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(2)極東へ運ばれた「神の箱」② [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」②
 (B) 船に乗せられアラビア海へ出た「神の箱」
 
「神の箱」は奉祭するユダ族総がかりで
船に乗せられ彼らに守護されて
アラビア海へ出ていったに違いない。
 
船は太平洋へ出るまでの途次
安全なところを見定めて寄留した。
 
(1) ラカディーブ諸島
〔LacacadiveまたはLakshadweep〕
 
インド南端の西方
現ケララ州コーチン市の西方にある。
 
アラビア海の東端といってもよい
海中にある島々で、
その南方とはモルジブ国の島々が続く。
 
アデン湾からは紀元前後に開発され
知られるようになった。
 
季節風に乗って
インド洋を横断通過すればこの地域に至る。
 
何しろ大陸域は人も多く危険である。
 
小さな島に寄ったほうが秘密も保てるし、
はるかに安全である。
 
アデン湾を出て現イェーメンやイラン、
パキスタン、インドとアラビア海岸に沿って
航海するのは危険極まりなく採るべき航路ではない。
 
この諸島の透明を燻る語で解釈する。
 
〇Laccadive〔LVKh(VT)-DV、Iukh(at)-du〕
<板-二つの>二枚の板。
 
〇Lakshdweep〔Lukh(VT)-ShTVkh、Iukh(at)-shtuukh〕
<板-海中に出された>船で海に押し出された板
 
〇アンドロート島〔Androth〕ANDRTH、anedo ritoh
<記念碑、彫刻物(石)>
 
〇アミンディビ島〔Amindivi〕AMNH、DV、amenh-du
<契約(の石)-二つの>二枚の契約(証拠)の石
 
これらの島称はモーセの「十戒石」に係わる用語。
 
因みに対岸のケララ〔kerela〕州名は
イブル語KLL、kelal「掟」「原則」ながら
「社会」「大衆」の語義があり、
イブル人の共同社会をいうものである。
 
ガド族はなど先に渡来していた人々の居留地である。
 
「十戒石」を納めた「神の箱」は
ここに永く安置されていたのではなく、
船は東方へと航海して行った。
 
(2) ニコバル諸島〔Nicobar、Nicobal〕
 
ニコバル諸島はインド洋東北区域、
ベンガル湾の外で
ミャンマー・タイ半島部に
近い海中の島々で、
北側にアンダマン諸島、
南東に海を行くと
インドネシアのスマトラの北端に至る。
 
わずかに200kmである。
 
諸島中のカタハルkatchallには
ミシャMishaなる町があって、
同名がモーセ名に由来するとも推測される。
 
カタハル は〔KTV-Khll katau-khell:文字-掟〕で
「十戒(掟)の刻み文字」と十戒石の印刻文を指し、
それはモーセのなせる所であった。
 
ニコバル Nicobar は NK-BRYT 
〔休む(上陸する)-契約〕で
「契約(十戒石)の休息(上陸)」と、
ここに十戒石を納めた「神の箱」を
陸揚げしたとの記録である。
 
とはいえ、
この地も安置の聖所を設けるには
万全な場所ではなかった。
 
さらに東方へと移動して行った。
 
ニコバル諸島を南下すると
マラッカ海峡を通ることになる。
 
その海峡名はマレーシアの都市名
「マラッカ」に依っており、
同名が古いものであることが理解される。
 
(3) マラッカ〔Melaka・Malacca:マレーシア〕
 
マラッカは
首都クアランプールの南数時間の
海峡の海に面した小さな地域で、
後にポルトガルやオランダの
植民港に使用された港が
その開拓を誘因したところである。
 
紀元前から
東方との海洋交易に乗り出していた
イブル人のガド族はさらに
少々南のシンガポールを
寄留港として占有していたはずである。
 
Singa-とはサンスクリット語で
「ライオン」を表している。
古代からインド亜大陸以東には
ライオンは棲息していない。
メソポタミア以西の動物である。
 
その呼称がここに定着しているのは、
西方のライオンを象徴している民族が
渡来し居留した証拠である。
 
向いのスマトラ側に
広く Riau という地帯が広がっているし、
唐代、日本の奈良時代の史料に
「羅越」の地名が遺されているが
これらも「ライオン」に依拠している。
 
