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第十二章 大国主神と大物主神:大国主神と大物主神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主神と大物主神:大国主神と大物主神
  
  鎌倉時代嘉禄2年(1226年)の大神神社の社伝
 「大三輪鎮座次第」に次のようにある。
 
  当社古来宝庫無く、唯三箇鳥居有るのみ。
  奥津磐座大物主神、
  中津磐座大己貴命、
  辺津磐座少名彦
 
 大神神社は、
 現在の奈良県桜井市三輪に鎮座し、
 三輪山を神体山とするという古社である。
 
 現在の祭神は、
 大物主神が主神で、
 大己貴神と少名彦を配祀している。
 
 同社は『延喜式神名帳』の城上郡に
 「大神大物主神社名神大」と記載されている。
 祭神の大己貴神は大国主神をいう。
 
 この三祭神の関係を
 『古事記』は次のように物語る。
 
 大国主神、
 出雲の御大(みほ)の御崎(みさき)に坐す時、
 波の穂より天の羅摩船(あめのかがみぶね)に
 乗りて、
 鵝の皮を内剝(うちは)ぎて衣服に為(し)て、
 帰り来る神有るりき。
 
 爾に其の名を問わせども答えず、
 且所徒(みとも)の諸神に問はせども
 皆「知らず」と曰(もう)しき。
  (…略)
 久延毘古(くえびこ)を召して問わす時に、
 
 「此は神産巣日神の御子少名毘古那神ぞ。」
 
 と答へ曰しき。
 
 「此は実に我が子で、
  子の中に我手俣より久岐斯子ぞ。
  故、汝葦原色許男と兄弟となりて、
   其の国を作り固めよ。」
 
 とのりたまひき。
 
 是に大国主命神、愁ひて告りたまひしく、
 
 「吾独(ひと)りして何に能(よ)く此の国を
  得作らむ。
  執(いず)れの神と吾と、
   能く此の国を得作らむや。」
 
 とのりたまひき。
 
 是の時に海を光(てら)して依り来る神ありき。
 
 其の神の言(の)りたまひしく、
 
 「能く我が前を治めば、
   吾能く共與(とも)に相作り成さむ。
  若し然らば国成り難けむ。」
 
 とのりたまひき。
 
 爾に大国主神曰ししく、
 
 「然らば治め奉る杖は奈何(いかにぞ。)」 
 
 とまをしたまえば、
 
 「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」
 
 と答へ言りたまひき。
 
 此は御諸山の上に坐す神なり。
 
 『古事記』は、
 この「海を光して依り来る神」の尊名を
 語っていない。
 
 ここで解かるのは
 「御諸の山の上に坐す神」
 ということだけである。
 
 故、
 爾れより大穴牟遅と少名毘古那と二柱の神
 相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。
 
 然て後に其の少名毘古那神は
 常世国の度(わた)りましき。
 
 少名毘古那神は少彦名神、
 大穴牟遅命は大国主神である。
 
 ここに明らかにみえるのは、
 大国主神が先住土着の神であるのに対して、
 少彦名神が外来神であることである。
 
 少彦名神が大国主神の言葉を解せず、
 「女の名を問はせても答えず」とあり、
 諸神も皆「知らず」と答えた理由である。
 
 二神は「相並ばして」建国の業をなしたが、
 その後、少彦名神は常世国、
 つまり外国へまた渡って行ってしまったという。
 
 この状況について
 『日本書紀』は次のように語る。
 
  時に神(あや)しき光海に照らして、
  勿然(たちまち)に浮かび来る者あり。
 
  「如(も)し吾在らずは、
   汝何ぞ能く此の国を平(む)けましや。」
 
  是の時に、大己貴神問ひて曰はく。
 
  「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。
 
  対(こた)へて曰はく、
 
  「吾は是が幸魂奇魂(さきたまくしたま)なり」
 
  といふ。
 
  大己貴の曰はく
 
  「唯然(いひ)なり。
   廼(すなわ)ち知りぬ。
   汝は是吾が幸魂奇魂なり。
