 徐々に失ってしまった。
 ヴェロニカ・イオンズは「インド神話」の中で
 ウシャスについて次の様に述べている。
  暁であるウシャスは
  最も民衆的なヴェーダの神々の一人であって、
  最も美しい讃歌のいくつかを
  生み出す源となった。
  真紅の衣に身を包み、
  黄金のヴェールを着けた彼女は優しい
  花嫁に、あるいは夫が毎朝彼女を見るたびに
  美しさを増してゆく妻に似ていた。
  永遠の者でありながら彼女は常に若く、
  全ての生ある者に生命の息吹を与え、
  外見上の死から睡眠者を起し、
  巣から鳥を立ち上がらせ、
  与えられた仕事に人間を差し向ける。
  ウシャスは偉大なものにも貧しいものにも、
  あらゆるものに富と光をもたらし、
  全ての住居に幸せをあたえる。
  しかし、
    彼女は自分自身は若いままでいるにも
  係わらず、
  死を免れぬものに年齢をもたらす。
  ウシャスは人類の友として、
  また天と地の連結者として尊崇されている。
 このウシャス(Ushas उषस्)神こそ
 大孁日神にして天照大神の祖像である。
 暁は東の空から始まる。
 「青垣東の山の上」や「日向」の概念に合い、
 「日向御子」がウシャス神で
 ディアウス神の御子であることを示唆している。
 天照大神は日本の皇祖神として  
 その神格を高らしめたが、
 その背景にインドの神々があったのである。
 大神神社が神官を
 「祝」といわず「禰宜」といっているのは
 大田田根子の「根子」に始まる。
 崇神天皇時代以降の慣習に
 従っているものである。

 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:神坐日向神社と大三輪氏① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 神坐日向神社と大三輪氏①
 
  大神神社の奉祭氏族としては大三輪氏
 あるいは三輪氏がよく知られる。
 この氏族は大田田根子に始まる。
 彼が三輪山を祭るようになったのは
 崇神天皇の時代からである。
 そして『記・紀』は
 それ以前に
 三輪山信仰が衰えていたことを示唆する。
 大物主神の御子神を皇后とした
 神武天皇の皇孫が
 大物主信仰を尊重したことは当然だが、
 しかし、
 崇神天皇の時代か
 その前の開化天皇の時代あたりに
 その勢力が三輪山周辺の覇権か奉祭権を
 失ってしまったと考えられる。
 つまり
 新しい権力集団が
 この地域に進攻してきたといいうる。
 その支配者たちは大物主神への奉祭を
 重要視しなかった。
 そのため社会は疲弊し疫病が広がった。
 
 その時巫女である
 倭迹迹日百襲姫による神託
 (『日本書紀』)、
 あるいは
 崇神天皇の夢に大物主神が直接顕れて
 (『古事記』)、
 旧来に復して大物主神を
 大田田根子に斎き祀らせるよう託したのである。
 大田田根子は
 『日本書紀』では茅淳県陶邑にいた。
 大物主神の御子神を皇后とした
 神武天皇の皇孫が
 大物主信仰を尊重したことは当然だが、
 『古事記』では意富多多泥古と表記し、
 河内の美努村にいた。
 「大」「意富」は
 彼が「オホ」に縁りの者であることを示す。
 「田田」は「授けられた」あるいは「選ばれた」の
 意味で、「根子」「泥古」は祭官「禰宜」である。
 「河内の美努村」「茅淳県陶邑」は
 大阪府堺市辺りとされているが、
 後に考察する。
 『古事記』には
  「大物主大神、陶津耳命の女、
   活玉依毘売を娶して生める子、
   名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子 、
     建甕槌の子、僕意富多多泥古ぞ」
  と言わせている。
 「陶津耳命」、
 『日本書紀』の「茅淳県陶邑」とある
 「陶」は大物主神を祭祀する禰宜(祝)が
 土器(陶器)を作る技術を
 備えていなければならなかった事情を
 示唆している。
 瓺玉である
 二重口縁壺などを製作する技量である。
 大田田根子の祖について、
 『記・紀』は大物主大神とするが、
 三輪高宮系図では
 大国主命の都美波八重事代主命としている。
 これは大国主神と大物主神が
 習合された後の解釈と
 みられるが、
 それは
 大田田根子の時代つまり
 崇神天皇の時代には
 すでに
 その習合がなされていたものと
 察することができる。
 太田亮が
 姓氏家系大辞典でその系統を纏めているので
 それに沿い略記してみる。
 <1>大国主神
 <2>事代主神
 <3>天日方奇日方命
  「姓氏録」には
  大物主神の男、久斯比賀多命、
    又は櫛御方命とあり、
  『日本書紀』に
  「父は大物主大神、母は活玉依媛、
   陶津耳の女、
    別の説では奇日方天日方武茅淳祇の女」
 とある。
 またの名は阿田都久志尼命という。
 <4>健飯勝命
   天日方奇日方命の子、
  『古事記』の飯肩巣見命
 <5>健甕尻命
   健飯勝命の子、健甕槌命、健甕之尾命
 <6>豊御気主命
   健甕尻命の子、健甕依命
 <7>大御気主命
   豊御気主命 <8>二男子の父
 
 <8>阿田賀田主命 吾田片隅命
   健飯賀田主命 
    『古事記』は飯肩巣見命の子とする。
 <9>大田田禰古命
   健飯賀田須命の子、
    『古事記』は健甕槌の子とする。
  大直禰古命
 <10>大御気持命 大田田禰古命の子、
        <11>三男子の父 
 <11>大鴨積命 大賀茂都美命
    (鴨朝臣、鴨氏の祖)、  加茂君
 
 大友主命、
 『日本書紀』推任天皇に三輪君祖大友主、
  仲哀天皇に大三輪大友主君、大神君田田彦命
 『日本書紀』仲哀天皇に神部直、大神部直
 この系図の命(みこと)名に目立つのは
 「ミカ、ミケ」「カタスミ」である。
 前者は甕と同音で「壺、瓶、甕」である。
 また肩、片、賀田の「カタ」は
 サンスクリット語の
 ghaṭa で「瓶、壺、水差し」を、
 巣見、隅の「スミ」は śami で
 「仕事、労働」を表わし、
 ghaṭa-śami は「陶工」を表現するものである。
 「陶津耳命」「陶邑」などの職に
 係わる地名に対応し、
 大田田根子が禰宜として土器を作る技術を
 持っていなければならなかったと述べたのは
 この祖名よっても理解される。
 第5代の甕尾命などの名前は
 二重口縁壺の底を
 象徴したもので、
 御気主、御気持名が二重口縁壺を
 提供する主であることを示している。
 そして、鴨、賀茂の「カモ」は khamat で
 「穴持」で
 これも二重口縁壺というものである。
 ここに二重口縁壺である櫛瓺玉大物主神と
 大穴持である大国主神が
 習合していることをみることができる。
 三輪山周辺から出土した壺で
 「横瓮」と呼ばれているものには
 穴が開いていなかった。
 それは3世紀に属するものであろう。
 その後およそ4世紀の始めから各地の古墳で
 祭祀に用いられるようになった
 二重口縁壺は大田田根子以降の
 大神神社によって、
 祈祷者が穴を穿ち易い壺かあるいは
 穴が開けられた状態の壺が
 提供されたと考えられる。
 なお、 
 ghata の gha は megha 弥伽と同音で
 漢音写では「伽」と表記される。
 『古事記』が記す大田田根子の祖
 櫛御方神、飯肩巣見命、建甕槌命を
 現在祭神としているのが
 神坐日向神社である。
 延喜式神名帳に「神坐日向神社大」とある神社で、
 桜井市三輪字御子宮に鎮座する。
 そして、
 その日向御子神を祭っているのが高宮社で
 三輪山の頂、神峯(こうのみね)に鎮座する。
 双方とも大神神社の摂社であり、
 三輪氏と強い縁(ゆか)りのある社である。
 日向社が三神を祭神としているが、
 実際のところその祭神は
 史料においても確定しがたいのが実情である。
 「日向御子」を解くことが
 その秘密を解く術となる。
 日向は「日に向う」ことで「東」と解釈されている。
 その背景についてはここでは省くが、
 その概念に「光輝」がある。
 「高宮」、神事の「コウ」は、
 単に「高い」「かみの」をいっているのではない。
 これはサンスクリット語の 
 gaura の転訛で「光輝、光明」を表わす。
 三輪山の山頂にあるに相応しい名称である。
 そして、大物主神に新しい神格で現れる。
 つまりサンスクリット語の 
 divasa (ダイブサ)で「日、昼」を表わす。
 同語は aha と同義で、
 同類語に dhan,ahana,ahar があり、
 これまで「オホ、オフル」の祖語として
 紹介してきた。
 つまり、
 大物主神は「光明」の神である。
 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:大穴持命と出雲 (2)恵曇と出雲 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大穴持命と出雲(2)恵曇と出雲
 
  三輪山大神神社の山麓に
 出雲屋敷の旧跡があり、
 そこは
 比売多多良伊須気余理比売命の
 住居(屋敷)があったところで、
 「イヅモ」が iṣumat で
 「矢持」の意味であった。
 
 Iṣu (矢)はまた iṣ に通じ
  「神酒、天に湛える爽快な水」で
 雨の比喩名であった。
 
 このことによると
 「出雲:雲を出るもの」が
 「雨」であることを理解できる。
 
 八束郡東出雲町出雲郷の
 阿陀加夜神社のある
 地籍は「竹花」という。
 
 そのすぐ北隣りは松江市竹矢町であるが、
 実は竹花、竹矢は同義である。
 
 「花」が
 サンスクリット語の 
 hāna の音写で
 「矢」の語義であるからである。
 
 「竹」は既にみたように大国主神であり、
 阿太加夜努志、大穴持命で、
 竹花・竹矢は
  「大国主神の降らす雨」の
 意味で出雲と同義となる。
 
 出雲郷から遠くない八
  雲村日吉・岩坂の境に雨包山があるが、
 その東側周辺に安部地区がある。
 
 これは水を意味する 
  ambu あるいは ambu-da (雲) に依る。
 
 出雲には「矢」の付く地名が極めて多い。
 
 八雲村の熊野山(天狗山)への矢谷、
 松江市の竹矢町に接した矢田町、
 安来市矢田、
 出雲市矢尾町・矢野町、鹿島町の
 一矢などである。
 
 出雲の名称については出雲風土記に説明がある。
 
  出雲と号(なづ)くる所以は
    八束水臣(みずおみ)津野命、
  詔りたまひしく「八雲立つ」と詔りたまひき。
  故八雲立つ出雲といふ。
 
 この水臣は「安部」にいた者であろう。
 
 その條(くだり)によると
 出雲は八雲と同義であると判断できる。
 
 ※「八雲立つ出雲の国」は〔狭布の推国〕。
 
   所以号「意宇」者。
    國引坐 "八束水臣津野命" 詔、
   「八雲立出雲國 者、狭布之推國在哉。
     初國小所作。故將作縫詔而
 
M.K記
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第十二章 大穴持命と出雲(1)熊野神社と来待神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大穴持命と出雲(1)熊野神社と来待神社
 
 風土記は8世紀の中頃編纂されたものだが、
 それから250年後の
 延喜式神名帳の出雲国のうちに
 「大穴持」を社名とする神社が
 意宇郡に3社、
 出雲郡に6社ある。
 
 「大穴持命」は
 出雲国造神賀詞にも述べられる
 
 出雲国特有の神名であろう。
 
 八束郡宍道町来待に
 延喜式神名帳意宇郡に載る
 来待(きまち)神社が鎮座する。
 
 祭神は大物主櫛瓶玉命で社伝によると
 崇神天皇の頃
 大和国三輪山から勧請されたという。
 
 同社の東方上来待神社に
 佐久田神社が鎮座するが、
 「サクタ」は大物主神である
 インドラ神の剣をいうものである。
 
 同社の周辺佐倉は 
 śakra でインドラ神の尊称である。
 
 来待川の西方の白石地区の
 「才」には同じく神名帳に載る佐為神社、
 下白石に佐為高宮神社が鎮座するが、
 佐為は佐伊で大神神社の摂社名に係わる。
 
 高宮も同じく三輪山の頂の高宮神社に係わる。
 
 ここで注視するのは来待で、
 「キマチ」が
 サンスクリット語の
 kha-mat の音写で、
 その意味が「穴持」であることである。
 
 Kha はこれまで
 紀伊国の「紀」あるいは「香」として
  紹介してきた用語で、
 そこでは
 「空虚、虚空、天空」と説明したが、
 また「穴」をも含んでいる。
 
 「キマチ」は「穴を備えた、穴持」で
 「瓶玉」あるいは「瓺玉」
 そのものを表わしているのである。
 
 ここに大物主神と大穴持命とが
 習合している様子がよく知られる。
 
 崇神天皇の時に
 大田田根子が三輪山を奉祭するようになり、
 大物主神が当地方へ入ってきたものであろう。
 
 八束郡八雲村東岩坂に鎮座する
 毛社神社の「毛」は
 この kha が祖語であろう。
 
 毛社は熊野大社をいう。
 
 そして
 松江市大庭の神魂(かもす)神社
  kha-mat に係わる。
 
 同社の神体は杵築大社と同様「釜」である。
 
 瓺玉が雲であることは既に述べた。
 
 Khamat である
 「カマ、キマ」はまた雲を表わす。
 
 八雲村の熊野の「クマ」はこの転訛である。
 
 同社西方の松江市の熊山、空山、
 その南大原郡大東町の
 薦澤(こもざわ)などの地名を考慮すると
 熊野は「雲野」である。
 
 熊野大社は延喜式神名帳に
 「熊野坐神社名神大」と載る。
 
 意宇郡に於いて最も貴重な神社で、
 最も古い神社と考えられている。
 
 祭神は素盞鳴尊であるが、
 出雲国造神賀詞に
 
 「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」
 
 とあり、
 
 「御気野命」が
 祖神であったことを窺わせている。
 
 「御毛野」とも表記される。
 
 「ミケノ」は「雲(megha)野」ではあるが、
 しかしその原初はより複雑である。
 
 というのも「毛(気)野」が
  kha の派生語 
 khana の音写とみられるからで、
 同じく「穴」を表わし
 大穴持命が祀られていた可能性がある。
 
 「加夫呂伎」は「神祖」とも表記されている。
 
 大穴持命といっても
 ここでは久那斗神名である。
 
 Khana は穴ではあるが、
 「坑」「穴を掘る」で、
 久那斗 khanati(te) 、また 
 khanitr (掘る者)に近い。
 
 熊野大社は「日本火出初社」として知られる。
 
 毎年十月十五日には
 鑚火(きりび)祭が行われる。
 
 この祭事で火を鑚り出すのに
  鑚臼(実)鑚木が用いられる。
 
 鑚臼は一枚の板で、
 鑚木は一本の棒で杵という。
 
 鑚木(杵)鑚臼に
 穴ができるように挽り込んで
 火を興すのである。
 
 この「穴を掘る杵」こそ
 毛野(気野)である「御気野命」にして
 久那斗神なのである。
 
 意宇の山狭に火を興す神が
 鎮座するのはなぜだろうか。
 
 それは
 ここで金属生産ないし加工(鍛冶)が
 行われていたからである。
 
 金属業にとって火は不可欠である。
 
 「加武呂/加夫呂」を
 サンスクリット語の 
 kamara (鍛冶工、金属工)とさえ考えられる。
 
 熊野の東側の岩坂には
 田村神社が鎮座し、
 祭神を
 金山毘古、金田(きんだ)明神としている。
 
 久那斗は後に
 「キヌタ:砧」と変化しており、
 「金田」はその砧であり、
 金山毘古神は
 製鉄の神としてよく知られている。
 
 ただし「田村」が 
 tamara の音写とすると「銅」を表わすので
 銅加工が行われていたとみられる。
 
 その北方桑並川の下流に
 志多備神社が鎮座するが、
 「志多」は鉄、
 「備」は鞴(ふいご)と同義で炉を表わし、
 この神社名は「鉄炉」である。
 
 『古事記』に
 
 須佐之男命の歌として
 記載されているものがある。
 
  八雲立つ出雲、八重垣つまごみに、
  八重垣つくる、その八重垣を
 
 この内容は
 
  「自然の雲のたなびく出雲に
   妻(稲田毘売)のために
   八重に垣をつけた家を建てた」
 
 というような安らかなものではない。
 
  「矢のように煙(雲)が立っている。
   それは熱炉(八重垣)が
    たくさん作られているからである」
 
 といっているのであり、
 意宇郡の辺りが
  金属業の盛んな地方であったことを示す。
 
 それ故、
  須佐之男命は
 大蛇の尻尾から
 優秀な剣を得ることができたのである。
 
 因みに能義郡広瀬町の富田(とだ)は 
  dhamita の転訛で
 「煙で隠された」の意味である。
 
 古くは富田荘があった地方である。
 
 出雲国をおおよそ
 南北に貫流する斐伊川は
 比喩的に「鉄川」である。
 
 「斐伊」は
 サンスクリット語の 
 pinga の転訛で
 「黄褐色の、赤褐色の」の意味で、
 赤錆びた鉄の色を表わし、
 それだけ川の流域で
 鉄が採れたことを示す。
 