旧約聖書のうちに
ライオンを形容に使っている
ガド族、ユダ族が代表的である。
 
創世記の第49章9および10には
次のように述べられている。
 
ヤコブがその最後(死)の日に彼の子達を集めて
それぞれ与えた言葉である。
 
 
ユダは獅子の子、
わが子よ、
あなたは獲物によって成長する。
 
雌獅子のように彼はうずくまり身を伏せる。
 
誰がこれを起こすことができようか。
 
王権はユダを離れず、
統治者の杖は
その足の間を離れることはない。
 
 
最後の文句は前に引用したものである。
 
また「申命記」第23章20は次のようにある。
 
モーセが死の前に
イスラエルの人々を祝福して言ったと
同章の初めにある。
 
 
ガードについて言った。
「ガドを大きくする方はほむべきかな。
ガドは雌獅子のように伏し
腕や頭の頂をかき裂く」。
 
 
「創世記」の当該語は 
ARYH、ariyee、luya の二語
 
「申命記」の当該語はその後者が使われている。
 
さらに「創世記」にある「王権」は
本来
「王権の杖(棒)を表わす ShVT、shevet]
となっているが、
「王権」は MLVKhH、milukhae で、
王は MLKh、melekhである。
 
この語がマレーシアの地名の 
Melaka(Malacca)の原語で、
 
当地がユダ族の中心的寄留地であり、
「神の箱」が一時寄せられたいたことに
始まったと考える。
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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(2)極東へ運ばれた「神の箱」① [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」①
 
(A) 紀元4世紀頃までに知られた東方の情報
 
第二イザヤ書と言われる同書第40章以下に記述された
「地の果ての島々」 についての説明は
本書第3部第2章2すでにしてある
〔また拙著「日本創世紀」133ページ以下にも詳しい〕。
 
これらの情報は紀元前一世紀には
活発な東西交易を担ったイブル人のうちの
ガド族によって
エルサレムにもたされたものだろう。
 
イザヤ書第42章10
「海に漕ぎ出す者、海に落ちる者、
島々とそこに住む者」
とは正にガド族のことである。
 
彼等は絹を積んだ船で
東方特に日本列島西部の情報をも載せていたのであり、
エルサレムなど地中海東岸やイブル人社会に
その情報が広められる役目を果たしたのである。
 
紀元前1世紀になると
ギリシャ人にまで東方への興味が広まっていった。
 
その主な理由はやはり絹織物に対する関心からであった。
当時ローマ帝国の上流社会では
絹が最も欲しい商品で、
海路を経て大量に地中海北岸にまで運ばれた。
 
その交易を盛んにしたのは
ローマ人でもギリシャ人でもなかった。
 
イブル商人たちが
東方の厚目の絹織物〔縑:カトリ〕を
エルサレム周辺でローマ人の好みに合わせ
薄い織布に作り替えてローマへ送った。
 
ローマ帝国の金貨が
大量にインド亜大陸へ送られて
ローマ帝国経済が崩壊しそうになったほどであった。
 
インドにはイブル人の居住する交易中継地があった。
 
そこは
大陸の南方アラビア海に面した
現在ケララ州といわれる地域である。
 
プトレマイオス朝下のエジプトを拠点として
活動していたギリシア人商人が
書き纏めた海洋交易関わる東方の情報が
「エリュトラー海案内記」には載っている。
 
そこには
「セリカ」という「シナ海沿岸」に
あったとみられる絹の産地名が記されている。
 
「セリカ:ラテン語で serika 」絹の総称で、
同語の由来は絹の生産集団であった
倭人が「繭」を「石」と呼んでいたことに原因し、
日本列島へ紀元前の早くから
既(すで)に進出していた
インド人系商人たちがそれに従って
サンスクリット語で 
seilika 「石」と通称し始めたことによると考えられる。
 
