SSブログ

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  乎獲居臣、
  上祖名意富比垝、
  其児多加利足尼、
  其児名弖已加利獲居、
  其児名多加披次獲居、
  其児名多沙鬼獲居、
  其児名半弖比、
  其児名加差披余、
  其児名乎獲居臣
 
 稲荷山古墳から出土した
 金錯銘鉄剣の銘文の文字に含まれている
 抜刀人の系譜はこのように読み取られた。
  
  ➀上祖名意富比垝
 
 「意富」は古事記に特徴的な用語である。
 
 初見は上巻の冒頭神代の記述に
  「意富斗能地神」と現れる。
 
 これに続いて
 「次に妹大斗乃辨神」とあるので、
 「意富」が「大」であることが判明する。
 
 次に伊邪那岐命の黄泉国降りに
  「意富加牟豆美命」、
 また中巻になって
  神八井耳命の後裔に「意富臣」とあり、
 
 崇神天皇条に
 
 「即ち意富多多泥古命を以ちて神主と為りて、
  御諸山に意富美和の大神の前をきたまひき」
 
 とある。
 
 このうち意富臣は
  『日本書紀』に「多臣」とあるほか
 「太、飫富、於保」とも表記される。
 
 鉄剣の刻銘「意富比垝」は
 「オホヒコ」と読まれており、
 この呼称は
 『古事記』の崇神天皇条に載る大毘古命、
 『日本書紀』の大彦命に当たると理解されている。
 
 『古事記』に
  「大毘古命を高志道に遣わし、
   其の子建沼河別命をば、
     東の方で十二道に遣はして、
   其の麻都漏波奴(まつろはめ)人等を
     和平さしめたまひき」と、
 
 いわゆる四道将軍の一人として
 北陸道から東国に派遣された人物名である。
 
 「意富」の訓音を太田亮の
  「姓氏家系大辞典」では
 「オホ」としているが、
 その訓音を移している「飫富」は「ヲフ」である。
 
 延喜式神名帳「上総国望陀(コウダ)郡」に
  「飫富神社」とあり、
 同社は
  現在の千葉県袖ヶ浦市飫富の飽富神社で、
 土地の古老は「オオノミヤ」と
 呼びならしていたという。
 
 当地は
 和名類聚抄の
 上総国望陀郡飫富に比定されている。
 
 「オホ、ヲフ」の原義は何であろうか、
 それはサンスクリット語の 
 aha で、「日、太陽、昼」を意味する。
 
 A- が「オ」と訓まれた実例は
 asi (険、刀)がオシ(忍)、
 asina (雷電)が
  オサノ(長野)となったことを述べたが、
 
 西アジアでゾロアスター教の火(日)神
  ahra-mazda (アフラマズダ) が
 紀元1世紀を超えて
  ohra-mazda (オフラマズダ)となった例を
 第7章メルッハとオフルで述べ、
 
 オフルとは
  aha と同義の ahar に依拠することを説いた。
 
 奈良県桜井市の地名粟殿及び粟原はそれぞれ
 「オオド」「オオハラ」と呼ばれており、
 「アワ」が「オオ」となっている。
 
 ②多加利足尼
 
 第2代の名を「タカリスクネ」と
 読む見解もみられるが、
 これは「多(オホ)のカリ宿禰」と
 解読すべきである。
 
 その上祖「意富」を多氏と解する理由は、
 2代4代5代名の最初に
 「多」があるからである。
 
 足尼は宿禰と同義とみられるが
 「多加利(おおかり)」は
 ahas-kara で「太陽」を意味する。
 
 この ahas-kara は ahas-cari で
 cari は「動くこと、行」である。
 
 ここに窺われるのは
 日神崇拝者の系図である。
 
 ③弖已加利獲居
 
 第3代の名は「テシカリワケ」と訓ある。
 
 獲居は「別」と理解されている。
 
 「テシカリ」は 
 trjo-kara の音写で「光輝のもの」で、
 これも「太陽」を表わしていると考えられる。
 
 ④多加披次
 
 第4代の名は「多のカワジ」と訓め、
 カワジはその語義を確定するのは難しいが、
 現在の埼玉郡川里村の「川」に
 係わるものと考える。
 
 というのも
 村内の地区名「広田(ひろた)」の祖語を
 「コウダ/コウチ」とすることができるからである。
 
 成田市台方の麻賀多神社のある地域
 公津(きみつ)は
 「コウチ」で、
  その隣りの江弁須は「カワジ」に近似する。
 
 「カウチ」は
 奈良県桜井市、明日香村など
 かっての大和国高市郡、
 古代の王朝所在地の地名に係わり、
 これらを考察すると「王族」ないし
 サンスクリット語の「城」を意味する 
 koṭṭa 、
 セム語の kussi(王座)を祖語とする
 「城主」を表わすものとみられる。
 
 川里村広田の南には
 行田市埼玉のすぐ東に接し屈巣(くす)、
 さらに鴻巣があり、
 加披次の遺称ともみられる。
 
 ⑤多沙貴獲居
 
 第5代の名は
 「多のサキ別」と理解できる。
 
 サキは明かに埼玉の「埼」である。
 
 川里村の東側騎西町に
 前玉神社が鎮座する。
 
 「サキタマ」と称する神社は
 埼玉神社と合わせ2社のみであり、
 埼玉神社を別けた神社(別宮)が
  前玉神社と考えられる。
 
 町内には
 上崎、下崎と「サキ」の地名があり、
 中世の武蔵七党のうちの
  「私(さき)市党」の本拠地であった。
 
 私市城があったことでもわかるように
 沙貴は香取神宮の祭神は
  「伊波比神」とも称されるが、
 この語は同根語であり、
 「剣持神」を表わす。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(4)「稲荷」名古墳と稲荷神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(4)「稲荷」名古墳と稲荷神社
  
  さきたま古墳群には
 稲荷山、諏訪山、二子山、丸墓山といった
 名称が墳丘に付けられている。
 
 将軍名はその近くでは
 東松山市下野本に将軍塚古墳があるように
 武人である支配者を想像させる。
 
 二子山は前方後円墳、
  丸(墓)山は円墳を表わすもので納得できる。
 
 諏訪山名も東松山市にもあるように
  よく使われているが、
 稲荷(山)に至っては
 群馬県藤岡市白稲荷山古墳、
 千葉県市原市国分寺の稲荷台古墳など
 極めてたくさんの古墳名に使われている。
 
 「稲荷」名古墳は、
 山田知子が昭和58年12月に
 調査した報告によると
 全国35都道府県に189基があったという。
 
 最も多いのは群馬県の25基、
  次いで埼玉県20基、
 京都府13基、
  福島県・茨城県10基、
  宮城県・愛知県8基、
 千葉県・兵庫県7基、
  山梨県・静岡県に6基、
 東京都・岡山県・香川県5基
 
  などであった。
 
 また、「稲荷」名は付いていないものの
 墳丘に稲荷神社が祀られている古墳も多い。
 
 その例を次のように上げている。
 
 岡山市高松の壱五山古墳群、
 茨城県石岡市の山崎古墳、
 結城市の繁昌塚古墳、
 滋賀県栗東町の宇和神社境内古墳、
 京都市右京区太秦の天塚古墳、
 西京区大枝東長町の福西古墳群、
 京都府天田郡夜久野町折塚古墳。
 
 このように
 多くの「稲荷」が祀られている理由が
 「宇迦之御魂神・倉稲魂神」を
  神格としていないことは
 容易に理解できるだろう。
 
 現在の稲荷信仰には、
 稲作の神、商売繁昌の 
  神としての性格が強いが、
 多くの古墳に名称が付けられた
  江戸時代前期以前には
 別の想念が「稲荷」には
 強かったものと考えられる。
 
 つまり、
  死して行く「彼岸」、
 天界の想念で、
 諏訪山などの「スワ」、天塚などと共通する。
 
 「稲荷」が sineru の転訛であることは
 既述したところだが、
 死後の世界「天界」の象徴である
 スメル山(シネル山)の想念が
 古墳に銘名させたものと考えられる。
 
 仏教では
 スメル山を須弥山、妙見山というが、
 仏教の浄土に対する信仰が
 影響したと推測できる。
 
 古墳に稲荷が深く係わっている状況は、
 「イナリ」が 
 sineru であることを
  傍証するものである。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(3)稲荷山古墳の鉄剣 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(3)稲荷山古墳の鉄剣
  
  行田市さきたま古墳公園にある
 稲荷山古墳より1968年に
 出土していた鉄剣から
 銘文が発見されたのは1978年のことである。
 
 銘文は115文字から成り、
  金象嵌されていたので、
 この剣を金錯銘鉄剣という。
 
 銘文の内容には、
 意富比垝から手獲居臣まで
 八代の系譜が記され、
 
 「世々為杖刀人首奉事来至
  今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左
  治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」
 
 とある。
 
 「世々、杖刀人の首と為り、
  奉事し来り今に至る。
  ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、
   シキの宮に在る時、
  吾、天下を左治し、
   此の百練の利刀を作らしめ、
  吾が奉事の根原を記す也。」
 
 というのがその下し文である。
 
 文頭に「辛亥ノ年7月」の記述があり、
 これは471年、531年との二説があり、
 今のところ前者が有力である。
 
 「獲加多支歯大王」は
  「ワカタケル」と理解されて、
 「大長谷若建(ワカ)命」である
  雄略天皇に該当されている。
 
 銘文はその剣を「利刀」といっているが、
 その意味は「よく切れる鋭利な刀」である。
 
 稲荷山古墳の南方に
  利田(かがた)の地名があるが、
 これは利刀に因むと考えられる。
 
 「カガタ」は 
 khakkhata の転訛で
  「荒々しい者」、雷鳴を表わす。
 
 和歌山市宮地区の国懸(くにかかり)神社の
 「懸」と同じで雷音神である。
 
 銘文を作らせた手獲居臣の系譜には
 意富比垝から八代に至るまで
 「杖刀人の首」として
 朝廷に仕えてきたといっている。
 
 「杖刀」とは刀を杖にするとも採れるが、
 ここでは
 「刀を持つ、刀を立てる」と理解する。
 
 つまり
 刀剣を持って王に仕えたのである。
 
 大相撲の横綱土俵入りの際露払いと共に
 「太刀持ち」を待するが、
  彼は太刀を右手に立てて持つ。
 
 この姿こそ杖刀人の象徴的形である。
 
 依って「杖刀人」は「剣持」で
  śakti-mat である
 「前玉」と同義である。
 
 直截的に理解すれば
  意富比垝に始まるこの一族は
 軍武の一族で、
  その氏族的性格から武神である
 「剣持神」を前玉神社に祀ったと考えられる。
 
 インドラ神は
 アーリア人が
  インド亜大陸に侵入してきた時の
  第一の武神であった。
 
 「刀を立てる」との概念は
 次のような解釈を誕む。
 
 延喜式神名帳に
 「前玉神社二座」とあることから
 祭神を二神と考え、
  その二神名をいろいろと推測してきた。
 
 その中に
 「前立命、忍立命」とする見解があった。
 
 これらは 
 śakti(前) 、
 asi(忍) で
 双方とも「剣」であることは明白で
  「刀を立てる」意味となるが、
 「アシ立て」は「足立」であり、
 
 埼玉郡の南から
 現在の東京都足立区にまで広がる
 足立(あだち)郡の祖語となり、
 そこが
 抜刀人の勢力範囲であったことを示す。
 
 延喜式神名帳武蔵国足立(あだち)郡に載る
 足立神社
 (さいたま市西区飯田の同名社に比定)の
 訓音が「アシタテ」と符されている。
 
 稲荷山古墳の被葬者が、
 発掘記録によると礫槨の中に
 金錯銘鉄剣と共に
  太刀、鉾、矢の束、挂甲、馬具が出土し、
 それらの装身具から判断して
  武人であったことを覗わせている。
 
 また十程度の人物埴輪が出土しているが、
 そのうちの四体は武人埴輪である。

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(2)香取神宮と鹿島神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]







[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(2)香取神宮と鹿島神社
  
  千葉県佐原市の香取神宮の祭神は
 経津主命で「剣神」として知られるが、
 既に述べたように香取は
 cutur で「天空」であるから、
 同神は「天の剣神」となり、
 その祖がインドラ神であることが明白となり、
 側高神社のスヴァルガ(天界)の神と符合する。
 
 香取神宮の利根川からの津の宮近くにある
 忍男神社の「オシオ」は「剣の男」、
 及び神宮の魚の宮近くにある
 押手神社の「オシテ」は
 astr (投擲者)で
 インドラ神に係わる呼称である。
 
 神宮の東南の地名多田「雷光、稲妻」を表わす
 tadit の音写である。
 
 これまで香取の祖名について
 「揖取(かじとり)」に依るものとの
 見解がなされてきた。
 
 これは
 その祭事が鹿島神宮と深く結びついており、
 津の宮から船により同神宮を訪ねるという
 行事があるため
 船舵を絡めた想像がされたものであろう。
 
 しかし、
 実際は祭神経津主命に
 カジトリの概念があったと考えられる。
 
 「カジトリ」の概念は「槍持」である。
 
 「カジ」は
 サンスクリット語の
 kadja で「棒」の意味である。
 
 この kadja は
 鹿島神宮の「カシマ」の祖語の語幹をなす。
 
 鹿島名は
 和名類聚抄に「常陸国鹿島郡」とあり、
 続日本紀の養老7年に初めて見られる。
 
 しかし、
 それ以前は常陸国風土記に
 「香島郡(かしまこおり)」とあるように
 「香島」と表記された。
 
 だがさらに遡及するとやはり
 「カジマ」であったと考えられるのである。
 
 というのも
 この地名は鹿島神宮の成立により
 誕れたものであるからである。
 
 香島郡に
 常陸国那珂郡の南部の一部と
 上総国海上郡の北部の一部を
 合併して成立したものである。
 
 そこで
 鹿島神宮の原型であるが、
 同神宮の祭神は
 建御雷神であることから考察すると、
 
 「埼玉」の祖語 
 śakti-mat が視座を与えてくれる。
 Śakti kaḍja と同義であり、
 kaḍja-mat がまた「剣持」「槍持」で、
 これが「カジマ」の祖語である。
 