 出雲風土記大原郡に
  「樋伊郷の人樋印友知麻呂」とあるが、
 「樋印友」は pinga に由来するだろう。
 
 その大原郡加茂町を流れる赤川は 
  pinga の意訳名である。
 
 斐伊川は
 島根県と鳥取県の県境船通山を
  本源とするが、
 鳥取県側に
 日野郡日南町の北方に印賀山があり、
 鉄穴谷の地名がある。
 
 この印賀も 
 pinga に依るものであろう。
 
 県名
 「鳥取」も「多多羅」と同じ
  「熱路」を表わす言葉を祖語とし
 鉄生産に係わる。
 
 神魂神社及び素盞鳴尊、
  稲田姫命、大己貴命を祭神とする
 八重垣神社の鎮座するのは
  松江市大庭(おおば)町であるが、
 この「庭」も「雲」に由来しているのである。
 
 サンスクリット語の 
 nabhas がその祖語で
 「雲、雷、蒸気」を表わす。
 
 この用語は
  ギリシャ語の νεπηος 、
 ドイツ語の Nebel と同根である。
 
 大庭は神魂神社の神域を
 「神庭(おおば)」
 と称したことに始まるという。
 
 
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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(4)都農神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(4)都農神社》
 
  宮崎県児湯郡都農町に都農神社が鎮座する。
 
 『延喜式神名帳』に日向国児湯郡に載るが、
 その社殿に神武天皇が東征の出立に際し
 宮崎の宮を発った後、
 この地で武運長久を祈念して
  鎮祭したという古社である。
 
 同社の祭神は大己貴命、大国主命と、
 同神とされる二神名を並列させている、
 同社神域の西方に藤見の地名がある。
 
 これは「トウミ」と訓め、「トミ」に通じ、
 大和盆地の古族登美氏族、
 また出雲の富氏と
 大国主神を奉祭していた氏族名に共通する。
 
 この都農町のある児湯郡辺りには
 「富」の付く地名が目立つのである。
 
 日向市の富高・富島、
 西都市岡富、新富町富田、国富町、
 宮崎市富吉で都農神社を取り巻いている。
 
 この一帯は「『三国志』「魏書」
 第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条
 に載る「投馬国」でもあり、
 投馬は「富」である。
 
 ここが投馬国である一つの証は、
 その官名「弥弥」が
 日向市の美々津町名及耳川に
 その名を遺していることである。
 
 風土記日向国逸文に「吐濃峯」の一文がある。
 
  日向國古庚郡、
  常ニハ兒湯郡トカクニ、
  吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。
 
  神ヲハス、
  吐乃大明神トソ申スナル。
  昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、
  此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、
  船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、
  新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、
 
  韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、
  弓射給ケル時、
  土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、
  弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、
  男一人女一人ソ有ケル。
 
  其ヲ神人トシテ召仕ヒケリ、
  其ノ子孫今ニ残レリ。
 
  是ヲ頭黒ト云う。
 
  始テホリ出サルル時、
  頭黒サシ出タリケル故ニヤ、
  子孫ハヒロゴリケルカ。
 
  疫病ニ死シ失テ、二人ニナリタリケリ。
 
  其ノ事ヲカノ國ニ記ニ云ヘルニハ、
  日々ニ死ニツキテ僅ニ残ル
  男女両口ト云ヘリ。
 
  是 
  國守神人ヲカリツカヒテ
  國役シタガワシムル故ニ、
  明神イカリヲナシ給テ、
  アシキ病起リテ死ニケル也。
 
  是ヲ思へバ、
  男女ヲモ口トハ云フベキニコソト
  覚ルナリ。
 
  吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、
  必ズイヤシ給トカヤ、
 
  カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、
  頌文シテ云。
 
  五常以汝為高、
  今者此物高於汝、
  若有懐憤、
  宜令平却ト唱ヘテ、
  杵ト云フモノヲシテ、
  朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、
  疱瘡イユト云ヘリ。
 
  コトノツイデナレバシメス。
 
 都農神社が祭神を二座としているのは
 「男一人女一人」に依拠した配慮であろうか。
 
 この中で注目されるのは「頭黒」で、
 彼等が神人であることである。
 
 「吐乃ノ大明神」とは
 都農神社の祭神で「頭黒の神人」である。
 
 逸文の伝承は事実とはいえそうもないが、
 「吐乃ノ大明神」の背景に「黒」があったから、
 
 このような話となったと推測される。
 
 吐濃峯とは
 都農神社の後方にある岩山とみられ、
 
 「大明神」とは大国主神である。
 
 三輪山の大神神社の祭神が
 「大国主神」であったとの見解を述べたが、
 「頭黒」は
 その大国主から発想された神人であろう。
 
 というのも「吐乃」である「都農」が
 「黒」を意味しているからである。
 
 大阪市住吉はかって
 墨江(すみのえ)であったが、
 これは大阪湾をいう。
 
 『古事記』の「血沼(ちぬ)海」、
 『日本書紀』の「葦淳(ちぬ)海」で、
 「チヌ」は墨で「黒」の意味である。
 
 このチヌこそ「都農」の祖語である。
 
 漁師の専門用語で九州方面から伝わった
 「葦淳鯛(ちぬたい)」は黒鯛のことである。
 
 都濃町の南、
 川南町に平田川へ流入する川で黒鯛川があり、
 黒鯛の地名がある。
 
 七福神に「大黒天」がいるが、
 彼には鯛がつきものである。
 
 その理由はこの「チヌ」にある。
 
 そしてその祖像が
 大国主(大黒主)神であることは
 知られているが、
 仏教が入ってきてから自在天の化身である
  mahākāra (大黒)と習合したものである。
 
 都農神社は大黒主(大黒主)神を祀る
  「黒神社」である。
 
 都農川の北方に心見川が流れ、
 心見の地名もあるが、
 これはサンスクリット語の意味する 
 śyama の転写であり、
 心見川は「黒川」である。
 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(3)出雲族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(3)出雲族》
 
  富氏の伝承によると「勾玉」のことを
 「財(たから)」といって尊重してきた。
 
 財は竹玉(たけたま)であり、
 大神神社でいう竹玉が
 太初においては
 勾玉であったことを示唆している。
 
 前に富氏は出雲井神社を奉祭しており、
 その祭神を大国主と述べたが、
 その正式な神名は「久那斗神」である。
 
 同神は簸川町富村の
 富神社においても祀られるている。
 
 久那斗神を
 敢えて大国主神と述べたのは
 次のような事情に依る。
 
 同神は「岐、来名戸」とも表記されるが、
 これは
 サンスクリット語の 
 khanati(te) の音写である。
 
 その語義は「掘る、穿つ、貫く」で、 
 khanitr は「掘る者」となる。
 
 「掘る」のは「穴を掘る、穿つ」の意味であり、
 当然大穴持命に通じ、大国主神を表わす。
 
 つまるところの久那斗神は大国主神となる。
 
 出雲郷内に竹花、また
 意宇川を越えた松江市竹矢町があるように
 ここが「タカ」の里であったことが理解できる。
 
 出雲風土記から「タカ(多久)」のつく
 神社を拾ってみる。
 
 ○嶋根郡 多気社(松江市上宇部尾町多気神社)
 ○楯縫郡 多久社(平田市多久町多久神社)
 ○神門郡 多吉社(簸川郡多伎町多岐多岐神社)
 ○神門郡 多支枳社(簸川郡多伎町口田儀
                               多伎芸神社)
 ○神門郡 多吉社(簸川郡多伎町多岐
                       多岐神社境内大穴持神社)
 ○神門郡 多支社(簸川郡多伎町
                          小田尾若権現社に比定)
 ○神門郡 多支支社(簸川郡多伎町口田儀
     多伎芸神社境内、旧社地奥田儀の田尻谷という)
 ○飯石郡 多加社(飯石郡吉田村杉戸
                            大歳神社に比定)
 
 その他、出雲郡に多義村が載る。
 
 これは現大原郡加茂町大竹に比定されており、
 その近く斐川町の学頭に大黒山がある。
 
 阿陀加夜 ādi-gaya が
 出雲の太初の種族であることを
 紹介したのであるが、
 この名称が三輪山周辺にも
 遺っていることを説明しておきたい。
 
 阿陀が「小田」と転訛して多岐町にあるが、
 この ādi が桜井市芝地区の小字
 「織田」となっている。
 
 また芝のすぐ東三輪山との間が
 茅原(ちはら)であるが、
 これはまた「カヤハラ」と訓め
 「カヤ」は gaya の音写で、
 合わすと「阿陀加夜」と同音となる。
 
 また芝の北の箸中の向うには太田地区があり、
 これも 
 ādi の転訛である。
 
 同地には天照御魂神社が鎮座するが 
 ādi は「太初の」の他に
 「太陽」を語義としており、
 その祖語に相応しい。
 
 同社は
 『延喜式神名帳』の大和国城上郡に載る
 「他田坐天照御魂神社大」に比定されている。
 
 これらの名前も阿陀加夜怒志である
 大神神社の大国主神に係わるが、
 その奉祭氏族、
 礒城氏族を含む
 登美族を称したものと考えられる。

 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神の奉祭氏族(3)出雲族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(3)出雲族》
 
   「タカ」は大国主神と不離の用語である。
 
 第11章「剣を地名とする地名」で紹介した
 茨城県真壁郡大和町の大国主命を祭る
 大国玉神社の隣りに
 鎮座する高久神社名及び
  その地区名「高久」は明らかに
 「大国主神」に係わるものである。
 
 そしてこの
 「タク」が多くみられるのが出雲である。
 
 「出雲風土記」の神門郡に「多伎郡」があり、
 
  「天の下造らしし大神の御子、
  阿陀加夜努志多伎吉比売坐す。
  故、多吉といふ。
  神亀3年、字を多伎と改むとある。」 
 
 「天の下造らしし大神」とは、
 同郡の「八野(やの)郡」に
 「天の下造らしし大神、大穴持命」とあり、
 大穴持命(出雲特有の大国主神の尊名)を表わす。
 
 既に数回述べたように
 「阿陀加夜努志」は
 サンスクリット語の 
 ādi-gaya の転写で、
 主(努志)を添えた名称で、
  「太初種族の主」という意義で
 「多伎吉比売命」は
 『古事記』にいう
 「天の下という造らしし大神」に合致する。
 
 「多伎吉比売命」は
 『古事記』にいう「高比売命」で
 別称を下光(したてる)比売命という。
 
 「多伎」は「タカ:竹」で
 大穴持命自身を表わし、
 「吉」は「芸」と同じで、
 邇邇芸命の「芸(ぐん)」と同様
 サンスクリット語の音写で
 「紐を構成する條(すじ)、糸、網」を意味し、
 「多伎芸」は竹玉と同義で勾玉あるいは
 臼玉(菅玉)を表わす。
 
 それは大穴持命の御子の名称である。
 
 「多伎郷」は現在の簸川郡多伎町に当たる。
 
 同町多岐に鎮座する多岐神社及び
 口田儀の多伎芸神社には
 阿陀加夜怒志多伎吉比売命が祀られている。
 
 多伎とは口田儀の間に挟さまれて
 小田地区があり、
 小田神社も鎮座するが、
 「オダ」は「阿陀」と祖語
 ādi (太初の) を同じくする。
 
 そして
 小田温泉のある小字名
 高木は多伎吉の転訛である。
 
 八束郡東出雲町は
 出雲國風土記にも載る
 かっての意宇郡の地で「出雲郷」を現在
 「アダカエ郷」と呼んでいるが、
 そこに阿太加夜神社が
 鎮座していることは既述のとおりで、
 この辺りが出雲の発祥地である。
 
 同社の西側を意宇川が流れ、
 上流は八雲村で熊野神社が鎮座する。
 
 意宇が奈良県桜井市辺りにいた
  『古事記』にいう生尾人と
 関係があるだろうということを述べたが、
 大物主神を考察した際に述べた 
 ahi-dvis(蛇王、龍王)を
 思い出していただければ、
 双方の濃密な関係を知ることができる。
 
 熊野神社の西方に
 「蛇山」があることからすると、
 意宇川の流れる峡谷は蛇の里である。
 
 つまり
 意宇は 
 ahi の転訛である。
 
 須佐之男命の
 八俣の遠呂智(おろち・大蛇)退治の物語は、
 彼の勢力がこの地方へ入って来た時に
 蛇族(意宇)を征圧したことを
 物語っているのである。
 
 その蛇族とはすでに述べたように
 富(とび)氏族であろう。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族(2)物部氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(2)物部氏
 
  『古事記』においては神武天皇に続く、
 綏靖(第2代)、
 安寧(第3代)、
 懿徳(第4代)の
 各天皇の皇妃を師木県主が出した。
 
 『日本書紀』では
 本文で第7代の孝霊天皇だけだが、
 
 一書では
  第2代から第5代の考昭天皇、
  第6代考安天皇の皇后を
 礒城県主が出しており、
  大氏族であったことを示している。
 
 ところで、
  志貴御県神社の祭神は饒速日命とされる。
 
 新撰姓氏録の
 大和国神別志貴連は
  (日本書紀の天武天皇の時に
    志貴県主から連の賜姓があった)
 
