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第十一章 日本に祀られたインドの神々 : 埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
埼玉・鹿島:剣持神の国(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  乎獲居臣、
  上祖名意富比垝、
  其児多加利足尼、
  其児名弖已加利獲居、
  其児名多加披次獲居、
  其児名多沙鬼獲居、
  其児名半弖比、
  其児名加差披余、
  其児名乎獲居臣
 
 稲荷山古墳から出土した
 金錯銘鉄剣の銘文の文字に含まれている
 抜刀人の系譜はこのように読み取られた。
  
  ➀上祖名意富比垝
 
 「意富」は古事記に特徴的な用語である。
 
 初見は上巻の冒頭神代の記述に
  「意富斗能地神」と現れる。
 
 これに続いて
 「次に妹大斗乃辨神」とあるので、
 「意富」が「大」であることが判明する。
 
 次に伊邪那岐命の黄泉国降りに
  「意富加牟豆美命」、
 また中巻になって
  神八井耳命の後裔に「意富臣」とあり、
 
 崇神天皇条に
 
 「即ち意富多多泥古命を以ちて神主と為りて、
  御諸山に意富美和の大神の前をきたまひき」
 
 とある。
 
 このうち意富臣は
  『日本書紀』に「多臣」とあるほか
 「太、飫富、於保」とも表記される。
 
 鉄剣の刻銘「意富比垝」は
 「オホヒコ」と読まれており、
 この呼称は
 『古事記』の崇神天皇条に載る大毘古命、
 『日本書紀』の大彦命に当たると理解されている。
 
 『古事記』に
  「大毘古命を高志道に遣わし、
   其の子建沼河別命をば、
     東の方で十二道に遣はして、
   其の麻都漏波奴(まつろはめ)人等を
     和平さしめたまひき」と、
 
 いわゆる四道将軍の一人として
 北陸道から東国に派遣された人物名である。
 
 「意富」の訓音を太田亮の
  「姓氏家系大辞典」では
 「オホ」としているが、
 その訓音を移している「飫富」は「ヲフ」である。
 
 延喜式神名帳「上総国望陀(コウダ)郡」に
  「飫富神社」とあり、
 同社は
  現在の千葉県袖ヶ浦市飫富の飽富神社で、
 土地の古老は「オオノミヤ」と
 呼びならしていたという。
 
 当地は
 和名類聚抄の
 上総国望陀郡飫富に比定されている。
 
 「オホ、ヲフ」の原義は何であろうか、
 それはサンスクリット語の 
 aha で、「日、太陽、昼」を意味する。
 
 A- が「オ」と訓まれた実例は
 asi (険、刀)がオシ(忍)、
 asina (雷電)が
  オサノ(長野)となったことを述べたが、
 
 西アジアでゾロアスター教の火(日)神
  ahra-mazda (アフラマズダ) が
 紀元1世紀を超えて
  ohra-mazda (オフラマズダ)となった例を
 第7章メルッハとオフルで述べ、
 
 オフルとは
  aha と同義の ahar に依拠することを説いた。
 
 奈良県桜井市の地名粟殿及び粟原はそれぞれ
 「オオド」「オオハラ」と呼ばれており、
 「アワ」が「オオ」となっている。
 
 ②多加利足尼
 
 第2代の名を「タカリスクネ」と
 読む見解もみられるが、
 これは「多(オホ)のカリ宿禰」と
 解読すべきである。
 
 その上祖「意富」を多氏と解する理由は、
 2代4代5代名の最初に
 「多」があるからである。
 
 足尼は宿禰と同義とみられるが
 「多加利(おおかり)」は
 ahas-kara で「太陽」を意味する。
 
 この ahas-kara は ahas-cari で
 cari は「動くこと、行」である。
 
 ここに窺われるのは
 日神崇拝者の系図である。
 
 ③弖已加利獲居
 
 第3代の名は「テシカリワケ」と訓ある。
 
 獲居は「別」と理解されている。
 
 「テシカリ」は 
 trjo-kara の音写で「光輝のもの」で、
 これも「太陽」を表わしていると考えられる。
 
 ④多加披次
 
 第4代の名は「多のカワジ」と訓め、
 カワジはその語義を確定するのは難しいが、
 現在の埼玉郡川里村の「川」に
 係わるものと考える。
 
 というのも
 村内の地区名「広田(ひろた)」の祖語を
 「コウダ/コウチ」とすることができるからである。
 
 成田市台方の麻賀多神社のある地域
 公津(きみつ)は
 「コウチ」で、
  その隣りの江弁須は「カワジ」に近似する。
 
 「カウチ」は
 奈良県桜井市、明日香村など
 かっての大和国高市郡、
 古代の王朝所在地の地名に係わり、
 これらを考察すると「王族」ないし
 サンスクリット語の「城」を意味する 
 koṭṭa 、
 セム語の kussi(王座)を祖語とする
 「城主」を表わすものとみられる。
 
 川里村広田の南には
 行田市埼玉のすぐ東に接し屈巣(くす)、
 さらに鴻巣があり、
 加披次の遺称ともみられる。
M.K記

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