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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多」➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(7)阿部氏の「多」
  
  稲荷山鉄剣に刻まれた
  上祖名意富比垝の「意富」や
 第2代以下にある「多」名は、
 乎獲居の系譜が「多」と
 称されていると推測させた。
 
 だが、
 前記でみたように大彦命の系列には、
 その父方である孝元天皇が
 神八井耳命を祖とする
 『古事記』のいう「意富臣」と
 関係することはあるが、
 といってその「多氏」とは
 全く結びつく要素がない。
 
 しかし、
 高屋安倍神社の祭神
 屋主彦太男心命の「太男」にもあるように、
 阿部氏が「太」を持っていることは明らかで、
 大彦命の「大」は
 その「太」を象徴していると考えられる。
 
 そこで注目されるのが、
 その遠祖
 登美夜毘売命、
 登美毘古命である。
 
 両名は『古事記』の記載名で、
 登美毘古は『日本書紀』では
 長髄彦と称される。
 
 彼は神武東征において激しく反抗し、
 この強大な勢力を現在の大和盆地に
 保持していたことが知られる。
 
 神武天皇の遠征軍が
 
  「浪速の渡を経て、
   青空の白肩津に泊(は)てたたまひき。
   此の時、登美那賀須泥毘古、
     軍を興して待ち向へて戦ひき」
 
 とある。
 
 那賀須泥毘古は
 『日本書紀』の長髄彦であるが、
 その名前は
 第8章インドの文化と
 祝祭「アヴァンティの種族」で
 紹介した古代アヴァンティ国の氏族
 ハイハヤ族の一部族
 tālajangha の名称に係わる。
 
 その語義は
 「クーラ樹のような脚を持つ」、
 つまり「脚が長い」であり、「長髄」である。
 
 桜井市の西北の東磯城郡田原本町の
 「田原本」の祖語であると考えられる。
 
 白肩津(日下の蓼津(たてつ))で敗れた
 神武天皇は紀州に下り、
 紀伊半島の南方から上陸し吉野方面から
 再度大和盆地へと進攻してくるが、
 その際の防衛軍の人々の名称は
 「生尾人」で、
 『古事記』に3回登場する。
 
 日本古典文学大系はこれを
 「尾生(おあ)る人」と読み下している。
 
 第一は
 
  「尾生る人、井より出て来りき。
   其の井に光有りき。
   爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、
   『僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ』
   と 答え曰しき。
    此れは吉野首等の祖なり」
 
 とあり、
 
 第二はそれに続いて
 
   「即ち其の山に入りたまへば、
   赤尾生る人に過ひたまひき。
   爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、
   『僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ(略)』
    と答え曰しき。
   此れは吉野国栄の祖なり」
 
 とある。
 
 第三は
 
 「忍坂の大室に到りたまひし時、
  尾生る土雲、
   八十建、其の室に在りて待ち伊那流」
 
 とある。
 
 第一の「吉野首」の吉野は
  いうまでもなく吉野郡のうちであり、
 
 第二の国栄は吉野町国栖にその名称を遺し、
 
 第三の忍坂は桜井市忍坂である。
 
 「生尾人」は、
 「オオ」または「オホ」と訓むことは可能で、
 この地域に「生尾人」が
 広く居住していたことを
 『古事記』は物語っている。
 
 『日本書紀』は
 これを「有尾」(尾有り)とする。
 
 忍坂の東側は粟原であるが、
 同地区名は現在「オオハラ」と呼ばれる。
 
 それは「粟殿(おおとの)」も同様である。
 
 「尾生(おあ)る人」は
 
 シュメル文明の伝説の
 オアネスを思い出させる形容であり、
 それがインドへ入って
 yadava (水棲動物)族の 
 avan-ti アヴァンティ となったことは
 第7章で述べた。






 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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