   今何処にか住まむと欲(おも)ふ」
 
  とのたまふ。
 
  対(こた)へて曰はく、
 
  「吾は日本(やまと)国の三諸山に住むと欲ふ」
 
  といふ。
 
  故、即ち宮を彼処に営(つく)りて、
  就(つ)きて居しまさし。
 
  此大三輪ノ神なり。
 
 ここでも
 
 「神しき光海に照らして忽然に浮かび来る者」
 
 を大己貴神の幸魂奇魂として、
 三輪山に住む大三輪神として
 その尊名を明さない。
 
 しかし、
 その一書は次のように記して、
 大物主神の名称を記載する。
 
 大国主神、
  亦の名は大物主神、
  亦は国作大己貴命と号す。
  亦は葦原醜男と号す。
  亦は八千戈神と曰す。
  亦は大国主神と曰す。
  亦は顕国玉神と曰す。
 
 『古事記』は
 
  「大国主命、
   亦の名は大穴牟遅神、
   亦の名は葦原色許男命と謂ひ、
   亦の名は八千矛神と謂ひ、
   亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、
   併せて五っの名あり」
 
   として
  大物主神の名は含ませていなない。
 
  出雲国造神賀詞は「大物主」の名称を
  次のように述べる。
 
     乃ち大穴持命の申給く、
    皇御孫の命の静り坐(まさ)む
    大倭国と申して、
    己(おのれ)命の和魂(にぎたま)を
    八咫鏡(やたのかがみ)に取り託て、
    倭大物主櫛甕玉命と名を称して、
    大御和の神奈備に坐す。
 
 ここに「御諸山の上に坐す神」が
 大物主神(倭大物主櫛甕玉命)であることが
 明らかになる。
 
 『古事記』に同神名が登場するのは
 
 神武天皇の皇后選びの段に
 「美和の大物主神」が
 天皇の皇妃富登多多良伊須岐比売命の
 父として現れ、
 崇神天皇条で疫病が流行り人民が疲弊した時、
 悩む天皇の神牀(とこ)にいた夜に夢の中に
 大物主神が現れ、意富多多泥古を探して、
 「御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭らす」
 ことを伝える。
 
 『古事記』は
 意富多多泥古は大物主大神五世の孫という。
 
 『日本書紀』は
 大物主神を大己貴神の幸魂奇魂として、
 出雲国造神賀詞も大穴持命の和魂として、
 まるで両神が同じ神であるかのように
 表現しているが、
 
 『記・紀』が
 海の彼方から光り照らしながら近づいたと
 説明する状況からすると、
 この神も少彦名神同様外国から来た神である。
 
 本居宣長は「古事記伝」巻二十で
 
 「御此大物主と申す御名は、
  美和に鎮り坐す御魂の御名にして
  大穴牟遅命の一にあらず、
  倭大物主とあるにてもしるべし」
 
 と述べ、
 大国主神と大物主神とが
 別の神格であることを見抜いている。
 
 『古事記』は
 大国主神を須佐之男命の六世の後裔とするが、
 大穴牟遅神の
 「根の堅州国に参向ふべし」の物語の中では、
 須佐之男命と八上毘売との間の女(むすめ)
 須勢理毘売の婿としている。
 
 大神(須佐能男神)が大穴牟遅神を呼んでいう。
 
 「我が女須勢理毘売を嫡妻と為て」
 「大国主神となり、亦宇都志国玉神となる~」
 と語りかけている。
 
 同神に多くの別称があるが、
 『記・紀』の編纂の途上
 近似した神名を結びつけるなどの
 造作があった可能性がある。
 
 つまり、
 確かに
  「神武東征」に際し国譲りは史実として、
 それに近い事件があったと考えられるが、
 その時代の大国主命は、
 「須佐之男命の後裔」であったけれど、
 大和国の御諸山に祀られた「大国主命」とは
 全く違う神名であったということである。
 
 とはいうものの
 大和・出雲地方の政治的関係を
 否定するものではないことは
 「意宇」「生尾人」の考察で説いてある。


 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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