 常陸風土記「香島郡」にある
 
  「其処(そこ)に有ませる
   天の大神社、
    坂戸の社、
    沼尾の社、
   三処を合せて、
    惣(す)べて香島の天の大神と称(い)ふ」
 
  とあるところの
 「坂戸」は śakti をいうものである。
 
 同語は剣、刀と共に「槍」が
  その語意の中に含まれており、
 現在も鹿島神宮の伝統に
   「鹿島槍」として生きている。
 
 神宮の北方の地名
  和(かず)は kaḍja の転訛であろう。
 
 「カジマ」がなぜ「カシマ」になったかであるが、
 これは、杵島曲(きしまぶり)に依る。
 
 これも同神宮の伝統にあるもので、
 旅立ちに際し謡われたもので
  「鹿島立ち」と称せられる。
 
 「キシマ」の祖語は
 サンスクリット語の
  kṣema で、
 「安全な、心地よい」の意味で、
  安全を祈願して謡った。
 
 神宮の摂社阿須波社は
  「路、旅行」を意味する
 サンスクリット語
  adhvan の転訛であり、
 「鹿島立ち」は同社に係わる信仰である。
 
 同摂社を鹿島前立の宮という。
 
 万葉集巻二十の防人の歌に
 
  「夜中の阿須波の神に木柴さし吾は
    斉(いわ)はむ帰り来までに」
 
  「霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ
    すめら御軍にわれは来にしを」
 
 とある。
 
 Kṣema が「木島」と音写された例がある。
 
 京都市右京区太秦に鎮座する
  木島神社がそれである。
 
 延喜式神名帳葛野郡に載る
  木嶋坐天照御魂神社名神大である。
 
 同社の東側に太秦安井の地名があり、
 「安井」が木島
   kṣema の意訳名であることが窺われる。
 
 このキシマが「カシマ」となったのである。
 
 「香」字が当てられたのは、
 紀伊国の紀氏関係で説明したように、
 同字が 
 kha の音写で「天空、空虚」を表わし、
 風土記にある
  「天の大神」の「天」に相当するからである。
 
 「香」が「鹿」となり、
  鹿が神使いとされるようになったのは、
 鹿渡、鹿殿といわれる
   医薬神の系譜の信仰が入ったからである。
 
 風土記に載る香島郡の西側は
  「行方(なめかた)郡」で、
 「方」は鹿をいうもので
 行方は「鹿渡」と同義である。
 
 以上の内容から、
 祭神建御雷神が、
 前玉神、経津主神と同じ神格で、
 その祖像が
 インドラ神であることが明白である。
 
 鹿島神宮の周辺をみると、
 神敷の地名がある。
 
 「敷」は稲敷郡でみたように 
 śuci の音写で
 「光輝」を表わし、
 「神敷」は雷光を表わす。 
 
 同神宮の
 北方に「猿田」、
 南方に「佐田」があるが、
 
 それぞれ
 「猿田彦」
 「佐田彦」名に依るもので、
 インドラ神の日本での尊名であり、
 鹿島神宮が同神名に係わる
  神格であることを示唆している。
 
 宮城県塩釜市の塩竈神社の祭神が、
 本殿の
  左宮に武甕槌神、
  右宮に経津主神、
 
 そして
 別宮に塩土老翁神であるが、
 インドの神
 インドラ神が日本において土着し、
 三つの神格に変化して
 奉祀されていることとなる。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々『埼玉・鹿島:剣持神の国』(1)前玉神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(1)前玉神社》
  
  埼玉県草加市はかっての
   武蔵國足立郡のうちであるが、
 その北側は埼玉郡である。
 
 同郡名は、
 和名類聚抄には「佐伊太末、佐以多萬」と
   訓じられているが、
 
 万葉集の「東歌」に「佐去多萬」と詠まれ、
 また正倉院文書の神亀3(726)年の
  「山背国計帳」に「武蔵国前玉郡」の
   表記があることから
  「サキタマ」が「サイタマ」に
   先んじていたと考えられている。
 
 その語源を本居宣長が
    「幸魂(さきたま)」の転訛と説いたため、
 長くそれが信じられていた。
 
 和名類聚抄の埼玉郡には「埼玉郷」が載る。
 
 同郷は現在の行田市埼玉がその同定地である。
 
 ここには延喜式神名帳武蔵国埼玉郡に
  「前玉神社二座」と記された同名社が鎮座する。
 
 祭神は現在前玉彦命、前玉姫命の二神である。
 
 サキタマは
 この神社名に係わるものと考えられる。
 
 同社近くには「さきたま古墳公園」があるように
 古代には
   武蔵国北部の政治的権力の中心地であった。
 
 この「サキタマ」にも
  インドラ神の影が潜在しているのである。
 
 中世からここは忍(おし)氏の本拠で
 忍城があった。
 
  「オシ」はサンスクリット語の 
    asi の転訛である。
 
 忍地区の東方になる長野(ながの)は「オサノ」で
 本来は aśani の転訛とみられ、
 ここでは a が オ と発音される。
 
 Aśani は同市の北端須加と同じく
    「雷光、雷雲」である。
 
 須加は
   茨城県桜井村・東町の須賀神社でみたように
 śucyah(śuci) によるもので、
 須加地区内にも雷電神社が二社ある。
 
 これに対し asi は「剣・刀」を表わす。
 
  「相模:ドゥルガー・プーシャーの里」で
 足柄とは
   asi-kāra(刀鍛冶) であるとしたのと同語である。
 
 なぜそう解釈できるかというと、
 「サキタマ」はサンスクリット語の
   śaktimat 「剣(刀)を持つ」 
 に対応するからである。
 
 Śakti は本来「力、技能、能力」の意味ながら、
  「刀、槍、戈」を意味し、
   -mat は「持つ、見える」を表わす。
 
 よって śakti-mat (サキタマ)は
  「剣持」ないし「太刀持ち」を表わし、
 これはインドラ神の呼称である。
 
 京都市伏見区の稲荷山のお山に雷石があるが、
 その磐座はまた「劒石」と称されており、
 インドラ神の武器。
 
   雷光はまた剣と解釈されたのであり、
 忍(asi)が aśani (長野)なのである。
 
 さらなる傍証もある。
 忍の西方の持田地区に剣神社があり、
 この持田のさらに西側に続いて
 熊谷市佐谷田(さやだ)地区があるが、
 これは「サコタ」で śakti 、
   持田は -mat の転訛で
 佐谷田-持田は śakti-mat である。
 
 同様の例を相模の「寒川-倉見」が
 samkrama を分けたものとして紹介した。
 
 このような周辺状況からも
  「前玉」が「剣持神」であることを理解できる。
 
 市名の行田(ぎょうだ)は「コウダ」で
    「幸田」を転写したもので、
 śakti が祖語である。
 
  「行」字が使われているのは、
 後に述べる「加利」の祖語 cari が
  「行くこと、行」の意味であることによる。
 
 行田市の西側に位置する熊谷市は
 かって幡羅(はら)郡であったが、
 この「ハタラ」は
 サンスクリット語の
 vadhar の転訛で、本来「飛び道具」であるが
 インドラ神の雷電(金鋼杵:刀)を表わす。
 
 市内の上奈良にある豊布都神社は
  「天-剣」の意味で「幡羅」と同義となる。
 
 豊は第一章祝祭の「豊宇気毘売神」で紹介した
 dyo で「天の」、
 布都は「刀」として通称されている。
 
 前玉神社の南隣り「渡柳」は
 ワタリでこれも Vadhar の転訛と考えられる。
 
 熊谷市本町には千形神社が鎮座する。
 
   「千形」も近津と祖語を同じくする
   cikitśa の転訛であり、
 
 この地でインドの医方明(いほうみょう)が
 行われていたことを示す。
 
 その北方柿沼にも雀神社があり、
  「柿」は「古賀:小鳥信仰」で紹介した
 小鳥の意味の
 kha-ga に依るものであろう。
 
 行田市内の下増田の近殿神社、
  「ちかつ」である四方寺の湯殿神社
 (奈良新田にも同名社がある)も
 医薬に係わる神社である。
 
 このようにこの地方には
 インドの古代文化と深い関係が
   潜在しているのである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:佐原(側高神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]









[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
佐原(側高神社)》
  
  麻賀多神社と同様に
 パーリ語の用語を神社名としたのが
 千葉県佐原市の側高神社である。
 
 「ソバタカ」は sovattika の音写で、
 サンスクリット語の 
 sva-stika 、「十字」を表わす。
 
 同本社は佐原市大倉の大倉山にある。
 
 「オオクラ」は 
 sovattika-âlankāra (十字紋) の 
 âlankāra (紋)の転訛である。
 
 域内の落文大神社の「ラク」は
 その -lankà- を残して音写したものである。
 
 また大倉山の西側にある
 丁字は -ttika 部分の音写である。
 
 大倉山はまた丸峰と呼ばれるが、
 これは meru 山でスメル山、
 パーリ語の sineru 山でスメル山、
 パーリ語の sineru 山を表わす。
 
 つまり「側高」は
 インドラ神の住むスメル山の 
 svarya を表わしている。
 
 その svar (天界)が市名で
 佐原の祖語である。
 
 スバルは
 北イラクのスバル人に始まった
 古名であることは
 本書の重要な主張である。
 
 スヴァルは「十字」及び
 「天界、天空」を意味する。
 
 佐原市の成田線佐原駅近くの
 佐原地区に諏訪神社が鎮座するが、
 スワ(諏訪)が天界を表わしている証が
 ここにもある。
 
 側高神社は
 現在鹿取神宮の摂社となっているが
 「カトリ」が
 佐原、諏訪と同義の第四位にして
 「空虚、天空」を表わす cutur が
 祖語であることを納得できるだろうか。
 
 この地は
 インドラ神の隠れた鎮座地なのである。
 
 側高神社名は、
  蘇羽鷹神社(松戸市三ヶ月)、
  素羽鷹神社(印旛郡栄町竜角寺)、
  祖波鷹神社(香取郡栗源町岩部)、
 などと表記され崇拝されている。
 
 そのうち埼玉県の東端に位置する
 吉川市に蕎高神社が二社鎮座している。
 
 その社地高久は佐原市の丁字と同じく 
 ttika の転訛である。
 
 吉川市は江戸川を挟んで
 野田市と向い会っており、
 既述のように江戸川沿いに
 インドラ神信仰が広がっていたとの
 見解を補足説明するものである。
 
 側高神社の祭神については
 古来明らかでない。
 
 現在の主祭神は
 高皇産霊尊、神皇産霊尊とされる。
 
 それに倣い蕎高神社においても
 高木神を主神としている。
 
 側高神社の祭事の内、
 毎年1月10日に行われるのが、
 「鬚撫で祭」である。
 
 これは当屋渡しの行事で、
 鬚を撫でる回数に従って
 神酒を飲む回数を重ねるというもので
 「鬚」が中心となる。
 
 また毎年11月7日の
 脇鷹(そばたか)祭が行われる夜
 明治初年頃まで「白状(はくじょう)の祭」が
 津宮河岸で行われた。
 
 その祭儀に
 馬数に係わる伝承が
 内容になっているようだが、
 ここに登場する
 側高神が「白状」であったらしい。
 
 白状は「白鬚(はくしゅ)」の借用と考えられる。
 
 白鬚は鬚を撫で祭の鬚と結びつき、
 白鬚神は猿田彦神を表わす。
 
 滋賀県高島町鵜川の
 白鬚(しらひげ)神社の祭神は猿田彦である。
 
 既に述べたようにスヴァルガの支配神、
 メル山(丸峰)に住む神はインドラ神である。
 
 側高神社、香取神宮の周辺には
 稲荷神社が数多くある。
 
 稲荷大社の祭神に佐田彦神がいることを
 考え合わせなければならない。
 
 吉川市の蕎高神社のある高久と
 中川を挟んだ西側に草加市がる。
 
 「ソウカ」もインドラ神の別称
 śaci ないし śakra を祖語とする。
 
 śakra は仏教で帝釈と表記とされるが、
 音写では釈あるいは「釈加」と表記されている。
 
 釈加と草加は近似する。
 
 また同地の古家に浅古家があるが、
 同名は奈良県桜井市の三輪山の南方にある
 地名「浅古」とも合一する。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:佐倉(麻賀多神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
佐倉(麻賀多神社)》
  
  江戸崎町の同名地区の隣りに佐倉があり、
 佐倉神社が鎮座する。
 
 これは千葉県佐倉市名と同じであるが、
 「サクラ」はインドラ神の別称 
 sākra に依る。
 
 佐倉名は酒々井町にもみられるが、
 これらの地域に特徴的神社は
  麻賀多神社である。
 
 この「マカタ」は
 
 パーリ語の 
 makkata を音写したもので、
 その意味は「猿」で、
 
 サンスクリット語では 
 markata である。
 
 猿は猿田彦神名から採ったもので、
 「佐倉」であるインドラ神に対応する。
 
 佐倉市鏑木町の
 麻賀多神社近くには猿ヶ坂がある。
 
 麻賀多神社は
 成田市台方を本社として
 同市内に四社、
 佐倉市に内に十一社、
 酒々井町に二社、
 八千代市に一社、
 富里町に一社鎮座し、
 合わせ「麻賀多十八社」という。
 
 「マカタ」名は『記・紀』の成立後、
 
 それらの古書により
 「猿田彦神」に因んで
 仏教を通じて入ってきた
 パーリ語の猿名を採って
 神社名としたものと考えられる。
 
 本社である
 成田市台方字稷(あわ)山の
 麻賀多神社は
 『延喜式神名帳』に
 「印旛郡一座小麻賀多神社」と載る。
 
 同社の境内摂社に猿田彦社があり、
 幸霊社がある。
 
 幸霊の「幸」は 
 śaci でインドラ神の呼称であり、
 猿田彦社名と共に
 麻賀多神がインドラ神で
 あることが解かってくる。
 
 同社の鎮座地名稷山の「アワ」は、
 大神の「オホ」と祖語を同じくし、
 同社を創建したと伝えられる
 
 印波国初の国造
 伊都許利命の八代前の祖
 神八井耳命に始まる
 多氏に関係する。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲敷(大杉神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲敷(大杉神社)》
  
  京都市伏見区の稲荷山において
 インドラ神と稲作が結びついた
 信仰の様子をみた。
 
 同山の「お山」に大杉神社が鎮座しているが、
 同名社で茨城県稲敷郡桜井村阿波に鎮座する。
 
 稲敷郡名は「常陸国風土記」、
  延喜式神名帳、和名類聚抄にない。
 
 同地は風土記では
 信太郡に属していたとみなされる。
 
 大杉神社名も「延喜式」神名帳になく、
 
 その形成は平安期以降だろう。
 
 しかし、
 「信太」名は「穀を取り除いた米」を意味する。
 
 「仁」を表わすもので、
 当地方で稲作が盛んに行われていたことを
 窺わせる。
 
 というのも同神社の鎮座地
 「阿波」も「穀にあるもの」である
 「粟」ないし
 「玄米を搗いて精白したもの」である。
 
 「粱」に由来すると推測されるからである。
 
 実際は後者の相応性が高い。
 
 近郊の甘田や阿波崎も
 この粱(あわ)を理由とする地名である。
 
 大杉神社の「杉」は
 すでにみたように śuci(śucyah) の音写で
 「輝く、光を発する、白く輝く」で
 雷電や白米の輝きを想像させるものである。
 
 これらが妥当であることを
 ここで証明できるのである。
 
 まず稲敷の「敷(しき)」は
 その 
 śuci の音写であり、
 同社北方の四箇の、 
 śucyah が須賀津、
 東町の須賀神社の
 「須賀」の祖語であることが指摘できる。
 