 「饒速日神の孫日子湯支命の後」
 とあることに依拠しているらしい。
 
 饒速日命は物部氏の祖であり、
  礒城氏族とは血縁関係にない。
 
 同社には礒城族に係わる尊名は
  その祭神の中にはない。
 
 これはどうしたことか。
 
 『記・紀』によりその系譜を追ってみる。
 
 弟礒城黒速は礒城(師木)県主とされたが、
 その娘河俣毘売は
 神武天皇の第3子である
 第2代の綏靖天皇の皇妃となり、
 第3代の安寧天皇の母となる。
 
 その和名が師木津日子玉子見命という。
 
 この安寧天皇は黒速の子で
 河俣毘売命の兄で
 師木縣主を継いだ
 波延の阿久斗比売を皇妃とする。
 
 この二人から
  常根津日子伊呂泥命(この命の後裔は不明)、
 第4代懿徳天皇となる大倭日子鉏友命、
 そして
 師木津日子命が誕れる。
 
 師木縣主は
  波延に阿久斗比売命以外に
 子がなかったとすれば、
 師木津日子命が継いだものとみられる。
 
 「天孫本紀」は
  「俀志紀彦妹真鳥姫」と
 もう一人を載せているが
 『記・紀』にはない。
 
 懿徳天皇は
 『古事記』で
  「師木縣主の祖賦登真和訶比売命」
 を皇后に迎えて
 第5代考昭天皇が誕まれる。
 
 師木津日子には二人の王があったが、
 一人の名は伝わらず『古事記』はいい、
 もう一人の子和知津美命に
 蝿伊呂杼と
 意富夜麻登久邇阿礼比売命が誕れたが
 男子はなかった。
 
 考昭天皇は余會多本毘売命を皇后として
 第6代考安天皇誕まれる。
 
 同皇妃について
 
  『古事記』はその出自を記さないが、
 『日本書紀』は
  「一云、磯城県主葉江女、
  一云、倭国豊秋狭太媛女大井媛也」、
 
  また考安天皇の条に
 
  「母は世襲足媛、尾張連遠祖、瀛津世襲之妹也」
 
  とあり、混乱している。
 
 その皇子が第7代考安天皇であるが、
 姫忍鹿比売命を皇后に迎える。
 
 この命についても
 
 『古事記』はその出自を記さないが、
 『日本書紀』は
  「立姫押媛、為皇后、
  一云、礒城県主葉江女」とする。
 
 この礒城県主「葉江(はえ)」は
 『古事記』の「波延(はえ)」と同声であるが、
 その世代的隔りがあり、本実は知れない。
 
 考安天皇と同皇后との間には
 大吉備諸進命等
 第8代孝霊天皇が誕れる。
 
 孝霊天皇の皇后ではないが、
 師木津日子命の孫に当たる二女を妃とする。
 
 その蝿伊呂杼(はへいろど)との間には
 日子寝間命と若日子建吉備津日子命、
 意富夜麻登玖遅阿礼比売命には
 夜麻登登母會毘売命、
  日子刺肩別命、
 比古伊佐勢里毘古命、
  倭飛羽矢苔屋比売命が誕れる。
 
 夜麻登登母會毘売命(倭迹迹日百襲媛命)は
  崇神天皇の時代
 大物主神の神妃となり、
  その伝説に箸で富登を突いて死んでしまう。
 
 若日子建吉備津日子命と
 比古伊佐勢里毘古命は
 第7代孝霊天皇に吉備地方へ派遣され、
 
 前者は「吉備下っ道臣」、
 後者は「吉備上っ道臣」の
 それぞれの祖となった。
 
 「二柱相副ひて、
  針間の氷河の前に忌甕を居ゑて」
 
  とある
 
 忌甕(瓺玉:二重口縁壺)を斎る
  大神神社の信奉者である。
 
 日子寝間命は
 「針間の牛鹿臣の祖なり」、
 
 日子刺肩別命は
 
 「高志の利波臣、同前臣、五百原臣、
   角鹿の海直の祖なり」
 
 とある。
 
 孝霊天皇の皇后細比売命について
 
 『日本書紀』に
 「磯城縣主大目が女なり」とあるが、
 
 『古事記』には
 「十市縣主の祖、大目の女」とあり、
 
 判断しがたい。
 
 ただし、伝承では
  十市縣主は磯城縣主より分かれたものとあり、
 同族であったとも見られる。
 
 このように弟師木黒速の後裔は
 「師木王朝」と言ってもよいような
 権勢であったが、
 第7代孝元天皇が
 登美毘古の妹登美夜毘売と
 邇芸速日命の後裔である
 内色許売命を皇妃とするに及んで
 その勢いも下がり、
 その後裔は
  吉備、高志、角鹿、針間、豊前の
 地方勢力と変転し、
 三輪山の奉祭も
 夜麻登登母母會毘売の死をもって
 師木氏族の奉祭が断たれてしまったと
  考えられるのである。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族(2)物部氏① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族(2)物部氏
 
  師木県主・磯城黒速の系譜が衰えた後に
 師木に勢力を張ったのが物部氏であろう。
 
 天孫本紀は
 孝元天皇の皇妃欝色謎(内色許売命)の 
 兄大綜杵の孫建新川を
 「倭志紀縣主の祖」とする。
 
 饒速日命(物部)―登美夜比売(登美)の氏族が
 師木氏族と血縁を持った史料は
  天孫本紀の建新川より5代前
 出石心大臣命の兄出雲醜大臣命が
 倭志紀彦(師木津日子)の妹真鳥姫を
  后としたことに始まる。
 
 この頃に三輪山信仰に大国主神を加えて
 代物主神が加えられたことも考えられる。
 
 物部・登美氏に連なる大毘古命の阿部氏が
 強盛になったのはこの頃であろう。
 
 彼等も崇神天皇の皇后として
 御真津比売命を送る。
 孝元天皇に
 皇后内色許売命を送った当時の頭主は
 その父大矢口宿根であろう。
 
 彼等が師木に志貴御県坐神社を創設したのは
  その頃であろう。
 
 物部氏が金(属)加工(細工)技術者を抱えて
 大和盆地に渡来して来たことは明白であり、
 その金属加工の拠点の一つが「金屋」で
 同社が鎮座する現在の地名である。
 
 彼等はここで
 メスリ山古墳(桜井市高田)で
 大量に発掘された銅鏃などを
 製造したのであろう。
 
 後に欽明天皇の宮殿になる
  「金刺」はその理由による。
 
 「刺」はサンスクリット語の
  sajya (弓弦) を祖語とし佐土野に係わる。
 
 前章の「阿部氏の多」において
 登美毘古の本拠地が
  桜井市外山であることを紹介したが、
 その妹登美夜毘売と饒速日命の本拠地は
  奈良市の西部で、
 登美、
 鳥見、
 富雄、
 三碓(みつがらす)の地名が
  広がる地域である。
 
 同地の生駒市を越えた
  大阪府交野市私市には
 磐船神社が鎮座し、
 饒速日命の降臨した伝承を持つことで
 よく知られる。
 
 神武天皇東征に際し
 登美毘古が強力に抵抗したのは
 この生駒市辺りであろう。
 
 讃良郡周辺を拠点とする
 ヤーダヴァ族(登美族)は
 この地方では強力であったのである。
 
 奈良市西部が
 登美夜毘売の支配地であったことは
 以下の状況で判断できる。
 
 まず
 富雄は「トミヤ」で「登美夜」の転訛である。
 
 富雄元町の北川西は
 桜井市の河西と同根で
 橿原市の川西、また
 磯城郡川西町があるように
 単に「川の西」ではない。
 
 埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣に
  刻銘された「多氏族」にある
 「加抜次」とも同根で、
 高市郡の名称ともなっている
  王族、王侯を表わす用語である。
 
 登美族が三輪山信仰に関係していたことは
  すでに述べたが、
 富雄にある地名
  「三碓(みつがらす)」がそれを説明する。
 
 「碓」は「臼」であるが、
  臼を何故「ガラス」と呼ぶのだろうか。
 
 「ガラス」はサンスクリット語の 
  gharas (摩擦) あるいは
 gharsana (摩擦、挽くこと、擦り込むこと)の
 転訛で「臼」を表わす。
 
 三輪山周辺で出土した遺物の中の
  臼玉(竹玉、菅玉)を
 「大和史料」は「切子玉」と表記しており、
 切子がガラスであることに相違ない。
 
 「碓」は大神神社の信奉に係わる
 臼玉の名であり、
 「三碓」は
 「三輪」をいったものであることがわかる。
 
 かって富雄村に属していた
  現在の石木町に登弥神社が鎮座する。
 
 同社は『延喜式神名帳』にも
 添下郡に同名で記載されている。
 
 石木は石堂と木島が合併した地名であるが、
 石堂はサンスクリット語の
 「女人」を意味する 
 īṣtr の転訛と考える。
 
 というのも
 登弥は
 ラテン語で donina 、
 ギリシャ語で οάμε で
 サンスクリット語で devi となり、
 
 日本の古典に「止女、斗売」
 となっている用語の転訛とみられ、
 それらの語義は「婦人、夫人、女王」また
 「女神」を表わし、
 登美夜毘売に係わる神社と考えるからである。
 
 「大和史料」は
 
 「鳥見明神ハ図説ニ謂ユル  
   饒速日夫妻ノ庿社ニシテ」と
 
 推測している。
 
 「神社霰録」は祭神について饒速日命とし、
 現在本殿の西殿に
  「登美饒速日命」の名称で祀られており、
 同神が登美の入婿神であるような
  表現が用いられている。
 
 「饒」の語義は
  「豊かにする、増す、豊か」で、
 また訓に「トミ」があり、
 まさに「富」と同じである。
 
 饒速日は「富速日」で
 「トミハヤヒ」と訓むことができるのである。
 
 東殿には高皇産霊神が祀られているが、
 この神名は竹玉(臼玉)の
 神格化されたものであることは
 既に述べた。
 
 桜井市三輪字金屋に
 志貴御県坐神社が鎮座する。
 
 延喜式神名帳に
  「志貴御縣坐神社大」と記載されている。
 
 志貴が
  大己貴命の「己貴」であることに
 よるものだろうことを 述べたが、
 「シキ」は
 
 『古事記』に「師木」、
 『日本書紀』に「礒城」と表記される。
 『旧事本紀』国造本紀には
  「志貴県主」と表記する。
 
 師木には
  神武天皇に反抗した
 兄師木弟師木の武将名がある。
 
 兄師木は滅ぼされたが、
 弟師木は帰順し、
 
 『日本書紀』に
 
  「弟師木、名は黒速を礒城県主とす。」
 
 とある。
 
 この黒速は大国主に依拠した名とみられる。
 
 志貴は狭い範囲としては
 三輪山と大和川の間、
 つまり
 志貴御県坐神社の鎮座する金屋辺りであり、
 大和川を超えたところが
  礒城島で粟原川との河間である。
 
 そして
 志貴県は城上郡、城下郡の広い範囲となる。
 
 この礒城氏族こそ太初において
  「大黒主」大国主神を奉祭していた氏族である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族(1)礒城氏 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
 
 桜井市三輪字金屋に志貴御県坐神社が鎮座する。
 
 延喜式神名帳に
  「志貴御縣坐神社大」と記載されている。
 
 志貴が
 大己貴命の「己貴」であることに
 よるものだろうことを 述べたが、
 「シキ」は
 『古事記』に「師木」、
 『日本書紀』に「礒城」と表記される。
 
 『旧事本紀』国造本紀には
 「志貴県主」と表記する。
 
 師木には
 神武天皇に反抗した
 兄師木弟師木の武将名がある。
 
 兄師木は滅ぼされたが、
 弟師木は帰順し、
 
 『日本書紀』に
 
  「弟師木、名は黒速を礒城県主とす。」
 
 とある。
 
 この黒速は大国主に依拠した名とみられる。
 
 志貴は狭い範囲としては三輪山と大和川の間、
 つまり
 志貴御県坐神社の鎮座する金屋辺りであり、
 大和川を超えたところが
 礒城島で粟原川との河間である。
 
 そして
 志貴県は城上郡、城下郡の広い範囲となる。
 
 この礒城氏族こそ太初において
  「大黒主」大国主神を奉祭していた氏族である。
 
 『古事記』においては神武天皇に続く、
 綏靖(第2代)、
 安寧(第3代)、
 懿徳(第4代)の
 各天皇の皇妃を師木県主が出した。
 
 『日本書紀』では
 本文で第7代の孝霊天皇だけだが、
 
 一書では
 第2代から第5代の考昭天皇、
 第6代考安天皇の皇后を
 礒城県主が出しており、
 大氏族であったことを示している。
 
 ところで、
 志貴御県神社の祭神は饒速日命とされる。
 
 新撰姓氏録の
 大和国神別志貴連は
  (日本書紀の天武天皇の時に
    志貴県主から連の賜姓があった)
 
 「饒速日神の孫日子湯支命の後」
 とあることに依拠しているらしい。
 
 饒速日命は物部氏の祖であり、
 礒城氏族とは血縁関係にない。
 
 同社には礒城族に係わる尊名は
  その祭神の中にはない。
 
 これはどうしたことか。
 
 『記・紀』によりその系譜を追ってみる。
 
 弟礒城黒速は礒城(師木)県主とされたが、
 その娘河俣毘売は
 神武天皇の第3子である
 第2代の綏靖天皇の皇妃となり、
 第3代の安寧天皇の母となる。
 
 その和名が師木津日子玉子見命という。
 
 この安寧天皇は黒速の子で
 河俣毘売命の兄で
 師木縣主を継いだ
 波延の阿久斗比売を皇妃とする。
 
 この二人から
 常根津日子伊呂泥命(この命の後裔は不明)、
 第4代懿徳天皇となる大倭日子鉏友命、
 そして
 師木津日子命が誕れる。
 
 師木縣主は
 波延に阿久斗比売命以外に
 子がなかったとすれば、
 師木津日子命が継いだものとみられる。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(2)大国主命 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族
(2)大国主命
 
 「大三輪神三社鎮座次第」によると
 「中津磐座大己貴命」とある。
 
 「大己貴命」は『日本書紀』の表記である。
 
 『古事記』は大穴牟遅神とあり、
 すでに見たように
 大国主神となるべく宣告された。
 
 大神神社の境内に大黒谷という地名がある。
 
 拝殿のすぐ西側で
 現在磐座神社のある辺りであるが、
 この名称は
 同社にとって最も重要な禁足地である
 大宮谷の旧名ではなかったかと推測される。
 
 というのも「中津磐座」は
 この大宮谷にあると考えられるからである。
 
 禁足地のため一般にはその鎮座地が解らない。
 
 だが、大国主の本義が「大黒主」であり、
 この大宮谷の「神主」であろう。
 
 「大国主」は
 山ノ神祭祀遺跡などで見つかっている
 三輪山に特有の「子持勾玉」に
 象徴されると考える。
 
 勾玉は曲玉で、
 弓のように湾曲している宝石(玉)である。
 
 大国ははまた「大曲(だいこく)」でもある。
 
 曲玉である(子持)勾玉には
 「玉子(卵)」の意味が隠されている。
 
 古くはこれが「タカタマ」であった。
 
 「竹玉」と表記してタケタマでなく
 「タカタマ」と読むのは
 (2)櫛瓺玉神での万葉集の引用のよっても
 明白である。
 
 玉が「卵」であるから
 「タカ」はその「親」の名となる。
 
 「タカ」が「大国主」に相当する。
 
 「タカ」は高久、高岐、高との表記されている。
 
 島根県八束郡東出雲町は
 元意宇郡に属しており、
 出雲郷が「あだかえごう」と呼ばれているが、
 その理由が
 阿太加夜怒志多伎吉毘売命の
 神名に由来すること、
 阿陀加夜怒志が大国主命のことで
 「多伎吉」が多伎芸で
 竹玉であることは既に述べた。
 