良質の繭は潰そうとしても
潰れない石のような硬さを持っている。
 
和人の養蚕を行う人々はまた
繭から繊維にして織物にする技術を持っていた。
 
西方の海洋商人達は
インドの鉄鋼や銅の加工品などと交換して
絹を入手したのであろう。
 
「セリカ」名は地中海北岸に
「絹製品」の総評として広がった。
 
何しろ現在で英語で
シルクsilkというなどの原語である。
 
「セリカ」には
日本列島の九州を含めてよいはずである。
 
紀元前2世紀になると、
「セリア」という地方名が
地理書に記載されるようになる。
 
ギリシャの家しかパウサニアスの汽車案内が
それで紀元160年により出された。
 
ギリシャ本土周辺に関連した情報を纏めたものだが、
第6章26節6~9の金の産地に関して
述べられている中にその名称はある。
 
「エリュウトラー海の西奥にセリアの島がある」とある。
 
「エリュトラー海」とは本来紅海ながら、
アラビア海からインド洋、太平洋方面まで含んでいる。
 
明らかに
「エリュトラー海案内記」の効力に依っている。
 
その「最奥」というのだから
太平洋の北方方面とすることができよう。
 
「セリアの島」とは
日本列島の西部分「九州」に該当する。
 
何しろ同記述の前段「セリアの島」の近くに
Abasa アバサ と Saxaia サカイアという
二つの島があるといっており、
前者は現沖縄本島を指す。
 
浦添市に「安波茶」とあるのがその遺称で、
後者は先島諸島の「先」として遺留されている。
 
Abasa、Saxaiaともサンスクリット語で
前者が abasa 〔光〕、
後者が sucyah〔輝く、光を発する〕
に依っており、
後にギリシャ語呼称に転換して
「輝く、ピカピカの、白い」の
leukosを取入れ「リュウキュウ:琉球、瑠球」と
表記されるようになっている。
 
これに依って
「セリア:seria」の原語を探れば、
同じくサンスクリット語で
セリカsailika〔石〕と
同義語のsaila〔石〕あるいは
sailā〔石の多い、石よりなる〕があり、
これらの単語は
全て「白い繭」に由来した呼称で絹に係わっている。
 
このように紀元2世紀に至って
東方の事情が西方でかなり知られるようになっていた。
 
ましてや3、4世紀になれば
さらに詳しいことが西方の関心ある者たちには
周知されいぇいっただろう。
 
紀元後1世紀にジプチへ移転したユダ国の人々には
「イザヤ書」を手にして
東方についてかなり知り得ていたと言える。
 
特に紀元前からガド族が居留した
日本の西部の実情を把握し、また
海路の実情をも理解していたはずである。
 
ユダの人々はエチオピアが
キリスト教に改宗した頃から
同地の安全に確信を持ち得なくなってしまったらしい。
 
より安全が安心できる土地が望ましいと
考えるようになったといってよい。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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(1) 紅海を南下してジプチへ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第2章 神の箱〔十戒石〕の
     エルサレムからの退避行 
 
   (1) 紅海を南下してジプチへ
 
  エルサレムから南方へ退避すれば、
 そこはシナイ半島で、紅海の 深奥には
 モーセが「天神」の教えを受けたシナイ山 、
 そしてアカバAgabah に至り
メデアンMede-an〔地-天神:MIDY-AN〕へと移れる。
 
集団はその紅海の深奥地に留まることをまだ危険と感じ、
 紅海を船で南航し、
 アラビア海との境界に位置する
 現在のジプチ DJBOUTIに至り
 そこに停留したと推測される。
 
何しろ同国名の原語YHVDH、yehudeであるからである。
 
 紀元後1世紀半ばの
 「エリュウトラ―海案内記」には同地名はない。
 
 紀元後70年頃は同案内記が書かれた後で
 それに載っているはずもない。
 
 また紀元後2世紀の
パウサニアスの「ギリシャ案内記」にも同名表記はない。
 
 YHVDH、yehudeがDJBOUTIと変わった理由は
 ずっと後のこと、
20世紀初期にここをフランスが植民地にしたことに依る。
 
 フランス語聖書には「ユダYHVDH」をJuifsと
 表記しており、
 同語に依拠して現地名はできたのである。
 
 Y〔Ju:DJI〕-HV〔BO〕-〔TI〕 と解釈される。
 
因みに同語はギリシャ語でIoudu、ラテン語でJudaea、
 ドイツ語Judāa、英語Judaiと
 イブル語の「日本YPN」がJapanと
 表記されるのと同じである。
 