 依って稲敷は「白米の輝き」で、
 しかも「稲妻、雷光(雷電)」を表わしている。
 
 村名桜井の「桜」は 
 śukla(śukra) の音写である。
 
 これは 
 śuci の形容詞形で「輝やかしい」となる。
 
 埼玉県越谷市大杉にも大杉神社がある。
 
 隣りの川崎神社は
 毎年7月24日に行われる
 「松明まつり」で有名である。
 
 その際
 御幣は雷電神社と榛名神社の御札で、
 前者が群馬県板倉町、
 後者が同じく榛名町の本社からのものである。
 
 雷電神社のある「板倉」はサンスクリット語
 idhi-kara の転訛で「支配、統治」を意味し
 天界の支配者インドラ神を表わす。
 
 インドラ神の武器である
 雷電を祭祀する神社である。
 
 稲敷郡東町の須賀神社のある伊佐部は
 インドラ神の尊称
 iśvara (支配者)の転訛である。
 
 桜井村の西隣りは江戸崎町だが、
 この「江戸」も東京の古名と同じ
 インドラ神名に依る。
 
 崎は霞ヶ浦が
 かってはここまで切れ込んでいて
 岬を形作っていたからに過ぎない。
 
 このように
 稲敷郡はインドラ神の影のある里である。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  ⑤多沙貴獲居
 
 第5代の名は
 「多のサキ別」と理解できる。
 
 サキは明かに埼玉の「埼」である。
 
 川里村の東側騎西町に
 前玉神社が鎮座する。
 
 「サキタマ」と称する神社は
 埼玉神社と合わせ2社のみであり、
 埼玉神社を別けた神社(別宮)が
  前玉神社と考えられる。
 
 町内には
 上崎、下崎と「サキ」の地名があり、
 中世の武蔵七党のうちの
  「私(さき)市党」の本拠地であった。
 
 私市城があったことでもわかるように
 沙貴は香取神宮の祭神は
  「伊波比神」とも称されるが、
 この語は同根語であり、
 「剣持神」を表わす。
 
 ⑥半弖比
 
 第6代の名は「ハテヒ」と訓めるが、
 「ナカのダイ」との理解もできる。
 
 と云うのも、
 その祖語を 
 patayah (飛ばす、飛翔させる)
 あるいは 
 pataga (太陽、鳥)に
 求められるからである。
 
 太陽の意味に使われたならば
 日神崇拝の同類語である。
 
 「ハテヒ」の一族が拠点を構えた所が
 鳩ヶ谷市辺りと考えられる。
 
 同地は和名類聚抄の
 「足立郡発度(はっと)郷」に比定され、
 鎌倉時代には「鳩井」であった。
 
 建長8(1256)年の史料には
 鳩井兵衛尉の名がある。
 
 地名には
 空を飛ぶ鳩名があることからも、
 その原義が 
 patayati に係わっていたことを窺わせ、
 半弖比の一族の居住地か開拓地とみられる。
 
 ⑦加差披余
 
 第7代の名は「カサハラ」と訓む。
 
 「余」字は
 奈良県桜井市の
 磐余(いわれ)の例があるように
 「ラ、レ、ロ」訓める。
 
 この用字は
 漢語における「尓(爾」)を誤って「余」と
 日本では記述したものとみられる。
 
 現在の黒龍江省の
 哈尓濱(はるぴん)や
 斎斎哈尓(ちちはる)などにも
 使われている。
 
 「カサハラ」は「笠原」で
 現在鴻巣市と
 比企郡小川町のその地名がある。
 
 笠原名は
 安閑天皇の時代(6世紀半頃)
 武蔵国造の地位を
 その同族の小杵と争った
 笠原使主の名称として
 登場する古い名称である。
 
 『日本書紀』安閑天皇元年の条に
 
  「武蔵国造笠原直使主と
   同族の小杵と国造を相争ふ」とある。
 
 笠原使主が
 加差披余の後裔であったかどうかは
 ここでは論じない。
 
 ⑧乎獲居臣
 
 第8代の「乎別臣」も「乎」字については
 助詞「を」として使われることが多いが、
 また感嘆する時の声「あ」に使われ、
 ā の音写とみられるので、
 乎獲居は「引裂くこと」。
 
 以上のように上祖より8代の名前について
 埼玉神社周辺の地名資料などから
 推論してみたが、
 このなかで
 鉄剣を錬らせた氏族が「多」氏に
 深い係わりがあったとの判断が誕れてきた。
 
 大毘古命は阿部氏の祖とされるが、
 同命が「多」氏と同祖であるかが
 追求されなければならないだろう。
 
 埼玉郡に接する、
 和名類聚抄にも載る
 大里郡は
 「多氏の里」の語義と考えてよいのだろうか。
 
 「サキタマ」は『日本書紀』の
 敏達天皇の宮殿名としても現れる。
 
 訳語田の「幸玉宮」がそれで、
 『古事記』では「他田宮」としている。
 
 同天皇の和名を沼名倉太玉敷命という。
 
 他田舎人は信濃国造の後裔で
 神八井耳命を祖とし
 意富臣と近い関係にある。
 
 「ヌナクラ」は
 大毘古命の子「建沼河別命」や
 第2代綏靖天皇となった
 神八井耳命の弟神沼河耳命、
 また天孫として降臨した
 『古事記』邇邇芸命も
 『日本書紀』瓊瓊杵尊
 とあるように、
 「玉」で宝石(瓊)を名とする系譜に連なる。
 
 その
 「多氏」に関係する
 敏達天皇の宮殿の名称が
 「サキタマ」である事情から
 意富比垝を祖とする乎獲居の一統を
 「多氏」の一統でもあるとも解釈できる。
 
 果たして「多」は神八井耳命を祖とする
 「多氏」であろうか。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々 : 埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  乎獲居臣、
  上祖名意富比垝、
  其児多加利足尼、
  其児名弖已加利獲居、
  其児名多加披次獲居、
  其児名多沙鬼獲居、
  其児名半弖比、
  其児名加差披余、
  其児名乎獲居臣
 
 稲荷山古墳から出土した
 金錯銘鉄剣の銘文の文字に含まれている
 抜刀人の系譜はこのように読み取られた。
  
  ➀上祖名意富比垝
 
 「意富」は古事記に特徴的な用語である。
 
 初見は上巻の冒頭神代の記述に
  「意富斗能地神」と現れる。
 
 これに続いて
 「次に妹大斗乃辨神」とあるので、
 「意富」が「大」であることが判明する。
 
 次に伊邪那岐命の黄泉国降りに
  「意富加牟豆美命」、
 また中巻になって
  神八井耳命の後裔に「意富臣」とあり、
 
 崇神天皇条に
 
 「即ち意富多多泥古命を以ちて神主と為りて、
  御諸山に意富美和の大神の前をきたまひき」
 
 とある。
 
 このうち意富臣は
  『日本書紀』に「多臣」とあるほか
 「太、飫富、於保」とも表記される。
 
 鉄剣の刻銘「意富比垝」は
 「オホヒコ」と読まれており、
 この呼称は
 『古事記』の崇神天皇条に載る大毘古命、
 『日本書紀』の大彦命に当たると理解されている。
 
 『古事記』に
  「大毘古命を高志道に遣わし、
   其の子建沼河別命をば、
     東の方で十二道に遣はして、
   其の麻都漏波奴(まつろはめ)人等を
     和平さしめたまひき」と、
 
 いわゆる四道将軍の一人として
 北陸道から東国に派遣された人物名である。
 
 「意富」の訓音を太田亮の
  「姓氏家系大辞典」では
 「オホ」としているが、
 その訓音を移している「飫富」は「ヲフ」である。
 
 延喜式神名帳「上総国望陀(コウダ)郡」に
  「飫富神社」とあり、
 同社は
  現在の千葉県袖ヶ浦市飫富の飽富神社で、
 土地の古老は「オオノミヤ」と
 呼びならしていたという。
 
 当地は
 和名類聚抄の
 上総国望陀郡飫富に比定されている。
 
 「オホ、ヲフ」の原義は何であろうか、
 それはサンスクリット語の 
 aha で、「日、太陽、昼」を意味する。
 
 A- が「オ」と訓まれた実例は
 asi (険、刀)がオシ(忍)、
 asina (雷電)が
  オサノ(長野)となったことを述べたが、
 
 西アジアでゾロアスター教の火(日)神
  ahra-mazda (アフラマズダ) が
 紀元1世紀を超えて
  ohra-mazda (オフラマズダ)となった例を
 第7章メルッハとオフルで述べ、
 
 オフルとは
  aha と同義の ahar に依拠することを説いた。
 
 奈良県桜井市の地名粟殿及び粟原はそれぞれ
 「オオド」「オオハラ」と呼ばれており、
 「アワ」が「オオ」となっている。
 
 ②多加利足尼
 
 第2代の名を「タカリスクネ」と
 読む見解もみられるが、
 これは「多(オホ)のカリ宿禰」と
 解読すべきである。
 
 その上祖「意富」を多氏と解する理由は、
 2代4代5代名の最初に
 「多」があるからである。
 
 足尼は宿禰と同義とみられるが
 「多加利(おおかり)」は
 ahas-kara で「太陽」を意味する。
 
 この ahas-kara は ahas-cari で
 cari は「動くこと、行」である。
 
 ここに窺われるのは
 日神崇拝者の系図である。
 
 ③弖已加利獲居
 
 第3代の名は「テシカリワケ」と訓ある。
 
 獲居は「別」と理解されている。
 
 「テシカリ」は 
 trjo-kara の音写で「光輝のもの」で、
 これも「太陽」を表わしていると考えられる。
 
 ④多加披次
 
 第4代の名は「多のカワジ」と訓め、
 カワジはその語義を確定するのは難しいが、
 現在の埼玉郡川里村の「川」に
 係わるものと考える。
 
 というのも
 村内の地区名「広田(ひろた)」の祖語を
 「コウダ/コウチ」とすることができるからである。
 
 成田市台方の麻賀多神社のある地域
 公津(きみつ)は
 「コウチ」で、
  その隣りの江弁須は「カワジ」に近似する。
 
 「カウチ」は
 奈良県桜井市、明日香村など
 かっての大和国高市郡、
 古代の王朝所在地の地名に係わり、
 これらを考察すると「王族」ないし
 サンスクリット語の「城」を意味する 
 koṭṭa 、
 セム語の kussi(王座)を祖語とする
 「城主」を表わすものとみられる。
 
 川里村広田の南には
 行田市埼玉のすぐ東に接し屈巣(くす)、
 さらに鴻巣があり、
 加披次の遺称ともみられる。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々 《埼玉・鹿島:剣持神の国》(4)「稲荷」名古墳と稲荷神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(4)「稲荷」名古墳と稲荷神社》
  
  さきたま古墳群には
  稲荷山、諏訪山、二子山、丸墓山といった
 名称が墳丘に付けられている。
 
 将軍名はその近くでは
 東松山市下野本に将軍塚古墳があるように
 武人である支配者を想像させる。
 
 二子山は前方後円墳、
  丸(墓)山は円墳を表わすもので納得できる。
 
 諏訪山名も東松山市にもあるように
  よく使われているが、
 稲荷(山)に至っては
 群馬県藤岡市白稲荷山古墳、
 千葉県市原市国分寺の稲荷台古墳など
 極めてたくさんの古墳名に使われている。
 
 「稲荷」名古墳は、
 山田知子が昭和58年12月に
 調査した報告によると
 全国35都道府県に189基があったという。
 
 最も多いのは群馬県の25基、
  次いで埼玉県20基、
 京都府13基、
  福島県・茨城県10基、
  宮城県・愛知県8基、
 千葉県・兵庫県7基、
  山梨県・静岡県に6基、
 東京都・岡山県・香川県5基
 
  などであった。
 
 また、「稲荷」名は付いていないものの
 墳丘に稲荷神社が祀られている古墳も多い。
 
 その例を次のように上げている。
 
 岡山市高松の壱五山古墳群、
 茨城県石岡市の山崎古墳、
 結城市の繁昌塚古墳、
 滋賀県栗東町の宇和神社境内古墳、
 京都市右京区太秦の天塚古墳、
 西京区大枝東長町の福西古墳群、
 京都府天田郡夜久野町折塚古墳。
 
 このように
 多くの「稲荷」が祀られている理由が
 「宇迦之御魂神・倉稲魂神」を
  神格としていないことは
 容易に理解できるだろう。
 
 現在の稲荷信仰には、
 稲作の神、商売繁昌の 
  神としての性格が強いが、
 多くの古墳に名称が付けられた
  江戸時代前期以前には
 別の想念が「稲荷」には
 強かったものと考えられる。
 
 つまり、
  死して行く「彼岸」、
 天界の想念で、
 諏訪山などの「スワ」、天塚などと共通する。
 
 「稲荷」が sineru の転訛であることは
 既述したところだが、
 死後の世界「天界」の象徴である
 スメル山(シネル山)の想念が
 古墳に銘名させたものと考えられる。
 
 仏教では
 スメル山を須弥山、妙見山というが、
 仏教の浄土に対する信仰が
 影響したと推測できる。
 
 古墳に稲荷が深く係わっている状況は、
 「イナリ」が 
 sineru であることを
  傍証するものである。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々 《埼玉・鹿島:剣持神の国》(3)稲荷山古墳の鉄剣 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(3)稲荷山古墳の鉄剣
  
  行田市さきたま古墳公園にある
  稲荷山古墳より1968年に
 出土していた鉄剣から
 銘文が発見されたのは1978年のことである。
 
 銘文は115文字から成り、
  金象嵌されていたので、
 この剣を金錯銘鉄剣という。
 
 銘文の内容には、
 意富比垝から手獲居臣まで
 八代の系譜が記され、
 
 「世々為杖刀人首奉事来至
  今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左
  治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」
 
 とある。
 
 「世々、杖刀人の首と為り、
  奉事し来り今に至る。
  ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、
   シキの宮に在る時、
  吾、天下を左治し、
   此の百練の利刀を作らしめ、
  吾が奉事の根原を記す也。」
 
