SSブログ

(四) YHVH〔yahavah〕名のイブル語解釈 [神聖の系譜]


My ブログ


神聖の系譜』の目次2へ戻る https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-10-26-3 
「神聖の系譜」出版協力のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第二部 メソポタミアとイブル〔ヘブライ〕
 第二章 イブル〔ヘブライ〕の神「主」の神格
  
   (四) YHVH〔yahavah〕名のイブル語解釈
  
  この神名はイブル語で
 解釈できないわけではない。
 
 それどころかイブル語で解釈される
 その神性は強勢で『旧約聖書』全体に
 流れている神の態度そのままで
 あるばかりでなく、
 キリスト教『新約聖書』においても
 全く変えられていない。
 
  宗義上からすると、
 その呼びかけさえ禁止されているのだから、
 その用語を解釈するなど以っての外である。
 
 しかしながらかなりのヘブライ学者が
 その由来・語義を明白にしようと試みている。
 そこでも本書も妥当と理解される
 イブル語での考察を行う。
 
 ではどういうイブル語 YHVH の単語を
 形成したのか具体的に分析する。
 
 まず語頭の"Y"は主語で、
 三人称単数男性形に対応する用語で、
 日本語で短絡的にいえば 
 「彼」「それは」である。
 
 また後半の HVH 部分は
 現在のイブル語では KhVH で 
 別の綴りでは HVVH で、
 
 前者は現在の表音で khivuh といい、
 ミレトス社の辞典はその語義を
 「言う、述べる、表現する、言明する」とし、
 
 後者は現在の表音で hoveh となり、
 「表す、示す、述べる、指摘する、
  指示する、呼ぶ」とあり、
 二語ともほとんど同義である。
 
 前者の三人称単数男性形現在で
 NKhVH〔nekhivuh〕となる。
 
 また後者は三人称単数男性形未来では
 YKhYH〔yehivuh〕 となる。
 
 また後者は
 三人称単数男性形現在で
 NHVVH〔nehoveh〕 、
 三人称単数男性形未来が
 YKhVH〔yekhoveh〕である。
 
 YHVH はこれらを包含した用語と考える。
 
 これらの表現に最も近似した語義を
 日本語で表すと、
 
 「そ(彼)は言明する」で、
 
 その意義として
 「彼は呼びかける」
 「彼は召す」ともなる。
 
 これらの方向は
 『旧約聖書』の「主」の
 神性そのものを示している。
 
  第一に指摘できるのは
 「創世記」第一章の初めからすぐ第三節に
 
 「神は言われた。"光あれ"」とある
 
 「言う」から始まっている。
 
 その単語はAMRで、
 正に直裁的な「言葉を発する」ではあるが、
 同語はその章の
 第六、九、一一、一四、二四、二六、
 二八、二九節に用いられている。
 
 つまり「主」は「言う」のがその神性である。
 
 『旧約聖書』の全体には
 終始「言う」との用語が、
 この AMR 、また DBR〔語る〕初め
 数多く表現されている。
 
 それら用語の役目は
 「呼びかける」「導く」との趣旨であり、
 そこには「命令」が含まれている。
 
 「創世記」第六章第一三節にも
 この AMR を用いて
 「神はノアに言われた」と
 大洪水を起こすことと共に
 箱舟を造ることを言明をする。
 
 そして第二二節で
 
 「ノアはすべて
  神が命じられたとおりに果たした」
 
 となる。
 
 神〔主〕の命令に従ったことで
 ノアの家族は洪水の難から
 救われることができたのである。
 
 このように神〔主〕の「言明」は絶対である。
 
  YHVH 名の別呼称として紹介した
 HShM 名にしても
 イブル語 HShMY I〔hishmiy ia〕に係わり、
 
 「宣言する、発表する、通知(報告)する」
 
 の語義である。
 
 何しろ現在のユダヤ教においても
 ShMY-YSRAL との祈りの祭りがある。
 
 その語義が
 「聞け、イスラエル」で、
 「通告」を人々に
 「聞け」強要(命令)している。
 
 そして僕(しもべ)〔信仰者〕となった人々は
 「アーメンAMEN」
 〔然り、そのとおりです〕といい、
 神の命令に「服従する」というのが
 その宗旨である。
 
  また主YHVHは服従者〔信仰者〕には
 徹底的にその「生」を保証するというのが
 その究極的意向である。
  
 イブル語のYHVHのHVHに近似した用語に
 YRHがある。
 
 その語義は
 
 「示す、指示する、質問する、命令する」で、
 
 実際使われる活用形にHYRH〔horah〕とある。
 
