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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
  
 大物主神の神妃となった勢夜陀多良比売は
 巫女であったことは確かである。
 
 その世代より下った崇神天皇の時にも
 
 大物主神の神妃、
 孝霊天皇の御子倭迹迹日百襲姫
 (『古事記』夜麻登登母母曾毘売命)は
 
 神懸かりて崇神天皇に
 大田田根子に三輪山を祭らせることを伝えた。
 
 「神懸り」は巫女の役柄である。
 
 つまり
 その祭祀者は娘を巫女として捧げたのである。
 
 よって勢夜陀多良比売の親である
 
 『古事記』に載る
 「三嶋湟咋」は大物主神の奉祭氏族である。
 
 ただ、
 これだけではその氏族の実像がみえてこない。
 
 三嶋は御諸を三諸というように本来は
 「御嶋」であったとも考えれば、
 この「嶋」は磯城島の「島」である。
 
 三輪山の南側の
 外山(とび)の住者とみることができる。
 
 ここには数多くの二重口縁壺を
 埋祀してあった茶臼山古墳がある。
 
 日本古典文学大系は
 「湟咋」を「溝咋」と訳すが、
 「湟」は「堀、城池」である。
 
 堀も溝も「穴」のことで、
 大物主神を奉祭するのに
 瓺玉である二重口縁壺に
 穴を穿って役柄が「湟咋」と考えられる。
 
 三輪山周辺が
 「生尾人」の地であったことは既に述べた。
 
 桜井地区と谷地区との間には
 古代の王族を表わす
 「高市」と同声の「河西」がある。
 
 「コウシ」ないし「コウチ」が
 王族あるいは支配者であることは、
 ここに重なって
 「能登」の地名があることで解かる。
 
 「ノト」は千葉県野田市でみたように 
 nāda の転訛で「支配者」の語義である。
 
 そして、
 その王族とは「生尾人」である
 阿部氏族とすることができる。
 
 阿部氏の性格は祝である。
 
 阿部氏は
 大神神社の祭祀者であったと考えられ、
 彼等はまた登美族であった。
 
 『日本書紀』は事代主神が
 三嶋溝橛耳神の女の玉櫛媛を娶って
 生まれた子が媛蹈鞴五十鈴媛と述べる。
 
 『古事記』が大物主神とするのに対し
 『日本書紀』が事代主神としているが、
 その事情については後述する。
 
 ここで考察するのは、
 三嶋溝橛(三嶋湟咋)であるが、
 この追求は
 登美族の実祖像を知ることとなる。
 
 彼の本拠地は河内国讃良(ささら)郡である。
 
 現在の大阪府寝屋川市の南端に
 讃良(東西)町があり、堀溝がある。
 
 「湟咋」は「堀を齚(か)む」ことで
 「溝を掘る」ことであり、
 「堀溝」は湟咋に因んだ遺称である。
 
 その西隣りは門真市で、
 そこに三箇や三ッ島の地名があり、
 これが三嶋の遺称である。
 
 溝橛の「橛」は「橜(くい)」で
 杭、杙と同義であるが、
 特に門の中央に立ててある杭を意味する。
 
 『日本書紀』がその神名に
 「耳神」と神武天皇の御子以外に
 符されていない特殊な符号を与えている。
 
 これは
 サンスクリット語の 
 Mā(mimite) の自動詞一人称の 
 mime の音写で、
 「量る、測定する」から
 「創造する、造立する」の意味であり、
 「ミミ神」は「創立神、造物主神」となる。
 
 郡名の「讃良」は「佐良良、沙羅羅」と
 表記された古名だが、
 これがメソポタミアの「王」を表わす
 セム語 śarara の移入と
 考えられるのである。
 
 というのも湟咋の祖語は、
 メソポタミアの根元を持つ
 インドのヤーダヴァ族であるからである。
 
 讃良郡の北方には紀元4世紀になって
 同じセム語を祖語に持つ
 ユダヤ人である秦氏族がやって来た。
 
 第7章:メルッハとオフル「ヤーダヴァ族」で、
 
 彼等の祖先が
 メソポタミアからインドへ来たことを述べた。
 
 インドでは
 アーリア人の侵入以前における大族であった。
 
 インドにおける最後期の王クリシュナが
 インド亜大陸の西端に当たる
 クジャラート(サウシュトラ)
 Dvārakā という都市を建設したが、
 クリシュナの死後同市は滅び海中に没して、
 ヤーダヴァ族 hametubou しまったという
 叙事詞の伝承を紹介した。
 
 そして現在サウシュトラの西に 
 Divrka という小さな町があることも紹介した。
 
 そこの人々が
 ヤーダヴァ族の後裔であるといっている
 ことなどを踏まえて、
 彼等が全く滅亡してしまったということは
 あるまいとも述べておいたが、
 実は日本に
 その後裔が渡来していたのである。
 
 讃良は彼等の王族の居住地である。
 Dvārakā は「多くの門のある都市」の語義で、
 別称では dvāra-vati とも呼ばれ、
 これは「門・都市」である。
 
 寝屋川市の大利神社の鎮座する
 「大利(おおとし)」はこの 
 dvāra 転訛で、
 隣りの門真市名は 
 dvāra(門)-vati(マ) の
 意訳音写の合成語であり、
 表記の門真は溝橛の意味を含む。
 
 門真神社は
 ドヴァラヴァティ神社ということになる。
 
 また、
 ドヴァラカを神社名としているのが
 寝屋川市郡の友呂岐神社と
 木屋町の鞆呂岐神社である。
 
 この地域は平安時代に鞆呂岐荘であり、
 現在の香理から
 三井地区を含んでいたとみられる。
 
 「ミツイ(三井、美井)は、マツヤ」の転訛で
 ドヴァラカ国の前身である
 マトゥラーを首都とした国名である。
 
 Va(ヴァ)ma(マ)と転換されたのは、 
 かって 
 Narvada 川と称されたインド西部の河が
 現在では 
 Narmada 川と
 表記されている例で理解できる。
 
 Vāsava (vasu 神郡の長インドラ神) が
 漢音では摩娑婆とされている。
 
 二つのトモロキ神社は
 『延喜式神名帳』には載っていないが、
 平安時代にはその存在が
 すこぶる低下してしまっていたからだろう。
 
 それらの神社の祭神は
 門真神社が素盞鳴尊とするなど
 ヤーダヴァ族とは係わりのない神名が
 現在並んでいるが、
 太初の頃は
 クリシュナ kṛsna であったと考えられる。
 
 クリシュナは
 黒い皮膚の「黒い神」の語義である。
 
 寝屋川市内の黒原や楠根は
 この神名に依るだろうし、
 三島の「シマ」は kr-(kāla) と
 同義の別語 
 syama (黒)の音写と考えられる。
 
 『延喜式』に
 摂津国上嶋郡、下嶋郡があるが、
 この「嶋」も syama に由来する。
 
 同地方は後に三島郡となり、
 現在島本町などとなっている。
 
 三井がクリシュナの生まれた国
 マツヤを祖語とすると述べたが、
 鞆呂岐神社のある木屋町の隣に
 松屋町名も同様である。
 
 友呂岐神社の鎮座する「郡」や
 寝屋川市と枚方市に広がる
 「香里」の地名は 
 gaura の音写で、
 ドヴァラカ市が太陽や月のように
 輝いていたと伝えられることから、
 その「輝き」を形容した地名である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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