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第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族(2)物部氏② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大国主神の奉祭氏族
(2)物部氏
 
  『古事記』においては神武天皇に続く、
 綏靖(第2代)、
 安寧(第3代)、
 懿徳(第4代)の
 各天皇の皇妃を師木県主が出した。
 
 『日本書紀』では
 本文で第7代の孝霊天皇だけだが、
 
 一書では
  第2代から第5代の考昭天皇、
  第6代考安天皇の皇后を
 礒城県主が出しており、
  大氏族であったことを示している。
 
 ところで、
  志貴御県神社の祭神は饒速日命とされる。
 
 新撰姓氏録の
 大和国神別志貴連は
  (日本書紀の天武天皇の時に
    志貴県主から連の賜姓があった)
 
 「饒速日神の孫日子湯支命の後」
 とあることに依拠しているらしい。
 
 饒速日命は物部氏の祖であり、
  礒城氏族とは血縁関係にない。
 
 同社には礒城族に係わる尊名は
  その祭神の中にはない。
 
 これはどうしたことか。
 
 『記・紀』によりその系譜を追ってみる。
 
 弟礒城黒速は礒城(師木)県主とされたが、
 その娘河俣毘売は
 神武天皇の第3子である
 第2代の綏靖天皇の皇妃となり、
 第3代の安寧天皇の母となる。
 
 その和名が師木津日子玉子見命という。
 
 この安寧天皇は黒速の子で
 河俣毘売命の兄で
 師木縣主を継いだ
 波延の阿久斗比売を皇妃とする。
 
 この二人から
  常根津日子伊呂泥命(この命の後裔は不明)、
 第4代懿徳天皇となる大倭日子鉏友命、
 そして
 師木津日子命が誕れる。
 
 師木縣主は
  波延に阿久斗比売命以外に
 子がなかったとすれば、
 師木津日子命が継いだものとみられる。
 
 「天孫本紀」は
  「俀志紀彦妹真鳥姫」と
 もう一人を載せているが
 『記・紀』にはない。
 
 懿徳天皇は
 『古事記』で
  「師木縣主の祖賦登真和訶比売命」
 を皇后に迎えて
 第5代考昭天皇が誕まれる。
 
 師木津日子には二人の王があったが、
 一人の名は伝わらず『古事記』はいい、
 もう一人の子和知津美命に
 蝿伊呂杼と
 意富夜麻登久邇阿礼比売命が誕れたが
 男子はなかった。
 
 考昭天皇は余會多本毘売命を皇后として
 第6代考安天皇誕まれる。
 
 同皇妃について
 
  『古事記』はその出自を記さないが、
 『日本書紀』は
  「一云、磯城県主葉江女、
  一云、倭国豊秋狭太媛女大井媛也」、
 
  また考安天皇の条に
 
  「母は世襲足媛、尾張連遠祖、瀛津世襲之妹也」
 
  とあり、混乱している。
 
 その皇子が第7代考安天皇であるが、
 姫忍鹿比売命を皇后に迎える。
 
 この命についても
 
 『古事記』はその出自を記さないが、
 『日本書紀』は
  「立姫押媛、為皇后、
  一云、礒城県主葉江女」とする。
 
 この礒城県主「葉江(はえ)」は
 『古事記』の「波延(はえ)」と同声であるが、
 その世代的隔りがあり、本実は知れない。
 
 考安天皇と同皇后との間には
 大吉備諸進命等
 第8代孝霊天皇が誕れる。
 
 孝霊天皇の皇后ではないが、
 師木津日子命の孫に当たる二女を妃とする。
 
 その蝿伊呂杼(はへいろど)との間には
 日子寝間命と若日子建吉備津日子命、
 意富夜麻登玖遅阿礼比売命には
 夜麻登登母會毘売命、
  日子刺肩別命、
 比古伊佐勢里毘古命、
  倭飛羽矢苔屋比売命が誕れる。
 
 夜麻登登母會毘売命(倭迹迹日百襲媛命)は
  崇神天皇の時代
 大物主神の神妃となり、
  その伝説に箸で富登を突いて死んでしまう。
 
 若日子建吉備津日子命と
 比古伊佐勢里毘古命は
 第7代孝霊天皇に吉備地方へ派遣され、
 
 前者は「吉備下っ道臣」、
 後者は「吉備上っ道臣」の
 それぞれの祖となった。
 
 「二柱相副ひて、
  針間の氷河の前に忌甕を居ゑて」
 
  とある
 
 忌甕(瓺玉:二重口縁壺)を斎る
  大神神社の信奉者である。
 
 日子寝間命は
 「針間の牛鹿臣の祖なり」、
 
 日子刺肩別命は
 
 「高志の利波臣、同前臣、五百原臣、
   角鹿の海直の祖なり」
 
 とある。
 
 孝霊天皇の皇后細比売命について
 
 『日本書紀』に
 「磯城縣主大目が女なり」とあるが、
 
 『古事記』には
 「十市縣主の祖、大目の女」とあり、
 
 判断しがたい。
 
 ただし、伝承では
  十市縣主は磯城縣主より分かれたものとあり、
 同族であったとも見られる。
 
 このように弟師木黒速の後裔は
 「師木王朝」と言ってもよいような
 権勢であったが、
 第7代孝元天皇が
 登美毘古の妹登美夜毘売と
 邇芸速日命の後裔である
 内色許売命を皇妃とするに及んで
 その勢いも下がり、
 その後裔は
  吉備、高志、角鹿、針間、豊前の
 地方勢力と変転し、
 三輪山の奉祭も
 夜麻登登母母會毘売の死をもって
 師木氏族の奉祭が断たれてしまったと
  考えられるのである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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