 同語の近似語が留意されるYKhKhで
 実際の活用形がNYKhKh〔noxakh〕で
 
 「確信する、納得する、~が真実であると解る」
 
 で
 
 「真実を明らかにする、
  証明〔立証〕する、叱る」
 
 の語義となる。
 
 同語の変化 HYKhKh〔huxakh〕は
 「証明する」にしてまた
 「証明される」ともなる。
 
 これらの語群から、
 主なる神は信仰者に結果として「証明」が
 与えられるまで「導く」のである。
 
 「創世記」第二四章第四四節に
 
 「主が主人の息子のためにお決めになった方」
 
 とある中の「決めた」は
 HKhYKh〔hoxykh〕で
 「証した」との語義である。
 
  さて
 AMRと共に「語る」語義のイブル語として
 DBRを紹介したが、
 同語を用いた教典があり、
 それについて説明しておきたい。
 
 それはモーセ五書のうちの日本語で
 「申命記」と称されているもの
 
 〔他は
  「創世記」
  「出エジプト記」
  「レビ記」
  「民数記」〕で、
 
 そのイブル語名が
 DBRYM〔DBRの複数形〕である。
 
 同語は「語る、話す」との動詞形と
 
 「語、単語、言葉」となる名詞形にも
 同綴りで用いられ、
 当該「申命記」では
 名詞用法でその意義は
 「神の言葉」となる。
 
 「申命記」の最初第一章第一節は
 次のように始まる。
 
 「モーセはイスラエルのすべての人に
  これらの言葉を語った。」
 
 この「言葉」が
 DBRYM〔debariym〕であり、
 「語った」がDBR:ダベルである。
 
 つまり同語は「神の言葉」であり、
 モーセが語ることによって人々に
 「告げ」られたのである。
 
 モーセが語った言葉は
 「神の言葉」で命令である。
 
 その前の第三節に
 
 「モーセは主が命じられたとおり
  すべてのことを
  イスラエルの人々に語った」
 
 とあり、
 この「語った」もDBRであるが、
 主が語る事々は「命令」なのであり、
 それには従わなければならない。
 
 それが神〔主〕と信仰者との約束である。
  
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 


nice!(0)  コメント(0) 

(三) イブル〔ヘブライ〕の神を 何故「主」というのか〔ADNYの背景〕 [神聖の系譜]


My ブログ


神聖の系譜』の目次2へ戻る https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-10-26-3 
「神聖の系譜」出版協力のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第二部 メソポタミアとイブル〔ヘブライ〕
 第二章 イブル〔ヘブライ〕の神「主」の神格
  
   (三) イブル〔ヘブライ〕の神を何故「主」
               というのか〔ADNY(アドナイ)の背景〕
  
  「主〔神〕」という構想は
 イブル人が始めた観念ではない。
 
 メソポタミアの未だシュメール時代が
 ペルシャ湾岸に芽生えるよりかなり以前、
 内陸部現トルコとイラクとの境
 「黄金の三角地帯」辺りに
 
 人類が野生の草〔大麦・小麦〕から
 穀物を収集し、季節を選んで種を播く
 天水農耕〔雨〕に気付いた頃からの発想である。
 
 穀物は野生の動物を狩るよりは遥かに容易に
 「食料」として人々には入手でき、
 人々の生活を守った。
 
 そのため人々は、
 「穀物」を「種」として
 「保管」するのに智恵を絞り、
 野生の動物などに雪が降り
 地上に青草などが無くなって、
 ひもじくなり人々の食料を
 横取りされないよう工夫した。
 
 その構造物が
 シンジャール地方で生まれた
 高床式建物で、
 二階部分に「穀物」は種としても
 安置されたのである。
 
 その様子は
 本書第一部でかなり詳しく紹介してある。
 
 この発明は後にまで
 フルリ〔丘の人〕あるいは
 スバル〔天〕に人として
 永く同山岳地帯に生き一部は南下して
 シュメールの文化を生み出した。
 
 その時代的過程は
 『旧約聖書』「創世記」の
 ノアの後裔のうちの「セム」系として
 当第二部第一章(一)(3)セムの子孫
 で説明してある。
 
 当該「穀物」または「大麦」の
 シュメール語名が en であり、
 その en を蓄える行為を 
 si-en-gar
 〔穀物(大麦)を蓄える:si~garが蓄える〕
 といい、
 上記のシンジャール「sinjar」
 〔地方名:山地名〕名となっている。
 誠に山岳地帯の植物〔木・草〕帯と
 砂漠地帯の境に位置している。
 