 というのがその下し文である。
 
 文頭に「辛亥ノ年7月」の記述があり、
 これは471年、531年との二説があり、
 今のところ前者が有力である。
 
 「獲加多支歯大王」は
  「ワカタケル」と理解されて、
 「大長谷若建(ワカ)命」である
  雄略天皇に該当されている。
 
 銘文はその剣を「利刀」といっているが、
 その意味は「よく切れる鋭利な刀」である。
 
 稲荷山古墳の南方に
  利田(かがた)の地名があるが、
 これは利刀に因むと考えられる。
 
 「カガタ」は 
 khakkhata の転訛で
  「荒々しい者」、雷鳴を表わす。
 
 和歌山市宮地区の国懸(くにかかり)神社の
 「懸」と同じで雷音神である。
 
 銘文を作らせた手獲居臣の系譜には
 意富比垝から八代に至るまで
 「杖刀人の首」として
 朝廷に仕えてきたといっている。
 
 「杖刀」とは刀を杖にするとも採れるが、
 ここでは
 「刀を持つ、刀を立てる」と理解する。
 
 つまり
 刀剣を持って王に仕えたのである。
 
 大相撲の横綱土俵入りの際露払いと共に
 「太刀持ち」を待するが、
  彼は太刀を右手に立てて持つ。
 
 この姿こそ杖刀人の象徴的形である。
 
 依って「杖刀人」は「剣持」で
  śakti-mat である
 「前玉」と同義である。
 
 直截的に理解すれば
  意富比垝に始まるこの一族は
 軍武の一族で、
  その氏族的性格から武神である
 「剣持神」を前玉神社に祀ったと考えられる。
 
 インドラ神は
 アーリア人が
  インド亜大陸に侵入してきた時の
  第一の武神であった。
 
 「刀を立てる」との概念は
 次のような解釈を誕む。
 
 延喜式神名帳に
 「前玉神社二座」とあることから
 祭神を二神と考え、
  その二神名をいろいろと推測してきた。
 
 その中に
 「前立命、忍立命」とする見解があった。
 
 これらは 
 śakti(前) 、
 asi(忍) で
 双方とも「剣」であることは明白で
  「刀を立てる」意味となるが、
 「アシ立て」は「足立」であり、
 
 埼玉郡の南から
 現在の東京都足立区にまで広がる
 足立(あだち)郡の祖語となり、
 そこが
 抜刀人の勢力範囲であったことを示す。
 
 延喜式神名帳武蔵国足立(あだち)郡に載る
 足立神社
 (さいたま市西区飯田の同名社に比定)の
 訓音が「アシタテ」と符されている。
 
 稲荷山古墳の被葬者が、
 発掘記録によると礫槨の中に
 金錯銘鉄剣と共に
  太刀、鉾、矢の束、挂甲、馬具が出土し、
 それらの装身具から判断して
  武人であったことを覗わせている。
 
 また十程度の人物埴輪が出土しているが、
 そのうちの四体は武人埴輪である。



M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々 《埼玉・鹿島:剣持神の国》(2)香取神宮と鹿島神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(2)香取神宮と鹿島神社
  
  千葉県佐原市の香取神宮の祭神は
 経津主命で「剣神」として知られるが、
 既に述べたように香取は
 cutur で「天空」であるから、
 同神は「天の剣神」となり、
 その祖がインドラ神であることが明白となり、
 側高神社のスヴァルガ(天界)の神と符合する。
 
 香取神宮の利根川からの津の宮近くにある
 忍男神社の「オシオ」は「剣の男」、
 及び神宮の魚の宮近くにある
 押手神社の「オシテ」は
 astr (投擲者)で
 インドラ神に係わる呼称である。
 
 神宮の東南の地名多田「雷光、稲妻」を表わす
 tadit の音写である。
 
 これまで香取の祖名について
 「揖取(かじとり)」に依るものとの
 見解がなされてきた。
 
 これは
 その祭事が鹿島神宮と深く結びついており、
 津の宮から船により同神宮を訪ねるという
 行事があるため
 船舵を絡めた想像がされたものであろう。
 
 しかし、
 実際は祭神経津主命に
 カジトリの概念があったと考えられる。
 
 「カジトリ」の概念は「槍持」である。
 
 「カジ」は
 サンスクリット語の
 kadja で「棒」の意味である。
 
 この kadja は
 鹿島神宮の「カシマ」の祖語の語幹をなす。
 
 鹿島名は
 和名類聚抄に「常陸国鹿島郡」とあり、
 続日本紀の養老7年に初めて見られる。
 
 しかし、
 それ以前は常陸国風土記に
 「香島郡(かしまこおり)」とあるように
 「香島」と表記された。
 
 だがさらに遡及するとやはり
 「カジマ」であったと考えられるのである。
 
 というのも
 この地名は鹿島神宮の成立により
 誕れたものであるからである。
 
 香島郡に
 常陸国那珂郡の南部の一部と
 上総国海上郡の北部の一部を
 合併して成立したものである。
 
 そこで
 鹿島神宮の原型であるが、
 同神宮の祭神は
 建御雷神であることから考察すると、
 
 「埼玉」の祖語 
 śakti-mat が視座を与えてくれる。
 Śakti kaḍja と同義であり、
 kaḍja-mat がまた「剣持」「槍持」で、
 これが「カジマ」の祖語である。
 
 常陸風土記「香島郡」にある
 
  「其処(そこ)に有ませる
   天の大神社、
    坂戸の社、
    沼尾の社、
   三処を合せて、
    惣(す)べて香島の天の大神と称(い)ふ」
 
  とあるところの
 「坂戸」は śakti をいうものである。
 
 同語は剣、刀と共に「槍」が
  その語意の中に含まれており、
 現在も鹿島神宮の伝統に
   「鹿島槍」として生きている。
 
 神宮の北方の地名
  和(かず)は kaḍja の転訛であろう。
 
 「カジマ」がなぜ「カシマ」になったかであるが、
 これは、杵島曲(きしまぶり)に依る。
 
 これも同神宮の伝統にあるもので、
 旅立ちに際し謡われたもので
  「鹿島立ち」と称せられる。
 
 「キシマ」の祖語は
 サンスクリット語の
  kṣema で、
 「安全な、心地よい」の意味で、
  安全を祈願して謡った。
 
 神宮の摂社阿須波社は
  「路、旅行」を意味する
 サンスクリット語
  adhvan の転訛であり、
 「鹿島立ち」は同社に係わる信仰である。
 
 同摂社を鹿島前立の宮という。
 
 万葉集巻二十の防人の歌に
 
  「夜中の阿須波の神に木柴さし吾は
    斉(いわ)はむ帰り来までに」
 
  「霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ
    すめら御軍にわれは来にしを」
 
 とある。
 
 Kṣema が「木島」と音写された例がある。
 
 京都市右京区太秦に鎮座する
  木島神社がそれである。
 
 延喜式神名帳葛野郡に載る
  木嶋坐天照御魂神社名神大である。
 
 同社の東側に太秦安井の地名があり、
 「安井」が木島
   kṣema の意訳名であることが窺われる。
 
 このキシマが「カシマ」となったのである。
 
 「香」字が当てられたのは、
 紀伊国の紀氏関係で説明したように、
 同字が 
 kha の音写で「天空、空虚」を表わし、
 風土記にある
  「天の大神」の「天」に相当するからである。
 
 「香」が「鹿」となり、
  鹿が神使いとされるようになったのは、
 鹿渡、鹿殿といわれる
   医薬神の系譜の信仰が入ったからである。
 
 風土記に載る香島郡の西側は
  「行方(なめかた)郡」で、
 「方」は鹿をいうもので
 行方は「鹿渡」と同義である。
 
 以上の内容から、
 祭神建御雷神が、
 前玉神、経津主神と同じ神格で、
 その祖像が
 インドラ神であることが明白である。
 
 鹿島神宮の周辺をみると、
 神敷の地名がある。
 
 「敷」は稲敷郡でみたように 
 śuci の音写で
 「光輝」を表わし、
 「神敷」は雷光を表わす。 
 
 同神宮の
 北方に「猿田」、
 南方に「佐田」があるが、
 
 それぞれ
 「猿田彦」
 「佐田彦」名に依るもので、
 インドラ神の日本での尊名であり、
 鹿島神宮が同神名に係わる
  神格であることを示唆している。
 
 宮城県塩釜市の塩竈神社の祭神が、
 本殿の
  左宮に武甕槌神、
  右宮に経津主神、
 
 そして
 別宮に塩土老翁神であるが、
 インドの神
 インドラ神が日本において土着し、
 三つの神格に変化して
 奉祀されていることとなる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々《埼玉・鹿島:剣持神の国》(1)前玉神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(1)前玉神社》
  
  埼玉県草加市はかっての
 武蔵國足立郡のうちであるが、
 その北側は埼玉郡である。
 
 同郡名は、
 和名類聚抄には「佐伊太末、佐以多萬」と
   訓じられているが、
 
 万葉集の「東歌」に「佐去多萬」と詠まれ、
 また正倉院文書の神亀3(726)年の
  「山背国計帳」に「武蔵国前玉郡」の
   表記があることから
  「サキタマ」が「サイタマ」に
   先んじていたと考えられている。
 
 その語源を本居宣長が
    「幸魂(さきたま)」の転訛と説いたため、
 長くそれが信じられていた。
 
 和名類聚抄の埼玉郡には「埼玉郷」が載る。
 
 同郷は現在の行田市埼玉がその同定地である。
 
 ここには延喜式神名帳武蔵国埼玉郡に
  「前玉神社二座」と記された同名社が鎮座する。
 
 祭神は現在前玉彦命、前玉姫命の二神である。
 
 サキタマは
 この神社名に係わるものと考えられる。
 
 同社近くには「さきたま古墳公園」があるように
 古代には
   武蔵国北部の政治的権力の中心地であった。
 
 この「サキタマ」にも
  インドラ神の影が潜在しているのである。
 
 中世からここは忍(おし)氏の本拠で
 忍城があった。
 
  「オシ」はサンスクリット語の 
    asi の転訛である。
 
 忍地区の東方になる長野(ながの)は「オサノ」で
 本来は aśani の転訛とみられ、
 ここでは a が オ と発音される。
 
 Aśani は同市の北端須加と同じく
    「雷光、雷雲」である。
 
 須加は
   茨城県桜井村・東町の須賀神社でみたように
 śucyah(śuci) によるもので、
 須加地区内にも雷電神社が二社ある。
 
 これに対し asi は「剣・刀」を表わす。
 
  「相模:ドゥルガー・プーシャーの里」で
 足柄とは
   asi-kāra(刀鍛冶) であるとしたのと同語である。
 
 なぜそう解釈できるかというと、
 「サキタマ」はサンスクリット語の
   śaktimat 「剣(刀)を持つ」 
 に対応するからである。
 
 Śakti は本来「力、技能、能力」の意味ながら、
  「刀、槍、戈」を意味し、
   -mat は「持つ、見える」を表わす。
 
 よって śakti-mat (サキタマ)は
  「剣持」ないし「太刀持ち」を表わし、
 これはインドラ神の呼称である。
 
 京都市伏見区の稲荷山のお山に雷石があるが、
 その磐座はまた「劒石」と称されており、
 インドラ神の武器。
 
   雷光はまた剣と解釈されたのであり、
 忍(asi)が aśani (長野)なのである。
 
 さらなる傍証もある。
 忍の西方の持田地区に剣神社があり、
 この持田のさらに西側に続いて
 熊谷市佐谷田(さやだ)地区があるが、
 これは「サコタ」で śakti 、
   持田は -mat の転訛で
 佐谷田-持田は śakti-mat である。
 
 同様の例を相模の「寒川-倉見」が
 samkrama を分けたものとして紹介した。
 
 このような周辺状況からも
  「前玉」が「剣持神」であることを理解できる。
 
 市名の行田(ぎょうだ)は「コウダ」で
    「幸田」を転写したもので、
 śakti が祖語である。
 
  「行」字が使われているのは、
 後に述べる「加利」の祖語 cari が
  「行くこと、行」の意味であることによる。
 
 行田市の西側に位置する熊谷市は
 かって幡羅(はら)郡であったが、
 この「ハタラ」は
 サンスクリット語の
 vadhar の転訛で、本来「飛び道具」であるが
 インドラ神の雷電(金鋼杵:刀)を表わす。
 
 市内の上奈良にある豊布都神社は
  「天-剣」の意味で「幡羅」と同義となる。
 
 豊は第一章祝祭の「豊宇気毘売神」で紹介した
 dyo で「天の」、
 布都は「刀」として通称されている。
 
 前玉神社の南隣り「渡柳」は
 ワタリでこれも Vadhar の転訛と考えられる。
 
 熊谷市本町には千形神社が鎮座する。
 
   「千形」も近津と祖語を同じくする
   cikitśa の転訛であり、
 
 この地でインドの医方明(いほうみょう)が
 行われていたことを示す。
 
 その北方柿沼にも雀神社があり、
  「柿」は「古賀:小鳥信仰」で紹介した
 小鳥の意味の
 kha-ga に依るものであろう。
 
 行田市内の下増田の近殿神社、
  「ちかつ」である四方寺の湯殿神社
 (奈良新田にも同名社がある)も
 医薬に係わる神社である。
 
 このようにこの地方には
 インドの古代文化と深い関係が
   潜在しているのである。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:佐原(側高神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
佐原(側高神社)
  
  麻賀多神社と同様に
 パーリ語の用語を神社名としたのが
 千葉県佐原市の側高神社である。
 
 「ソバタカ」は sovattika の音写で、
 サンスクリット語の 
 sva-stika 、「十字」を表わす。
 
 同本社は佐原市大倉の大倉山にある。
 
 「オオクラ」は 
 sovattika-âlankāra (十字紋) の 
 âlankāra (紋)の転訛である。
 
 域内の落文大神社の「ラク」は
 その -lankà- を残して音写したものである。
 
 また大倉山の西側にある
 丁字は -ttika 部分の音写である。
 
 大倉山はまた丸峰と呼ばれるが、
 これは meru 山でスメル山、
 パーリ語の sineru 山でスメル山、
 パーリ語の sineru 山を表わす。
 
 つまり「側高」は
 インドラ神の住むスメル山の 
 svarya を表わしている。
 
 その svar (天界)が市名で
 佐原の祖語である。
 
 スバルは
 北イラクのスバル人に始まった
 古名であることは
 本書の重要な主張である。
 
 スヴァルは「十字」及び
 「天界、天空」を意味する。
 
 佐原市の成田線佐原駅近くの
 佐原地区に諏訪神社が鎮座するが、
 スワ(諏訪)が天界を表わしている証が
 ここにもある。
 
 側高神社は
 現在鹿取神宮の摂社となっているが
 「カトリ」が
 佐原、諏訪と同義の第四位にして
 「空虚、天空」を表わす cutur が
 祖語であることを納得できるだろうか。
 
 この地は
 インドラ神の隠れた鎮座地なのである。
 
 側高神社名は、
  蘇羽鷹神社(松戸市三ヶ月)、
  素羽鷹神社(印旛郡栄町竜角寺)、
  祖波鷹神社(香取郡栗源町岩部)、
 などと表記され崇拝されている。
 
 そのうち埼玉県の東端に位置する
 吉川市に蕎高神社が二社鎮座している。
 
 その社地高久は佐原市の丁字と同じく 
 ttika の転訛である。
 
 吉川市は江戸川を挟んで
 野田市と向い会っており、
 既述のように江戸川沿いに
 インドラ神信仰が広がっていたとの
 見解を補足説明するものである。
 
 側高神社の祭神については
 古来明らかでない。
 
 現在の主祭神は
 高皇産霊尊、神皇産霊尊とされる。
 
 それに倣い蕎高神社においても
 高木神を主神としている。
 
 側高神社の祭事の内、
 毎年1月10日に行われるのが、
 「鬚撫で祭」である。
 
 これは当屋渡しの行事で、
 鬚を撫でる回数に従って
 神酒を飲む回数を重ねるというもので
 「鬚」が中心となる。
 
 また毎年11月7日の
 脇鷹(そばたか)祭が行われる夜
 明治初年頃まで「白状(はくじょう)の祭」が
 津宮河岸で行われた。
 
 その祭儀に
 馬数に係わる伝承が
 内容になっているようだが、
 ここに登場する
 側高神が「白状」であったらしい。
 
 白状は「白鬚(はくしゅ)」の借用と考えられる。
 
 白鬚は鬚を撫で祭の鬚と結びつき、
 白鬚神は猿田彦神を表わす。
 
 滋賀県高島町鵜川の
 白鬚(しらひげ)神社の祭神は猿田彦である。
 
 既に述べたようにスヴァルガの支配神、
 メル山(丸峰)に住む神はインドラ神である。
 
 側高神社、香取神宮の周辺には
 稲荷神社が数多くある。
 
 稲荷大社の祭神に佐田彦神がいることを
 考え合わせなければならない。
 
 吉川市の蕎高神社のある高久と
 中川を挟んだ西側に草加市がる。
 
 「ソウカ」もインドラ神の別称
 śaci ないし śakra を祖語とする。
 
 śakra は仏教で帝釈と表記とされるが、
 音写では釈あるいは「釈加」と表記されている。
 
 釈加と草加は近似する。
 
 また同地の古家に浅古家があるが、
 同名は奈良県桜井市の三輪山の南方にある
 地名「浅古」とも合一する。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第寿一章 日本に祀られたインドの神々:佐倉(麻賀多神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
佐倉(麻賀多神社)》
  
