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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:木曽の御嶽山と水無神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:木曽の御嶽山と水無神社
 
  前節「伊豆と浜名」において
 熱海市の伊豆山の
 後背に岩戸山があることを紹介したが、
 その
 「岩戸」を信仰の対象としているのが
 長野県木曽郡の岐阜県境に位置する
 御嶽山の御嶽神社である。
 
 御嶽神社の神職(祠官)滝氏が所蔵する
 
 「神社留記」に
 
 「御嶽座五権現一社、
  往古八岩戸権現共奉申候」
 
  とあり、
 
 また
 
 「岩戸五社末社再興之事、
  文明十六年建立也」
 
  とあり、
 
 同山の神格、御嶽神社が古い時代に
 「岩戸権現」と
 呼ばれていたことを明らかにしている。
 
 滝氏所蔵の古書のうちの
 祭文「五御嶽座五権現祭詞」
  (栄正四年<1507年>)にも
 
 「五御嶽座五権現里社岩戸」
 などとあるという。
 
 前節で述べたように
 「岩戸」は「岩の水口」の意味であるが、
 同山信仰は果たして
 ヤハウェ神信仰と関係があるのだろうか。
 
 御嶽山の山頂(剣ヶ峰)付近には
 一ノ池から五ノ池まで
 箱根の芦ノ湖とは比べものにならない
  小さな池があり、
 四方へは数多くの川が流れ出し、
 水を里へ送り出していて
 確かに
 水の恵みを生む山であることに間違いない。
 
 御嶽信仰は修験者の修行の場であったり、
 権現などと仏教とも習合して来た。
 
 滝氏の永禄五年(1562年)の文書に
 
 「五御嶽座五権現大菩薩御岩戸」
 
 などとある。
 
 江戸時代になると各地に
 構社が組まれ先導に
 導かれ多くの庶民が
 登拝するようになった。
 
 御嶽神社は明治九年(1876年)に編まれた
 「王滝村誌」にもあるように
  「御嶽岩戸神社」なのであり、
  岩戸である「水口」「泉」ひいては
 「水神」信仰なのである。
 
 水神といえば、前節で紹介した
 『出エジプト記』第17章の
 ヤハウェ神が係わってくる。
 
 しかし、現状において
 一般に認識されている信仰には
 その影は見えない。
 
 だが、
  以下に解明するように
 その最古層には確固とした
 ヤハウェ神信仰が
 潜在しているばかりでなく、
 
 イスラエル人(ガド族)の
 『出エジプト記』第17章の舞台
 
 シナイ(ホレブ)山のに見立てた
 聖地なのであり、
 彼らが日本で開発した
 最大の山岳聖所であった。
 
 御嶽神社の奥宮は王滝頂上にある。
 
 里宮は
 大滝村上島と三岳村黒沢に開基されている。
 
 その王滝村から奥宮へ向かっての山道を
  登って行くと八海山に到り、
 八海山神社に参拝することとなる。
 
 さらに行くと三笠山に到り
 三笠山神社に参拝し、
 田の原を経て七、八、九合目から
 王滝頂上剣ヶ峰の奥宮に辿り着く、
 これらが御嶽信仰の三山(岳)である。
 
 山岳の峰に
  「八海(はっかい)」
 とは奇妙なことである。
 
 その背景に何が隠されているのか解明した。
 
 八海は
 「ハッカミ」にして
 「ハッカム」である。
 
 つまり
 「鷲宮神社と板倉の雷電神社」などで
 取り上げた 
 Kh(H)KhM の音写で「智恵者」である
 ヤハウェ神を祭祀しているのである。
 
 三笠山の「ミカサ」も
  ヘブライ語の 
 MKSH の音写で
 「隠れ場、避ける所」の字義である。
 
 何が隠されたりするのだろうか。
 
 それは「田の原」が示している。
 
 「タノハラ」は 
 TNH の転訛で
 『旧約聖書』の諸書の総称であり、
 三笠山神社は
 聖書を密蔵するとの至聖所である。
 
 そして御嶽山となるが、
 明治五年までは
 「ミタケ」と称されていたので、
 それに従い考える。
 
 三岳(山)と把える
 「ミ」は熱海の「ミ」と同じく「泉」である
 MIYN とみ、「泉岳」とすることができる。
 
 また「御タケ」とすれば、 
  THVM(tekom 地下水、地中の深い所、深淵)の
 転訛とすることができる。
 
 単語の合成上の
  「ミータケ」は「泉-地下水」で
 「地下水の泉」の意味となる。
 
 村名でもあり頂上の名称でもある
 王滝は
 AVN-THVM(岩-地下水)で
  「地下水の出る岩」である。
 
 『出エジプト記』第17章の
  岩から出る水に解釈となる。
 
 王滝村内で剣ヶ峰方面から流れ出る川
 濁(にごり)川の「ドク」も 
  DLH の取入れとみられる。
 
 「水を井戸などから汲み上げる」あるいは
 「知識や才能を引き出す」であり、
 水を岩山から溢れ出させ、
 人々に智恵(律法)を授ける神性に
  相応しい用語である。
 