  この木造の高床式建物の構造物が
 シュメルが最初の都市エリドゥの祭壇跡の
 最下層に木造のため腐って跡形もないが、
 オックスフォード・ケンブリッジ両大学の
 発掘調査隊がその存在を確認している。
 
 時代はその後シュメールから
 アッカド、バビロンと下るが、
 次第にその構造物は
 木造から日干しレンガで組立て構築され、
 大型・高層化され、
 セム語でジクラトと称され
 「バベルの塔」へと変型していった。
 
 それがメソポタミアの神への
 信仰の中心に位置した。
 
 その塔の頂上にはシンジャル〔神社〕が、
 つまり神殿が建てられていた。
 
 イブル族の族長となったアブラハムは
 その父テラの時代「カルディアのウル」に
 いて後に北方へ移って行った。
 
 カルディアとは
 バビロン地方の一般名であった。
 
 つまり、
 イブル人たちはメソポタミアの信仰を
 体現していた人々であった。
 
  さて、
 彼等の歴史課程も重要だが、
 高床式建物が
 シンジャール山脈の東はずれ
 アルパチア遺跡の丘の地下から
 一九八七年に出土した出土品の鉢の
 内底円形中にある建物の意匠から
 その思念を考察してみる。
 
 上階である高床へは梯子〔階段〕で上がる。
 
  その上階には黒く塗り込んだ四角形が見え、
 これは箱でその中に
 貴重品を保管〔蓄える〕したとの表れで、
 
 その品こそ 
 en〔大麦:穀物及びその種〕だったのである。
 
 この en との表音が
 シュメール語の楔形文字は
 異なるものの「主〔主人〕」の意義として
 使われるようになった。
 
 穀物が人々を護り、
  種を播くと育ててくれるのだから
 「神」との観念に至り定着され
 使われるようになったと見ることができる。
 en は「主なる神」なのである。
 
 このような紀元前の古い時代からの背景を
 理由として
 前節(二)で YHVH 名を解釈した際
 その最初の語 Y を en〔主〕としたのである。
 
 イブル人の神信仰にはメソポタミアの文化が
 色濃く踏襲されているのである。
 
  いわゆる「十戒」の条項の制約により
 聖名 YHVH 呼称ができないことにより
 すでに紹介した
 HShM との呼称と共に頻繁に用いられる
 ADNY〔アドナイ〕についても考察する。
 
 この ADNY 一般語義も「主:主人」である。
 この用語の『旧約聖書』での初出は
 「創生記」第一九章で、
 同章での使用はいわゆる人間関係で、
 その仲間うちの「主人」を表す。
 
 同後段二三章からの
 アブラハムの伝承になると
 ほとんどそのアブラハムを
 「主人」と呼びかけるのに使われている。
 
 ただし、
 第一九章第一八節にある
 
 「ロトは言った。主よ、できません」
 
 とある ADNY はやはり 
 YHVH「神」のことらしい。
 
 そのロトに答えていう第二一節には
 VYAMR-XLYV〔言った-彼に〕とあり、
 その主語がない。
 
 だが、
 第一語の Y は
 「主」が語る際の慣用句であり、
 一八節においてロトが
 「主よ、~」と呼びかけた相手は
 「神」にするのが妥当だろう。
 
 また第二三章第六節の
 ADNY-MShYA-ALHYM との羅列では
 単に「人である主人」
 とだけのようではない。
 
 その語義は〔主-首長-神(複数)〕で
 「神々の首長である主」とも解釈され、
 『旧約聖書』の信仰世界で
 ALHYM や YHVH 名を「主」たる ADNY と
 呼称する理由になっているようである。
 
 次に同語をシュメール語で解釈すると、
 AD-Na-u〔父祖-人-草〕とあり、
 「草の人の父」となる。
 
 AD〔父〕語はイブル語では AB(V) で、
 キリスト教とも共通の「父なる神」の観念で
 通称され、「主」と同義である。
 
 「草の人」は
 『旧約聖書』「創世記」で
 アダムの二人の息子「麦を作るひと」としての
 カイン〔第三章「土を耕す者」〕及び
 アベル〔同「羊を飼う者」〕の
 背景からすると、
 「イブルの人々」との理解ができる。
 