 簸川郡の多伎町名ともども
 これらは「大黒主」に依るものである。
 
 「タカタマ」である勾玉は
 多伎芸となって高木神へと
 『記・紀』の
 編纂されるころには高揚されている。
 
 高木神は
 
 『古事記』に出る神名で、また高御産巣日神、
 
 『日本書紀』で高皇産霊尊となり、
 支配的最高神の位置が与えられている。
 
 奴玉は天照大神より皇孫に授けられたという
 三種の神器のうち
 「八尺瓊曲玉」として尊重されている。
 
 曲玉は八咫鏡、叢雲剣とは違い、
 一度として皇孫である
 天皇の手元を離れて奉祀されたことはなく、
 
 「万世皇位継承の御璽(印)」
 
 となっているのである。
 
 高木神は大神神社に祀られていない。
 
 同神がかなり後に神格化されたことが解かる。
 
 「大黒主」な係わる地名が三輪山周辺に多い。
 
 穴師、箸中、黒崎、初瀬、長谷である。
 
 慈恩寺に鎮座する大神神社の摂社
 玉列(たまつら)神社の
 祭神玉列王子(たまつらみこ)神とは
 「大黒主」である大国主神を表わす。
 
 玉列とは勾玉ないし「竹玉」を表わしている。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族④ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
 
 因みに 
 khumba の同類語 khumbi(khubi) は
 「壺、瓺」の他に「鍋」 を表わし、
 秦氏の時代以降は鍛冶の技工が出、
 刀剣の名匠が出たことを
 「河内名所図会」は記録している。
 現在の寝屋川市の北辺が鞆呂伎荘で、
 それがドヴァラカであったと指摘したが、
 日本国内に
 その系譜に連なるとみられる地域がある。
 「磯城族」において
 彼等の後裔が送られた地方が
 吉備国であったとことを述べるが、
 そのうち
 現在の
 広島県世羅郡世羅町にその残映がある。
 『和名類聚抄』備後国世羅郡に
 「鞆張郷」が載る。
 平安末期には「戸張保」と表記されていて、
 現在の世羅町戸張がその遺称だが、
 その地域はもっと広かったとみられる。
 「鞆張」は日本地理志料が
 「登毛波利」と訓んでいるが、
 これも dvāra で、
 登美族に関係する名称であろう。
 『和名類聚抄』下総国葛飾郡に
 「度毛郷」がある。
 「下総国旧事考」は
 現在の吉川市付近である風早に比定しており、
 「地名辞書」は
 三郷市・吉川市一帯にあたる
 可能性が高いとし、
 「三郷町文化財調査報告」は
 「大宝令には度毛とあり」と述べ
 市内の戸ヶ崎を比定している。
 「度毛」は「トモ」と訓まれた。
 だが、
 これは「ドケ」でやはり 
 dvārakā の転訛で、
 その名称の発祥は吉川市保周辺である。
 第11章「インドラ神の影(3)佐原:側高神社」で
 紹介した蕎高神社が
 二座鎮座する高久、高富の
 北にあるのが保地区であるが、
 そこにある
 吉川神社(旧諏訪神社)の神職を戸張といい
 南北朝時代には
 領主として活躍した古族である。
 戸張一族は現千葉県柏市戸張から
 吉川市のこの付近を領有していた
 梁田氏を頼って移転して来たらしい。
 同社はこの地域の総鎮守で
 吉川の里の発祥と共に
 奉祀されたと考えているが、
 その創建年代は詳らかではない。
 社伝によると
 文治3年未年(1187年)というから
 平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけて
 再建されたという。
 付近の地名「野尻」から判断すると
 梁田氏あるいは戸張氏は
 インドの yajūr-veda を知る
 「ハフリ」の後裔ともみられる。
 梁田氏名はドヴァラカ族の原名に係わる
 yadu (ヤーダヴァ族)を想起させる。
 「保」の祖語は pura と考えられる。
 Pura (puri) は本来
 「要害、城」であるが、
 「町、都市」をいい、
 日本では「府」ともなった祖語であり、
 長崎県では「触」として
 村名に付けられ使われている。
 それは 
 -kā,vāti と同義である。
 Dvāraka 族は登美族だが、
 登美は「富」で
 「高富」「富新田」「川富」の地名は
 ここが登美族の居住地であることを示す。
 富を同地では「ドミ」と濁音でいい、
 「度毛」に対応する。
 また共保(きょうほ)は「トモホ」と訓め、
 「富・保」と解釈できる。
 「ソバタカ」はパーリ語の 
 sovattika の音写で
 「十字」を表わしたが、
 そのサンスクリット語は
 svastekā で、
 戸張氏の奉祭する諏訪神社は
 この十字紋 
 sva を祖語とするだろう。
 十字紋は、「吉祥、光明」を表わすが、
 市名となっている「吉」はこれに由来し、
 付近の地名「木売」は「キウリ」で
 gaura の転写で「光輝、光明」で 
  dvaraka 城の輝きに通じる。
 保の東方の三輪野江に三輪社が鎮座し、
 大神神社に係わる人々の
 地方への入来を証している。
 三輪野江から東の江戸川を越えたところは
 千葉県流山市三輪野山で
 三輪茂呂神社が鎮座し、
 そのさらに東方には諏訪神社が
 流山市駒木に鎮座する。
 同社の社伝によると、
 高市皇子(高市彦)を祖とする高市氏族が
 奈良時代に移住して来て、
 同社が創建されたのが
 大同2年(807年)とされる。
 高市皇子は天武天皇の長子で
 藤原京時代太政大臣であった。
 この藤原氏の全盛の時代、
 同皇子の長子長屋王は
 左大臣にまで昇っていたが、
 「続日本紀」の
 神亀6年(729年)春3月の条に
 記されているところによると
 「左道を学び国家を傾けようとした」
 という謀反事件、
 いわゆる「長屋王の変」が興り、
 一族が危機に瀕して
 東国へやって来たと考えられる。
 
 諏訪神社の祭神は建御名方富命で
 大国主神の御子神とされる。
 大神神社の祭神である。
 「郡書類聚」には高市麻呂が
 大神神社に担っていたことを載せており、
 同族が関係していたことを示している。
 同社の周辺から奈良時代の
 溶鉱炉の遺構が見つかり、
 高市氏族が
 金属業の技術を持っていたことを
 明らかにした。
 その東は柏市だが、
 手賀沼に接して戸張地区がある。
 吉川市の戸張氏族の祖地で
 彼等はここでは領主であったという。
 このように登美族である
 ドヴァラカの系譜は東国に根を張ってきた。
 高市氏族の渡来はそのような
 環境があってのことであろう。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族③ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
  
 ヤーダヴァ族の族名の元となった
 祖名 yadu の yādas に因むと考えれば、
 魚も水棲動物の範疇に入り、
 その族名に合致する。
 
 クリシュナの系統のドヴァラカ一族が
 彼等の祖地名を
 ここに付けたとみられるのである。
 
 三嶋が「魚国」であることは、
 大田田根子の出身の地、
 『古事記』のいう
 「河内の美努村」と関連する。
 
 「美努」は  
 mina の転訛で「魚」を意味する。
 
 サンスクリット文字 
 ma (漢音摩字) が
 「ミ」となることについては
 madhu (密)が日本語になって
 「みつ」というのと同じである。
 
 Matsya は
 寝屋川市の三井、松屋町、
 門真市の松葉町、松生町ともなっている。
 
 「三ツ」は madura で、
 三嶋はマツヤ国を表わしているのである。
 
 讃良郡は
 ドヴァラカ(ヤーダヴァ族、登美族)の
 この地方での
 最も古い居住地と考えられるのである。
 
 そして
 彼等は三輪山の信仰に深く係わっていた。
 
 堀溝に鎮座する鸎関(ようかん)神社は、
 鸎が鶯のことで「青(緑)い鳥」、
 関は「垣」で、同神社名は「青垣神社」であり、
 三輪山に通じる。
 
 堀溝の南隣り河北にある
 大神社は「鶯神社」であろう。
 
 三嶋湟咋が讃良郡にいたとすると、
 勢夜陀多良比売もここにいたことになる。
 
 その痕跡を検討すると
 『古事記』や神社名にそれがあり、
 以下のような見解となる。
 
 『古事記』は
 
 「三嶋溝咋の女、勢夜陀多良比売、
  その容姿麗美しかりき、
  故、美和の大物主神、見感(みめ)でて、
  其の美人の大便為(くそま)れる時、
  丹塗矢に化りて、
  其の大便為れる溝より流れ下りて、
  其の美人の登富を突きき」
 
 と述べるが、
 大便をしている時に
 溝から流れ下って行く様子は
 まさに厠(川屋)の情景である。
 
 川の上に簡単な草屋を作り便所としていた
 日本の古い風習が描かれていると解釈できる。
 
 しかし、
 この挿話は「カワヤ」から
 連想された話である。
 
 本実のところは、
 「カワヤ」は
 「瓺玉(みかたま)を作る者」である
 陶工を表わす。
 「カワ」は
 サンスクリット語の 
 kubha(kumbha)で「壺、甕、瓶」を語義とする。
 カワヤは「壺屋(クワヤ)」である。
 
 この「クワヤ」が
 『延喜式神名帳』河内国茨田郡に載る
 「細屋神社」の祖型で、
 現在寝屋川市秦(はだ)町に鎮座する。
 
 その祭神については、
 秦氏の入って来た以前と以後で
 変更があったとみられ、
 現在は
 「細屋(ほそや)」が「星屋」に近いことから
 「天神、星屋、星天宮」とあいまいである。
 
 しかし、
 「細」は記紀の孝霊天皇条に登場する。
 
 「十市縣主」の祖、
 「大目の女、名細比売命」にあるように
 「クワ」あるいは「クワン」で、
 「細屋」は「クワヤ」であったと考える。
 
 勢夜陀多良比売命はこの辺りにいたのである。
 
 『日本書紀』のいう同姫の名称「玉櫛」は
 「櫛瓺玉」より作られた名称で、
 そこには「瓺」が介在する。
 
 秦町の東端に加茂神社が鎮座するが、
 「カモ」は 
 khamat 穴持であったから
 単なる壺ではなく二重口縁壺が
 焼かれていたとすることができる。
 
 隣りの太秦の遺跡からは
 摂津大和に特徴を同じくする
 甕形土器が出土している。
 
 細屋神社の鎮座する
 秦町は「ハダ」と訓み、
 奈良時代・平安時代に幡多郷があった。
 
 太秦に表わされる「秦氏」は「ハタ氏」で
 「ハダ」と呼称されるには
 その理由があるだろう。
 
 太秦と区別するために
 「大秦」を使ったことあるという。
 
 「幡多(はだ)」の実際の祖語は
 サンスクリット語の
 vadha (女) ないし vadhū 
 (女、妻、花嫁) であり、 
 勢夜陀多良比売命をいった遺称であろう。
 
 幡多地名は高知県の幡多郡があったが、
 これは医者を表わす 
 vaidya (平田ヘイタ) の転訛であった。
 
 「幡」は「バタ」とも読まれる。
 
 茨田郡名を
 『和名類聚抄』、
 『延喜式』は
 「万牟田」と訓ませているが、
 ここでは「マッタ」と呼ばれている。
 
 これもまた vadhū の転訛である。
 
 Va が ma となった例はすでに述べたが、
 その例に並ぶものである。
 
 大阪市鶴見区に残る茨田はしかし、
 madhar に由来すると考える。
 
 また寝屋(寐屋)を意味する
 サンスクリット語に vāsu があり、
 これは宮処あるいは宮殿を表わす用語で、
 この周辺には
 王族の宮殿があったと推測される。
 
 このように讃良郡(茨田郡)の地を
 三嶋湟咋父娘のいたところと
 することができるのである。
 
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
  
 寝屋川市打上神社は
 明治初めまでは高良神社であった。
 
 この「高良」も祖語は 
 gaura であろう。
 
 同社近くにある
 「石の宝厥」はまさに「天門」の象徴で、
 天照大神が隠れた
 「天の岩窟」を想起させる。
 
 dvāra は門、戸の意味で、
 また「杭」 で穴の概念を持つ。
 
 穴は「空虚、空」であるが、
 「寝屋」は旧語で
 「寐屋(とこや)」であり、
 
 これは「空虚」の語義の 
 tucchya の音写とみられ、
 同語は
 『延喜式神名帳』の
 讃良郡に記載されている
 現四条畷市南野に鎮座する
 御机(みつくえ)神社の祖語でもある。
 
 これは「湟」でもある。
 
 その四条畷市(旧讃良郡)の東端に
 田原があり、
 奈良県生駒市に亘って田原地域が広がる。
 
 田原は 
 dvāra の音写であり、
 ドヴァラカ族の勢力の拡大地域がある。
 
 そして奈良市西部の登美、富雄など
 饒速日命の妃となった
 登美夜毘売命の勢力地となり、
 田原本町(長髄彦)、
 桜井市とその勢力範囲が広がっていたのである。
 
 「生尾人」は
 メソポタミアの水棲動物
 アネスを想像させると述べたが、
 ヤーダヴァ族の祖名である 
 yadu は yadas に依るもので、
 まさに水棲動物そのものである。
 
 『古事記』の記す生尾人は登美族にして
 ヤーダヴァ族で三嶋湟咋も
 ヤーダヴァ族にして登美族である。
 
 なお、
 「田原」は「クワラ」であるが、
 紀元7世紀に
 現在のタイ国のバンコク辺りに
 ドラヴァティ dvāravati 国が
 モン族に依って建てられた、
 その呼称はその後
 北方の中国方面から南下した
 タイ族に依って
 「タワーラワティ」と呼ばれており、 
 dvāra を 「タワーラ」とする共
 通の表音的性格がみられる。
 
 讃良郡が属するのは河内(カワチ)郡だが、
 この「コウチ」も
 ヤーダヴァ族の持って来た用語で、
 śarra (佐良良、讃良)と同じく
 サンスクリット語の
 「五座」を表わす 
 kota 「支配者」の ksi- と関係し、
 セム語の kussu (五座)、
 シュメル語では kuś (牧夫)であった。
 
 紀元4世紀になって
 メソポタミアで同居していた
 セム語を解するイスラエル人の一族
 秦氏が隣人となる。
 
 寝屋川市に太秦の地名がある。
 
 ヤーダヴァ族は
 本来ユダヤ族(アブラハム)と同じく
 月神崇拝者(月種)であったが、
 クリシュナの父が
 ヴァスデーヴァ(vasudeva)の時代に
 太陽神崇拝(日種)へと転換した。
 
 依って
 古代の日本へ渡来した人々は日種であった。
 
 Vasu-deva の deva は「神」を表わすが、
 Vasu は極めて重要な用語である。
 
 「善い、財貨、富」ではあるが、
 特に「光線」を表わし、
 その動詞 
 Vasu は
 「夜が白んで明るくなり」「輝く」ことで、
 「夜明け」に適用される。
 
 Vasayati は「輝かせる」、 
 vi-vāsayati は
 「光る、夜が明ける」となる。
 
 このように
 ヤーダヴァ族(登美族)の日神崇拝は
 夜明けの暁光に対する崇拝である
 寝屋川市の中心に初町があるが、
 「初」は vasu の転写で
 隣りに日之出町がある。
 