  江戸崎町の同名地区の隣りに佐倉があり、
 佐倉神社が鎮座する。
 
 これは千葉県佐倉市名と同じであるが、
 「サクラ」はインドラ神の別称 
 sākra に依る。
 
 佐倉名は酒々井町にもみられるが、
 これらの地域に特徴的神社は
  麻賀多神社である。
 
 この「マカタ」は
 
 パーリ語の 
 makkata を音写したもので、
 その意味は「猿」で、
 
 サンスクリット語では 
 markata である。
 
 猿は猿田彦神名から採ったもので、
 「佐倉」であるインドラ神に対応する。
 
 佐倉市鏑木町の
 麻賀多神社近くには猿ヶ坂がある。
 
 麻賀多神社は
 成田市台方を本社として
 同市内に四社、
 佐倉市に内に十一社、
 酒々井町に二社、
 八千代市に一社、
 富里町に一社鎮座し、
 合わせ「麻賀多十八社」という。
 
 「マカタ」名は『記・紀』の成立後、
 
 それらの古書により
 「猿田彦神」に因んで
 仏教を通じて入ってきた
 パーリ語の猿名を採って
 神社名としたものと考えられる。
 
 本社である
 成田市台方字稷(あわ)山の
 麻賀多神社は
 『延喜式神名帳』に
 「印旛郡一座小麻賀多神社」と載る。
 
 同社の境内摂社に猿田彦社があり、
 幸霊社がある。
 
 幸霊の「幸」は 
 śaci でインドラ神の呼称であり、
 猿田彦社名と共に
 麻賀多神がインドラ神で
 あることが解かってくる。
 
 同社の鎮座地名稷山の「アワ」は、
 大神の「オホ」と祖語を同じくし、
 同社を創建したと伝えられる
 
 印波国初の国造
 伊都許利命の八代前の祖
 神八井耳命に始まる
 多氏に関係する。
 
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲敷(大杉神社) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]






[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲敷(大杉神社)
  
  京都市伏見区の稲荷山において
 インドラ神と稲作が結びついた
 信仰の様子をみた。
 
 同山の「お山」に大杉神社が鎮座しているが、
 同名社で茨城県稲敷郡桜井村阿波に鎮座する。
 
 稲敷郡名は「常陸国風土記」、
  延喜式神名帳、和名類聚抄にない。
 
 同地は風土記では
 信太郡に属していたとみなされる。
 
 大杉神社名も「延喜式」神名帳になく、
 
 その形成は平安期以降だろう。
 
 しかし、
 「信太」名は「穀を取り除いた米」を意味する。
 
 「仁」を表わすもので、
 当地方で稲作が盛んに行われていたことを
 窺わせる。
 
 というのも同神社の鎮座地
 「阿波」も「穀にあるもの」である
 「粟」ないし
 「玄米を搗いて精白したもの」である。
 
 「粱」に由来すると推測されるからである。
 
 実際は後者の相応性が高い。
 
 近郊の甘田や阿波崎も
 この粱(あわ)を理由とする地名である。
 
 大杉神社の「杉」は
 すでにみたように śuci(śucyah) の音写で
 
 「輝く、光を発する、白く輝く」で
 
 雷電や白米の輝きを想像させるものである。
 
 これらが妥当であることを
 ここで証明できるのである。
 
 まず稲敷の「敷(しき)」は
 その 
 śuci の音写であり、
 同社北方の四箇の、 
 śucyah が須賀津、
 東町の須賀神社の
 「須賀」の祖語であることが指摘できる。
 
 依って稲敷は「白米の輝き」で、
 しかも「稲妻、雷光(雷電)」を表わしている。
 
 村名桜井の「桜」は 
 śukla(śukra) の音写である。
 
 これは 
 śuci の形容詞形で「輝やかしい」となる。
 
 埼玉県越谷市大杉にも大杉神社がある。
 
 隣りの川崎神社は
 毎年7月24日に行われる
 「松明まつり」で有名である。
 
 その際
 御幣は雷電神社と榛名神社の御札で、
 前者が群馬県板倉町、
 後者が同じく榛名町の本社からのものである。
 
 雷電神社のある「板倉」はサンスクリット語
 idhi-kara の転訛で「支配、統治」を意味し
 天界の支配者インドラ神を表わす。
 
 インドラ神の武器である
 雷電を祭祀する神社である。
 
 稲敷郡東町の須賀神社のある伊佐部は
 インドラ神の尊称
 iśvara (支配者)の転訛である。
 
 桜井村の西隣りは江戸崎町だが、
 この「江戸」も東京の古名と同じ
 インドラ神名に依る。
 
 崎は霞ヶ浦が
 かってはここまで切れ込んでいて
 岬を形作っていたからに過ぎない。
 
 このように
 稲敷郡はインドラ神の影のある里である。
 
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲荷(黄金山信仰(3)稲荷山)② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(3)稲荷山)②》
  
 稲荷山は花山であり石山で、
 インドラ神話においてインドラ神は
 sumeru 山の svarga に住む。
 
 稲荷山とは
 インドラ神(佐田彦神)の住居のある
  スメル山なのである。
 
 スメル山はパーリ語で 
 sineru 山といい、
 その意味は「花山」である。
 
 稲荷を「イナリ」と読む理由も
  本実はここにあったと考える。
 
 稲は秦公(はたこう)の「秦(しん)」と
 その意味を同じくする。
 
 その漢語の訓音は qin で、
 英語の中国の呼称 chine の祖語
  と考えられている。
 
 よって中国(chine)の名称は秦国で
 秦は稲の種類名であることから
  「稲国」の意味となる。
 
 よって稲荷は
 「秦荷」とも内容的には表記でき、
 「シナリ」で sineru に符合する。
 
 つまり漢字で稲荷と表記されたのは
 秦公氏(秦中氏、田中家)と荷田家が
 奉祀する神社:秦荷社=
 稲荷社との背景があろう。
 
 『風土記』「山城国」逸文の
 伊奈利社の伝承は
 以上のような背景から生まれたと思う。
 日本古典文学大系「風土記」から転載する。
 
  風土記に曰はく、
  伊奈利と称(い)ふは、
  秦中家忌寸等が遠っ祖、伊呂具の秦公、
  稲粱を積みて富み
  裕ひき、もち、餅を用いて的と為ししかば、
  白木鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて
  山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。
 
  遂に社の名と為しき。
 
  其の苗商に至り、先の過ちを悔いて、
  社の木を抜(ね)じて、
  家に殖えて祈り祭りき。
 
  今、其の木を殖えて蘇(い)きば福を得、
  其の木を殖えて枯れば福あらず。
 
 稲がなる(伊奈利)を
 その起りとしているが疑わしい。
 
 この伝承中から注意をひくのは
 かえって稲粱である。
 
 「粱」は諸本に「梁」とあると
 同書は注書きしているが、
 粱、梁ともその訓音はリョウ(liang)で、
 稲粱はイナリと読める。
 
 「粱」は「玄米を搗いて白くした米」、
 
 つまり精白米のことで、
 宇迦御魂に相応する。
 
 穀類の茎についているものを
 粱(あわ)というのがその精米過程である。
 
 「禾」を作りとする秦は
 耕地から穫られた種名である。
 
  精製して白く輝く米のイメージは「稲妻」、
 つまり雷電である「大杉」と結びつく、
 それがこの逸文の後半の「木」と係わる。
 
 稲荷社の信仰には
 稲荷神の顕現として
 「験(しるし)の杉」として
 禍福を占ったという。
 
 この杉木が蘇(い)き続けることは
 豊作をもたらす験であった。
 
 稲荷大社の神使は白狐である。
 
 白狐伝承の起源はどこにあるかであるが、
 これもサンスクリット語の 
 jambhu に連なる用語から派生したものである。
 
 Jambhu-ka がそれで
 「山にすむもの、やまいぬ」から
 「狐、狸、狼」を意味する。
 
 そのうち狐になったのは
 「フシミ」の「フシ」が
 ラテン語で fuch 、
 英語で fox というように
 狐であったからである。
 
 これは後に鍛冶職が
 稲荷信仰を盛んに行ったと同じ理由による。
 
 「フシ」は pusy の「吹く」意味で、
 フイゴ(吹子)に通じる。
 
  Pusy(フシ)は藤とも音写される。
 
 鍛冶屋に関係した「藤」の物語は他にもある。
 
 諏訪大社の祭神御名方神が諏訪へ入る際、
 守矢の神が鉄輪(さなぎ)を持って
 戦ったのに対し、
 御名方神は藤枝で戦ったという。
 これは
 製鉄技術の技術レベルを象徴化した寓話で、
 野多多羅に対し、
 御名方神の方は
 フイゴ(吹子)で製鉄する技術を
 持って来たというものである。
 
 諏訪大社の摂社に藤島社があるが、
 Pusy(吹子)技術を祀ったものと考える。
 
 さらに
 富士山名の「フジ」もこの
 Pusyに原義がある。
 
 古代に活火山であった同山は
 盛んに噴いていたのである。
 
 神使が白狐であり、
 また稲荷神が鍛冶神(鞴神)として
 崇められる背景にはそのような理由がある。
 
 さらに江戸時代になって激しいが、
 商売繁盛の神として絶大な人気を得た。
 
 繁栄の神としての性格は
 豊作をもたらす神として既に古来あった。
 
 その理由を探ると、
 これもサンスクリット語の花 
 puśpa の同類語 puś に由来する。
 
 Puś(Pusyati) は
 「繁栄する、繁茂する、繁盛する」で、
 名詞形 puṣh あるいは poṣu は
 「繁栄、繁盛、豊富」を表わす。
 
 最後に、
 稲荷神社といえば
 赤い鳥居に特徴づけられている。
 
 その理由は五祭神のうちの
 四(しの)大神に係わる。
 
 その呼称を「シノ」としていることは
 西野、科、志野と同様
 花を表わす sūna とも考えられるが、
 この場合は「空虚、大空」を表わす 
 śuna に依拠した
 シネル sineru 山に対応する。
 
 「四」は第四位の表記で、
 サンスクリット語の 
 cuturtha を表わすが、
 その派生語が同義の 
 turya で、その音写が「鳥居」である。
 
 鳥居は四大神名そのものなのである。
 
 しかも第四位は「空(くう)」であり、
 東京の港区の赤坂で
 新宿区四谷の関係でも紹介したように
 「空虚」を表わす用語に 
 ākasa があるため、
 そこから想像された
 日本語の「赤(あか)」を
 鳥居に塗るようになったものである。
 
 鳥居ばかりでなく
 社殿が朱に塗り込められているのは、
 四大神に係わる
 このような背景があるからである。
 
 この状況からしても稲荷山信仰が
 天界 śuna 信仰であることが理解できる。
 
 またインドラ神の住む
 スヴァルガのあるスメル山信仰である。
 
  スメル(シネル)山は
 黄金に輝く山と美称される。
 
 Hemâcala あるいは Hemâdri 
 はその別称で、
 「黄金山」の意味である。
 
 インドの首都ニューデリーの北方
 ヒマラヤ山脈に沿って
 Hemacala 洲がある。
 
 デリー空港から
 カシミールのスリナガルまで
 飛行機で往復したことがあるが、
 その地方のヒマラヤ山脈は
 まさに黄金色に映えていた。




 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 



nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲荷(黄金山信仰(3)稲荷山① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]






[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(3)稲荷山》
  
  稲荷山信仰は
 二つの部分に依って構成されている。
  一は伏見稲荷大社、
  二は「お山」あるいは「お塚」
 と呼ばれる山の頂方向の諸社である。
 
 だが、
 双方とも全く別というわけでなく
 混合され信仰されている。
 
 お山にある荷田社及び田中社は
 稲荷大社の奉祀家を成す二大族を表徴する。
 
 荷田社は「カタ」で堅真音社の「堅」、
 「和佐」と同じく
 khatā を祖語とする「井、池、泉」で
 紀氏の系譜であることが明らかである。
 
 田中社は、
 石清水八幡宮の奉祭氏家
 「田中家」とも同根であるが、
 稲荷神社を
 元明天皇の和銅4年2月に祀った
 秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)の
 系譜である。
 
 忌寸は
 欽明天皇の幼時に
 夢見て捜させ寵愛したという
 秦公伊呂具の後裔である。
 
 田中は「畑中」と同義で
 「秦中(はたなか)」に符合するばかりでなく
 天道根命の「道根」に即応している。
 
 「秦公」についてその表字が
 太秦の秦氏と同じことから
 弓月君系統の秦氏とする
 見解が通ってきたが、これは疑問である。
 
 「秦公」とは
 和歌山市宮地区の津秦にも
 表わされているように、
 紀氏の祖天道道根命の「道」である 
 patha の音写である。
 
 同語は英語の「通路」を意味する 
 pass (通過する)とも
 同根の用語である。
 
 田中社は稲荷大社の祭神田中大神である。
 
 稲荷山信仰は
 いずれはしても紀氏の信仰に係わる。
 
 『延喜式神名帳』には
 山城国紀伊郡に
 「稲荷神社三座名神大」とある。
 
 現在の祭神は次の五座となっている。
 
 『梁塵秘抄』には
  「稲荷をば三つの社と聞きしかど
   五つの社なりけり」
 とあるので
 平安時代初期に三座であったものが
 平安末期には五座となったことを示している。
 
  下社   宇迦之御魂神 <中央座>
  中社   佐田彦大神 <北座>
  上社   大宮能売大神 <南座>
  田中社  田中大神 <最北座>
  四大神社 四大神 <最南座>
 
