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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:海洋交易商人へ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:海洋交易商人へ
 
   さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を
 知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に
 加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、
 その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島から
 インド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人たちに知られるようになった。
 
 この航海方法は、
 すでに
 古くからインドの商人には
 知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から
 太平洋海域の海路については
 インドの商人は
 かなりの知識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての
 情報はインド商人によるものとみられる。
 
 記録を残させない
 彼等の習慣から史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のために
 ギリシャ商人など西方の者には
 正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
 インドには
 紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabhā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、
 必要な資材を買った。
 
 組合員の間でカースト(階級制度)は
 全く無視されたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
 そのような海外交易商人を 
 vanika という。
 
 彼等の活躍した地域に残るのが
 ワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのも
 このワニで、
 動物のワニに例えられたのは
 商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀
 ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンプール辺りに
 船を並べて渡った記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
 中央アジアからアラビア海へ活路を見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、
 まず、
 その基地を置いたとところが
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 1980年代初めには
 十万人のユダヤ人がすんでおり、
 現在もその状況は変わらず
 コショウなど香料の市場を掌握している。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意する 
 alp を語幹とする Alleppey 、
 水を意味する 
 nus(nis) を基にしている Mattancher 、 
 また、
 アッシリア時代からアナトリアに展開した
 植民都市につけられた 
 kulam 名を持つ
 Ernakulam と 
 Kayan Kulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには
 紀元前から後二、三世紀頃まで
 ムジリス Muziris 名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し、
 居住地を広げたものと考えられる。
 
 インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 
 彼等の史跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前後にはすでに日本へと
 渡来していたと考えられる。
 
 漢書に「奴」と記され
 「漢委奴国王」名の金印を
 授かった奴国は彼等の停泊地で、
 
 その国名は
 サンスクリット語の船を表す 
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に
 月支国も成立させた。
 
 それが韓(馬韓)であり、
 後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。
 
 インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 ヘブライ人の古代日本における
 拠点の一つは
 「魏志」に記載されている
 「伊都国」と考える。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 
 世界各地に散った
 「(イスラエル)の記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が
 福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西、前原市にある。
 
 絹産業の専門家に成長していた
 大月氏大商人集団は、
 推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り
 商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと
 考えられるのである。
 
 その停泊地が韓半島では半島の西側、
 『日本書紀』雄略天皇紀に載る
 倉下(へすおと)(クルジャ)で、
 現在の群山から鐘山方面、
 百済の首都であった
 扶余の南方面とみられる。
 
 現在倉下に当たるような
 地名は見当たらないが、
 『三国史記』地理に
 「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、
 同地であったかもしれない。
 
 海洋商人となった集団が
 大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは
 難しい疑問だが、
 五翕候のうちの
 クシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと
 考える方が自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は
 日本に移動した後の氏族名
 ハタ(秦)氏と同名なので最有力ではある。
 
 クシャン王朝は
 四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルや
 グプタ王朝のため消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンである
 ラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く、
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔であったとも考えられるが、
 現在の判断では
 彼らを中央アジアからやって来た
 正体の知れない民族とされている。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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