 寝屋川市高宮神社、大社御祖神社が鎮座する。
 両社とも延喜式神名帳讃良郡に
 「高宮神社大」
 「高宮大社祖神社」と記載されている。
 
 祭神について、
 前者が天剛風命、
 後者がその父の万魂命とし、
 高宮氏一族の祭祀という。
 
 しかし、
 「大社」は「オホ社」で
 奈良県磯城郡田原本町多に鎮座する
 多神社のことで、
 祭神は後に解析するが神八井耳命である。
 
 「高宮大社祖神社」は
 その神八井耳命の祖を祭祀した神社であり、
 三嶋溝橛、
 玉櫛姫、
 大物主神、
 媛蹈鞴五十鈴媛で、
 
 神八井耳命の母系の
 開祖、祖母、祖父、母ということになる。
 
 この関係についてはまた述べる。
 
 ここでいう
 延喜式神名帳の摂津国嶋下郡に
 溝咋神社の載ることを
 考えておかなければならない。
 同社は現在茨木市五十鈴町に鎮座する。
 
 この
 茨木市、高槻市、島本町が三島郡であった。
 
 だがそれは
 中世期以後のことで、
 『和名類聚抄』、
 『延喜式』は
 嶋上郡、嶋下郡とする。
 
 その西は豊嶋郡といい、
 平安時代の初期には
 淀川より北の地域は
 「嶋」であったと解釈される。
 
 「シマ」は syama(黒) の転写で
 クリシュナに係わるとの見解をすでに述べた。
 
 「嶋郡」もやはり開祖溝橛のヤーダヴァ族の
 影響下にあったとすることができる。
 
 同じく神名帳に記載されている
 三嶋鴨神社の鎮座する
 高槻市三島江の隣りに
 「三箇牧」の地名があり、
 「三嶋」が「三ッ島」と
 同一であることを示している。
 
 その嶋郡に溝橛を祀っても不思議はない。
 
 この「三嶋」をどう読むかは重要である。
 
 「ミシマ」か「ミツシマ」かであるが、
 「ミツシマ」とすべきである。
 
 その訳は「ミツ」が
 クリシュナの生誕の地にして
 ヤーダヴァ族の母国の首都 
 Madnurā 及び
 その国名 Matsuya に係わるからである。
 
 Madnurā は第1章で紹介したように
 「松浦」の祖語で「密、石密」を表わし、 
 Matsuya は「魚」の意味である。
 
M.K記
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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
  
 大物主神の神妃となった勢夜陀多良比売は
 巫女であったことは確かである。
 
 その世代より下った崇神天皇の時にも
 
 大物主神の神妃、
 孝霊天皇の御子倭迹迹日百襲姫
 (『古事記』夜麻登登母母曾毘売命)は
 
 神懸かりて崇神天皇に
 大田田根子に三輪山を祭らせることを伝えた。
 
 「神懸り」は巫女の役柄である。
 
 つまり
 その祭祀者は娘を巫女として捧げたのである。
 
 よって勢夜陀多良比売の親である
 
 『古事記』に載る
 「三嶋湟咋」は大物主神の奉祭氏族である。
 
 ただ、
 これだけではその氏族の実像がみえてこない。
 
 三嶋は御諸を三諸というように本来は
 「御嶋」であったとも考えれば、
 この「嶋」は磯城島の「島」である。
 
 三輪山の南側の
 外山(とび)の住者とみることができる。
 
 ここには数多くの二重口縁壺を
 埋祀してあった茶臼山古墳がある。
 
 日本古典文学大系は
 「湟咋」を「溝咋」と訳すが、
 「湟」は「堀、城池」である。
 
 堀も溝も「穴」のことで、
 大物主神を奉祭するのに
 瓺玉である二重口縁壺に
 穴を穿って役柄が「湟咋」と考えられる。
 
 三輪山周辺が
 「生尾人」の地であったことは既に述べた。
 
 桜井地区と谷地区との間には
 古代の王族を表わす
 「高市」と同声の「河西」がある。
 
 「コウシ」ないし「コウチ」が
 王族あるいは支配者であることは、
 ここに重なって
 「能登」の地名があることで解かる。
 
 「ノト」は千葉県野田市でみたように 
 nāda の転訛で「支配者」の語義である。
 
 そして、
 その王族とは「生尾人」である
 阿部氏族とすることができる。
 
 阿部氏の性格は祝である。
 
 阿部氏は
 大神神社の祭祀者であったと考えられ、
 彼等はまた登美族であった。
 
 『日本書紀』は事代主神が
 三嶋溝橛耳神の女の玉櫛媛を娶って
 生まれた子が媛蹈鞴五十鈴媛と述べる。
 
 『古事記』が大物主神とするのに対し
 『日本書紀』が事代主神としているが、
 その事情については後述する。
 
 ここで考察するのは、
 三嶋溝橛(三嶋湟咋)であるが、
 この追求は
 登美族の実祖像を知ることとなる。
 
 彼の本拠地は河内国讃良(ささら)郡である。
 
 現在の大阪府寝屋川市の南端に
 讃良(東西)町があり、堀溝がある。
 
 「湟咋」は「堀を齚(か)む」ことで
 「溝を掘る」ことであり、
 「堀溝」は湟咋に因んだ遺称である。
 
 その西隣りは門真市で、
 そこに三箇や三ッ島の地名があり、
 これが三嶋の遺称である。
 
 溝橛の「橛」は「橜(くい)」で
 杭、杙と同義であるが、
 特に門の中央に立ててある杭を意味する。
 
 『日本書紀』がその神名に
 「耳神」と神武天皇の御子以外に
 符されていない特殊な符号を与えている。
 
 これは
 サンスクリット語の 
 Mā(mimite) の自動詞一人称の 
 mime の音写で、
 「量る、測定する」から
 「創造する、造立する」の意味であり、
 「ミミ神」は「創立神、造物主神」となる。
 
 郡名の「讃良」は「佐良良、沙羅羅」と
 表記された古名だが、
 これがメソポタミアの「王」を表わす
 セム語 śarara の移入と
 考えられるのである。
 
 というのも湟咋の祖語は、
 メソポタミアの根元を持つ
 インドのヤーダヴァ族であるからである。
 
 讃良郡の北方には紀元4世紀になって
 同じセム語を祖語に持つ
 ユダヤ人である秦氏族がやって来た。
 
 第7章:メルッハとオフル「ヤーダヴァ族」で、
 
 彼等の祖先が
 メソポタミアからインドへ来たことを述べた。
 
 インドでは
 アーリア人の侵入以前における大族であった。
 
 インドにおける最後期の王クリシュナが
 インド亜大陸の西端に当たる
 クジャラート(サウシュトラ)
 Dvārakā という都市を建設したが、
 クリシュナの死後同市は滅び海中に没して、
 ヤーダヴァ族 hametubou しまったという
 叙事詞の伝承を紹介した。
 
 そして現在サウシュトラの西に 
 Divrka という小さな町があることも紹介した。
 
 そこの人々が
 ヤーダヴァ族の後裔であるといっている
 ことなどを踏まえて、
 彼等が全く滅亡してしまったということは
 あるまいとも述べておいたが、
 実は日本に
 その後裔が渡来していたのである。
 
 讃良は彼等の王族の居住地である。
 Dvārakā は「多くの門のある都市」の語義で、
 別称では dvāra-vati とも呼ばれ、
 これは「門・都市」である。
 
 寝屋川市の大利神社の鎮座する
 「大利(おおとし)」はこの 
 dvāra 転訛で、
 隣りの門真市名は 
 dvāra(門)-vati(マ) の
 意訳音写の合成語であり、
 表記の門真は溝橛の意味を含む。
 
 門真神社は
 ドヴァラヴァティ神社ということになる。
 
 また、
 ドヴァラカを神社名としているのが
 寝屋川市郡の友呂岐神社と
 木屋町の鞆呂岐神社である。
 
 この地域は平安時代に鞆呂岐荘であり、
 現在の香理から
 三井地区を含んでいたとみられる。
 
 「ミツイ(三井、美井)は、マツヤ」の転訛で
 ドヴァラカ国の前身である
 マトゥラーを首都とした国名である。
 
 Va(ヴァ)ma(マ)と転換されたのは、 
 かって 
 Narvada 川と称されたインド西部の河が
 現在では 
 Narmada 川と
 表記されている例で理解できる。
 
 Vāsava (vasu 神郡の長インドラ神) が
 漢音では摩娑婆とされている。
 
 二つのトモロキ神社は
 『延喜式神名帳』には載っていないが、
 平安時代にはその存在が
 すこぶる低下してしまっていたからだろう。
 
 それらの神社の祭神は
 門真神社が素盞鳴尊とするなど
 ヤーダヴァ族とは係わりのない神名が
 現在並んでいるが、
 太初の頃は
 クリシュナ kṛsna であったと考えられる。
 
 クリシュナは
 黒い皮膚の「黒い神」の語義である。
 
 寝屋川市内の黒原や楠根は
 この神名に依るだろうし、
 三島の「シマ」は kr-(kāla) と
 同義の別語 
 syama (黒)の音写と考えられる。
 
 『延喜式』に
 摂津国上嶋郡、下嶋郡があるが、
 この「嶋」も syama に由来する。
 
 同地方は後に三島郡となり、
 現在島本町などとなっている。
 
 三井がクリシュナの生まれた国
 マツヤを祖語とすると述べたが、
 鞆呂岐神社のある木屋町の隣に
 松屋町名も同様である。
 
 友呂岐神社の鎮座する「郡」や
 寝屋川市と枚方市に広がる
 「香里」の地名は 
 gaura の音写で、
 ドヴァラカ市が太陽や月のように
 輝いていたと伝えられることから、
 その「輝き」を形容した地名である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:大物主神の神妃 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主神と大物主神:大物主神の神妃
  
 大神神社の境内狭井に鎮座する
 狭井坐大神荒魂神社は延喜式神名帳に
 「狭井坐大神荒魂神社五座」と載る神社で、
 現在の祭神五座は大神荒魂神、大物主神、
 姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜陀多良姫命、
 事代主神である。
 
 勢夜陀多良姫命は大物主神の神妃である。
 
 『古事記』は次のように伝える。
 
  三島溝咋(みぞくい)の女、
      名は勢夜陀多良比売、
  其の容姿麗美しかりき。
 
  故、美和の大物主神、見感(みめ)でて、
  其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、
  其の大便為れる溝より流れ下りて、
  其の美人の富登を突きき。
 
  爾に其の美人驚きて、立ち走り、
  伊須須岐伎。
 
  乃ち其の矢を持ち来て、床の辺に置けば、
  忽ちに麗しき壮夫に成りて、
  即ち其の美人を娶して生める子、
  名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、
  亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂ふ。
 
 この伝承で大物主神は、
 丹塗矢と化して
 勢夜陀多良比売の下に現れた。
 
 日本古典文学大系が注するように、
 「丹塗矢は雷神の表徴」であるが、
 これは稲妻・電光のことである。
 
 勢夜陀多良比売の「勢夜」とは
   狭井神社の「狭井」は同根語で、
 その祖語でサンスクリット語の 
 śayaka は「飛道具、矢」を表わすのである。
 
 「陀多良」は「インドラ神の贈物、施し」で、
 その語幹 da は「与える、授ける」の意味で、
 勢夜陀多良は śayaka-dattra で
 「インドラ神の贈った矢」、
 つまりインドラ神から矢を
 与えられた姫というのがその尊称である。
 
 そして
   誕れた姫神が
 富登多多良伊須須岐比売である。
 「富登」は「ホト」と訓み
 女陰と解釈されてきた。
 
 しかし、
   これは
 「布都、富都」で「剣」と解釈すべきである。
 
 『古事記』は
 女陰と解釈したための挿話である。
 
 「多多良」は「蹈鞴」と解釈されているが、
 これも 
 dattra あるいは dadara (贈物)であろう。
 
 「伊須須岐」は 
 iṣṭika の転訛で「女人」を表わし、
 この姫神の名は
 「インドラ神の剣(矢)が授けた女人」となる。
 
 「伊須須岐」は「五十鈴」と転換されているが、
 伊勢市の内宮、天照皇大神宮の前を流れる
 五十鈴川名は「女神」に依るものである。
 
 比売多多良伊須気余理比売の「伊須気」は
 「伊須」が iṣu であり、
 「伊須気」は iṣukāra の転訛で
 「矢師(インドラ神)に授けられた女(姫)」
 となる。
 
 狭井川の西方の岡一帯は
 出雲屋敷と謂われている。
 「狭井:サイ」は sāyaka に依るものと
 指摘したが、
 「イヅモ」の本義も iśumat で
   「矢を備えた、矢持」である。
 
 出雲屋敷と呼ばれるのは、
 伊須気余理比売命の屋敷が
 あったとの伝承による。
 
 『古事記』は
 「是に其の伊須気余理比売の家、
  狭井河の上に在りき」と述べる。
 
 同姫は神武天皇の皇后となったが、
 大神神社の伝承では、
 この岡で天皇が乙女の中に姫を見て
 選ばれたという。
 
 『古事記』の
  「是に七媛女、高佐士野に遊行べるに、
   伊須気余理比売其の中に在りき。」
 とある
 高佐士野(さしの)が
 この出雲屋敷のある岡ということになる。
 
 その「佐士野」は「サジャ」で
 「弓弦」を表わす sajya の音写である、
 矢は弓弦があってその役目を果たせる。
 
 iśumat を「出雲」としたのは
 積雲から放たれる稲妻が
 「矢」であるからである。
 そして
   雷神である大物主神(インドラ神)は
 「矢持」である。
 
 伊勢市の五十鈴川の上流に矢持の地名がある。
 
 伊勢神宮の近くに鎮座する猿田彦神の祖像が
 インドラ神であることは紹介済みだが、
 その東方の朝熊(あさま)山名はこの矢持の 
 iṣu-mat の転訛であろう。
 
 iṣu と同様「矢」を表わす用語に 
 (astra) がある。
 同地の朝熊神社(伊勢市朝熊町)は
 「桜の宮」として知られ、
 桜樹が境内に多く植えられているという。
 
 「桜」は śakra で
 インドラ神の尊称で、
 その古代に埋もれている祭神名
 「桜刀自命」の「刀自」は
 「佐士(さじ)」の転訛で、
 祖語が sajiya であり、
 太初において「あさま神社」の祭神が
 矢持 iṣu-mat であったことを窺わせている。
 
 「刀」字が使われているのは、
 iṣu, astra に近似する。
 「剣、刀」を表わす asi を加味したからで、
 asi-mat は「剣持」である。
 
 狭井坐大神荒魂神社の
 祭神名「大神荒魂神」は
 大物主神の荒魂の語義で、
 これは
 率川神社の祭神「狭井大神」ともども
 「矢持」を表徴しているのである。
 
 大神神社の所蔵する宝物の中には
 奈良時代に網あられた矢で
 木枠、鉾が数多くある。
 
 時代は下がるが南北朝時代、
 同社家越光資が
 大塔宮より戦功により賜ったものと
 伝えられる矢母衣(やほろ)があり、
 箙(えびら)には征矢二十隻が包まれている。
 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:櫛瓺玉姫② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主神と大物主神:櫛瓺玉姫
  
  二重口縁壺のみられた古墳を挙げておく。
 
 (A)土師器製
  ○箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)
 
  3世紀第四半期から4世紀前半・中頃
 
  ○桜井茶臼山古墳(奈良県奈良市桜井外山)
   4世紀第一四半期から、
   方形墳に数多く並んでいた。
 
  ○胎谷古墳(奈良県宇陀郡菟田野町古市場)
   4世紀第一四半期
 
  ○甲斐銚子塚古墳
   (山梨県東八千代郡中道町下曽根町山本)
   4世紀後半
  ○雷神山古墳(宮城県名取市植松)
   4世紀末
 (B)須恵器製
  ○長原古墳群四十五号墳
   (大阪市平野区長吉長原)
   5世紀後半
  ○稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉、埼玉古墳群)
   5世紀第四四半期
  ○西宮古墳(奈良県平群郡西宮)
   6世紀半頃
 