 カッコ内は稲荷大社本殿内の配置を指す。
 
 これにより解かることは、
 稲荷大社の主神が宇迦之御魂大神であるが、
 お山においては
 そうではなさそうだということである。
 
 中社の佐田彦大神とは猿田彦神の別称で、
 大宮能売神は天鈿女神の別称である。
 
 佐田彦神はまた塩土老翁神であり、
 つまるところ
 インドラ神がその祖像である。
 
 大宮能売神は佐田彦の妻となり
 猿女氏の祖とされた、
 日本で
 『古事記』の天孫降臨により
 構想された組合せの妃神である。
 
 ここで
 第1章祝祭を再認してみなければならない。
 
 「ウケ」とは牡牛の意味であり、
 それはまた神饌を表わすものであった。
 
 豊宇気毘売神(登由宇気神)は
 「神饌神」であった。
 
 宇迦之御魂大神の「宇迦」は
 このウケと同義である。
 
 西アジアにおいて祝祭で
 供犠された牡牛と小麦は
 一対の組合せであった。
 
 『古事記』に須佐之男命が切り殺した
 大気津比売神の屍から
 
  「頭に蠶生り、二つの目に稲種生り、
   二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、
    陰に麦生り、尻に大豆生りき、
   故、ここに神産巣日の御祖命、
   これを取らしめて種と成しき」
 
 『日本書紀』では
 保食神を
 月夜見尊が殺したとの伝承になっているが、
 
  「粟、稗、麦、豆を畠の種とし、
   稲を水田の種とされた」とある。
 
 「宇迦之御魂」とは
 これら穀類の「種」を表わしているのである。
 
 つまり西アジアでの小麦は
 稲作地帯に入り、米に変ったのである。
 
 現在中国の雲南省の牛殺祭に
 牛頭にかけられるのは
 「ゴウ」と呼ばれる米粥である。
 
 日本でも最近まで殺牛の際には
 米を食べさせた。
 
 また飼育を牛を売り払う前日に
 ご飯を与えることは習慣になっていた。
 
 稲荷大社においては、
 特に稲種が尊重されたとの理解ができる。
 
 宇迦之御魂を
 「倉御魂神」と「宇迦」を「倉」と
 表記している理由もそこにある。
 
 「倉:クラ」は
 サンスクリット語の 
 kūra の音写で、
 その語義は「飯」である。
 
 よってその意味は「飯御魂」となり
 「稲御魂」と同義である。
 
 稲種に対する信仰である。
 
 同社の祭事稲荷祭は
 現在4月8日に近い
 日曜日は行われているが、
 
 『今昔物語』巻28の第一話
  「近衛舎人どもの稲荷詣でに
   重方女にあふものがたり」しは
 
  「今は昔、衣曝(きさらぎ)の始午の日は、
   昔より京中に上中下の人稲荷詣でとて
    参り集ふ日なり」
 
 とあるとおり
 「如月の始午日」に行われた春耕祭で、
 また歌垣のような行事であったとみられる。
 
 歌垣には
 祝祭(殺牛祭)がつきものであった。
 
 「餌袋(えぶくろ)、破子(わりこ)、
   酒など持たせ、つれて参りける」
 
 とあるようにここが宇迦の山でもあった。
 
 春の歌垣が新畑祭で播種祭であることは
  記述のとおりである。
 
 お山には大杉大神あるいは
  大杉社、傘杉社がある。
 その「杉」は
 サンスクリット語の 
 śuci(śucyah) の移入である。
 
 その意味は
 
  「輝く、光を発する、白く輝く」で、
 
 これは雷電、電光をいっているのである。
 
 傘も同じく kaśa で「光輝」の意味であり、
 インドラ神の武器である。
 
 佐田彦大神奉祀に合致する。
 
 山頂近くには「雷石」があり、
  「おせき社」がある。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々: 稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏》
  
  紀氏に連なる僧が宇佐八幡宮を
 なぜ勧請したかについての推測であるが、
 和歌山市宮地区の
 鳴神社、堅真音神社などは
 雷神である
 インドラ神を祭っていたとの説明をしたが、
 このインドラ神は空界の代表の神であるが、
 その「空」を神名としているのが
 ディヤウス神で、
 その娘がウーシャス神である。
 
 リグ・ヴェーダに詩われた讃歌に
 神の娘(天の娘)と呼びかけられる。
 
 紀氏名は kha の音写で
 「天空、空虚」を表わすと述べられたが、
 ディヤウス Dyaus も
 「大空・虚空」などであり同義である。
 
 宇佐神宮の祭神が
 ウーシャス ūsas で、
 その子がアシュヴィン āsvin 双神であり、
 紀氏はインドの同じ系譜の神々を
 奉祭することとなり統一がとれる。
 
 インドラ神の系統については
 第8章のうちの
 「インドの神々」で紹介してある。
 
 また「八幡神」についても
 第五章のうちの
 「ノアの系図(1)ヤペテの子孫」で触れたが、
 宇佐宮は本来上記の
 ウーシャス神、アシュヴィン双神の
 三神が主祭神であったが、
 後に
 誉田別命、息長帯比売命を祀ることにより、
 八幡宮(avatāna 権化/ヤペテ)
 となったのである。
 
 そのため宇佐八幡宮祭殿の
 中央には比咩大神、
 左右に田別命、息長帯比売命と主祭神が
 脇殿に鎮座しているという
 一見不可解な配置になっているのである。
 
 宇佐神宮の社殿の壁が
 朱塗りされているのは、
 ウーシャス神が曙神であることから
 その暁の陽色を表現しているからである。
 
 岩清水八幡宮から
 平成3年になって神像八体が発見された。
 そのうちに
 女神坐像二体、
 童形神坐像が五体あった。
 
 女神像はウーシャス神を、
 童形神像は製作年代がばらばらで
 双神の構成にはなっていないが、
 宇佐八幡宮にもあるように
 アシュヴィン双神(童子)を表わし、
 宇佐神宮の古層の信仰が
 踏襲されていた証である。
 
 石清水八幡宮の祭事は
 毎年9月15日に催される
 「石清水祭」がある。
 その時の神饌として食膳と共に
 12台の「御花神饌」が供えられる。
 
 「松・藤・つつじ・鳩」
 「梅・福寿草・うぐいす」
 「桜・山吹・蝶」など
 四季の花樹と動物・鳥・昆虫が
 それぞれにあしらわれたものである。
 
 この花に対する特徴的行いも
 これまで述べてきた
 「花山」の概念の波及であろう。
 
 そして「石清水」と「石」を
 符していることにも通じる。
 
 伏見稲荷大社の祭神のうちに
 現在、田中大神があるが、
 石清水八幡宮の奉祀家
 田中家との関係を想起させる。
 
 伏見区御香宮前町に鎮座する
 御香宮神社にも境内には湧水があり、
 「御香水」と呼ばれている。
 
 現在の社地は
 伏見桃山城の築城のため
 遷されたところだが、
 泉がある所が選ばれており
 「井」に対するこだわりがある。
 
 神社名は
 この「香水」に依るものと
 解釈されているが
 「香」は
 奈良市御蓋山南麓紀伊神社のある地を
 香山と称したと同じく 
 kha (天空)の音写で
 紀氏を表わしており、
 同氏族が往古奉祀していたとみられる。
 
 つまり、
 石清水社と同じ理由である。
 貞観4年に清泉が湧き出て
 病人たちが飲む回癒したとの
 伝聞が朝廷に聞こえ、
 「御香宮」の社号を賜ったという
 伝承の根底には「聖水」信仰がある。
 
 伏見区深草鳥居崎町に
 藤森(ふじのもり)神社が鎮座している。
 
 「藤森」は「藤杜」あるいは「藤社」であった。
 
 この神殿の相殿に「藤尾社」があり、
 社伝に依ると、同社の前身であったという。
 
 藤尾は現在の稲荷大社のある地の古名で、
 その地主神が「藤尾社」または
 「藤野井社」であった。
 
 稲荷大社が盛んになる以前の神格が
 藤尾社であったことをうかがわせるが、
 これも紀氏の信仰が
 深く係わっていると考えられる。
 
 「藤尾(ふじお)」はまた「フジピ」で、
 そのサンスクリット語の 
 puṣpa で「花」を意味し、
 sūna と同義である。
 
 稲荷大社の西方の一帯は「砂川」で
 かっての藤尾郷の地帯である。
 
 藤尾名は山科の花山など
 紀氏の「花」と深く係わる用語である。
 
 さらに「伏見」名も
 この藤尾 puṣpa に由来している。
 
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏)➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]









[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]




創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(2)紀伊郡と紀氏》
  
  京都市伏見区は『和名類聚抄』がいう
 「紀伊郡」の地である。
 
 史料における初見は日本書紀「欽明天皇」条に
 「天皇幼き時、夢に人有りて云う」。
 
 『天皇が秦大津父(はたのおおつち)という者を
  寵愛されれば、
  壮大に及んで必ず天下を有(あ)らされる』。
 
 「寐(ねさ)鷩めて使いを遣わして
  普(あまね)く求めると、
  山背国の紀郡の深草里にて
  (その人を)得た」
 
 とある。
 
 ここに
 秦氏が存在したことを示す史料でもあるが、
 「紀郡」の名称は紀氏の存在を推測させる。
 
 「紀」は紀氏の氏姓に由来するものだろうか。
 
 東隣の山科には
 紀氏の影響のあった証が十分であった。
 
 山城国における紀氏の存在は、
 伏見区の西南に位置する八幡市に鎮座する
 岩清水八幡宮の奉祭氏族が
 紀氏であることによって知られる。
 
 「岩清水八幡宮護国寺略記」によると、
 紀氏の一族である
 南都大安寺(奈良)の僧行教が
 貞観5年(863年)に
 宇佐八幡宮の祭神を移座したという。
 
 行教が宇佐宮に参着中
 
 「都の近くに移座し国家を鎮座せよ」
 
 との信託を受け、
 山崎辺りまでやってきた時、
 また
 
 「移座するところは岩清水男山の峰なり」
 
 との託宣を受けたものと伝える。
 
 しかし、
 本当のところは
 ここが紀氏の勢力にあった痕と考えられる。
 
 八幡宮が遷座される以前に
 既に現在同社の摂社となっている
 岩清水社があったとみられる。
 
 なぜならば、
 岩清水社には
 今でも清水が湧き出る泉(井)があって
 神聖視されていたからと考えられる。
 
 和歌山市の紀氏の本拠である宮地区には、
 「出水(でみず)」または堅真神社の「堅」、
 その東側の和佐地区名は「井」であることなど
 「水」に係わる地名が多い。
 
 この「水」こそ「岩清水」に相応し、
 鎮座する山名「男山」の原義である。
 
 「オトコ」は
 サンスクリット語の「水」を意味する
 udaka の転訛で、
 その意義には
 「聖水を供えること、浄水」があり、
 「男山」の本義は「聖水山」となる。
 
 八幡宮のうちには
 水分社、水若宮社、灌頂堂など
 「水」に係わる神徳が備えられている。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:稲荷(黄金山信仰(1)花山) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]


創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
稲荷(黄金山信仰(1)花山》
  
  興福寺の別称である山階寺は、
 中臣鎌足の妻鏡女王によって
 山城国山科の陶原に建設されたものが、
 飛鳥に移され厩坂寺となった。
 
 山科(山階)は紀氏の影響を受けた地域である。
 
 その京都市山科には
 紀伊国でみた地名が散在する。
 
 山科区の西方に
 花山、西野、西野山、栗栖野があり、
 その地名由来は紀伊国の場合と同じと考える。
 
 山科ないし山階は「ヤマシナ」であるが、
 その「シナ」は sūna で「花」を意味し、
 「西野」と「科」は同義で、
 大峰を中心とする山陵「花山」、
 それに連なる
 「西野山」も「花の山」の意味である。
 
 山科の「山(ヤマ)」であるが、
 この説明もまた「花」の真義が
 何であるかを説明するものとなる。
 
 京都市北区に紫野(むらさきの)があるが、
 これも本来は「シノ」である。
 
 同地域内に西野山、栗栖など
 紀伊に親しい地名があるが、
 そこに鎮座する
 今宮神社の「今宮」も「山(ヤマ)」と
 その祖語を同じくするのである。
 
 今宮神社はまた「紫野宮」と通称され、
 御霊会の行事として
 「やすらい花」が行われる宮で、
 その祭祀の中心に「花」がある。
 
 この花とは
 サンスクリット語の 
 jambhu のことで、
 今宮の「イマ」及び山科の「ヤマ」の祖語である。
 
 Jambhu は「蒲桃」と漢訳される。
 
 すでに
 「大江戸:塩土老翁の鎮座地」に登城させた
 jambhu-dvipa(閻浮提洲)の構成用語で、
 jambhu はインドラ神の宮殿のある
 スメル山の中心にある巨大な樹の名称である。
 
 蒲桃は日本語でいう
 天人(てんにん)花と考えられ、
 これはフトモモ科の常緑潅木である。
 
 夏淡紅色の五弁花を開き、
 花が経ると紫色で楕円形の果実となる。
 
 閻浮は漢音で yán-fu 、
 日本語訓音で yen-fu で
 「浮」はまた「ブ」で「マ」との互換性があり、
 「ヤマ」となり、「エ(ィ)マ」となる。
 
 このように「山(ヤマ)」は jambha で、
 山科は 
 jambha-sūna で蒲桃樹花を表わしている。
 
 花山とは蒲桃樹のある山つまり 
 sumer 山を表徴していると
 考えられるのである。
 
 スメル山はヒマラヤ山から想像された山で、
 その基礎は「岩の堆積した山」
 つまり岩(石)山である。
 
 Su-meru の meru は
 その訓音の近似する maru に依る。
 
 その意味は「山、岩、石、砂漠」で、
 su-meru(maru) は「美しい岩山」となる。
 
 その概念で名付けられた山名が
 西野山の南方にある大岩山であり、
 西野山にある岩ヶ谷町名となり、
 その北方花山に連なる清水山を中心とする
 東山(ひがしやま)の山系名の起りでもある。
 
 「東」は「アズマ」で、
 サンスクリット語の
 aśman の転訛で「岩、石」を意味し、
 京都市東山区、山科区、伏見区の
 区境を形成する山地をスメル山とする
 概念が貫かれている。
 
 その概念は
 滋賀県大津市石山まで包含するものである、
 そしてその中央に立つのが
 三つの区の境に位置する稲荷山である。
 
 「イナリ」は 
 sumeru のパーリ語された名称
 sineru の転訛である。
 
 この山系には
 岩、石、砂のつく地名が極めて多い。
 
 大岩山の南方伏見区の石田から
 小栗栖の岩山町、石川町、
 深草の白砂町、砂子谷町、砂川、
 そして
 稲荷山の麓に石峰寺があるように
 稲荷山の山中には
 「剣石」あるいは「雷石」があり、
 「おせき者」が鎮座する。
 
 ここは石山である。
 
 「砂」は単に「石」を表わしているだけでなく、
 sūna の音写でもあり、
 稲荷山が花山であることを示している。
 
 和名類聚抄「紀伊郡」の八郷のうちには
 「石原郷」「紀伊郷」の二つの「石」を
 符された郷名があり、
 山城国紀伊郡に
 古来「石」に因んだ文化があったことを
 物語っている。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:紀伊(天神族の国)②  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]




