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第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族③ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十二章 大国主と大物主神:大物主神の奉祭氏族(1)登美族
  
 ヤーダヴァ族の族名の元となった
 祖名 yadu の yādas に因むと考えれば、
 魚も水棲動物の範疇に入り、
 その族名に合致する。
 
 クリシュナの系統のドヴァラカ一族が
 彼等の祖地名を
 ここに付けたとみられるのである。
 
 三嶋が「魚国」であることは、
 大田田根子の出身の地、
 『古事記』のいう
 「河内の美努村」と関連する。
 
 「美努」は  
 mina の転訛で「魚」を意味する。
 
 サンスクリット文字 
 ma (漢音摩字) が
 「ミ」となることについては
 madhu (密)が日本語になって
 「みつ」というのと同じである。
 
 Matsya は
 寝屋川市の三井、松屋町、
 門真市の松葉町、松生町ともなっている。
 
 「三ツ」は madura で、
 三嶋はマツヤ国を表わしているのである。
 
 讃良郡は
 ドヴァラカ(ヤーダヴァ族、登美族)の
 この地方での
 最も古い居住地と考えられるのである。
 
 そして
 彼等は三輪山の信仰に深く係わっていた。
 
 堀溝に鎮座する鸎関(ようかん)神社は、
 鸎が鶯のことで「青(緑)い鳥」、
 関は「垣」で、同神社名は「青垣神社」であり、
 三輪山に通じる。
 
 堀溝の南隣り河北にある
 大神社は「鶯神社」であろう。
 
 三嶋湟咋が讃良郡にいたとすると、
 勢夜陀多良比売もここにいたことになる。
 
 その痕跡を検討すると
 『古事記』や神社名にそれがあり、
 以下のような見解となる。
 
 『古事記』は
 
 「三嶋溝咋の女、勢夜陀多良比売、
  その容姿麗美しかりき、
  故、美和の大物主神、見感(みめ)でて、
  其の美人の大便為(くそま)れる時、
  丹塗矢に化りて、
  其の大便為れる溝より流れ下りて、
  其の美人の登富を突きき」
 
 と述べるが、
 大便をしている時に
 溝から流れ下って行く様子は
 まさに厠(川屋)の情景である。
 
 川の上に簡単な草屋を作り便所としていた
 日本の古い風習が描かれていると解釈できる。
 
 しかし、
 この挿話は「カワヤ」から
 連想された話である。
 
 本実のところは、
 「カワヤ」は
 「瓺玉(みかたま)を作る者」である
 陶工を表わす。
 「カワ」は
 サンスクリット語の 
 kubha(kumbha)で「壺、甕、瓶」を語義とする。
 カワヤは「壺屋(クワヤ)」である。
 
 この「クワヤ」が
 『延喜式神名帳』河内国茨田郡に載る
 「細屋神社」の祖型で、
 現在寝屋川市秦(はだ)町に鎮座する。
 
 その祭神については、
 秦氏の入って来た以前と以後で
 変更があったとみられ、
 現在は
 「細屋(ほそや)」が「星屋」に近いことから
 「天神、星屋、星天宮」とあいまいである。
 
 しかし、
 「細」は記紀の孝霊天皇条に登場する。
 
 「十市縣主」の祖、
 「大目の女、名細比売命」にあるように
 「クワ」あるいは「クワン」で、
 「細屋」は「クワヤ」であったと考える。
 
 勢夜陀多良比売命はこの辺りにいたのである。
 
 『日本書紀』のいう同姫の名称「玉櫛」は
 「櫛瓺玉」より作られた名称で、
 そこには「瓺」が介在する。
 
 秦町の東端に加茂神社が鎮座するが、
 「カモ」は 
 khamat 穴持であったから
 単なる壺ではなく二重口縁壺が
 焼かれていたとすることができる。
 
 隣りの太秦の遺跡からは
 摂津大和に特徴を同じくする
 甕形土器が出土している。
 
 細屋神社の鎮座する
 秦町は「ハダ」と訓み、
 奈良時代・平安時代に幡多郷があった。
 
 太秦に表わされる「秦氏」は「ハタ氏」で
 「ハダ」と呼称されるには
 その理由があるだろう。
 
 太秦と区別するために
 「大秦」を使ったことあるという。
 
 「幡多(はだ)」の実際の祖語は
 サンスクリット語の
 vadha (女) ないし vadhū 
 (女、妻、花嫁) であり、 
 勢夜陀多良比売命をいった遺称であろう。
 
 幡多地名は高知県の幡多郡があったが、
 これは医者を表わす 
 vaidya (平田ヘイタ) の転訛であった。
 
 「幡」は「バタ」とも読まれる。
 
 茨田郡名を
 『和名類聚抄』、
 『延喜式』は
 「万牟田」と訓ませているが、
 ここでは「マッタ」と呼ばれている。
 
 これもまた vadhū の転訛である。
 
 Va が ma となった例はすでに述べたが、
 その例に並ぶものである。
 
 大阪市鶴見区に残る茨田はしかし、
 madhar に由来すると考える。
 
 また寝屋(寐屋)を意味する
 サンスクリット語に vāsu があり、
 これは宮処あるいは宮殿を表わす用語で、
 この周辺には
 王族の宮殿があったと推測される。
 
 このように讃良郡(茨田郡)の地を
 三嶋湟咋父娘のいたところと
 することができるのである。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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