  ○三里古墳(奈良県平群郡西宮)
   6世紀半頃
 
  ○牧野(ばくや)古墳
   (奈良県北葛城郡広陵町馬見北)
   6世紀後半
 
  全ての古墳を調査した結果でないのが
  残念であるが、時代的流れが明らかになる。
 
  宮城県までに4世紀のうちに
 「瓺玉神」の信仰が広がっていたことは意義深い。
 
 この壺を一般に何と呼んだかは確定しがたいが、
 その宮城県におもしろい資料がある。
 
 雷神山古墳からは少々離れた
 岩沼市三色吉水神に
 金蛇水神社という名称の
 水神を祀った神社があるが、
 「金蛇」は
 サンスクリット語の kunda の音写で
 「宗教的に用いられた壺、瓶、篭」をいう。
 
 また、
 同県柴田郡柴田町船迫の釜蛇水神社は
 kamaṇḍala の音写で同義である。
 
 『延喜式神名帳』にもなく影の薄い
 この神社は1600年の間
 土地の人々の水神信仰の対象として
 守られてきたのである。
 
 「水瓶」が単に古墳のための
 祭器だけでなかったことが解かる。
 
 三輪山の東北辻地区に釜ノ口山がある。
 
 「釜」は kamaṇḍala の kama- で
 「口」は二重口縁壺の穴をいうものであろう。
 
 長野県岡谷市の諏訪湖の
 天竜川へと流れる辺りを釜口というが、
 これも同じ理由で、湖は「天の壺」であり、
 釜口は天水の流れ出す穴である。
 
 ミワは svar で「天」の意味である。
 
 『古事記』に「忌瓮(いわいべ)」と現れるものは、
 この瓺と考える。
 
 『古事記』には2回現れる。
 
 第1は
 「孝霊天皇」に
 「大吉備津日子命と若健吉備津日子命とは、
  二柱相副ひて、
  針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、
  針間を道の口と為て吉備を言向け和したまひき」
 とあり、
 
 第2は
 「崇神天皇」の大毘古の東征に出たところで
 「丸邇坂に忌瓮を居ゑて、罷(まか)り往きき」
 とある。
 
 日本古典文学大系の註は「居忌瓮而」を注して
 
 「神を祭るに用いる清浄な瓮を
  地を掘って据えての意」
 とする。
 
 万葉集には
 
 「忌串立て酒瓮据ゑまつる祝が
  うづの山陰見ればともども」とあり、
 
 ※万葉集巻13-3229には
  「五十串立 神酒. 座奉 神主部之 
  雲聚玉蔭 見者乏文」
 
   (斎串立て 神. 酒据ゑ奉る 神主の 
     うずの玉陰 見ればともしも)
 
 忌瓮が酒瓮で瓺玉であることがみえてくる。
 
  万葉集・巻3-379 大伴坂上郎女、
   神を祭る歌一首には
 
  「斎戸手忌穿居、竹玉手繁尓貫垂」
 
 ひさかたの天の原より生れ来る神の命
 奥山の賢木(さかき)の枝に白香(しらか)付け、
 木綿(ゆふ)取り付けて
 斎瓮(いはひべ)を斎ひほりゑ、 
 竹玉(たかたま)を繁(しじ)に貫き垂れ
 鹿猪(しし)じもの
 膝折り伏して手弱女(たわやめ)の
 おすひ取り懸け
 かくだにも吾は祈(の)ひなむ君に逢はじかも
 
  久方の天の原から天下られた先祖の神よ
  奥山の榊の枝にしらかを付け木綿も取り付けて
 斎瓮を慎んで地面に掘り据え
 竹玉をいっぱい貫き垂らし
 鹿のように膝を曲げて身を伏せた
   おやめのおすひを肩に掛け 
 これほどまでも私はお祈りをしているのに
 あの方に逢えないのではないでしょうか
 
 万葉集巻3-420
 石田王の卒(みまか)る時に
 丹生王の作る歌一首は
 
 「枕辺尓斎戸手居竹玉手無間貫垂」を含む。
 
  天雲のそくへの極(きわめ) 
    天地の至れるまで杖つきも
  つかずも行きて 
    夕占(ゆうげ)問ひ 
    石占もちて
  我が宿に 
    みもろを立てて 
    枕辺に斎瓮を据ゑ
  竹玉を間なく貫き垂れ 
    木綿たすき 
    かいなに懸けて
 
 万葉集巻13-3284には
 
 「斎戸手石相斎穿居竹球手無間貫垂」を含む。
 
  菅(すが)の根の ねもころごろに 我は思へる
  妹によりては 言の忌も なくありこそと 
  斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 
  竹玉を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂(た)れ
  天地の 神をぞ我が祈(の)む いたもすべなみ
 
 三例を日本古典文学全集から転載したが、
 同書は原書の「斎戸」を「斎瓮」と置き換え、
 「忌穿居」を日本古典文学大系の注と同じく
 「斎ひ掘り据ゑ」と「地を掘って据える」ことと
 解釈を同じくしている。
 
 だが、
 第3-42の歌のように、
 この祈願は地の穴に据える仕方を
 全てとしていない。
 
 枕辺に据えている。
 
 枕辺とは屋内の寝室をいうものであろう。
 
 よって「斎戸手忌穿居」とは、
 斎瓮に穴を穿つことである。
 
 二重口縁壺に穴が開けられている様こそ
 「斎瓮を忌きまつる」

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第十二章 大国主神と大物主神:櫛瓺玉姫① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
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第十二章 大国主神と大物主神:大物主神
  
  雷神はまた水神としてよく知られる。
 
 この点で注目されるのは、
 三諸、御諸、御和、三輪、美和、瓺玉である。
 
 出雲国造神賀詞が「櫛瓺玉神」と表記する。
 
 「瓺」は「壺、瓶」で、水類を入れる器であるが、
 この「ミカ」はまた「美和(みか)」である。
 
 『古事記』の神武天皇条で
 「美和の大物主神」とある「美和」は三輪である。
 
 「美和」は実は「雲」それも雨を降らす
 「積雲」をいい、
 大神神社は神奈備山である「山」を
 崇拝対象としているばかりでなく、
 そこに湧く雲をも
 信仰の対象としているのである。
 
 その真実は以後の考察で十分解かるだろう。
 
 「美和」はサンスクリット語の「雲」の意味の
 megha の音写である。
 
 同語は漢語音写で「弥伽」と表記される。
 
 Megha-mālā は「雲の環、積雲」で 
 megha の同類語 mih は「蒸気、霧」で、
 実際は同義で、mih-mālā となり、
 これが「御諸」あるいは「三諸」の祖語である。
 
 Mālā は「環、輪」であり、また「三輪」となる。
 
 実際インドでも
 megha-mālā という山があったとの
 伝承がある。
 
 美和が megha である傍証がある。
 
 岡山県真庭郡久世町目木に
  米来神社(めきじんじゃ)が鎮座するが、
 目木、米来は megha の音写であり、
 目木地区はかって美和村(大庭郡美和郷)にあり、
 美和は目木、米来と同根である。
 
 米来神社は大己貴命を祭神としている。
 
 後に述べるが
 吉備国は磯城氏族の停着した地方で、
 同社の近くに富尾(とび)があり、
 隣りの苫田郡に富村がある。
 
 大神神社の摂社に
 奈良市本子守町に延喜式神名帳にも載る
 率川(いさかわ)坐大神御子神社が鎮座するが、
 同社の祭神には狭井大神がおり、
 同社が同じく大神神社の境内摂社
 狭井坐大神荒魂神社と
 関係することを物語っている。
 
 同摂社は大神神社の御酒信仰の社である。
 
 率川の「イサ」は
 サンスクリット語の転写とみられ、
 これは「汁、飲物、御酒」を表わすが、
 さらに「天に湛える爽快な水」である
  「雨」をも比喩的に表わす。
 つまり御酒は雨であり、
  酒(くし)の神は「雨神」であった。
 
 大正7年(1918年)
 山ノ神祭祀遺跡から
 白玉(竹玉)の入った
 素焼きの坩(つぼ)が発見された。
 
 また、
 堅臼、堅杵、匏(ひさご)、
  柄杓、箕、案という醸酒に
 関するとみられるものも発掘され、
 他の遺跡と性格を別としている。
 
 また、
 三輪山周辺からは丸い壺を上から
  少々潰したような横瓮や
 丸い提瓶が見つかっているが、
 これらは「瓺玉」と考えることができる。
 
 「櫛瓺玉」の「櫛」は「酒」ととることができ、
 これは、「酒瓶」を意味する。
 
 そして、
  これは
 天において雨を湛えている壺なのである。
 
 そのため、
  雨が壺から降るように
 瓮に穴が穿たれるようになる。
 
 それが古墳から発掘される二重口縁壺である。
 その形状は「玉」にふさわしい球形である。
 
 古いものは土師器製では
  4世紀建造の古墳にみられる。
 
 5世紀になると、
 それらは須恵器で作られその形は
  基本的に球状であるが、
 首の部分が長くされるなど、
  土師器製時代から変形している。
 
 これらは
 古墳における祭祀に使われた物品である。
 
 土師器には底に穴が開けられていたが、
 須恵器製で球状の横腹に穴が穿たれている。
 
 また壺形埴輪が作られ、
 同じく穴が必ずみられる。
 
 これらの古墳では二重口縁壺と同時に
 勾玉あるいは臼玉(竹玉)が一緒に出土し、
 
 山-神祭祀遺跡の
  「臼玉(竹玉)の入った素焼きの坩(つぼ)」は
 それらの原型であると考える。
 
 二重口縁壺は「瓺玉神」の象徴と考える。
 
 後に述べるが、
  勾玉、臼玉(竹玉)は大己貴神の象徴であり、
 大神神社を奉祭する氏族の
  古墳の特徴ということが出来る。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十二章 大国主神と大物主神:大物主神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主神と大物主神:大物主神
  
  本書において「大物主神」が
 インドラ神であることを
 最初に述べたのは
 
 第11章の
 「大江戸:塩土老翁の鎮座地」であった。
 
 大神神社の鎮座する「桜井」が
 インドラ神の尊称である
 śakra に依るものであることを示した。
 
 サンスクリット語の同語は本来の意味を
 「力のある、強い」の語義で、
 天界の最初の支配者に対する尊称である。
 
 因みに「井」は
 磐余池(いわれいけ)のことであるが、
 「磐余」は「伊波礼」と訓み、
 これもサンスクリット語の
 hvāra の転訛で
 「曲がりくねっているもの」の語義で
 蛇を表わすが、
 その動詞の 
 Hvr 、 
 hvarate は
 「曲がる、降りる」、
 「曲がって行かせる」で
 「さまよう」を意味する。
 
 磐余の地は『日本書紀』が
 神武天皇が来る以前は
 片居あるいは片立といったと述べているが、
 「片」は 
 kāta(khāta) で
 「池、井、穴」を表わす。
 
 神武天皇は
 「神倭伊波礼毘古」とその和名を称するが、
 その東征をいったもので
 「さまよう」あるいは
 「降臨」を表現したものである。
 
 Hvāra が「イワレ」となった理由は 
 havala が「阿夫利」になったり、
 hava が「阿部」になった例と同じである。
 
 「蛇」は大神神社の信仰に重要な意義がある。
 
 蛇を意味するサンスクリット語には 
 ahi があり、
 ahi-dvis 
 「蛇王、龍王」を表わす。
 Dvis は deveśa で
 「諸神の主」で「王、王侯」を表わす。
 
 この 
 deveśa が
 「大物主(だいぶつしゅ)」へと転訛したのである。
 
 同語はヒンズー教においては
 ブラーフマン、ヴィシュヌ、シヴァの
 各最高神をも含むが、
 バラモン教の初期においては
 インドラ神が最初の天界の支配的神であり、
 śakra の地名がここにあることから、
 大神神社の
 「大物主 deveśa 」は
 インドラ神をおいては外にない。
 
 しかも 
 ahi-dvis はまたインドラ神の別称であり、
 ahi は「オホ」であり、
 「太神」ないし「大神」の祖語でもある。
 
 Deveśa(dvis) の語幹deva は「神」である。
 
 三輪山の蛇に関する伝説は
 『日本書紀』
 雄略天皇7年の秋7月の伝承を初め、
 よくみられる。
 
 天皇、
 少子部連蜾蠃(ちいさこべむらじのすがる)に
 詔して曰はく、
 「朕(ちん)、
   諸岳の神の形を見むと欲(おも)ふ。
 
   或いは云わく、
   此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。
 
  (略)
 
   汝、膂力人(ちからひと)に過ぎたり。
  自ら行きて捉(とらえ)て来」とのたまふ。
 
 蜾蠃、答へて曰はく、
 「試に往りて捉へむ」とまうす。
 
 乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、
 天皇に示(み)せ奉る。
 
 天皇斎戒したまはず、
 其の雷虺虺(かみひかりひ)きて、
 目精赫赫(まなこかがや)く。
 
 天皇、畏(かしこ)みたまひて、
 目を蔽(おほ)ひて見たまはずして、
 殿中に却入(かく)れたまひぬ。
 
 岳に放たしめたまふ。
 
 仍(よ)りて改めて名を賜ひ雷とす。
 
 大物主神は「大蛇」で
 赫々と輝く眼を持つ神であった。
 
 この神はすでに
 「海を光(てら)して依り来る神」であったが、
 ここに雷神であることが記されている。
 
 インドラ神が大杉神社や雷電神社に
 稲妻、雷光神として祀られていることは
 既に述べた。
 
 『日本書紀』の
 崇神天皇の9年9月の条には、
 倭迹迹日百襲姫命
 (やまとととひももそひめのみこと)が
 大物主神の妻となったが、
 その神がいつも昼には現れないで、
 夜にやって来たので、
 策をもって試みたところ、
 夫は蛇であったことを知り、
 その策を後悔して陰部に
 箸を撞きたて死んでしまうという
 物語を載せている。
 
 蛇が大神神社の信仰に大事であることは、
 同社の拝殿の右手に「巳(み)の神杉」の垣が
 置かれていることでもよく解かる。
 
 「巳」は蛇の意味である。
 
 「杉」はその神木であるが、
 京都市伏見区の稲荷山の
 「大杉、傘杉」や「大杉神社・稲敷」で
 みたように雷光を象徴し、
 サンスクリット語の 
 śuci を祖語とする用語である。
 
 大杉神社の祭神大国主命を
 同社は「大己貴神」と表記するが、
 この「己貴」は「巳貴」であったとも考えられる。
 
 「巳貴」は「シキ」で「志貴」となり、
 「磯城」でもあると推測される。
 
 「己貴」とされるのは
 「つちのと」を主旨としたものである。
 
 「巳」は十二支の第六位であり、
 双方は同義であろう。
 
 このように大物主神とは
 蛇王神 (ahi-dvis) であり、
 雷神である。
 
M.K記
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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神と大物主神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主神と大物主神:大国主神と大物主神
  