 紀元後70年代からずっとYehudeであったろう。
 当時紀元前から近隣のエチオピアには
 ユダ国の天神教が信奉されていた。
 
 その理由は前章(7)-(B)で述べてある。
 
 その頃の同地にはアクスム王国という国があった。
 
 現ジプチ国内タジュラアTadjourah湾の
 南アデンに望んでジプチの町があるが、
 その南岸奥にアルタArtaとの町がある。
 
 これもイブル語のARVZ、aruzの移入で
 「箱に詰められた」の語義で「十戒石」が
 箱に収められてここに運び込まれて
 安置されていたとの傍証となる。
 
 「エリュトラー 海案内記」には発音のよく似た
 Aualitesとの港名があるが、
 それは現ソマリア国内で現
 セイラSayla付近であることが明白に解っていて
 アルタが紀元一世紀の周末以降に成ったことが
 判明している。
 
  ジプチでの「神の箱」の安置は
 4世紀の中頃まで約250年近くは続いただろう。
 
 その聖所は天幕による「仮庵」であった。
 
 ジプチ国の西隣りはとAFARいうが、
 同語はイブル語のAHLの音写で
 「天幕:幕屋」であるからである。
 
 エチオピアにおいては
 紀元331年に
 アクスム王国がキリスト教に改宗してしまった。
 
この時点で「神の箱」は再び危機を迎えることになった。
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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(9)神の箱〔十戒石〕は ユダ王国の祭司〔レビ族〕と ユダ王国王家〔ユダ族〕によって秘匿された [神聖の系譜]





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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第1章 エルサレムへの安置
 
  (9) 神の箱〔十戒石〕は
     ユダ王国の祭司〔レビ族〕と
     ユダ王国王家〔ユダ族〕によって
     秘匿された
 
  (A)ユダ族の由来〔ヤコブの子<創世記>〕
 
  ここで改めてユダ族の基になっている
 「ユダ YHVDH」の由来を確認しておきたい。
 
 「ユダ」とは
 ヤコブの第四子(男子)の名前に依っている。
 
 「創世記」第29章39にその銘名経緯が記述されている。
 
 ミルトス版聖書の翻訳分は次のようにある。
 
   彼女はまたみごもって男の子を産み
   「今度こそ主を誉め讃えよう」と言った。
 
   そこでその子の名をユダと名付けた。
 
 彼女とは「レア」という。
 
 彼女がヤコブと同房した経緯はここでは除く。
 
 同文句をイブル語に従ってローマ字に換えると
 次のようになる。
 
   VTHR IDD VTLD BN VTAMR KhPIM AVDH
   そして彼女は妊娠した さらに そして産んだ
   息子を そして 言った 私は 誉め讃える
 
   AT YHVH IL KN KRAH WHMV YHVDH
   を 主 それゆえ 彼女は呼んだ その名を ユダ
 
 文章で解かるように
 YHVDH〔ユダ〕名は
 AVDH〔私は誉め讃える〕と関連する。
 
 その原語〔動詞〕はYDHで語意は
 「感謝する」「告白する」で
 活用形としてHVDH、hadahとなる。
 
 AVDHはAが「私」との第一人称単数で
 本来A-HVDHながら
 Hが時にe(a)と発音されることから
 Hが一つ略されたものである。
 
 AVDHはaodeと発音される。
 
 YHVDHはY(主語)-HVDH(動詞)と分けられる。
 
 主語としてのYは「主」として、
 この文章の中にもあるYHVHのYと同じく
 「彼」を客体化あるいは一般化した、
 時には「神」を表す用法で、
 ここでは「それ(は)」といった表現である。
 