 因みに
 「土を耕す者」とは
 「地に麦の種を播く者」だし、
 「羊を飼う」には
 その食料〔えさ〕となる青草〔牧草〕が
 なければならない。
 
 ADNY はつまり
 イブル人たちの「父神」を示していて、
 それが彼等の「主」なのである。
 
 それは YHVH 名や MShM 名と共一なる
 「生物誕生」に係わる思念を表している。
  
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 


nice!(0)  コメント(0) 

(二) 旧約聖書「創世記」における「主」YHVH 名の初出とその原義 [神聖の系譜]


My ブログ


神聖の系譜』の目次2へ戻る https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-10-26-3 
「神聖の系譜」出版協力のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第二部 メソポタミアとイブル〔ヘブライ〕
 第二章 イブル〔ヘブライ〕の神「主」の神格
  
   (二) 旧約聖書「創世記」における「主」
      YHVH 〔ヤハウェ〕名の初出とその原義 
  
  さて『旧約聖書』全体において最も貴重な
 神の表記はYHVH〔ヤハウェ〕名である。
 
 この名称が記載される最初は「創世記」
 第二章第四節の初めである。
 同記述は次のようである。
 
    天地万物は完成された。
 
 第七日の日に、神は御自分の仕事を完成され、
 第七日の日に、神は御自分の仕事を離れ、
 安息なさった。(中略)
 
  これが天地創造の由来である。
 
  主なる神が地と天とを造られた時、
  地上にはまだ野の木も、
  野の草も生えていなかった。
 
  主なる神が地上に雨を
  お送りにならなかったからである。 
  また土を耕す人もなかった。 
 
 この「主なる神」のイブル語が
 YHVH-ALHYMで、
 第二章においてALHYMだけの記載で
 三回出た後第四回目、
 第一章からは三四回目の初登場となっている。
 
 この第二章から始まる用件は「生き物」で、
 まず「野の木」や「野の草」である。
 
 「木」といっても
 発芽は草の芽のようなものである。
 
 この第二章ではYHVH-ALHYMが一一回、
 第三章では九回、
 第四章に進むとYHVHだけがとなり、
 八回記載される。
 
 その後の章では
 YHVHだけが記述される場合が多くなる。
 
 しかし、
 時としてALHYMが使われたりし、
 そこに使用規律があるとはみられない。
 
  そこでYHVHの語義解釈を加えていきたい。
 
 ALHYM同様同語についても
 イブル語の解釈はできる。
 
 その詳細は後述する。
 
 ここではALHYMについて
 シュメール語解釈が
 可能だったことを踏まえて
 同様シュメール語で解釈する。
 
 この第二章第二節では
 「野の草」が象徴的に
 取り扱われていると注目する。
 
 つまりYHVHはシュメール語の 
 en-pa-ba〔主-もたらす-草〕で
 「草をもたらす主」との
 解釈が可能だからである。
 
 En〔主〕が「a」であるのは上記した
 ALHYM〔わたしは有る者〕の
 A が an〔わたし〕の
 合成語の「主語」となっているのに
 同様であるし、
 
 『旧約聖書』において向後
 YHVHはモーセの「十戒」のうちの
 一条「やたらに主の名を呼ぶな」とに従い、
 
 ADNY〔アドナイ:主人〕と呼称される
 実際に照らしてみると、
 やはり
 en〔主・主人〕とするのが妥当である。
 
 さて次の pa は
 「贈る、与える」とも用いられているが、
 
 ここでは「生じさせる」の意義で
 「もたらす」であり、
 
 ba〔草〕その出自が羊飼いたちのイブル人、
 また草の一種「麦」を食糧とする
 イブル人にとっては
 特別の「生き物」「植物」である。
 
 この「草をもたらす」との観念は
 ADNYと共にYHVH名の代わりに
 呼ぶこととなっているHsHM〔ハシェム〕の
 シュメール語解釈に一致する。
 
 同語は pa-sham〔もたらす-草〕で、
 YHVHとHsHMとは同語となる。
 
 つまり、
 baとShMは表音は違えども同じ「草」を表す。
 
 双方と「地上」に
 初めて「生き物」を「生じさせ」た
 神の仕事としての共通意義を持っている。
 
 これらがYHVH名が
 第二章に初めて記載された理由である。
 
 YHVH-ALHYM は「存在〔天地〕」を
 造られた方が、
 地上に「生物〔草〕を生やさせた」となる。
 
 そして、
 「創世記」第三章で
 「主」は「人間」を造られる経緯が語られる。
 
   ≪参考≫「創世記」第二章
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。
15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
  
M.K記

 連絡先:090-2485-7908


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。