  鎌倉時代嘉禄2年(1226年)の大神神社の社伝
 「大三輪鎮座次第」に次のようにある。
 
  当社古来宝庫無く、唯三箇鳥居有るのみ。
  奥津磐座大物主神、
  中津磐座大己貴命、
  辺津磐座少名彦
 
 大神神社は、
 現在の奈良県桜井市三輪に鎮座し、
 三輪山を神体山とするという古社である。
 
 現在の祭神は、
 大物主神が主神で、
 大己貴神と少名彦を配祀している。
 
 同社は『延喜式神名帳』の城上郡に
 「大神大物主神社名神大」と記載されている。
 祭神の大己貴神は大国主神をいう。
 
 この三祭神の関係を
 『古事記』は次のように物語る。
 
 大国主神、
 出雲の御大(みほ)の御崎(みさき)に坐す時、
 波の穂より天の羅摩船(あめのかがみぶね)に
 乗りて、
 鵝の皮を内剝(うちは)ぎて衣服に為(し)て、
 帰り来る神有るりき。
 
 爾に其の名を問わせども答えず、
 且所徒(みとも)の諸神に問はせども
 皆「知らず」と曰(もう)しき。
  (…略)
 久延毘古(くえびこ)を召して問わす時に、
 
 「此は神産巣日神の御子少名毘古那神ぞ。」
 
 と答へ曰しき。
 
 「此は実に我が子で、
  子の中に我手俣より久岐斯子ぞ。
  故、汝葦原色許男と兄弟となりて、
   其の国を作り固めよ。」
 
 とのりたまひき。
 
 是に大国主命神、愁ひて告りたまひしく、
 
 「吾独(ひと)りして何に能(よ)く此の国を
  得作らむ。
  執(いず)れの神と吾と、
   能く此の国を得作らむや。」
 
 とのりたまひき。
 
 是の時に海を光(てら)して依り来る神ありき。
 
 其の神の言(の)りたまひしく、
 
 「能く我が前を治めば、
   吾能く共與(とも)に相作り成さむ。
  若し然らば国成り難けむ。」
 
 とのりたまひき。
 
 爾に大国主神曰ししく、
 
 「然らば治め奉る杖は奈何(いかにぞ。)」 
 
 とまをしたまえば、
 
 「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」
 
 と答へ言りたまひき。
 
 此は御諸山の上に坐す神なり。
 
 『古事記』は、
 この「海を光して依り来る神」の尊名を
 語っていない。
 
 ここで解かるのは
 「御諸の山の上に坐す神」
 ということだけである。
 
 故、
 爾れより大穴牟遅と少名毘古那と二柱の神
 相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。
 
 然て後に其の少名毘古那神は
 常世国の度(わた)りましき。
 
 少名毘古那神は少彦名神、
 大穴牟遅命は大国主神である。
 
 ここに明らかにみえるのは、
 大国主神が先住土着の神であるのに対して、
 少彦名神が外来神であることである。
 
 少彦名神が大国主神の言葉を解せず、
 「女の名を問はせても答えず」とあり、
 諸神も皆「知らず」と答えた理由である。
 
 二神は「相並ばして」建国の業をなしたが、
 その後、少彦名神は常世国、
 つまり外国へまた渡って行ってしまったという。
 
 この状況について
 『日本書紀』は次のように語る。
 
  時に神(あや)しき光海に照らして、
  勿然(たちまち)に浮かび来る者あり。
 
  「如(も)し吾在らずは、
   汝何ぞ能く此の国を平(む)けましや。」
 
  是の時に、大己貴神問ひて曰はく。
 
  「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。
 
  対(こた)へて曰はく、
 
  「吾は是が幸魂奇魂(さきたまくしたま)なり」
 
  といふ。
 
  大己貴の曰はく
 
  「唯然(いひ)なり。
   廼(すなわ)ち知りぬ。
   汝は是吾が幸魂奇魂なり。
   今何処にか住まむと欲(おも)ふ」
 
  とのたまふ。
 
  対(こた)へて曰はく、
 
  「吾は日本(やまと)国の三諸山に住むと欲ふ」
 
  といふ。
 
  故、即ち宮を彼処に営(つく)りて、
  就(つ)きて居しまさし。
 
  此大三輪ノ神なり。
 
 ここでも
 
 「神しき光海に照らして忽然に浮かび来る者」
 
 を大己貴神の幸魂奇魂として、
 三輪山に住む大三輪神として
 その尊名を明さない。
 
 しかし、
 その一書は次のように記して、
 大物主神の名称を記載する。
 
 大国主神、
  亦の名は大物主神、
  亦は国作大己貴命と号す。
  亦は葦原醜男と号す。
  亦は八千戈神と曰す。
  亦は大国主神と曰す。
  亦は顕国玉神と曰す。
 
 『古事記』は
 
  「大国主命、
   亦の名は大穴牟遅神、
   亦の名は葦原色許男命と謂ひ、
   亦の名は八千矛神と謂ひ、
   亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、
   併せて五っの名あり」
 
   として
  大物主神の名は含ませていなない。
 
  出雲国造神賀詞は「大物主」の名称を
  次のように述べる。
 
     乃ち大穴持命の申給く、
    皇御孫の命の静り坐(まさ)む
    大倭国と申して、
    己(おのれ)命の和魂(にぎたま)を
    八咫鏡(やたのかがみ)に取り託て、
    倭大物主櫛甕玉命と名を称して、
    大御和の神奈備に坐す。
 
 ここに「御諸山の上に坐す神」が
 大物主神(倭大物主櫛甕玉命)であることが
 明らかになる。
 
 『古事記』に同神名が登場するのは
 
 神武天皇の皇后選びの段に
 「美和の大物主神」が
 天皇の皇妃富登多多良伊須岐比売命の
 父として現れ、
 崇神天皇条で疫病が流行り人民が疲弊した時、
 悩む天皇の神牀(とこ)にいた夜に夢の中に
 大物主神が現れ、意富多多泥古を探して、
 「御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭らす」
 ことを伝える。
 
 『古事記』は
 意富多多泥古は大物主大神五世の孫という。
 
 『日本書紀』は
 大物主神を大己貴神の幸魂奇魂として、
 出雲国造神賀詞も大穴持命の和魂として、
 まるで両神が同じ神であるかのように
 表現しているが、
 
 『記・紀』が
 海の彼方から光り照らしながら近づいたと
 説明する状況からすると、
 この神も少彦名神同様外国から来た神である。
 
 本居宣長は「古事記伝」巻二十で
 
 「御此大物主と申す御名は、
  美和に鎮り坐す御魂の御名にして
  大穴牟遅命の一にあらず、
  倭大物主とあるにてもしるべし」
 
 と述べ、
 大国主神と大物主神とが
 別の神格であることを見抜いている。
 
 『古事記』は
 大国主神を須佐之男命の六世の後裔とするが、
 大穴牟遅神の
 「根の堅州国に参向ふべし」の物語の中では、
 須佐之男命と八上毘売との間の女(むすめ)
 須勢理毘売の婿としている。
 
 大神(須佐能男神)が大穴牟遅神を呼んでいう。
 
 「我が女須勢理毘売を嫡妻と為て」
 「大国主神となり、亦宇都志国玉神となる~」
 と語りかけている。
 
 同神に多くの別称があるが、
 『記・紀』の編纂の途上
 近似した神名を結びつけるなどの
 造作があった可能性がある。
 
 つまり、
 確かに
  「神武東征」に際し国譲りは史実として、
 それに近い事件があったと考えられるが、
 その時代の大国主命は、
 「須佐之男命の後裔」であったけれど、
 大和国の御諸山に祀られた「大国主命」とは
 全く違う神名であったということである。
 
 とはいうものの
 大和・出雲地方の政治的関係を
 否定するものではないことは
 「意宇」「生尾人」の考察で説いてある。


 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(8)剣を地名とする里 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(8)剣を地名とする里
  
  出雲郷の東隣の揖屋町は「生尾」と通じ、
 意宇が大国主命を奉祭した
 富氏の勢力範囲であったことを示す。
 
 富氏の奉祭する出雲井神社は
 現在出雲大社の地に出雲国造の創設後に
 移されたことはよく知られるところである。
 
 島根県簸川郡簸川町に
  現在富村(とびむら)があるが、
 その地は斐伊川の湾曲した位置にあり、
 川(水)に巻かれる地形にあるが、
 古くは斐伊川と宍道湖の間にあった。
 
 その西北側に出雲国風土記にもある
  鳥屋神社が鎮座する鳥井地区がある。
 
 これは dvi-ja の転訛で、
 桜井市の外れ、
  磯城島とその様子がよく似ている。 
 
 以上のような考察から、
 大彦命の系譜では
 稲荷山古墳の鉄剣に現れる
 「多」は、神八井耳命を祖とする
  「意富臣」系列とは全く違う。
 
 大和盆地にいた最も古い(太初)氏族
  「生尾人」の系列にあるものと
 知ることができるのである。
 
 因みに
  出雲風土記「出雲郡」の最後に記述されている
 役職者名の中に「少領外従八位下太臣」とある。
 
 埼玉県埼玉郡の西側の郡名大里郡は
 「多氏(生尾人)の里」とよいことが判った。
 
 大里郡大里村高本に高城神社、
 熊谷市宮町にも高城神社が鎮座する。
 
 この「高城」はサンスクリット語の 
 tarkuati の語幹 
  tark- を転訛させた神社名である。
 
 前者の近くには市田の地名があり、
 これも「智度」である citta である。
 
 また後者の神社は近郊に千形神社があり、
 千形(近津)は 
 cikiṭṣa で「知識ある者」の意で 
  tark- に相当する。
 
 熊谷市の西隣り深谷市西島及び宿根の
  滝宮神社はこの系列に入る。
 
 大里郡内の寄居町保田原の
  「波羅伊門神社」と同町西ノ入の
 「波羅伊門神社」は双方とも
 
 brahman (神聖な知識を得た者)の転訛で、
 一般に
  バラモンといわれる
 祭官を表わす用語である。
 
 また、
  同町内赤浜にある
 出雲乃伊波比神社は
 入間郡毛呂山町岩井の同名社の
 天穂日命に因む神社名で
  「伊波比」は「剣、刀」を表わす用語であり、
 神名の「穂」が「矛」であることを覗わせる。
 
 毛呂山町の出雲伊波比神社のある
 岩井は「伊波比」の転写であるが、
 同町の北側比企郡鳩山町の東端にある
 石坂、東松山市の岩殿は
 この伊波比が基礎になっていると見られる。
 
 両地区の間にある物見山は
 「物:布都・経津」に係わる剣が介在する。
 
 この地区の南側は坂戸市であるが、
 そこの石井は「岩井」であり、
 「坂戸」は埼玉 
 śakti-mat の śakti の音写、
 鹿島神宮の摂社坂戸社とおなじである。
 
 このように
 北武蔵には「剣」を地名とする
 里郷が散在しているのである。
 
 茨城県岩井市の
 「イワイ」も「伊波比」と同根である。
 
 ここは
 平将門の本拠地であったところである。
 
 岩井地区内に
 藤田神社(小字藤田)があるが、
 藤田は市内の冨田、辺田地区名と通じ
 「布都:剣」を表わす。
 
 藤田の東側の幸田(こうだ)は
 「サキタ」で śakti (剣)に依る。
 
 この幸田の東隣りが水海道市の大生郷で
 「尾生」あるいは「生尾人」に通じる。
 
 その大生郷の北側は結城郡石下町で、
 町内に阿部神社(豊田)が鎮座する。
 
 石下は「伊波我」とも読め、
 祖語が「剣」であったと考えられる。
 
 この地域からは少々離れているが、
 同県の栃木県境にある
 笠間市には
 石井(いしい)神社(石井)が鎮座するが、
 この名称は「イワイ」が古名であった。
 
 石井の南隣りは
 来栖で栗栖と同じ「剣」で、
 その東方の佐志能神社、
 大渕の佐城(佐白)、才木の祖語も
 śas-ti śakti である「剣」で、
 「イワイ」であったことを補足する。
 
 石井の近郊に大郷戸(おおごと)がある。
 
 大郷は大生郷と同義と考える。
 
 笠間市内には常陸風土記に載る
 「大神駅」があって
 三輪山を進行する人々がいたことを示す。
 
 同市の西方の真壁郡には
 大和村がある。
 
 村内には高久神社がある高久、
 大国玉神社のある大国玉、
 そして阿部田の地区名があり、
 阿部氏族の存在を覗わせる。
 
 大国玉神社は
 『延喜式神名帳』に
 真壁郡一座として同名で載り、
 大国主命を祭神する。
 
 鹿島郡鉾田町の「鉾」は矛で
 「二つの刃のある剣」である。
 
 町内には坂戸、鳥栖地区に
 黒栖神社が鎮座するが、
 黒栖は栗栖と同様で、
 この町名が
 「剣」に由来する状況が知られる。



 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多」② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多
  
 神武東征軍を
 吉野山中で助けた八咫烏は音読すると
 ya-da-wu となるが、
 ここでは追求しない。
 
 「生尾人」は三輪山の大神神社の祭神
 大己貴神と直結していることを
 述べるに留めておきたい。
 
 粟原は
 サンスクリット語の 
 āhāra の転写であり、
 その意義は「食物、糧、饌」を表わす。
 
 āhāra は
 第8章の「インドの祝祭」で触れたが、
 「阿閉」とも音写」されている。
 
 阿閉氏は大彦命の子、
 武淳川別命(建沼河別命)の子
 豊韓別命に興る氏族名とされ、
 
 大彦命の系譜には
 膳臣、高橋氏族名など、
 「食饌」に係わる職掌にある氏族名が多い。
 
 これは
 崇神天皇以降の職制と考えられて
 天皇に対する奉仕とみられているが、
 実際は
 一定の神に対する奉祭であったと考える。
 
 というのも、
 それら氏族の根幹をなす阿部氏名は
 サンスクリット語の 
 hava に由来していると考えるからである。
 
 その語義は「呼び掛け」であるが、
 「献供、祭式」を表わす。
 
 本書の第1章
 祝祭「祝(ハフリ)」で紹介した 
 havala (哈波藍)の hava であり、
 ハフリが阿夫利となった例を
 第11章の
 「ドゥルガー・プジャーの里」 で紹介したが、
 hava は「阿夫」であり、「阿部」である。
 
 阿部氏は単に武人だけでなく、
 神を奉祭する「祝」の職能を
 備えていたのである。
 
 高屋安部神社の「高屋・高田」の 
 tarkyati(te) <思度・思想>が
 阿部氏の奉祭する神社に
 冠されている理由がここにある。
 
 インドのバラモン教の原語である
 brahman は「神聖な言葉」で、
 その祭官は「聖智に満ちた者」、
 つまり神聖な知識を持つ者は
 祭官である祝(ハフリ)である。
 
 そのような阿部氏の祖が大彦命であり、
 その遠祖が登美毘古であり、
 その名は神武東征時大和盆地に
 覇権を持っていた王者で、
 彼等の総称が生尾人である。
 
 「オホ」であったと考える。
 
 登美毘古が、
 阿部氏の本拠地に居たことは
 谷地区の東方桜井を隔てて
 外山(とび)があることにより推測できる。
 
 外山と表記して単に「トビ」と呼ぶ。
 これを「トビヤマ」と読むと、
 登美毘古の妹登美夜毘売の名称となる。
 
 「トビヤ」は
 サンスクリット語の 
 dvi-ja で「鳥」を意味する。
 現在そこに鳥見山があることに係わる。
 
 Dvi-ja の本義は「二度-生れる」で、
 親鳥から生れた卵から
 再度生れる理由から鳥をいうものである。
 
 この dvi
 (二、英語のtwo、ドイツ語のzwei)を
 語幹とした用語に dvipa がある。
 
 これまで 
 jambu-dvipa (閻浮提)の構成用語として
 紹介したものだが、
 本義は dvi-apa で「二つの川」の間で
 「洲」を意味する「島」を表わす。
 