創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
紀伊(天神族の国)》
  
  鳴神から栗栖にかけては
 花山温泉のある小高い丘陵地花山である。
 
 花はサンスクリット語で sūna で、
 その音が近似する 
 śuna は「空虚」を意味し、
 「天、空」を表わし
 「天神」に係わる名称である。
 
  名草郡の東方は那賀郡となるが、
 「ナカ」は茨城県那珂郡、
 那珂川でみたように
 「天空」を表わす nāka の音写であり、
 紀(kha)と同義である。
 
 那賀郡那賀町那賀にある
 西野あるいは西野山は、
 花を表わす sūna に依拠する。
 
 西野山は日本の外科医術上に名高い
 華岡青洲の故郷で、
 華岡は花岡で花山を意味する。
 
 また地区内に王子神社が鎮座するが、
 sūna がまた
 「息子、王子」を意味するのである。
 
 西野の東隣り伊都郡かつらぎ町に
 背ノ山あるいは妹背(せの)があることも、
 その地名が単なる西の山ではないことを示す。
 
 シノ名は那賀郡内に散在する。
 
 那賀町の西側、粉河町には志野がある。
 
 この志野の北方、打田町と
 大阪府との県境には志野峠がある。
 
 那賀郡の南隣り海草郡美里町には
 真国(まくに)川が流れ、
 真国宮の地名がある。
 
 この地には平安時代から真国荘があったように、
 真国は古名である。
 現在は「マクニ」と呼ぶが、
 これも「シナクニ」であったとみられる。
 
 荘域内に花野原の地名がある。
 
 その東方、伊都郡に
 平安時代からの荘園名である
 花園(村)があることをも参考となる。
 
 村内の新子(あたらし)は「シネ」の転訛であろう。
 
 『延喜式神名帳』の名草郡に
 「堅真(かたま)音神社」が載っている。
 同社は和歌山市宮地区鳴神にある
 鳴神社の東北300㍍余りのところ、
 花山の域内に鎮座している。
 
 堅真の「真」も「シナ」で花山の「花」に符号する。
 鳴神の地は和名類聚抄の
 「名草郡有真(ありま)郷」で
 後には有馬村とも記されたが、
 吉田東吾は大日本地名辞書で
 「有」は「肩」と近似し
 「肩真」であっただろうと推測しており、
 神社名「堅真」に相当する。
 「カタ(堅、肩)」は
 サンスクリット語の「井戸、池」を意味する
 khāta の音写であり、
 この語は宮地区の東側、和佐の祖語である 。
 
 井ノ口、和佐(わさ)中、下和佐の三地名は、
 和佐が「カタ」で「井」であることを示している。
 
 よって、
 「堅真」は「カタシノ」ないし「カタシネ」で
 khāta-sūna(池の花)の転訛である。
 
 那賀町の西野山を取り巻く地名、
 名手(なで)は
 nadi で「河、流水」を表わし、
 花岡(西野山)が
 水(池)の中であることを推測させ、
 堅真と同じであることを想わせる。
 
 宮地区の出水もこの概念による地名である。
 
 「音神」も鳴神社や
 栗栖 kuliśe (インドラ神の雷電)から
 やはり雷神を想起させる。
 
 「音」は雷鳴で
 「荒々しい音」 khakkhata に対応する。
 
 この用語が「カカ」で
 「和歌(カカ)」の祖語と考えられる。
 
 紀氏が奉祭する
 国懸(くにかかす)神社の「懸(カカス)」に
 対応するサンスクリット語でもある。
 
 紀伊には
 和歌山市小倉地区大垣内初め
 「垣内(かきうち)」を
 持つ地名がかなり多くみられる。
 
 この地名は「カキナイ」と読め、
 これも「天空」を表わす
 サンスクリット語 gagana(gagaṇa) の
 転訛とみられる。
 
 漢音写では「伽伽那」とされているが、
 その語義は kha (天空)と同じである。
 
 このことからも「紀」が
 天空の意味から発したものであることを
 示唆している。
 
 紀氏の「シノ」を
 明確にしておくことは意義がある。
 
 美里町真国宮の西方に
 神野(こうの)の地名がある。
 
 長野県小県東部町はかって
 県(あがた)町であったが、
 ここは中世から戦国時代にかけての豪族
 神野(じんの)氏の勢力地であった。
 
 同氏族の伝承によると
 彼等は天道根命の後裔である。
 
 神野氏の系列には
  滋野(しげの)氏、
  祢津(ねづ)氏、
  真田(さなだ)氏がある。
 
 それらの氏族名、
 神野、滋野、真田は全て 
 sūna に由来しているとみられる。
 
 因みに町名であった
 県(あがた)」は「泉」の意味の
 サンスクリット語
 a-gate の転写であり、
 「井、出水」である
 カタ kha-tā に対応する。
 
 現在東部町に
 滋野、祢津の地名及び真田町名を
 留めるばかりでなく
 「和(かのう)」地名があり、
 紀の祖語 kha の音写そのものである。
 
 真田幸村が
 伊都郡の九度山に居したことは
 因縁のあることである。
 
 天神族の紀氏は
 大和、山城へもその勢力を伸張させた。
 
 奈良市春日野町の春日山の南麓に
 紀伊神社が鎮座する。
 この南麓一帯は「香山」と呼ばれた。
 
 またその西方に紀寺の地名が広がり、
 平城京遷都以前ここに
 紀氏が居住していたしるしを遺している。
 
 香山の「香」は tha の音写である。
 
 その東方に花山の山名もみられ、
 紀氏の活動の範囲であろう。
 
 「紀寺」は(現)西紀寺町にある璉城寺を
 紀氏が再建のため奉仕したことから
 「紀寺」と通称したことに依るという。
 
 ところで、
 興福寺はまた「木寺」と呼ばれ、
 その発祥地が山城国山科であったために
 山階寺とも称されたという。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:紀伊(天神族の国)➀ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]


創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
紀伊(天神族の国)》
  
  「アサモヨヒ」トハ、
  人ノクフイヒカシグヲ云也。
    見②風土記①」
 これは紀伊国風土記の参考文である。
 
 「アサモヨヒ」とは人の食べる
 「飲炊」をいうというのがその意味である。
 
 日本古典文学大系は
 「アサモヨヒ」は「アサモヨシ」で
 紀伊国の称辞(万葉集)、
 アサモヨヒは平安朝以後の音訛と注する。
 
 「アサモヨシ」を追求すると、
 これはサンスクリット語の 
 Aś に係わると考えられる。
 
  aśnāti は「食べる、(飲食を)採る」、
  aśyati は使役動詞で「食物を与える」、
  aśana は「~を食べる、食事、食物」
 
 の意味である。
 
 アサモヨシは
 これらの語を祖語とした「食事」である
 「飲炊」を表わす用語ということになる。
 
 aśana に音訓の近似する aśani は
 「電光」あるいは「稲妻」を意味するが、
 「稲」字が使われるのは、
 その背景にこれらのサンスクリット語の
 関係があると考えられる。
 
 また、
 aśan は「石、岩」を意味するが、
 稲と石は極めて近い関係にある。
 
 śāli (米)と śaila (石)とは
 双方とも漢訳では「舎利」 と表記される。
 
 サンスクリット語には
 「石、岩、雷電」を表わす用語に
 aśanan があり、
 その訓音も影響しているとみられる。
 
 アサモヨシの追求からは紀伊国にも
 サンスクリット語の文化が
 波及していたことが推測される。
 
 紀伊国は大化改新(乙巳の変)後、
 紀国造と熊野国造が統合されて
 成立した国名である。
 
 紀国造は「国造本紀」に神武天皇の時代に
 天道根命が任ぜられて誕生したとある。
 
 「天道根命を以って紀国造と為す。
  即ち紀河瀬直祖」とあり、
 
 「天道根命、日前国懸両大神宮天より
  降坐の時天道根命従臣となりて仕え始む」
 とある。
 
 つまり天道根命は天神族系に属する。
 
 しかし、
 『記紀』にはその名は登場しない。
 
 紀伊国の氏族については複雑で
 「紀氏」名には数系統ある。
 
 その元祖的系譜には次のように考えられる。
 
 この系譜にみられるように(木)国造に対し、
 木臣(紀臣)は健内宿禰の子木角宿禰に始まる。
 
 『国造本紀』
 
 ①天道根命─②比古麻命─③息刀稱命─
   ④久志多麻命─
           (兄)
 ⑤大名草比古命┬⑥宇遅比古命(木国造の祖)
              │
            └山下影日売     
             (妹)
           
     大倭根子日子国玖琉尊
     (孝元天皇)│
              ├─比古布都押之信命 
 「古事記」     │「日本書紀」(彦太忍信命)
            │
 内色許男命─伊迦賀色許売命  
 
 山下影日売────┐ 
              │
            ├建内宿禰─木角宿禰
            │      (木臣)
 比古布都押之信命─┘
 
 これまで紀(伊)国の地名由来について
 角川地名辞典が紹介するように、
 
  この地方が
 
 「ほとんど山地で
  気候温暖に加えて雨が多いため
  森林がよく茂って良材を産出するところから
  木国と呼ばれたという。
  木国は律令国家のもとで
  国名に二字の好字を用いることになり 
   紀伊国に改めたもの」
 
 と解釈されているが、
 
 それは木臣以後のことであろうと推測される。
 天道根命の系譜に係わる「紀」の由来は
  全く別にあると考える。
 
 天道根命はすでに明らかなように
  「天」が冠されているように、
 「天神系」である。
 
 紀伊国は
  以下に説くように「天神族の国」である。
 
 「国造本紀」にみられるように、
 日前神宮、国懸神宮は紀氏が奉祭している。
 
 その鎮座地は和歌山市宮地区秋月である。
 
 秋月は天道根命の後裔で
 代々両社の社務に当たってきた
  秋月氏に同じであるが、
 「アキツキ」は
  サンスクリット語の「天空」を表わす
 ākasa に由来すると考える。
 
 つまり「紀」 とは
 サンスクリット語の 
 kha を祖語とする名称である。
 
 その意義は ākasa と同義で
  「天空、虚空」を表わす。
 
 紀氏はすなわち
 「天氏」の別称である。
 
 kha は漢音で
 「佉、朅」と転写されているが、
 この訓音は qū とされ、「クィ」に近い。
 
 日本語の発音(chü)では
 「キョ、キャ、カ」で、
 国号二字制で紀伊(きい)と
  表記されたのにも対応する。
 
 宮地区秋月の南に津秦(つはた)があるが、
 これは 
  sūr-patha/svarga-patha (天界の道)の転訛で
 「天道根」を表わしたものである。
 
 上記神宮の東方に同じく
 『延喜式神名帳名草郡』に
 「鳴神社名名神大」と記載された
 同名社(和歌山市宮地区鳴神)が鎮座する。
 
 同社の伝承によると、
 考安天皇の時、
 水門神である速秋津神日子神を祀れば
 水害は止むとのお告げが天皇にあり、
 天皇が武角河依命に命じて、
 この地に御倉を建てて
 速秋津彦命、速秋津姫命を祀ったという。
 
 この祭神の秋津名も秋月に同じく 
 ākasa に係わるだろう。
 
 先に天道根命は
 『記・紀』にその名がないこと述べたが、
 速秋津彦命がその別称である可能性もある。
 
 鳴神は、同じく神名帳に載る
 香都智(かづち)神社と同様、
 雷神を祀ったものと考えられる。
 
 というのも鳴神の東方に接する
 西和佐地区の栗栖は
 kuliśa の音写で、
 インドラ神の雷電を表わす。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

第十一章 日本に祀られたインドの神々:八溝山(薬師信仰の山) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]




創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
八溝山(薬師信仰の山)》
 
 
  「横山:医方明の山」で取上げた
 筑摩山地の横山である東山は
  医薬神の重要な聖地であった。
 
 この東山の麓を伊那谷から
 善知烏(うとう)峠を越えて
 松本方面へ伸びていたのが
 古代の幹線街道東山道であった。
 
 この名称は単に東国の山岳地帯を
 通る道との印象が強いが、
 東海道よりもかなり早く成立した道であり、
 「東山」に因んでいわれた名称と
 考えられなくもない。
 
 東山道は松本の岡田を通って後、
 東信の上田、小諸そして碓氷峠を越えて
 松井田町の横川から高崎へと群馬県を、
 更に栃木県を北上して
 那須から福島県の白河郡へと続いていた。
 
 この街道沿い及び北関東一円に
 医薬に係わる信仰が広く行われた
 証しとしての医方明 cikitsa である
 近津を祖語とする神社が散在している。
 
 更に
 湯殿、重殿、十殿、薬師、薬王なども
 その範疇に入る神社名である。
 
 薬師名は東北地方へ入るとその主流となり、
 久須斯、久須志、久須師、薬医、医薬、薬王
 などと称された。
 
 東北地方への医薬神信仰の基点となった
 聖地の山が
 栃木県、福島県、茨城県の県境をなす
 八溝(やみぞ)山である。
 
 八溝山は、
 古代の郡名でいうと下野国那須郡が
 その西方に、陸奥国白河郡がその北方に、
 常陸国久慈郡がその南東を占めていた。
 
 同山頂は古くは白河郡に属し、
 一時常陸国になったが、また白河郡に復した。
 
 そのため山頂に鎮座する
 八溝嶺神社は
 『延喜式神名帳』において
 陸奥国白河郡七座のうちに記載されている。
 
 現在山頂社奥宮で、前宮となる同名社が
 茨城県久慈郡大子(だいご)町上野官に
 鎮座している。
 
 同社の伝承によると、
 景行天皇の時代日本武尊が
 東北遠征に向った時
 平定祈願したことに始まるとするが、
 白河郡棚倉町の都々古別神社の伝承によると、
 八溝山の賊を征圧するために祈願したとあり、
 八溝山にいた集団は非協力的であり、
 祈願を行う霊山として
 適当であったとは思われない。
 
 八溝嶺神社の祭神は
 現在大己貴の命、事代主命となっている。
 
 この地方の多くの神社が
 日本武尊の行状に結びつけて
 その由来を明らかにしようとしているが、
 突き詰めれば、それらの物語は伝説に近く、
 史実とみられるものは少ない。
 
 その主旨は神社の信仰の本質が
 何であったかさえ
 解からなくされているということである。
 
 以下の解説は
 日本武尊によって
 塗装され隠された深層を開示し、
 その存在理由を明らかにするものである。
 
 八溝嶺神社の信仰圏は史料によると、
 白河郡の
  北郷86村、
  南郷58村、
  久慈郡42村、
  那須郡260村に
 及んでいたという。
 
 久慈郡大子町の八溝山から流れ出す
 八溝川の流域の上流から
 上野宮、中野宮、下野宮に
 それぞれ近津神社が鎮座しており、
 八溝山が近津神社と
 深い係わりがあることを示す。
 