 もちろんHVDHとは「感謝する」「告白する」で、
 「神へ感謝する」との「誉め讃える」で、
 YHVDHは「そは誉め讃える」となる。
 
 その表音はyeudeあるいはyehudeとなる。
 
  この名称は「ユダ王国」名に踏襲されている。
 
 何といっても同地はモーセの「出エジプト記」の
 ユダ族の嗣業地として指定された地域で、
 後にダビデやソロモンといった王族は
 このユダ族の出身であった。
 
 同語を基にして以下のような用語が生まれている。
 
 YHVDY、yehudiy YHVDYH、yehudiyuahは
 「ユダ族」「ユダ人」また
 形容詞形として「ユダ人の」となっている。
 
 さらにYHDVT、yahadutは
 「ユダ人社会」「ユダ人共同体」となる。
 
 後世においては
 「ユダヤ教」「ユダヤ人主義」としても使われた。
 
  (B)神の箱はユダ国の王族と
    祭司アロン家によって秘匿された
 
 さて「神の箱〔十戒石〕」は第二神殿の時代もユダ族、
 そして祭司たるレビ族の人たちによって奉祭されていた。
 
 エジプト脱出後シナイ山でモーセ及び
 その兄アロンが主なる神によって祭事を任されて以来、
 その鉄則は原則的に守られてきた。
 
 ダビデの天幕やエルサレムの神殿では
 兄アロンの後裔が奉祭を祭司として継続していた。
 
 よって「神の箱」を隠し秘匿するにも
 ユダ族の王権を持つ家族とレビ族の祭司との
 協同行動であったはずである。
 
  ユダ族の王権について「創世記」第49章10に
 次のようにあり、
 イブル人〔イブライ王国〕の王統は
 ユダ族が継いでいくものと判断されていた。
 
  王笏<王権の棒>はユダ族から離れず、
  統治者の杖はその足の間から離れない。
 
  レビ族の役職務については本書第3部第1章(2)、(3)で
 詳しく説明してあるがイブル人のカナアンへの定住と
 「レビ族(祭司)」は、他部族の嗣業地のうちから
 それぞれ犠牲の動物を養うための牧草地を
 与えられて各族の祭司を務められることとされた。
 
 そのレビ族はアロンの一族で、
 その直系がモーセの「十戒石」を奉祭して
 ダビデの時エルサレムに入り、
 ソロモンの神殿を護持していたのである。
 
  従って「神の箱」の移転のためには正統たる
 ユダ族の主要な族類とレビ族の祭司の主要集団との合意で
 移動に付き添って行くことの合意で
 移動に付き添って行くことの決定がなされたはずである。
 
 何しろ66年からの反乱において
 ローマ軍イブル人を6千人を殺したとの記録がある。
 
 信憑性に疑いがあるが、
 「アングロサクソン年代記」には
 「71年、この年にウェスパシアヌスの息子
 ティトスがエルサレムで
11万1千人のユダヤ人を殺した」
 とあるくらいの大惨事であった。
 
 とてもではなく、
 北方(ダマスカス方面)のローマ軍侵攻の様子を
 情報として知れば、
 イブル人の「ご神体」たる「神の箱」をエルサレムに
 保とうとの選択は無かったはずである。
 
 ユダ族の王族を中心とするユダ国人の集団は
 必然的に南方へ必死になって
向かわざる得なかったはずでもある。
※《参考》
 〔イスラエルの十二支族
   〔十二支族〕
 
 
 
                            ┌ルベン Reuben רֶֻבֶנ
  アブラハム          │
   │         ├シメオン Simeon סִמֶָנ
  イサク─ヤコブ──┤
   〔イスラエル〕├レビ Lebi לֶבִ
                     │  
                            ├ユダ Judah דַה
                            │
                            ├ダン Dan דַנ
                            │
                            ├ナフタリ Naph'tarlï נַפהאתַרל
                            │
                            ├ガド Gad גַד
                            │                
                            ├アセル Asher ַסהֶר 
                            │
                            ├イッサカル Is'sachar ִסאסַצהַר
                            │(イサカル) 
                            ├ゼブルン Zeb'ulun זֶבאֻלֻנ
                            │
                            ├デナ Dinah דִנַה 
                            │(ディナ)
                            └ヨセフ Joseph יָסֶפה
                  
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 
 

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(8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった [神聖の系譜]



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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった
 
  前記したように
 「イザヤ書」の新バビロニアがエルサレムを侵略し、
 神殿内の貴金属を持ち去ったとの記述以降、
 その記述をも含めて以降
 「神の箱〔十戒石〕」についての記録は諸書に一切ない。
 