 桜井市はかっての磯城郡のうちで、
 外山の北半分は「磯城島」のうちにある。
 
 この「島」こそ dvipa(dvi-apa) である。
 
 三輪山の麓を流れる
 大和川と粟原川の
 二つ(dvi)の川(水:apa)の
 間の地の意味であり、
 「トビ」で
 登美毘古の本拠地と考えられる。
 
 外山と阿倍の近さから
 安部氏族は
 この登美毘古あるいは
 登美夜毘売の勢力を
 継承した勢力と判断してよいと思う。
 
 三輪山の東側にある「出雲」が示すように
 三輪山の大己貴命(大国主命)の信仰には
 現在の島根県の
 出雲族とも深い係わりがある。
 
 杵築大社(出雲大社)の
 古い奉祭氏族である
 富(とび)氏は
 登美毘古の「トビ」と同声であるが、
 その関係は史料ではよく解らない。
 
 しかし、
 現在の松江市、八雲村、東出雲町の辺りは
 かっての意宇郡であり、
 意宇は「於保」と訓まれ、
 その祖を桜井市の「生尾人」と
 同じくするものとみられる。
 
 東出雲町の出雲郷は
 現在でも「アダカエ」と呼ばれている。
 
 域内に阿太加夜神社が鎮座し、
 地名呼称はその神名に依るものではあるが、
 意宇に居住した種族が
 アダカエ、
 サンスクリット語の
 ādi-gaya(太初の種族)と
 解釈できるからである。
 
 同社の祭神は出雲国風土記に載る
 
 「阿陀加夜努志多伎古毘売命」で、
 
 簸川郡多伎町の多伎神社(多伎)、
 多伎芸神社(口田儀)に祀られている。
 
 阿陀加夜努志は
 「太初種族の主」で、
 出雲神話を考えれば
 「大国主命」を謂っていると考えられる。
 
 多伎(多岐)は解説を除くが、
 「生尾人」であり、
 
 芸とは邇邇芸命の「芸」と同じく
 古くは勾玉であったが
 後には竹玉(たかたま)と
 変化した祭儀のための供献物を表わす。
 
 
M.K記
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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多」➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多」
  
  稲荷山鉄剣に刻まれた
  上祖名意富比垝の「意富」や
 第2代以下にある「多」名は、
 乎獲居の系譜が「多」と
 称されていると推測させた。
 
 だが、
 前記でみたように大彦命の系列には、
 その父方である孝元天皇が
 神八井耳命を祖とする
 『古事記』のいう「意富臣」と
 関係することはあるが、
 といってその「多氏」とは
 全く結びつく要素がない。
 
 しかし、
 高屋安倍神社の祭神
 屋主彦太男心命の「太男」にもあるように、
 阿部氏が「太」を持っていることは明らかで、
 大彦命の「大」は
 その「太」を象徴していると考えられる。
 
 そこで注目されるのが、
 その遠祖
 登美夜毘売命、
 登美毘古命である。
 
 両名は『古事記』の記載名で、
 登美毘古は『日本書紀』では
 長髄彦と称される。
 
 彼は神武東征において激しく反抗し、
 この強大な勢力を現在の大和盆地に
 保持していたことが知られる。
 
 神武天皇の遠征軍が
 
  「浪速の渡を経て、
   青空の白肩津に泊(は)てたたまひき。
   此の時、登美那賀須泥毘古、
     軍を興して待ち向へて戦ひき」
 
 とある。
 
 那賀須泥毘古は
 『日本書紀』の長髄彦であるが、
 その名前は
 第8章インドの文化と
 祝祭「アヴァンティの種族」で
 紹介した古代アヴァンティ国の氏族
 ハイハヤ族の一部族
 tālajangha の名称に係わる。
 
 その語義は
 「クーラ樹のような脚を持つ」、
 つまり「脚が長い」であり、「長髄」である。
 
 桜井市の西北の東磯城郡田原本町の
 「田原本」の祖語であると考えられる。
 
 白肩津(日下の蓼津(たてつ))で敗れた
 神武天皇は紀州に下り、
 紀伊半島の南方から上陸し吉野方面から
 再度大和盆地へと進攻してくるが、
 その際の防衛軍の人々の名称は
 「生尾人」で、
 『古事記』に3回登場する。
 
 日本古典文学大系はこれを
 「尾生(おあ)る人」と読み下している。
 
 第一は
 
  「尾生る人、井より出て来りき。
   其の井に光有りき。
   爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、
   『僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ』
   と 答え曰しき。
    此れは吉野首等の祖なり」
 
 とあり、
 
 第二はそれに続いて
 
   「即ち其の山に入りたまへば、
   赤尾生る人に過ひたまひき。
   爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、
   『僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ(略)』
    と答え曰しき。
   此れは吉野国栄の祖なり」
 
 とある。
 
 第三は
 
 「忍坂の大室に到りたまひし時、
  尾生る土雲、
   八十建、其の室に在りて待ち伊那流」
 
 とある。
 
 第一の「吉野首」の吉野は
  いうまでもなく吉野郡のうちであり、
 
 第二の国栄は吉野町国栖にその名称を遺し、
 
 第三の忍坂は桜井市忍坂である。
 
 「生尾人」は、
 「オオ」または「オホ」と訓むことは可能で、
 この地域に「生尾人」が
 広く居住していたことを
 『古事記』は物語っている。
 
 『日本書紀』は
 これを「有尾」(尾有り)とする。
 
 忍坂の東側は粟原であるが、
 同地区名は現在「オオハラ」と呼ばれる。
 
 それは「粟殿(おおとの)」も同様である。
 
 「尾生(おあ)る人」は
 
 シュメル文明の伝説の
 オアネスを思い出させる形容であり、
 それがインドへ入って
 yadava (水棲動物)族の 
 avan-ti アヴァンティ となったことは
 第7章で述べた。






 
M.K記
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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(6)大彦命の系譜 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]









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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  稲荷山古墳」出土の鉄剣に刻銘された
 上祖意富比垝は、
 『古事記』の「大毘古命」、
 『日本書紀』の「大彦命」と
 理解されている。
 
 だが、
 第2代の「多加利足尼」以下の名は
 『記・紀』の系譜にみえない。
 
 『古事記』「孝元天皇」条に
  「大毘古命の子、
   建沼河別命は阿部臣等の祖、
   次に比古伊那許士別命」、
 
 また同「崇神天皇」条に
 
  「大毘古命の女御真津比売命を娶って、
    生みませる御子、
  伊玖米入日古伊佐知命」
 
 とある。
 
 『新撰姓氏録』には
 
  「背立大稱腰命、波多武日子命、紐結命、
    得彦宿禰」
 
 ともあるが、
 鉄剣の第2代の名はここにもない。
 
 だが、
 これらの中に「杖刀人」の名に当たる
 尊名がないかというと、
 
 『古事記』の比古伊那許士別命、
 『新撰姓氏録』の背立大稱腰命の系図に
 その痕跡をみることができる。
 
 その、「背立」は前玉、忍立、足立と同義で、
 「剣持、杖立」を表わす。
 
 「背立」はサンスクリット語の 
 śastra の転訛で「剣、杖」を意味する。
 
 Śas は動詞形で日本語の「刺(さ)す」である。
 
 奈良県桜井市谷に鎮座する
 若桜神社の境内にある
 高屋安部神社は延喜式神名帳の城上郡に
 「高屋安部神社三座並名神大」と載る神社で、
 かっては阿部の松本山にあったものを
 近年現在地に遷したという。
 現在の祭神は
 
  屋主彦太男心命、
  大彦命、
  彦屋主思命
 
 を祀っている。
 
 明治24年に出された
 「神社明細帳」にその祭神を
 
  屋主彦太男心命、
  大彦命、
  彦屋主田心命
 
 とある。
 
 このことにより同社が大彦命を祀り、
 その系譜に連なる神社であることが解かる。
 
 「安倍」は「阿部」で、
 『古事記』に
 「建沼河別命は阿部臣等の祖」と
 あるように
 この神社が
 阿部氏にの奉祭する神社と判明する。
 
 祭神名は
 「屋主彦太男心命」「彦屋主思命」の
 「屋主」は
 サンスクリット語の「杖、棒」を意味する
 yaṣti の転写である。
 
 「神社明細帳」の「屋主田」は
 より近い音写である。
 
 彦屋主田心命名は
 
 『新撰姓氏録』に
 背立大稲腰命の子の名として
 載り、「杖刀人」名の系列である。
 
 同神社の鎮座地名「谷」は「ヤツ」で同じく 
 yaṣti を祖語とする。
 
 この
 彦屋主田心命、彦屋主思命と表記された
 「田心」「思」の混乱は、
 その神社名にある「高屋」に原因がある。
 
 高屋は谷の南方にの地名「高家」と同音で、
 そこにある
 高田神社の名を地名とする「高田」が
 阿部に接して谷と高家との間にある。
 
 高家(屋)、高田名は
 サンスクリット語の 
 tarkyati(te) を祖語とする。
 
 高家は tarkya- 、
 高田は tark-ti(te) の音写である。
 
 語義は「想像する、~を思う」で、
 漢訳は「思度」とされ「思」を表わし、
 祭神名の「心、思」に該当するのである。
 
 tark- は
 ドイツ語の denken 、
 英語の think に当たる。
 
 この思念の意味は
 阿部地区にある
 仏教寺院文殊院の名にも反映されている。
 
 サンスクリット語の単語が
 二つの地名に分化している例は
 śakthimat が「佐古田・持田」、
 samkrama が「寒川-倉見」と
 なっていることなどを紹介した。
 
 この「思」は citta 、
 本書の「はじめに」で紹介した。
 
 「大智度論」の智度(思考、思想、智恵) 
 と同義で、
 高田の東側の地名「下」の祖語である。
 
 このことにより、
 祭神名「屋主思」「屋主田心」問題は
 「屋主田心」が有利のようだ。
 
 「心」は「太男心」の表記にも合う。
 
 以上は大彦命の子孫についてであるが、
 その祖先についてみると、
 
 『古事記』に
 その父は
 孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)で、
 その母は
 
 「此の天皇、穂積臣等の祖、
  肉色許男命の妹、肉色許売」
 
 とある。
 
 肉色許男命、肉色許売の兄弟の5代の祖は
 
 『古事記』の邇芸速日命(紀・饒速日尊)である。
 
 「邇芸速日命、登美毘古が
   妹、登美夜毘売を娶して生める子、
  宇摩志麻遅命、此は物部連、穂積臣、媛臣の
   祖なり」
 
 とある。
 
 『日本書紀』には
 
 宇摩志麻遅命は可美真手命と表記され、
 その後を彦湯女命、出口心春命、大矢口宿禰、
 そして肉色許男命とする。
 
 物部氏は
  石上神宮を奉祭する氏族として知られる。
 
 その祭神に布都御魂神があるが、
 物部の「物」は「ブツ」で「布都」に通じ、
 香取神宮の経津主神の「経津」と同じく
 「剣、刀」を表わし、
 物部氏が剣を祀る氏族で、
 大彦命の母系に成人がいることが解る。
 
 香取神宮の経津主神の別称が
 「伊波比主神」であり、
 これはサンスクリット語の 
 āvarha の転訛で
 「引き裂くこと、切去ること」を
 意味し「剣神」を表わす。
 
 āvarha が「乎獲居」の
 祖語であろうことを述べた。
 
 この二語と同根語の神名が
 「伊波我加利命」で、
 高屋安倍神社のある
 「若桜神社」の祭神名である。
 
 同神は磐鹿六雁命ととも称され、
 背立大稲腰命の第一子で
 彦屋主田心命の兄に当たる。
 
 同神名は āvarha-kara で
 「剣を持っ者」の語義となる。
 
 若桜神社は
 『延喜式神名帳』にも記載されている。
 
 このように大彦命の系譜が
 「剣、刀」に係わることは明白で、
 稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた
 杖刀人の概念に包まれている。
 
 
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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  ⑥半弖比
 
 第6代の名は「ハテヒ」と訓めるが、
 「ナカのダイ」との理解もできる。
 
 と云うのも、
 その祖語を 
 patayah (飛ばす、飛翔させる)
 あるいは 
 pataga (太陽、鳥)に
 求められるからである。
 
 太陽の意味に使われたならば
 日神崇拝の同類語である。
 
 「ハテヒ」の一族が拠点を構えた所が
 鳩ヶ谷市辺りと考えられる。
 
 同地は和名類聚抄の
 「足立郡発度(はっと)郷」に比定され、
 鎌倉時代には「鳩井」であった。
 
 建長8(1256)年の史料には
 鳩井兵衛尉の名がある。
 
 地名には
 空を飛ぶ鳩名があることからも、
 その原義が 
 patayati に係わっていたことを窺わせ、
 半弖比の一族の居住地か開拓地とみられる。
 
 ⑦加差披余
 
 第7代の名は「カサハラ」と訓む。
 
 「余」字は
 奈良県桜井市の
 磐余(いわれ)の例があるように
 「ラ、レ、ロ」訓める。
 
 この用字は
 漢語における「尓(爾」)を誤って「余」と
 日本では記述したものとみられる。
 
 現在の黒龍江省の
 哈尓濱(はるぴん)や
 斎斎哈尓(ちちはる)などにも
 使われている。
 
 「カサハラ」は「笠原」で
 現在鴻巣市と
 比企郡小川町のその地名がある。
 
 笠原名は
 安閑天皇の時代(6世紀半頃)
 武蔵国造の地位を
 その同族の小杵と争った
 笠原使主の名称として
 登場する古い名称である。
 
 『日本書紀』安閑天皇元年の条に
 
  「武蔵国造笠原直使主と
   同族の小杵と国造を相争ふ」とある。
 
 笠原使主が
 加差披余の後裔であったかどうかは
 ここでは論じない。
 
 ⑧乎獲居臣
 
 第8代の「乎別臣」も「乎」字については
 助詞「を」として使われることが多いが、
 また感嘆する時の声「あ」に使われ、
 ā の音写とみられるので、
 乎獲居は「引裂くこと」。
 
 以上のように上祖より8代の名前について
 埼玉神社周辺の地名資料などから
 推論してみたが、
 このなかで
 鉄剣を錬らせた氏族が「多」氏に
 深い係わりがあったとの判断が誕れてきた。
 
 大毘古命は阿部氏の祖とされるが、
 同命が「多」氏と同祖であるかが
 追求されなければならないだろう。
 
 埼玉郡に接する、
 和名類聚抄にも載る
 大里郡は
 「多氏の里」の語義と考えてよいのだろうか。
 
 「サキタマ」は『日本書紀』の
 敏達天皇の宮殿名としても現れる。
 
 訳語田の「幸玉宮」がそれで、
 『古事記』では「他田宮」としている。
 
 同天皇の和名を沼名倉太玉敷命という。
 
 他田舎人は信濃国造の後裔で
 神八井耳命を祖とし
 意富臣と近い関係にある。
 
 「ヌナクラ」は
 大毘古命の子「建沼河別命」や
 第2代綏靖天皇となった
 神八井耳命の弟神沼河耳命、
 また天孫として降臨した
 『古事記』邇邇芸命も
 『日本書紀』瓊瓊杵尊
 とあるように、
 「玉」で宝石(瓊)を名とする系譜に連なる。
 
 その
 「多氏」に関係する
 敏達天皇の宮殿の名称が
 「サキタマ」である事情から
 意富比垝を祖とする乎獲居の一統を
 「多氏」の一統でもあるとも解釈できる。
 
 果たして「多」は神八井耳命を祖とする
 「多氏」であろうか。
 
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