 岐阜県側益田郡小坂町に
 温泉の地名ともなっている濁川がある。
 
 王滝村名を
 滝越近くの大滝からする見解もあるが
 疑わしいと考える。
 
 御嶽山の峰の
 継母岳、継子岳の
 「ママ」は「水」を表す 
 MYM の借用、
 付近の王滝村内の三浦山、
 岐阜県益田郡小坂町の三間山の
 「ミッマ(ヴァ)」は「戒律」の 
 MTsVH に依る。
 
 摩利支天山はインドの「陽炎」を表わす
 サンスクリット語の 
 marici が
 仏教に取り入れられた菩薩名でであるが、
 原初的には
 モーセではなかったかと疑っている。
 
 益田郡に馬瀬村がある。
 
 この「マセ」は「伊豆と浜名」で転載した
 『出エジプト記』第17章の最後にある。
 
 「彼はその所の名を
  マッサまたメリバと呼んだ」
 
  とある。
 
 マサ 
 MSH (試し)の音写である。
 
 郡名益田は「マシタ」と称されるが、
 小坂町と萩原町の境にある御前山名は
 「ゴゼン」で 
 KhYVN (啓示)の音写で
 神の奇跡を表している。
 
 当山上にも祠があって、
 かっては降雨の霊験が明らかとして
 旱魃の時
  雨乞いのため登山し祭事を行ったという。
 
 益田郡の北側は大野郡となるが、
 これも「岩石、石」の 
 AVN の音写である。
 
 その大野郡宮村に水無神社が鎮座する。
 
 飛騨一宮で
  「延喜式」神名帳に記載されている古社で、
 「ミツナシ」と付している。
 
 地元では「スイムさん」と親しんでいる。
 
 祭神は水無神と称していて
 現在、御歳神を主神に、
 相殿に大己貴命以下十三神を祀っている。
 
 水無神本性について
 諸説あって定まっていないが、
 大己貴命、少彦名命が本性である。
 
 御歳神は大年神などと表記され
 「トシ」が神名であるが、
 その理解は後述する。
 
 実はこの神名も少彦名神と関係している。
 
 つまり、
 
 「水無」とは
 『出エジプト記』第17章に語られている。
 
 砂漠を彷徨ううちに
 シンの荒野を過ぎた辺りで
 イスラエルの人々に
  水が無くなってしまった事態を
 言うものである。
 
 同社も
 御嶽山信仰と共に誕れたものであろう。
 
 同社は御嶽山を囲むように
  信濃、美濃に分社十社、縁社五社を持っている。
 
 「シン SYM 荒野」を想定しているのであろうか。
 
 御嶽山頂近く王滝村と小坂町の県境に
  上俵山がある。
 
 俵は「タワラ」で
  前述の田の原を
 「タハラ」とすれば関係を生じ、 
  TVRH の音写で「平板」の呼称となり、
 同じシナイ山頂で
 神がモーセに十戒を刻んで
 授けた石板を表わすこととなる。
 
 小坂町名は「オサカ」で十戒を旨としる
 IShRH の音写である。
 
 益田郡に温泉で知られた下呂町があるが、
 萩原町に属している
 中呂、上呂と合わせ、
 「呂」は地域名である。
 
 「ロ」は 
 LVKh の音写で「(金属や石の)板」で
 TVLKh に対応する。
 
 これらの事情をみると、
 呂地域に隣接する
 馬瀬がモーセ名であっても
 決して不思議ではない。
 
 御嶽山の神峰三岳は木曽郡に属している。
 
 「キソ」もヘブライ語の 
 KSH の音写である。
 
 語義は「覆う、隠す」で
  三笠山の 
 MKSH に対応する。
 
 このようにみると
  三笠山神社には聖書や神器など
 神聖なものが埋納されているのかもしれない。
 
 木曽にも福島町がある。
 
 「福島」は安来市安来の
  現在、十神山、
 
 『出雲風土記』の頃は
  砥神島といった「十戒」である
 律法を祀った島で、
  飯島とも関係する聖地名であり、
 イスラエル人に係わっている呼称である。
 
 松本市に
 現在井川城という地区があるが、
 そこはかって小島と呼ばれ、
 木曽から出て来た人々が
 成した所と知られている。
 
 小島は福島を経た砥神島の伝承名で
 「多摩の律法箱」で述べたように
 「虎島(TVRHの島)」であったろうか。
 
 木曽の御嶽山は
 正に隠された
  イスラエルの人々の
 聖地であったのである。
 
 王滝村上島の
 御嶽神社里宮について
 宝暦7年(1757年)の
  「古蘇志略」に以下のようにある。
 
  岩戸権現祠、上島に在り、
  巨岩の壁立すること数仞なり、
  其下に嵌空なる有り、
  祠殿を建つ、岩側の一脉、?として絶へず。
  祠家伝云ふ、是れ御嶽の別宮なり。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 
 
 

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