 依って
 その行方については推測し仮説を企てるより後の人には 
 研究者を含めて許されていない。
 
 それがつまり
 ユダ王国の構成員〔ユダ族とレビ族(祭司)〕が敢えて
 「神の箱」を守るための手段だったのである。
 
 その安置の聖所は「隠し場」と呼ばれるようになった。
 
 しかも秘密裡にそう称せざるを得なかったのである。
 
 本書は21世紀の今日におけるその「隠し場」である
 「神聖な所」がどこかを明白に
 しかも実証的に説明していく。
 
 (A)第二神殿の存続した時代
 
  「イザヤ書」によると、
 紀元前6世紀にバビロン捕囚から解放された人々が
 エルサレムへ帰還した後に
第二神殿を建設したとの
 記述があることは
 (6)エルサレムの第二神殿の建設の項において述べた。
 
 しかしそこに「神の箱」が
安置されたとの記述はなかった。
 
 なぜ第二神殿を建設し得たかの理由を考えると、
 (7)バビロンの捕囚を逃れたユダ国の人々のうち、
 (A)エルサレムに残った人々で触れたように、
 彼らが隠密に「神の箱」を秘匿していたからである。
 
 ソロモンの第一神殿には「神の箱」は安置された。
 
 第二神殿の「ご神体」としても「十戒石」がなければ
 神殿を建てる意義がない。
 
 第二神殿の深所に「十戒石」を納めた「神の箱」が
 安置されたとしるのが正当である。
 
 それでこそ
神殿が信仰の対象で求心力でを持ち得るのである。
 
  新バビロニアを滅亡させ、ユダ国の人々の捕囚を解いて
 エルサレムへ帰還させたペルシャ国はその後ずっと
 カナアンとエジプトを支配していたが、
 紀元前4世紀になってマケドニアを故郷とする
 アレキサンダー大王の東征に依って
 また滅亡してしまった。
 
 同大王が中央アジアにまで至って後
 アラビア海岸方面に南下してペルセポリスまで帰ったが
 そのペルシャに於いて病死すると、
 そのマケドニア、小アジア、ペルシャ、エジプト、
中央アジアの
 広大な征服地は直ちに分裂し、
 カナアンはセレウコス朝の〔312-285〕、
 エジプトはエジプト王国
〔プトレマイオス朝:ギリシャ系(301-231)〕となった。
 
 カナアンは最初セレウコス朝の支配を受けたが、
 そう長くは続かず、
プトレマイオス朝の支配を長く受けた。
 
 その間エルサレムは「神殿都市」として独立性を保ち
 「神殿国家」の様相を呈していた。
 
 しかし、前2世紀の後半になると
 セレウス朝の支配下にまた入れられた。
 
 このように紀元前4世紀から紀元前2世紀にまで
 カナアンのエルサレムは
ギリシャ系王権に翻弄されたのでる。
 
 さりながら第二神殿は保たれていた。
 
 紀元前2世紀になるとローマ帝国が強力な陸軍で
 小アジアから地中海の東岸地方へ、
エジプトへと侵略を進め、
 エルサレムはまた危機に陥った。
 
 ユダ国のイブル人たちはローマの帝国支配に抵抗した。
 
 中でもヘロデ王の叛乱は
マサダ砦築いての頑強なものであった。
 
 紀元前37年に
 ポンぺイウスがエルサレムを包囲攻撃して陥落させた。
 
 しかしその際には(第二)神殿は破壊を逃れた。
 
 その後の紀元後66年になってまた
 反乱が起され73年まで続いた。
 
 その間の70年
 ティトスがエルサレムの町を破壊すると
 神殿も破壊してしまった。
 
 ここに紀元前5世紀から存続してきた
 第二神殿も消滅されてしまった。
 
 その際における「神の箱」がどうなったかの行方は、
 ここでも全く不明である。
 
 実際は、この時エルサレムに残されていた
 ユダ国の人々〔ユダ族〕は危険を予想して事前に
 カナアンの外へ「神の箱」を
秘匿して運び出したと見られる。
 
 彼等の観測は
 「最早カナアンには安全な隠し場所はない」
 であったろう。
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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