 また福島県の白河郡には
 同山の脇を固めるように
 多くの近津神社が鎮座する。
 
 『福島県の近津神社』
  ①東白河郡棚倉町山田字芳ノ木
  ②東白河郡矢祭町高野
  ③東白河郡矢祭町関岡字飯野
  ④東白河郡塙町山形字森の上
  ⑤西白河郡東村上野出島字坂上
  ⑥西白河郡矢吹町松倉字諏訪清水
  ⑦郡山市安積町荒井字安部
  ⑧喜多方市慶徳町松舞家字走下り
   (智賀田神社)
 
 また
 東白河郡棚倉町八槻字大宮の
 都々古別神社も
 近津明神を祀る神社で、
 後に説明するように薬医神の神社であるので
 近津神と同じとして以下に
 現在の都々古別名系列の神社を連記する。
 
 『福島県の都々古別神社』
  ①東白河郡棚倉町八槻字大宮
  ②東白河郡棚倉町字馬場
  ③東白河郡矢祭町金沢字沢岸
   (※若都々古別神社)
  ④西白河郡表郷村三森字都々古山
  ⑤西白河郡表郷村梁森字石崎
   (※都々古山神社)
  ⑥西白河郡表郷村高木字向上
   (※都々古和気神社)
  ⑦石川郡石川町下泉
   (※石都々古別神社)
  ⑧石川郡玉川村南須釜八又
 
 その他十殿神社と薬医神社も挙げておく。
  ①東白河郡塙町山形字小屋曽根
   (※十殿神社)
  ②東白河郡塙町那倉字岩下
   (※十殿神社)
  ③東白河郡塙町片貝字後沢
  ④いわき市平谷川字吉野村作
 
 都々古別神社については
 『延喜式神名帳』白河郡に
 「都都古和気神社名神大」と載り、
 その重要であったことが解かる。
 
 同社は陸奥一の宮と称された。
 
 その比定社について
 現在の棚倉町八槻大宮の都々古別神社か
 ②棚倉町字馬場の同名社かで
 論議があってどちらか決しかねているという。
 
 しかし、
 どちらか一方に決める必要はない。
 
 本来
 近津神は cikitsa の神、
 アシュヴィン双神と
 いわれるように双子で、
 二神一体の神である。
 
 二つの神社で一宮と
 考えることができるのである。
 
 そのような例は祭神が誰かの問題はさておき、
 諏訪神社を典型とする。
 
 上社下社があり、
 上社には前宮と本宮、
 下社には春宮と秋宮と不二一如の形態にある。
 
 祭神建御名方神より
 古層の信仰である社宮司社として
 北方御社宮司社と南方御社宮司社
 とあるばかでなく、
 御名方神の史料での初出は
 「南方」神であり「北方」神が想定されての
 神名とさえも考えられるのである。
 
 都々古別神社の場合でも、
 八槻と久慈川を挟んだ向には二柱神社があり、
 八槻地区の字名双の平がある。
 
 八槻の地名については「陸奥国風土記」逸文に
 日本武尊の射た八本の矢が芽を出して
 槻の木(現在の欅)になったとか、
 日本武尊が射た矢が着いたので
 矢着(つき)となり
 後に八槻となったとの伝承を載せているが、
 後に地名に合わせた作り話に過ぎない。
 
 「ヤッキ」は
 サンスクリット語の 
 yāti(Yā)-duhkha の転訛である。
 
 Yāti は本来「動く、行く、歩く」であるが、
 「逃げる、のがれる、通過する」から
 「消失する、消滅する」の意味となり、
 duhkha は
 「苦悩、不幸、困難、悲惨」で
 その音写が「受苦」であり、
 「ヤッキ」は「苦悩逃れ」「苦悩別れ」である。
 
 duhlhatā は仏教において
 八苦性として論理付けられている。
 
 八苦とは
  生苦、
  老苦、
  病苦、
  死苦、
  愛別離苦、
  怨憎会苦、
  雖復希求而不得苦、
  略説五取蘊苦である。
 
 「八槻」をこの八苦とも解釈できるが、
 以下に説明する「都々古別」の語義から
 「苦悩のがれ」とする方が妥当である。
 
 因みに
 この「受苦」は長野県の中信地方(松本市付近)の
 方言「ずく」となっている。
 
 「ずくを出す」「ずくがある」などと使われるが
 「困難に向って進む」
 「苦労をする気力」の意味である。
 
 「都々古別」の意味であるが、
 これは「恙(つつが)別れ」を表わす。
 
 「恙」とは「病気などの災難」のことで、
 古風な手紙の用語「恙無し」は
 病がなく息災であることで、
 唱歌「ふるさと」の
 「つつがなしやわがとも」も
 同語の内容を理解しやすい。
 
 「恙別れ」は
 「病気などの災難を払い、決別する」意味で
 厄払いの予防的意味もある。
 
 神社名に
 「都々古」だけのものがないことでも理解できる。
 
 表郷村の
 「都々古山神社」の「山」は
 「止(や)め」の訛りである。
 
 よって都々古別と八槻は
 その祖語において同義である。
 
 この理由により
 都々古別とは薬医神でもあり近津神と
 神格を同じくすると理解される。
 
 八溝山を水源として
 棚倉町から塙町、矢祭町を南下し、
 茨城県の大子町に入る川が久慈川である。
 
 茨城県ではそこに久慈郡を形成した。
 
 「久慈」は「久しい滋養」で
 薬による健康の増進を想起させる。
 
 久慈は「ヒサジ」とも読め、
 その原語はサンスクリット語の
 bhisaj (癒す、医師、薬)で
 「ヒサジ」と訓じられる。
 
 Bhisajya, bhaisajya (薬) の滋養で、
 小鳥神社のある
 福岡県志摩町久家と語義を同じくする。
 
 福島県いわき市平谷川に
 薬医神社が鎮座するが、
 「平・たいら」は 
 bhaisajya (四種含消薬)の一つ
 「油・ごま油」を表わす 
 taila に依るものと考えられる。
 
 「平」は日本武尊の東征時
 「平潟」と記された古名である。
 
 タイラであるごま油は
 「蓖麻子油(ヒマシユ)」を指す。
 
 トウゴマの種子を搾った油で
 現在でも使われている。
 
 含消薬の名称のとおり飲んで
 下剤の効力がある。
 
 その他石鹸の原料また工業用などで
 磨耗を減らすために用いられた。
 
 トウゴマ(唐胡麻)はヒマ(蓖麻)あるいは
 唐荏とも呼ばれる。
 
 その原産地はアフリカという。
 
 熱帯では潅木のように繫るが、
 温泉地帯になると一年草となる。
 
 塙町の十殿神社については、
 また横山に戻らなければならない。
 
 横山から流れ出す川を「田川」というが、
 この「田」は dyu (光明、日)の転訛であり、
 横山が「片、欠」である 
 ketu (光輝)の山の意義に一致する。
 
 この dyu の派生語が dyuti で
 「光輝、光彩威厳」を表わし、
 この同義語が dyoti , dyotis 
 (光明、輝き)となり、
 また jyotis ともなる。
 
 これらの用語を漢語にしたのが
 松本市の鉢伏山の麓をなす
 「寿台」である。
 
 現在「ことぶきだい」と称しているが、
 「ジュタイ」が東山道を下って
 関東に入り重殿、十殿また湯殿と
 表記される神社目になったのである。
 
 湯殿神が医薬神として知られる
 由縁にはこのような背景がある。
 
 塙町の十殿神社も医薬神を祀ったのである。
 
 Jyotis は漢語に「樹提」と音写された。
 
 なお、
 「田川」名は続日本紀の
 延暦8年(789年)5月29日条に
 「信濃国筑摩郡人、
 外少初位下後部牛養無位宗豊人等に
 姓田川造を賜ふ」とあり、
 奈良時代にはここに田川の名が
 成立していたことを示している。
 
 八溝山の西方は栃木県那須郡である。
 
 「那須」名は遅くとも4世紀中頃には
 ここにあったと考えられる。
 
 『先代旧事本紀』に
 「那須国造、纏向日代朝御代、
  建沼河命孫大臣命定賜国造」とあり、
 纏向日代朝とは日本武尊を
 東国へ東征させた景行天皇の朝廷をいい、
 「那須国」の成立を
 4世紀後半と推定されてるので、
 その地名の成立はさらに遡るはずである。
 
 奈良平安時代になると那須郷が
 『和名類聚抄』
 下野国那須郡のうちにみえるが、
 現在の大田原市の南西部、
 黒羽町の北西部の一帯とみられている。
 
 現在那須町大畑に近津神社、
 湯津上村湯津に千勝神社、
 小川町薬利に薬利神社が鎮座するほか、
 温泉の豊富なことから湯殿神社である
 温泉神社が数多く祀られている。
 
 この那須名はアシュヴィン双神の古名
 ナーサティヤ Nāsatya に係わる。
 
 同神名は西アジア誕れである。
 
 紀元前2000年紀の中頃
 ミタンニ国の王シャッティワザと
 ヒッタイトの王シュッピルリウマとの間で
 取り交わされた条約文で
 ミトラシル、アルナシル、インダルと共に
 ナサットヤナの神名が記録されており、
 ナーサティヤに対応される。
 
 サンスクリット語において
 nās , nāśati , naśayati は
 本来「なくす、失わせる、消える」であるが、
 「消滅、破壊」で
 「病気をとり除く」意味にも用いられた。
 
 つまり、
 八槻の「八」である yati と同じ意味であり、
 医療神アシュヴィン双神と同義となる。
 
 那須はこの nās の移入である。
 同義は、
 英語で nurse となり、
 「保護、養育、治療」を意味し、
 「看護師」名として広く知られるところである。
 
  以上のように八溝山の周囲は
 医薬に係わる痕跡に包まれている。
 
 そこで「八溝」の意味を追求すると、
 結局アシュヴィン双神の別称である
 ヤマ yama に至りつく、
 その意味は「双生児、ふたご」である。
 
 「ヤミゾ」は yama-ja (双子)あるいは
 yamatā (ヤマ神であること)の転訛であろう。
 
 その論拠を支援する資料に
 那須郡黒羽町側で
 八溝山から流れ出る武茂川の谷合に
 上南方、南方(なんぽう)の地名が
 あることである。
 
 同じ yama 神には
 アシュヴィン双神とは別に
 「死んで天界にある祖先を支配する神」
 また、別の神話で「下界を支配する死の神」、
 仏教のいう閻魔をいうことがあり、
 彼が南方の守護神のため yama-diś は
 「ヤマ神の住する方向」で
 「南方」を表わすのである。
 
 よって黒羽町の南方(なんぽう)が 
 yama 神名により付けられた地名であり、
 八溝が「ヤマ」に依拠していると
 判断されるのである。
 
 また、
 松本市には「野溝(のみぞ)」があり、
 本来「ヤミゾ」で同地区はまた
 「二子(ふたご)」の地名と重なって
 呼び慣らされているのである。
 
 これも八溝山が筑摩山地の横山と同じく
 医方明神を山名にしている証拠資料ともなる。
 
 八溝山は
 アシュヴィン双神を祀る
 医薬師信仰の山である。
 
 石都々古別神社のある石川町は
 双里が神社地近くにある。
 
 その北に玉川村があり、同名社が鎮守する。
 玉川村の北方は須賀川市となるが、
 そこには小山田及び小作田があり、
 双方とも薬草 osadhi に依るものだろう。
 
 玉川村の東側は平田村だが、
 そこには蓬田地区や蓬田岳があるのは
 信州の横山にあった蓬平に係わる。
 
 村内の諏訪神社のある「北方」は 
 ketu (光輝)に依るもので、
 その「キタカタ」を市名とするのが
 喜多方市で、
 かっては北方とも書かれた。
 
 慶徳町松舞家に智賀多神社が鎮座する。
 
 慶徳は戦国期から
 経徳とも表記された地名で、
 「北方」に通じる。
 
 喜多方市域はかっては耶馬郡で、
 現在も磐梯町など八町村が郡を構成している。
 
 史料での初見は
 『続日本紀』の「耶磨郡」(840年)で、
 『延喜式和名類聚抄』には
 耶麻郡と表記されている。
 
 耶麻郡及び喜多方市内には山神社が多い。
 
  喜多方市五社(山首社を含む)、
  熱塩加納村八社、
  北塩原村七社、
  山都町七社、
  西会津町十七社、
  磐梯町三社、
  猪苗代町二社とあり、
 
 耶馬名が信仰と係わり合って、
 単に山間に村落があるというような
 意味合いでないことを示している。
 
 山神名は横山の塩尻市内内田に
 「山ノ神」の地名があるとおり、
 直接的「山岳」の意味ではなく 
 yama (双神)を表現したものであることが
 判明してくる。
 
 その語義を忘却させて、
 日本の宗教的深層に
 沈潜している神名なのである。
 
 耶麻名はアシュヴィン双神である 
 yama に由来する地名である。
 
 次に、
 その日本の宗教的深層の沈潜している
 神名の一例を取上げたい。
 
 八溝山の南方は
 茨城県久慈郡で
 近津神社が鎮座する大子町である。
 
 「大子(だいご)」名は
 町内の大子地区の名に依るが、
 その由来も隣り田気(たげ)にある
 「王子神社」に依拠する。
 
 大子は「王子」である。
 「田気」は「子孫、小児」を表わす
 サンスクリット語の
 tuki の転訛で王子に対応し、
 王子神社はまた近津神社に相応するのである。
 
 「王子」を町名にしている町が
 奈良県北葛城郡王寺町である。
 
 町名を王寺にしているが、
 原義は王子であろう。
 
 王寺地区名が広くあるが、太子地区もある。
 
 ここが王子の里であるのは
 次のような理由による。
 
 本町地区に現在「親殿神社」が鎮座する。
 
 その訓音「チカトノ」は「チカツ」に近似し、
 近津神社と祖語を同じくすることが理解できる。
 
 同社は『延喜式神名帳』大和国葛下郡に
 「深溝(ふかみぞ)神社」と載る神社に比定される。
 
 「深溝」は「シンコウ」で「智識」を表わす。
 パーリ語のsukhā
  (サンスクリット語の śikaṣa)の転訛である。
 
 親殿神社の東方の河合町薬井は
 同社の薬園であっただろうか。
 北方に片岡神社が鎮座する。
 
 この地区が孝霊天皇馬阪陵のある片丘で、
 近津神と「片」との関係を
 塩尻市片丘と同様ここにもみることができる。
 
 片岡神社の祭神を清滝大神というが、
 「滝」は大子町の「田気」と同義で 
 tuki である王子を表わす。
 
 「清」は美称であろう。
 
 王寺町の南側は畠田地区が占める。
 
 「ハタ」は vaidya つまり、「医師」を表わす。
 
 そこには神名帳に載る
 「火幡(ほわた)神社名神大」が鎮座しているが、
 その社名の左側には
 「ホタ」との訓音も付されており、
 社名が「ホタ・ハタ」であったことが窺われる。
 
 小鳥信仰で紹介した高知県西部の幡多郡名と
 祖語を同じくしているのである。
 
 王寺も医薬師の神・近津信仰の里である。
 
 そのような状況は表面的には見えず、
 歴史の奥に沈潜してしまっているのである。
 
 それは茨城県久慈大子町の場合も同様である。
M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。