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第十一章 日本に祀られたインドの神々: 『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
《第十一章 日本に祀られたインドの神々:
『埼玉・鹿島:剣持神の国』(5)稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族
  
  ⑥半弖比
 
 第6代の名は「ハテヒ」と訓めるが、
 「ナカのダイ」との理解もできる。
 
 と云うのも、
 その祖語を 
 patayah (飛ばす、飛翔させる)
 あるいは 
 pataga (太陽、鳥)に
 求められるからである。
 
 太陽の意味に使われたならば
 日神崇拝の同類語である。
 
 「ハテヒ」の一族が拠点を構えた所が
 鳩ヶ谷市辺りと考えられる。
 
 同地は和名類聚抄の
 「足立郡発度(はっと)郷」に比定され、
 鎌倉時代には「鳩井」であった。
 
 建長8(1256)年の史料には
 鳩井兵衛尉の名がある。
 
 地名には
 空を飛ぶ鳩名があることからも、
 その原義が 
 patayati に係わっていたことを窺わせ、
 半弖比の一族の居住地か開拓地とみられる。
 
 ⑦加差披余
 
 第7代の名は「カサハラ」と訓む。
 
 「余」字は
 奈良県桜井市の
 磐余(いわれ)の例があるように
 「ラ、レ、ロ」訓める。
 
 この用字は
 漢語における「尓(爾」)を誤って「余」と
 日本では記述したものとみられる。
 
 現在の黒龍江省の
 哈尓濱(はるぴん)や
 斎斎哈尓(ちちはる)などにも
 使われている。
 
 「カサハラ」は「笠原」で
 現在鴻巣市と
 比企郡小川町のその地名がある。
 
 笠原名は
 安閑天皇の時代(6世紀半頃)
 武蔵国造の地位を
 その同族の小杵と争った
 笠原使主の名称として
 登場する古い名称である。
 
 『日本書紀』安閑天皇元年の条に
 
  「武蔵国造笠原直使主と
   同族の小杵と国造を相争ふ」とある。
 
 笠原使主が
 加差披余の後裔であったかどうかは
 ここでは論じない。
 
 ⑧乎獲居臣
 
 第8代の「乎別臣」も「乎」字については
 助詞「を」として使われることが多いが、
 また感嘆する時の声「あ」に使われ、
 ā の音写とみられるので、
 乎獲居は「引裂くこと」。
 
 以上のように上祖より8代の名前について
 埼玉神社周辺の地名資料などから
 推論してみたが、
 このなかで
 鉄剣を錬らせた氏族が「多」氏に
 深い係わりがあったとの判断が誕れてきた。
 
 大毘古命は阿部氏の祖とされるが、
 同命が「多」氏と同祖であるかが
 追求されなければならないだろう。
 
 埼玉郡に接する、
 和名類聚抄にも載る
 大里郡は
 「多氏の里」の語義と考えてよいのだろうか。
 
 「サキタマ」は『日本書紀』の
 敏達天皇の宮殿名としても現れる。
 
 訳語田の「幸玉宮」がそれで、
 『古事記』では「他田宮」としている。
 
 同天皇の和名を沼名倉太玉敷命という。
 
 他田舎人は信濃国造の後裔で
 神八井耳命を祖とし
 意富臣と近い関係にある。
 
 「ヌナクラ」は
 大毘古命の子「建沼河別命」や
 第2代綏靖天皇となった
 神八井耳命の弟神沼河耳命、
 また天孫として降臨した
 『古事記』邇邇芸命も
 『日本書紀』瓊瓊杵尊
 とあるように、
 「玉」で宝石(瓊)を名とする系譜に連なる。
 
 その
 「多氏」に関係する
 敏達天皇の宮殿の名称が
 「サキタマ」である事情から
 意富比垝を祖とする乎獲居の一統を
 「多氏」の一統でもあるとも解釈できる。
 
 果たして「多」は神八井耳命を祖とする
 「多氏」であろうか。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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